h5_6 人間の諸相の豊饒さ――ピナ・バウシュとヴッパタール舞踏団公演  舞台全面に敷き詰めた芝生。その奥のやや上手寄りに、まだ若い雌鹿(もち ろん剥製)がこちらを向いて立っている。この草食動物の優しい目は、広大な 芝生の上で繰り広げられることどもを終始じっと見つめている。  来日三度目になるピナ・バウシュとヴッパタール・タンツテアターの『19 80年――ピナ・バウシュの世界』の舞台である。  芝生は、そこに身を置いた人々がものを纏ってゆく場ではない。着ていたも の、纏っていたものを脱いでゆく場だ。明るい陽射しがあればなおのこと。  国籍も様々な男女二十人のダンサーたちは、まず正装で現れる。三つ揃いの 背広、エレガントなイヴニング・ドレス。音に雨の降るノスタルジックな音楽 に乗り、笑顔を浮かべ、バウシュ・ファンにはお馴染みの優雅な「手のダンス」 を見せながら。  休憩をはさんで四時間あまり、彼らはこの芝生の上の様々な場で様々なもの を脱いでゆく。ズボンを踝まで下ろしてお尻を丸だしにしたり、ソックスや靴 を脱いだり、下着だけになったり――。そして、時間を脱ぎ捨て、子供時代に 還ってゆく。  子供時代にまつわる情景、幼年期を思い出させる場面のなんと多いことか。 日光浴をしながら赤ちゃんのガラガラを弄ぶ男。母親に甘えるような姿勢で女 の膝にだっこされる男。ある時は、子供のころ闇が怖かったことについて入れ 替わり立ち替わり喋り、時には「アルプス一万尺」の歌を歌いながらハンカチ 落しのゲームに興じる。  こうした子供時代の記憶をベースに、人間の諸相を豊かに描き出したのがこ の舞台だ。これはもう人生そのものと言っていい。人生そのものであるだけに、 そこには人間の愚行があり、脈絡を欠いた行動があり、狂騒的なお祭り騒ぎが あり、争いがあり、別れがある。だがアナーキーなまでの混沌が、束の間大い なる調和に包まれることもある。  人間の愚行やアナーキーさはナンセンスな場面となって現れる。椅子に坐り、 ライターに火をともして「ハッピー・バースデー・トゥー・ミー」と歌う女。 舞台中央の台に立ち、目の前の椅子に向って愛と賛辞を大真面目で語りかける 男。ハンカチを高々と掲げ「疲れちゃった」を連発しながらただひたすら円を 描いて走り続ける女。客席から笑いが湧く。  そして、己を語る言葉。 「恐竜をあなたの言葉で定義しなさい」 「あなたが怖いのは何か」 「あなたの国を三つのもので言い表せ」  舞台前にずらりと並んだダンサーたちは、口々にその問いに答えてゆく。  私がこの『1980年』という作品を初めて見たのは、一九八四年、ニュー ヨークのブルックリン・アカデミー・オヴ・ミュージック(BAM)でだった。 今回は日本の観客のために言葉の部分の多くは日本語になっているが、BAM では同じ質問、同じ答えが英語でされていた(もっともダンサーの何人かは入 れ替わっているので、それに応じて答えも違っているのだろう。また、「怖い もの」の問いと答えは今回も英語)。一見すべてが自発的な即興のように見え ながら、実は緻密に作り上げられているのだった。そして、これらの答えが示 すのは、人間の多様性と同時に共通性である。  大いなる調和と言ったが、その極め付けは日光浴の場だ。思い思いに日焼け したい部分をむき出しにして、芝生の上でくつろぐ。お尻だけ出して、あとは 毛布で隠す者もいれば、逆に焼けたくない人もいて、サングラスをかけ、全身 すっぽりと白い布をかぶっている。誰もが離れ離れの他人同士でありながら、 同じ芝生で同じ陽射しの恵みを受けているのだ。暖かな孤独、限りない幸福感。  白いドレスの女が、スプリンクラーの水を浴びながらたった一人で踊る場面 の美しさも忘れがたい。この場面の、ほてった体に浴びる水の心地よさをはじ めとし、バウシュの舞台は観る者の体の記憶を目覚めさせる。ダンサーたちに、 手術の痕などの体に残る傷跡自慢をさせる場面があるが、バウシュが体の記憶 を重視しているのは明らかだ。それは、日常的な何げない仕草を取り入れた振 りつけにも見て取れる。このことも含め、彼女のタンツテアター(ダンス演劇) は、舞台芸術の革命である。  緑の革ジャケットに網タイツでがにまたで歩き回り、だみ声で客席に呼びか けては何でもかでも「ファンタスティック!」と凄む女や、「不幸コンテスト」 の場面には大笑いだったが、笑っているうちに泣けてきた。  フェリーニにも通じる豊饒な「肯定」の姿勢にである。