h5_3 硬派の向こう傷――燐光群『くじらの墓標』 「クジラを捕ってた村は、今はどこだってゴーストタウンだ。解体場もオイル タンクも雨ざらしだ。村の連中もみんな出てった」  登場人物のひとりが言う。  劇団燐光群の新作『くじらの墓標』(坂手洋二作・演出)。観客の頭の中に 浮かび上がる遠景はそんな村である。  その荒涼とし殺伐とした風景の映しであるかのように、舞台もまたがらんと している。廃業したかつての魚の解体作業場で、こちらは東京湾に近いという 設定である。  奥のシャッターは半ばまで下りたままで、そこからのぞく四角い空間から、 遠い過去の時間を含む様々な「外」が流れ込んでくる。禁欲が大きな効果を生 むいい装置だ(舞台美術・加藤ちか)。  主人公のイッカク(大西孝洋)は、「先祖代々、国じゅうの行燈(あんどん) の灯をともし、食料難の時代に日本人を養ってきた、クジラ捕りの直系」の一 人である。彼は交通事故の後遺症で狭い所では眠れなくなり、ここで寝起きし ているのだ。結婚を控えた彼のもとに故郷の叔母(中山マリ)や、海難事故で 死んだはずの五人の兄たちが訪ねてくる。  鯨捕りには、親子の鯨を殺してはならないという掟があるという。禁を破っ た者は、海の怒りを鎮めるために、その家の末の子供を犠牲(いけにえ)に出 さなければならないという。  二十年前、海に出た兄たちは、掟を破り親子のセミクジラを殺してしまった。 当時生まれたばかりの末の子イッカクの命を救うには、兄弟全員が死んだこと にするしかない。そこで彼らは村に帰ることを諦め、戸籍も捨てて散り散りで 生きてきた。イッカクが結婚によって家から独立する時、兄たちの禁も解かれ る。二十年ぶりの再会がかない、鯨捕りとしての再生もかなおうかという今は 、だが、捕鯨そのものが禁じられる時代だという皮肉。  兄弟の名前――サトオ、ゴンゾウ、マコト、サチオ、etc.――がすべて鯨の 名にちなんでつけられていることからも分かるとおり、鯨を擬人化し、人を擬 鯨化(!)する作者の視線は、捕鯨を禁じられた鯨捕りたちを、陸に上がった 鯨に重ねさせる。そこから捕鯨の是非論を超えて訴えかけてくるものが生まれ る。  そして、行方不明だった長兄ナガス(小林達雄)の登場。これが鮮烈だ。  彼は、船長として掟を破ったばかりでなく、他の船を巻き込んで沈めてしま うという更に大きな罪を犯している。そのナガスが、人間と鯨と海とが一体と なったかのように、暗く渦巻く霧の中から現れるのだ。  そして終幕近くでナガスは、メルヴィルの『白鯨』のエイハブ船長と白鯨そ のもののように、五人の弟たちを海へと引きずり込んで行く。  この鯨捕りの男たちの過去・現在に、イッカクと婚約者チサ(黒田明美)と の危うい関係、チサの叔母夫婦(尾形可耶子、鴨川てんし)の壊れかけた関係 などが織り込まれる。  その織り込み方を含む人物関係やプロットの運び方には粗っぽいところがあ る。また、最後を「夢落ち」にして、作品世界のせっかくの広がりと奥行きを 小さく閉じ込めてしまったきらいもある。整合しえないものを、また、あえて 整合させる必要にないものを、強引に整合させようとしたからではないか。だ が、この舞台が、そんな瑕疵など大目に見ようと言いたくなる魅力をそなえて いるのは確かだ。鯨という神秘的で大きなものに正面から立ち向かった意欲と 勢いが、その魅力の源だろう。  俳優たちの演技も抑制が利いており、強靱さを感じさせる。かつては「包丁 の女頭(おんながしら)」として鯨の解体に加わり、その後は水商売をしてい た叔母のタツ役の中山と、チサとの恋愛関係がほのめかされるショウゾウ役の 鴨川の客演も成功している。  これまで坂手洋二と燐光群は、たとえば『カムアウト』でレズビアンを取り 上げたように、常にアクチュアルな状況とマイノリティの存在に目を向け、社 会性の強い作品を発表してきたが、この作品でまた別の水脈を探り当てたと言 えそうだ。