h5_12 哀しみが朗らかに笑う ――唐組秋公演『動物園が消える日』失われたものの探索――  それは、唐十郎のほとんどすべての作品の底流になっている。  劇団唐組の秋公演、唐の作・演出による新作『動物園が消える日』の舞台は、 どこかの街のうらぶれたビジネス・ホテルのロビーである。ここでの失われた ものとは、コンドミニアム建設のために閉鎖され、すでに消えてしまった金沢 の動物園サニーランド。そして、そこに飼われていた行方知れずのカバのドリ ちゃんだ。  数カ月前までその動物園で飼育をしていた男たちや、入場切符のもぎりをし ていた女たちが、まるでブラックホールに吸い込まれる小惑星のように、失わ れたものを求めてここに引き寄せられてくる。  東京で紅テントが張られる場所は、もっぱら新宿の花園神社か目黒不動尊の 境内だが、今回は中野駅に近い線路ぎわの空き地である。頻繁に行き来する中 央線や総武線の音が芝居の邪魔になるのでは、とかすかな懸念を抱きながら開 幕を待つ(ひとたび劇が始動すると、それは杞憂に終わり、まったく気にもな らなかったのはさすがである。劇の求心力と役者たちのパワフルな勢いのしか らしむところだ)。  ロビーの中央奥には緑青色の古びたエレベーターがある。下手のフロント・ カウンターの奥にはキー・ボックス。時間がほこりと化して堆積した観のある いい装置(役者でもある伊藤ゲンによる)だ。  暗転。闇の中で、エレベーターの停止階を示す数字の点滅が小さく、だが赤 くくっきりと移動する。6、5、4、3、2、1。パッと舞台に明りが入る。 ほのかにミステリアスで効果的な劇の発射の秒読みである。  金沢のサニーランドの廃園(これは事実)にともない「行くところに行った」 はずの人々、「移るべきところに」移ったはずの人々は、それぞれの持ち場や 動物との絆が断ち切れず、転職しきれない。  その最たるものが唐自身が演じる飼育係の副係長、カバの担当だった灰牙で ある。自他ともに認める「さすらいの飼育係」だ。  彼はカバとイヌワシを園から連れ出して独立すると宣言し、目下このホテル の二階の一室の浴槽に、二トン半のドリちゃんをとりあえず飼っているという。 彼は、昔ドリちゃんを「宣伝でさんざん使ったあげく、見捨て」た製菓会社カ バヤにドリちゃんを引き取るよう働きかけるが、無論相手にされない。  現実の動物園は消えても、体に染みつき頭のなかに生きる動物園は消せずに いる者たちの姿が、コミカルに哀切に描かれる。「動物と人間とのけじめはな くな」る。  動物園には夫婦のゴリラがいた。アトラクションのためにゴリラの縫いぐる みを着て檻に入った男がいた。その姉と称する女は浦安の「ランド」でミニー ・マウスの縫いぐるみを着て子供たちの相手をしている。というわけで、ここ では動物と人間とのあいだに「動物とも人間ともつかないもの」が挟みこまれ ているからだ。表層(皮)の尻取りが「けじめ」の曖昧さを拡大する。 「別の環境に移される突然の日」を恐怖する動物たちと、園での職を失い「地 下鉄に入ったり、不動産部でコンドミニアム造ったり、消防団に入ったり」す る人々の姿が重なって見えてくる。  それを表す喚起力に富んだ唐十郎独特のイメージの連鎖。たとえば、灰牙を 慕う元もぎりの女オリゴ(小名紫)がつけていた香水「夜間飛行」の小さな瓶 や、もぎりのときに使うパンチ挟みや、カバヤキャラメルのおまけの小箱とい った微小なモノが大きくイメージをふくらませて効果を生む。  その反面、途方もなく巨大なごみバケツや、シベリアン・ハスキーを象った ハリボテと自分(ワシ)を指さす仕草を組み合せて「イヌワシ」と言わせると いった遊びもふんだんに盛り込まれている。  軽妙なナンセンスと骨太のリリシズムとの混在だ。  その両方を、力をつけてきた若手の役者たちがしっかりと担い、滑稽で哀し く真情あふれる奇人変人たちを造形する。飼育係長役の金井良信、その部下役 の久保井研、福士雅彦、ゴリラ男の稲荷卓央、元もぎりの一人の桜井ひとみな ど、いかにも唐芝居にふさわしい独特の個性と魅力の成長が楽しみだ。そして、 全身にドリちゃんの水を浴びての唐の大活躍。この人は役者としての磁力も並 はずれている。  灰牙は忽然と姿を消す。  他の人々も散り散りになるが、各々のあばら骨を檻として、そこに動物を飼 い続けるだろう。  モーツァルトの音楽を「哀しみが疾走してる」と言い表したのは確か小林秀 雄だったが、そのひそみに倣えば、『動物園が消える日』では、哀しみが陽気 に朗らかに笑っている。