h5_10 重厚華麗な珍品――銀座セゾン劇場8月公演「エリザベス」  豪華絢爛たる珍品である。  絢爛にして豪華なのはまず舞台装置と衣装、エレガントなステージング、 明暗のコントラストの利いた照明。そして何よりも坂東玉三郎の見事と言うほか ないエリザベス一世ぶりである。  演出はスペインから招かれた、女優でもあるヌリア・エスペル。装置はエッ ツィオ・フリジェリオ、衣装はフランカ・スカルチアピーノ、振付けはステュ アート・ホップス、照明はヴィニチオ・ケリー。スペイン、イタリア、イギリ スと国際色豊かなチームだ。  珍品たる所以は、その玉三郎扮するエリザベス 一世が実は男であり、ホモセ クシュアルだったという意表を衝くプロット。 しかもその秘密が明らかになる のは、「彼女」が寵臣ヘンリー卿(団時朗) といざベッドを共にしようという とき、彼の前に裸身をさらすときなのだ。  実に危うい、いや、ここはアブナイと言ったほうがぴったりくるかもしれな い。  だがその危うさ、アブナさを、再び言えばもろもろの豪華絢爛が圧倒してい るのだからすごい。もっとも、この舞台を見たある人の「一体いつ歌が始まる のかと思ってしまった。だって何もかもオペラみたいなんだから」という言葉 は、この舞台の美質と弱点を的確に表していると思う(この人はたまたま東京 に来ていたアメリカ人の演出家で、言葉がよく分からないだけに、なおさらそ う感じたのだろう)。  権謀術数と恋愛・情事の駆け引きが重なり合って渦を巻く十六世紀イングラ ンドの宮廷。その様は宮廷舞踊の場で様式的に視覚化される。エリザベスは毅 然とした表情・態度を微塵も崩さぬままに、パートナーを変えつつ踊り続ける。 その都度、抑えた声で相手と言葉を交わすのだが、その話題はスペイン王フェ リペ二世からの結婚申し込みのこと、男色の罪で捕らえられた青年貴族の逃亡 計画のこと、愛人との逢瀬のこと、という具合に国家の大事からプライヴェー トな問題にまで及ぶからだ。  愛人のヘンリー卿は、女王が男だと知ったあとも「彼女」との結婚の魅力に は抗し切れない。女王は彼女の愛の証として彼に指環を与える。  だがここに思わぬ邪魔が入る。女王の重臣ムーア卿(岡田真澄)の妻、レデ ィ・キャロライン(鳳蘭)である。彼女はヘンリー卿の思惑を察知し、彼が自 分の領地ですでにひそかに結婚していることをタネに脅迫まがいの言葉を吐く。 彼が立ち去ろうとするベッドの上から、彼がはめている指環をくれれば黙って いようと言う。ヘンリー卿は女王からもらった指環をわたす。もちろんその後、 エリザベスはヘンリーの指にそれがないことに気づいて……。  このあたりはシェイクスピアの『オセロー』でのハンカチや、『ヴェニスの 商人』でポーシャがバッサーニオに与える指環のことが連想される。また、ム ーア卿には先妻とのあいだに生まれた息子デビッドがおり、彼とレディ・キャ ロラインとの屈折した関係にはラシーヌの『フェードル』がこだましている。 そして、先に述べたエリザベスが男と判明する場面は、アメリカの劇作家デイ ヴィッド・ヘンリー・ウァンが一九八八年に書いた『M・バタフライ』(こち らは実話がもとになっているが)を思い起こさせずにはおかない。  私は「珍品」とか「弱点」などという言葉をいささか意地の悪い調子で言っ たが、それは、この戯曲ではエリザベス一世が実は男だという、仮説を超えた とんでもなく「あり得ない」ハナシと、すでに有名という意味でのこうした 「ありがちな」ハナシとが、余りにも都合よく結び合わされているからだ。  だが、エスペルの演出は、このかなり皮相でスキャンダラスな戯曲を一種重 厚で華麗な舞台に変貌させる。そのうえ、舞台と衣装がこれだけ飾り立ててあ りながら、俳優たちがまったく貧しく見えない(この手の超ヨーロッパ的な芝 居は、日本人の最も苦手とするところで、道具立てを飾れば飾るほど俳優が貧 弱に見えるのが残念ながら常なのだ)のも、演出の功績だろう。艶やかなバス ・バリトンの声を持つスペイン大使役の大友龍三郎をはじめ、みなさん立派。  そして、玉三郎。  威厳と気品があり、妖しく美しい。一種のアンドロギュヌスとしての主人公 を中心に据えたこの作品が、初めから彼のために創り出されたと言っても誰一 人疑わないだろう。  眼の欲望は完璧に満たしてくれる金襴の絵巻である。