h4_9 沈黙とつぶやきの珠玉――青年団公演『さよならだけが人生か』  古城十忍という若い劇作家の作品を最近まとめて読んだ。いずれも現代から 近未来にかけてのハイテク社会を舞台にしている。その中のひとつ『赤のソリ スト』という戯曲に、「今は誰も大声を出さない」という趣旨の台詞がある。 言われてみれば確かにそうだ。敢えて単純化すれば、六〇年の安保闘争世代と 七〇年の全共闘世代のアジ演説とともに、大声も過去のものになった。  ところが、である。その世代に重なるかつての若者とその後輩が担う小劇場 演劇の世界では、多くの場合いまだに「大声」が幅をきかせている。怒鳴るよ うな台詞まわしが舞台から押し寄せてくる。私は、機会があるごとに、そろそ ろ「怒鳴る」芝居はやめにして欲しい、と言ってきた。「怒鳴る、というのが 言いすぎなら、声を張り上げる一方の芝居は」と。  そして、青年団の『さよならだけが人生か』に出会った。平田オリザの作・ 演出によるこの芝居は、およそ「怒鳴り」の対極にある。沈黙とつぶやきから、 それは始まり、ごく普通の何げない言葉のやり取りと、ごく自然な人の出入り があって、それは終わる。  舞台はマンションの工事現場の飯場である。出入りする人々は三つのグルー プに分けられる。建設に従事する現場の作業員と関係者、現場に古代の遺跡が 発見されたらしく、その発掘に当る考古学の学生、そして、設計・施工会社の 社員や文化庁の役人その他である。  雨のせいで工事も発掘も一時中止という宙ぶらりん状態に置かれたこれら全 ての人々の、その場の居方や喋り方の異常なまでのリアリティはどうだ。見終 わってずいぶん時間が経った今も、そういう人々の芝居を見たというよりも、 彼らに「会った」という印象が強く残っている。  劇的なことは何ひとつ起こらない。その点、平田オリザが大きな影響を受け たと自ら認めている岩松了の芝居に通じる。「なるべくつまらない時間を切り 取り、緊張感のない、ガンバラない芝居」が岩松劇の特徴だ。  とりとめのないお喋りはあるが情報量の少ない台詞、だが、その少ない情報 量から浮かび上がってくる人間関係の絡み、目の前の舞台の普通さとは裏腹に、 何やら摩訶不思議な気配のある「外」の世界(『さよならだけが人生か』の工 事現場にはミイラ男が出るという)、登場人物それぞれの生活や思惑をこの場 とこの時点で交差させる作劇法、なども共通する。干武陵の漢詩の井伏鱒二訳 からタイトルをつけた『さよならだけが人生か』では、交差するのはいくつか の別れである。長野に転勤する作業員のひとり、娘の結婚をしぶしぶながら許 す現場監督。学生のひとりはイギリス留学をボーイフレンドに打ち明ける。  ごろ寝をしたりラジカセを聴いたり、お茶を飲んだりトイレへいったり、と いった劇的ならざる状況の底流に、劇が潜んでいる。  しかし、平田の芝居と岩松の芝居が決定的に違っているのは、すでに台詞ま わしについて述べたことに代表される、平田劇のハイパー・リアリズムである。 岩松劇の登場人物は、東京乾電池の役者たちのあくどいまでの個性も手伝って 、各々の「異常さ」が透けて見え、それが面白さのひとつでもあったのだが、 平田の人物たちはどこを取っても普通。個性があるとすれば、それは役者の個 性というよりも役の個性なのだ(そう見せてしまう役者たちが優れているのは 言うまでもない)。  ハイパー・リアルな絵画が、確かに在る(または「あり得る」)風景とあり 得ない雰囲気の重なりであるように、つまり、同時にシュール・リアルでもあ るように、平田劇のハイパー・リアリズムにもシュールな雰囲気が漂っている。 絵画の場合、それは、遠近法の消失点を複数盛り込むことによっても得られる のだが、平田劇もそれに似た仕掛けがあると思われる。つまり、視点のからく り。  平田劇のハイパー・リアリズム、私たちが日常生活で行っているのと全く同 じたぐいの会話は、本来ならば観客も劇の状況の「中」に入り、登場人物と「 一緒になって」お喋りに加わらなければ体験できないはずのものである。とこ ろが、我々はあくまでも傍観者だ。至近距離に居て傍観する――「あり得ない」 ことである。この「あり得なさ」がシュールな雰囲気を生む。  戯曲を読むと、ここにある自然さが実は緻密に計算されたものだということ がよく分かる。実際の舞台では、その計算を消す。平田オリザは端倪すべから ざる作家である。