h4_6 カフカの喜劇的造形――S・バーコフ演出『審判』  スティーヴン・バーコフの天才が跳梁跋扈する舞台――彼自身がカフカの原 作を脚色・演出した『審判』(初演は'70年)である。  舞台は闇。鈍く光る長方形のメタル・フレームが十、ゆるやかな弧をなして 整然と並んでいる。そのひとつひとつの奥には曲げ木の椅子。フレームの弧に 囲まれ、中央の光の溜りに男が一人立っている。ヨーゼフ・Kである。明りが 全体に広がると、椅子に坐った男女が立ち上がってフレームを掴み、ゆっくり と動き出す。白と黒とグレーに統一された衣装を着た彼らは下手に集まり、縦 に一列に並ぶ。まるで無彩色の合わせ鏡の奥をのぞいたように見える。ヨーゼ フ・Kが一番前のフレーム+人間に向い合う。それぞれのフレームが門で、そ こに立つ人々は門番だ。  そう、バーコフは、『審判』の終わりに近い九章でカフカが大聖堂の僧侶に 語らせた、法の門と門番の寓話を冒頭に持ってきたのだ。この幕開きの一場か ら早々に予感されるとおり、バーコフの原作の読みの深さ、それを舞台に具体 化する発想の豊かさ、美術的な造形感覚の鋭さは舞台のすみずみにまで行き渡 り、最後まで微塵の緩みも見せない。  ヨーゼフ・Kはある日突然逮捕され、何の科かも分からぬまま必死で身の潔 白を証明しようとする。犯罪(crime)や違反(offence)といった社会的な 罪ではなく、宗教的倫理的なものを含む人間としての罪(sin)の問題を突き つけてくる――こういった原作の中心軸と、二十世紀の都市社会の黙示録とも 言うべき雰囲気、謎と不条理、不安など、原作の根底にある要素はしっかり抑 えつつ、特筆すべきはバーコフがそこに笑いの要素をちりばめたことだ。マイ ムの手法を多様することにより、それは視覚的にも伝わってくる。  舞台の『審判』を見終わってから、改めて原作を繰ってみると、確かに喜劇 的な要素は随所に繰り込まれているのだった。ところが、「難解な哲学的小説」 とか「不条理な不安の世界」といった、『審判』に対する先入観やレッテルが 邪魔をして(少なくとも私にとっては)、それを見えなくしていたらしい。バ ーコフは、舞台化という形で原作に血を通わせ、この作品のナンセンスで滑稽 で喜劇的な面を、目に見え耳に聞こえるようにしてくれたのだ。  たとえば、Kが弁護士を訪ね、彼の看護婦兼情婦のレーニに誘惑される場面。 原作では右手の中指と薬指の間に水かきがあるとされているこの女は、自分の 方からKに迫ってキスをしておきながら、その直後「Oh, you kissed me!」と 言う。このやりとりは小説に書かれているままなのだが、舞台でこのとおり演 じられると、大笑い。  また、当の弁護士の描き方も喜劇そのものである。始終咳をし、何人もの介 護の手を借りなければ立ち上がることもできない病人なのだが、すごい太鼓腹 の肥満体。そんな体躯でよろよろしながらブレーク・ダンスまがいの動きを見 せる。客席から笑いと拍手が湧き起こる。(ところで私は、この弁護士の姿や、 彼がKへの質問はそっちのけで自分のことばかり喋りまくる様を目の当たりに して、反射的に『不思議の国のアリス』を思ったものだ。Kは、死の影が漂う 暗いワンダーランドに迷いこんだカフカのアリスとも言えそうだ。)  そして、喜劇的造形の最たるものが、バーコフ自身が扮する法廷画家ティト レリである。「お待たせ!」とばかりに登場するバーコフのティトレリは、色 こそ黒と白に抑えてあるものの、デザインも派手ならテカテカ光る縞柄も派手 なスーツ姿。そして、白塗りのその顔には、サルヴァドール・ダリを思わせる 口髭がピンとはねている。善意と悪意が陽気に混じりあったティトレリ・バー コフは、言葉、動作、表情のすべてを過剰なエネルギーに乗せて奔らせる。驚 嘆すべき役者ぶりだ(役者と言えば、K役のアラン・ペリン、弁護士のマシュ ウ・スカーフィールドをはじめとして、みんななんと魅力的だったことか)。  この場面では、くだんのメタル・フレームは額縁になり、俳優たちはその中 で凍りついて肖像画に変貌する。縦になり横になり、整然と並んだかと思えば 乱舞する――光と影を計算に入れ、様々に役割を変えるこのフレームの「演技」 ひとつ取っても見応えは充分だ。  あらゆる面における前衛的で果敢な試みと、厳格なまでの美しい空間処理、 生ま演奏による効果音、そしてエンターテイメントとの希有な融合――イギリ スからやってきたこの『審判』は、バーコフの勝訴!