h4_2 放電の恍惚――松竹制作『蜘蛛女のキス』 『薔薇の花束の秘密』のときと同じように、『蜘蛛女のキス』でも舞台は予 め観客の目にさらされている。薄汚れ、がらんとした空間の中でまず注意を 引かれるのは、下手の木のドアの前の粗末なベッドと、中央の二段ベッドだ。 その隣の天井までとどくほど丈高い鉄格子が、ここが監獄であることを一目 で分からせる。暗転。  すっとふた条入った照明が、床に仰向けに寝ころんだ男の顔と、二段ベッ ドに腰かけた男の顔とに当る。顔だけに当る。派手なスカーフを頭に巻いた 二段ベッドの男が柔らかな声で何かを物語っている。何の話なのか……光が 全体に広がる。やがて、語られているのはある映画の筋や細々した場面の描 写だということが分かってくる。  三月にやはりベニサン・ピットで上演された『薔薇の花束の秘密』と同じ マヌエル・プイグ作、ロバート・アラン・アッカーマン演出による『蜘蛛女 のキス』は、こんなふうに密やかにはじまる。  ちょうどラヴェルの『ボレロ』が曲全体でひと続きの大きく長いクレッシ ェンドを成しているように、ピアニシモから始まったこの芝居も、幕切れ近 くのクライマックスというフォルテシモに向って少しずつ「音」を高めてゆ く。映画の物語という、自分の身の上とは別の話を手がかりに、二人の人物 がおずおずとお互いの心に手を伸ばし、時に激しく反発しながらも関係の密 度を高めてゆく過程と、そのクレッシェンドは呼応している。 『薔薇の……』では、病室という限定された空間の中で、老いた患者と付添 婦という二人の女の過去と現在が交錯し、互いの心を寄り添わせるまでの関 係の変化がスリリングに描かれていたが、『蜘蛛女のキス』でも劇空間は監 房一室に限られている。  ここブエノスアイレスの監獄に投獄されているのは、「未成年者に対する 背徳行為」という罪状のゲイのモリーナ(村井国夫)と、革命家のヴァレン ティン(岡本健一)である。  映画の話するのはモリーナだ。モリーナは、ヴァレンティンの同志の動き を探るという密命を所長から受けているのだが、初めのうちはそのスパイ行 為の手段だったはずの優しさやいたわりが、やがて本物の気持ちに変わって ゆく。いや、それどころか、二人のあいだに生まれた奇妙な友情は、強い信 頼と愛情にまでなる。  まるでプラスとマイナスの両極の間で或る瞬間一気に放電が起こるように、 次第に思いやりや心遣いに帯電していた二人の人物に温かな気持ちの電流が 走る。その一瞬一瞬へと心理を絞りこんでゆく緻密に書きこまれた戯曲、そ してアッカーマンの演出力は、『薔薇の花束の秘密』の場合と同様見事であ る。  同房にならなければ、外の世界では出会うことすらなかったろうモリーナ とヴァレンティン。全く異質な二人の間の心の通い合い。この微妙な感情の 運びを二人の俳優は、きっちりと過不足なく演じた。  女っぽいゲイというと、今やあまりにもそのコードが巷間に流布している ため、パターンやクリシェに陥る危険があるのだが、村井国夫はほとんど体 の細胞「全とっかえ」という域に達して、女として生きることを意思する男 になりおおせていた。  使命遂行のため外部との連絡を取ることを自らに禁じ、恋人に焦がれるヴ ァレンティン。毒薬入りの食事を知らずに食べて下痢を起こし、粗相をして モリーナにあと始末をしてもらうヴァレンティン。そんな屈辱にまみれ、死 の恐怖におびえ、出口のない極限状態に陥って苛立つ若者を演じた岡本健一 の感受性と表現力は称讃に値する。(映画版の『蜘蛛女のキス』でこの役を 演じたラウル・ジュリアに較べると、彼はいかにも若く、国家体制の変革を 目指す革命家というよりも全共闘のセクトめいてしまうのは仕方あるまい)。 何よりも、いまどき「絶望」という言葉をこれほどのリアリティを込めて口 にすることができる役者がいるとは――。  一人が不動のまま立ち尽くし、お互いに相手の死に至る後日談を語る幕切 れは、一種の崇高さすら帯びていた。「絶望」から逃れる唯一の道は空想= 映画と瀕死の状態で見る夢のみ――痛ましい。だがこの幕切れからは、そこ での「自由」の限りない大きさも伝わってくるのだった。