h4_12 数年来、屈指の出来栄――MODE×青春五月党『魚の祭』  追憶の夏の追憶の砂浜は真っ白に輝いている。現実には、海水浴客が捨てた ゴミや波に打ち寄せられた海草の切れ端が、そこここに散らばっていたに違い ないのだが、家族揃って盛夏の一日を過ごした思い出の中では、砂には一点の 汚れもない。  MODE×青春五月党による『魚の祭』は、そんな砂浜で父親が撮る家族の 記念写真に始まり、末の息子の葬儀のあと、やはり父がシャッターを押す記念 写真で終わる。  末息子冬逢(ふゆお)(有園芳記)が十九で死ぬ。足場を組む仕事中、ビル の六階から転落したのだ。彼は母親とふたり暮らしだった。キャバレー勤めの 母貞子(梅沢昌代)は、男出入りが絶えず、まだ幼い冬逢を連れて家を出たの だった。  みんなばらばらに暮らす完全に崩壊した家庭である。真っ先に駆けつけた、 雑文書きをしている長女結里(伊東景衣子)に貞子が言う。「ママ……お父さ んと冬樹に……もう十二年も会ってないのねぇ」  塾の教師の長男冬樹(久保酎吉)、次女留里(黒木美奈子)、そしてパチン コ店に勤める父孝(三田村周三)が、急を聞いて次々と集まってくる。  棺に横たわる冬逢の傍らで、故人の思い出を芯にして彼らはこもごも語り合 う。時には互いに激しく非難し合う。そこから明らかになってくるのは、四人 の兄弟姉妹の過去・現在、そして、夫婦の過去・現在。内包された家族崩壊か らそれが顕在化するまでが、冬逢の日記を織り込みながら描かれる。  柳美里(ゆうみり)の戯曲のト書きは、いささか思い入れ過剰な心象の直接 ・間接の描写が多く、装置の指定は極めてリアリスティックなのだが、松本修 の演出は、そんな心象に言わばドライヤーをかけ、舞台美術も円形のステージ を生かして、具象と抽象を見事に合体させている。  たとえば、冒頭の浜辺のシーンが波の轟音と暗転によって掻き消されてから。  闇を男の声が支配する。声は、子供のころ学校でいじめられた思い出を語る。 明りが入ると貞子の家。円形舞台の上手奥に置かれたテーブルで、母と長女が 話をしている。前面にはサングラスをかけアロハ・シャツを着た男が仰向けに 寝ている。直前のシーンが海辺だっただけに、横たわる男はそこから抜け出て きて、昼寝でもしているかに見える。だがやがて母娘の会話から、それが他で もない、死んで棺に納まった冬逢だということが分かってくる。  冬逢は、時には流し台の上にうずくまり、時には棺があるはずの位置にまた 戻って家族を見守る。実際に白木の棺が舞台に現れるのは、休憩をはさんだ後 半になってからである。  ドライヤーをかけると言ったが、ここには笑いの要素もふんだんにある。そ れは、久々に顔を合わせた家族それぞれの立場と思いのちぐはぐさからも生ま れるのだが、葬儀社の社員ふたり(得丸伸二、小嶋尚樹)が重要な役割を果た している。彼らと喪主である父との通夜や葬儀の交渉は、映画『お葬式』を思 い出させるおかしさだ。家族の誰かを亡くした経験のある人なら思い当たるだ ろうが、通夜や葬式の準備は、哀しみを一時棚上げにしてくれるものだ。それ が実にうまく表現されている。  また、随時流れるジャズのヴァリエーションの「サマータイム」の曲も夏空 の高い位置からこの哀しみの一家を見下ろす視点を与えている。ミンミン蝉や ヒグラシの鳴き声が醸し出す抒情・感傷との絶妙なバランスだ。  私は、まだ次女の留里も父親も登場しないうちに、舞台を見ながら「お通夜 やお葬式というのは、死を介した一族再会なのだ……」と思ったものだ。だか ら、幕切れ近く、冬逢の日記の最後の数ページが読まれるくだりで、彼がその 一族再会こそを目指して自殺したことが明らかになり、愕然とした(ここにい たるまでの伏線の張り方がうまい)。 「どうしたら五人が一度に集まるだろうか? どうしたら五人が十二年ぶりに 同じ食卓で食事をする事ができるだろうか?」  家族の再生への、死を賭した熱い祈念。  冬逢には、恋人香子(美香)との間に子供が生まれている。留里も妊娠して いる。父が言う。「一人減って、二人増えたのか」  戯曲とそのテキストレジがいい。演出がいい。役者がいい。舞台美術と効果 音と照明の洗練。今年、いやここ数年来屈指の舞台だと言っても過言ではない。 個人的なことに触れるのを許してもらえば、私自身弟を亡くしているので、こ の劇世界が他人事ではなく、まさに滂沱の涙だったのだが、優れた舞台に出会 えた幸福感に晴ればれと笑いもしたのだった。