h4_11 本歌取りの一級品――東京サンシャインボーイズ『12人の優しい日本人』  中原俊監督の映画も面白くて興奮したけれど、原作を舞台で見るともっと面 白い――一九九〇年の初演と翌年の再演は見逃したが、ようやく三演目にお目 にかかれた『12人の優しい日本人』を見終わって、まずそう思った。 『12人の優しい日本人』は、タイトルから察しがつくように、ヘンリー・フ ォンダ主演で映画にもなったレジナルド・ローズの戯曲『十二人の怒れる男』 (もともとはテレビ・ドラマ)を、もしも日本に陪審員制度があったらという 仮定のもとに、私たちの身近な状況に転位させたものである。  そこで、なぜ舞台のほうが面白いか?  作・演出三谷幸喜と東京サンシャインボーイズによる舞台では、映画と違っ て、出ずっぱりの十二人全員が常に我々観客の視野に入っているため、誰と誰 が対立しているか、いま形勢は誰の意見に傾いているか、といった空気の流れ が直に掴めること。また、時に活気を帯び、時に袋小路に入ってにっちもさっ ちもいかなくなり、また時に鈍く停滞する登場人物の意識・エネルギー・関心 無関心などの動きが手に取るように感じられること。  何よりなのは、わいわいがやがやと意見を闘わす、あるいはその議論から逃 げる、十人十色ならぬ十二人十二色の男女の熱くなった頭から言わば湯気が立 ち、そこに夜の国道ぞいを現場とするひとつの事件、ひとつの男女関係が、ま るで蜃気楼のように浮かんで見えてくることだった。  パルコ・パート3の空間の中央に四角の舞台が組まれ、観客はその四方を囲 むかたちでことの進行を見守る。  父親殺しで告発された少年が有罪か無罪かを巡って議論が闘わされるローズ の原作では、まず十一人の陪審員が有罪という意見。それにフォンダ扮する「 陪審員八号」が異議を唱えるところから始まるが、夫殺しの若い妻が被告の「 優しい日本人」の場合は全く逆で、冒頭では一人を除く全員が無罪を主張する。  このように発端は正反対ながら、事の展開から十二人ひとりひとりのこの場 での役割にいたるまで、『12人の優しい日本人』は下敷となったローズの戯 曲といちいち対応する。有罪と言って譲らない陪審員が、実は被告に対して自 分の私生活を投影しているという心理的バックグラウンドもそうである。にも かかわらず、結果として私たちの心に残るものはまるで違う。 『十二人の……』は「八号」という人物を借りて、あくまでも「合理的疑問が ある場合は有罪にすべきではない」という正義の追及を主眼としているのに対 し、『12人の……』のほうは、このような状況(陪審)に置かれたら人(日 本人)はどう振舞うかということが関心の的だからだ。その意味で、『12人 の……』は「登場人物と状況設定のからみの面白さで笑わせる」シチュエーシ ョン・コメディとして一級の作品であり、見事な本歌取りである。  十二人には名前が与えられてはおらず、陪審員1号から12号まで番号がふ られているだけというのも下敷と同じだが、ひとりひとりが背負っているそれ ぞれの生活やキャラクター(誰もがその人なりの弱点と強みを持っている)は、 下敷以上に鮮やかに浮かび上がり共感や笑いを誘う。  映画を先に見たので、もうすでに筋は分かっているのに、逆転のたびにはっ としてしまう。展開はスリリングで切れがいい。  それは、台本の緻密な構成と飛び交う台詞の妙と同時に、役者のよさの賜物 でもある。加虐的な役をやらせれば絶品のクールな西村雅彦、伊藤雄之助に若 返り薬を飲ませたような野仲功、頭蓋骨がしっかり堅そうな相島一之、大竹し のぶを老けさせたり若くしたりあれこれいじくっていたらこうなっちゃった、 という風な宮下雅子、etc。  陪審の結論は全員一致で「無罪」となるのだが、それを導き出すのは一番弱 くて無力な者たちだ。現実の世の中では大方の場合、強くて力ある者、論理の 力や説得力のある者が勝ちを納めるのが常だが、ここでは「フィーリング」と か「なんとなくそんな気がする」ことだけが拠りどころで、それをうまく言語 化できない者たちの頑張りが功を奏するのだ。そこへ運んでゆくのは三谷幸喜 の「優しさ」でもあるだろう。