h4_10 心のなかに海がある――松竹プロデュース『エリーダ 海の夫人』  エリーダは家を出ていかないノラ、夫のもとに留まるノラである。  エリーダ――『人形の家』で知られるノルウェイの劇作家ヘンリック・イプ センが、一八八八年に発表した戯曲『海の夫人』の主人公。灯台守の娘として 海で生まれ育った彼女は、先妻を亡くした初老の医師ヴァンゲルと六年前に結 婚し、彼の娘ボレッテとヒルデとともにフィヨルド沿いの町に暮らしている。 彼らの結婚の危機とその再生が主筋である。  イプセンというと、前世紀には革命的だったが、今や古色蒼然とした趣があ ると思い込みがちだけれど、イギリスの気鋭の演出家デヴィッド・ルヴォーが 演出し、ベニサン・ピットで上演された『エリーダ 海の夫人』を見ると、そ の作劇法も、そこにたたえられた劇世界も、決して古びたものではないと実感 させられる。  それどころか、エリーダがヴァンゲルに向かって「あなたは家の空虚さに耐 えられず私を買い、私は自分の無力さと孤独にさいなまれ、生活の保証と引き 換えに自分を売った。それが私たちの結婚の真実だ」という趣旨の言葉を吐く のを聞くと、三枝和子の『響子悪趣』と文字どおり響き合うものを感じないで はいられない。  公演ごとに舞台も客席も自在に組み替えられるベニサン・ピットだが、『エ リーダ』では、傾斜した細長い舞台が空間の中央を横切り、それをはさんで客 席がしつらえてある。幅広の花道と言ってもいい。  客席に入ると、まずその大胆な構成にはっとする。天井にゆったりとたるみ を持たせて張られた布と、板張りの舞台のターコイズブルーのみずみずしさに 息を呑む。傾斜の裾は本水に隠れ、フィヨルドから海へとつながる池と設定さ れている。池には跳び石や白樺が点在する。ヴィッキー・モーティマーの装置 は、スカンディナヴィアの夏と彼方の海をたくみに暗示している。  この芝居では海が重要な役割を担っている。エリーダ(佐藤オリエ)は海か ら来た女である。ヴァンゲル(木場勝己)の妻になる前、彼女がつかの間だが 激しい恋に陥り結婚の約束までした「見知らぬ男」(福井貴一)は船乗りであ る。海は、人を惹きつけ外の世界へといざなう不可知な力の象徴であり、自由 の象徴。アメリカ人の「見知らぬ男」はそんな海の象徴でもある。  エリーダは、「見知らぬ男」がいつかまた彼女のもとへ戻ってき、今の生活 から連れ出すことを恐れ、同時にそれを潜在的に求めてもいる。そして男は遂 にやってくる。  男性が支配する家庭という制度、結婚という制度の束縛を破ろうとするフェ ミニズム的な指向と、外の未知の世界の自由を希求するロマン派的な衝動―― このふたつがエリーダの中にはある。夫と家庭を選ぶか、海の男と自由を選ぶ か、エリーダはその選択を迫られる。  必死で妻を自分の手元につなぎ留めようとしたヴァンゲルだが、「私の体は 束縛できても、私の精神、思いの数々、魂のあこがれや願望まで縛り付けてお くことはできない」という彼女の気持ちを理解するに至る。そして、エリーダ を解き放ち「君は自由意志で、自分の責任において選ぶことができる」と言っ たとき逆転がおこる。彼女は、六年前の選択の余地のない選択とは違い、今こ そ「完全に自由な立場」で夫とともにこの地に留まることを選ぶのだ。結果は 同じでもプロセスが違う。  ヴァンゲルとの葛藤は一応収束したが、心の中に海があるというエリーダの、 深層に根ざした未知の世界へのロマン派的なあこがれもまた鳴りをひそめてし まうのだろうか。  ルヴォーは、原作にはない場面を加え、その衝動を娘ヒルデに引き継がせる。 四人の家族が手をたずさえて室内へ去ったあと、ランタンを持ったヒルデ(原 田和代)ひとりが舞台に戻ってくる。ランタンを岩の上に置いた彼女は、裸足 になって池に入る。海からの強い光を受けて、池に植わった白樺の影が長く黒 々と舞台に落ちる。全体が闇に融けてゆく中で、ぽつんとともるランタンの明 りが小さな灯台のようにも見える美しい幕切れだ。  また、長女ボレッテ(植野葉子)は元家庭教師アルンホルム(戸井田稔)と 婚約するのだが、それは、かつてのエリーダとヴァンゲルの結婚のように「売 買」の要素を抱え込んでいる。結婚の「問題」もまた引き継がれるのだ。  リングストラン(三浦賢二)という胸を病んだ彫刻家を登場させ、女に対す る男に身勝手さと無理解を戯画化することといい、イプセンはずいぶん遠くま で透徹した眼差しを向けていたと思わせる舞台である。台本 吉田美枝、美術 監督 朝倉摂。