h3_12 コミカルと痛切の共存――劇団木冬社『哄笑』  シェイクスピアの芝居には、いわゆるレコグニション・シーン(recogni- tion scean )と呼ばれる場面をそなえたものがいくつかある。たとえば喜劇 『十二夜』やロマンス劇『ぺリクリーズ』などで、お互いに相手が死んだと 思っていた兄妹や親子が時を経て巡り合い、それぞれを「認識」する場面で ある。認識というのはいかにも固い言い回しだが、要するに相手を「見て」 その人だと「分かる」こと。顔と名前が一致する、と言い替えてもいい。一 見単純なことが、シェイクスピア劇では溢れるような歓びに満ちたクライマ ックスになる。  改めてそれを強く観じたのは、ピーター・ブルックが一九六九年に監督し た『リア王』の映画を見たときだ。悲劇であるにもかかわらず、この芝居に は歓びのレコグニション・シーンがある。リアと盲目のグロスターとの、リ アと末娘コーディリアとの再会の場。  狂気という混迷の闇を破って一瞬正気の光が射しこんだかのように、リア がグロスターに向って「おまえのことはよく知っている。お前の名はグロス ター」と言う。人をに認識することが、自己認識と世界の認識に直結する。 まさしくアリストテレスの言うアナグノーシス。ブルックは、この場面をリ アとコーディリアの再会に優るとも劣らない感動的な場面にした。  木冬社公演、清水邦夫作・演出の『哄笑――智恵子、ゼームス坂病院にて』 は、彫刻家・詩人の高村光太郎と最晩年の妻智恵子を描いたもので、智恵子 は終始光太郎をすでに死んだものと思い込んでいる。だが、終幕、狂った智 恵子は、つかの間だが目の前の「生きた」光太郎を認め「あなた、あなたな の、光太郎さん」とつぶやくように言って、彼の頬に指を滑らせる。  その人をその人と認め、名前を呼ぶ――『リア王』のレコグニション・シ ーンと同質の深い感動に、文字どおり体に震えが走った。数時間後には、智 恵子は再び狂気の中へ戻って行ってしまうのだが……。  舞台は昭和十一年の東京。高村智恵子が入院しているゼームス坂病院に隣 接する教会の集会室である。病院の患者や看護婦たちは、境の塀を乗り越え てしょっちゅうこの集会室にやってくる。智恵子もそのひとり。教会の牧師 の長女、塩子と親しくなったためだ。  光太郎は見舞いに訪れるたびに、なんとかして夫がもう死んでしまったと いう妄想から智恵子を引きずり出そうとつとめ、塩子はふたりの間に立って 何くれとなく力を貸す。  妻の妄想につき合い、自分自身の「熱烈な崇拝者」として智恵子の生活に 再登場せざるをえない光太郎。心ならずもその演技をし、ときには私服の憲 兵役まで引き受け、自分を「彼」と三人称で語る光太郎と智恵子のズレたや りとりが、コミカルで哀しくて実にいい。  その語らいの中からかつての二人の生活が浮び上がってくる。智恵子が語 る過去形の「亡き夫」の姿から、光太郎は智恵子の中で自分がどのような存 在であったかを知る。  そして、それまでは「あなた、誰?」「あなた、何者?」と問いかけてい た智恵子の口から「光太郎さん……」というつぶやきが洩れる瞬間が来るの だ。  光太郎に扮した小林勝也が、この舞台全体に流れるコミカルで痛切なトー ンを体現している。これまでも清水邦夫は、記憶喪失や狂気によって過去を 失った男たちを描いてきたが、その一連の劇ではもっぱら彼らの記憶を取り 戻そうとする側に回っていた松本典子が智恵子を演じている。もともと理の 勝った資質の彼女がそういう役を演じると、どうしても一種の冷たさが立っ てしまうのだが、ここではその「理」が自分の内面と過去をまっすぐ凝視す る方向に向い、壊れた精神を生きることによってこれまで見られなかったふ くらみと可愛さが出ていた。  亡妻の帽子を被りつづけている塩子の父の報われない想い、そして拳銃自 殺する陸軍中尉への塩子の恋が配され、それらが智恵子と光太郎の失われた 愛の変奏となって効果を上げている。