h3_1 不可知を想像する知――『お父さんのお父さん』  一見テレビのお茶の間ドラマ風、一見爆笑人情ばなし風。東京乾電池の芝 居としては珍しくステージいっぱいに作られた舞台装置も、一見したところ かつてのTV人気ヴァラエティ「欽ちゃんのドコまでやるの」風である。卓 袱台のある普通の日本間、縁側、その向こうの猫の額ほどの庭と板塀。だが、 この「一見」は、なかなかのくせものである。  第一、この装置にしても、二見三見よくよく見ると、全体が妙に横長でス ケールが狂っている。とてもリアルな日常的な会話とそれを乗せている〈土 台〉の歪みとを特徴とする岩松ドラマが、そのまま「家」になった感じであ る。  岩松了作・演出の『お父さんのお父さん』は、全二作の〈お父さんシリー ズ〉に続くその完結編だが、同じ登場人物が三作通して出てくるわけではな く、言わばどの作品でも〈お父さん〉が軸になっているという意味でのシリ ーズである。  今回は客演に迎えられた北見治一が、高校教師のお父さん田端孝一(柄本 明)のお父さんに扮している。田端とその同僚の生物教師野村(岩松了)が、 離れ(これが、例の一見フツーだが実はヘンな日本間)に住む隠居暮らしの お父さんのお父さんに若い女性との再婚を勧める、というのが一応の筋。  実を言えば「一見フツーだが実はヘン」というのは、東京乾電池による岩 松戯曲の上演に接するたびに感じていたことなのだけれど、何がどうヘンな のかをうまく言葉にできずにいた。未だに、彼らの得意な劇世界を掴んで語 る「これ」という表現は見つかっていないという歯がゆさはあるのだが、そ れでも今回の舞台を面白がってあれこれ考えているうちに、その近似値には 迫れた気がする。  どういうことかと言うと、この舞台、観客の目に見えるところと時間だけ に焦点を当て、魚眼レンズで撮った写真のようなのだ。焦点からはずれたと ころ(観客には見えないこの部屋の外の場所や出来事)は、何もかもがにゅ わーんと歪んで感じられる。  その〈外〉の幅は広い。  お父さんの再婚相手と目される久美さんが絵を飾ったというトイレ、ゴキ ブリのようだがそれよりずっと大きな虫が出たという台所、といったすぐ〈外〉。 バイエルの練習曲を誰かが弾いている近所の家というちょっと〈外〉。敬老 会のピクニックを明日に控え、お父さんのお父さんに同行する予定の久美さ んにひと晩泊まってもらうべく、気をきかせて妻子が遊びに行っている箱根 から、野村と先妻との間にできた娘の夫が長い足止めを喰っているらしいバ グダッドのマンスール・メリア・ホテルにまでも及ぶ遠い〈外〉。  なんとなくヘンなそういう〈外〉と〈ここ〉とを電話がつなぎ、観客の想 像力を刺激するのだが、岩松は、そんな〈外〉の一部を〈ここ〉に雪崩込ま せるシークエンスも作って効果的な転調をはかる。孝一が顧問をしている演 劇部の生徒たちがやってくる。文化祭で上演するため連休返上で『奇跡の人』 の稽古をしているのだが、生徒たちの間にもそれなりに複雑な人間関係があ るらしい。お父さんのお父さんが贔屓にしている電気屋の息子がやってくる。 ところが彼は、お父さんのお父さんが彼と久美さんの間を取り持とうとして いると思い込んでいるふしがある。お父さんのお父さんが散歩の途中で出会 ったどこの誰とも知れない男がやってくる。彼らが黙々と寄鍋を食べ続ける 奇妙な雰囲気の幕切れ。  いくつもの「一見」をあっけらかんと纏い、主役からちらっとしか出てこ ない脇役まで、登場人物それぞれの生活と思惑とをこの場とこの時点で交差 させ、その外にある(あるいは心の内にある)「実は……」の部分、つまり 魚眼レンズ写真のにゅわーんの部分は、観客自身が頭の中で修正し、察する に任せる。不可知なるものを逆説的に「見せる」優れた芝居だ。 (11月1日―11日 下北沢・本多劇場)