h2_8 緑魔子が現前させる“私たちの映画”――『羊たちの沈黙』  劇作家山崎哲が劇団第七病棟のために新作を書き下したのは、この『羊た ちの沈黙』が二度目である。第一作は、町屋にある小さな劇団アトリエで83 年に上演された『質屋――おとことおんなの午后』。  三軒茶屋の古い映画館の舞台で演じられた『羊たちの沈黙』の幕が降り、 感動を噛みしめながら思ったことのひとつは、「山崎哲は主演の緑魔子にい つも挑戦状を突き付ける」ということだ。  その挑戦状とは、およそ考えられる限り最も感情移入のしにくい台詞、一 見「劇的」なものから遠くかけ離れた台詞、へたをすると死ぬほどの退屈に 転じかねない台詞、を彼女に与えること。彼女は挑戦に応え、クリアする。 『おとことおんなの午后』では、緑魔子扮する主人公のアサコはえんえんと 質屋の台帳を読み上げる。金の借り手の名前と質種と金額とがいつ果てると もなく羅列されるのだ。ところが、この「散文」の極みとも言える台詞が、 緑魔子の手にかかると、主人公の鬱屈した思いの奔りとして、この劇の中の クライマックスにまで高められるのだった。  そして今度は、映画の粗筋である。  昼間だというのに薄暗い、半地下のうらぶれた喫茶店。すぐ近くのビルの 建設現場からは、カーンカーンと鉄骨を打ち込む音が聞こえてくる。  かつて映画の助監督をしていたこの店の経営者ユーさん(石橋蓮司)のと ころへ、別れた妻で元女優のリエ(緑魔子)が十年ぶりで訪ねてくる。彼女 は、二年間かけて書き上げた映画のシナリオがアメリカの監督に認められ、 ニューヨークへ行って映画を作るのだと言う。そして、この店に来合わせた 人々とユーさんたちに向ってその筋を語って聞かせる。その人々とは、フリ ーター感覚でホテトル嬢をしている若いふたりの女、それぞれの恋人と夫、 息子一家がディズニーランドの見えるホテルから飛び降り自殺したという老 夫婦、この店に立ち退きを迫る地上げ屋の下でアルバイトとして(!)ヤク ザをやっている若者、などである。  いずれも現代の典型的な事件や現象として類型化された人々、新聞の三面 記事や週刊誌に話題を提供し、言わば粒子の粗いモノクロ写真の顔しか持た ない人々なのだが、そんな彼らがリエの語る映画の物語にぐんぐん引き込ま れ、様々な役をリエと共に生き始める。ちょうど『俺たちに明日はない』の オープニングがモノクロのスティル写真で始まり、次第にカラー映画になる ように、彼らの顔にも「色」がつき、血が通いだす。 『俺たちに明日はない』――そう、哀しいことに、リエが「自分で書いた」 と言い張るシナリオは、実はボニーとクライドを主人公としたすでに作られ た映画の物語なのだ。リエは精神を病んでおり、そのことを彼女の恋人から の電話で知ったユーさんは、物語の結末を引き取り、彼女に「事実」を突き 付けようとする。「(結末が)どうしてわかったの?」といぶかしむリエに 向って、彼は言う。「君が書いたシナリオじゃないからだよ。君のシナリオ はね……」  と、その時、それまでリエによってクライド・バロー役を振られていたヤ クザのアルバイト青年が叫ぶように言う。「そんなことはわかってますよ。 (中略)ぼくは……この人の話を聞いてるんだ。(中略)たとえそれが『ボ ニーとクライド』の話だって、それはこの人の話なんです。この人にしか語 れない物語なんです!」  この若者のリエについての言葉は、そのまま私たち観客が緑魔子について 言えることである――私たちは緑魔子にしか演れないリエの物語を聞いてい る!  所々で映画の台詞を交え、彼女は、ボニーもクライドもC.W.モスも、ボ ニーの母親をはじめとする脇役全員をも演って見せる。表情を変え、声音を 変え、体の動きを変え、時にコミカルにまた時に哀切に、二人の出会いから 死に至るまでを。  物語はおろか対話まで失った人々を巻き込み、彼女がそこに束の間「私た ちの映画」を確かに現前させる様には胸を打たれずにいられない。  リエは紛れもなく映画を作ったのだ。それは石橋蓮司の演出力の賜物でも ある。 (6月9日―25日、三軒茶屋中央劇場)