h2_4 語呂合わせが生きる深層の「羽無劣人」 −『BROKENハムレット』  これはとんでもないハムレットだ。いや、とんだハムレットだ。そうじゃな い、飛んでる『ハムレット』だ。いや、飛ぽうとして飛ぺなかったハムレット ……心の底から感嘆感服、舞台の記憶を反芻しては思い出し笑いをしたりしみ じみしたりしながらも馬鹿な洒落を言ってみたくなるのは、このタイトルに唆 されてのことだ。   いわく『BROKEN(暴君)ハムレット(羽無劣人)』。(2月8日− 23日、東京・下北沢本多劇場)  今年はハムレットの当り年、ソ連からふたつ、イギリスからひとつの引っ超 し公演を含めてなんと十二本の『ハムレット』の上演が予定されている。劇団 夢の遊眠社の舞台で幾つもの主役を演じてきた俳優上杉祥三が台本と演出を手 掛け、タイトル・ロールもやってのけたこのBROKEN版が、日生劇場で上 演された片岡孝夫主演の『ハムレット』と並ぷその皮切りである。  感嘆感服した理由は数々あるが、まず第一に挙げたいのは、これほど自由に 軽やかに原作とたわむれながら、作品全体のポイントはきちっと押え、現代の 私たちの共感を呼ぷ生き生きとしたハムレット像を創り出すのに成功したこと である。そこには原作に対する一種の敬意さえ感じられる。  語品合わせ、洒落といった言葉遊びはシェイクスピアの十八番であり夢の遊 眠社の主宰者野田秀樹の十八番だが、『羽無劣人』に織り込まれた言葉遊びも それに優るとも劣らない。  鶏の仮面をつけた男女の群舞で幕が開く。ロックのリズム。歌詞に耳を傾け ると、「飛ぺ、飛ぺ、もっと飛ペ、雑踏のニワトリよ」。To be, or not to be −that is the question.という有名な第三独白の冒頭の台詞をローマ字読み にしてもじってあるのだ。つまり羽無劣人は、名は体を表し、飛ふべき羽根を 持たないニワトリに擬されているわけだ。劇の背景も丸ごと「飛ぷ鳥を落す勢 いで栄えた飛鳥」に移されている。  羽無劣人による第三独白も、sc恆存、小田島雄志、坪内逍遙訳の「To be, or not to be」を並ペ「どの訳がいいのかいけないのかそれが問題だ」とやっ たり、「何がいっちゃん男らしい生き方やと思いはりまっか」と関西弁を混ぜ て笑いを取るが、照準は狂わさない。  表層的な言葉遊びが劇の深層を突くというのは野田秀樹の芝居にしばしば見 られることだが、上杉もそういう姿勢が窺える。  もうひとつ注目しなければならないのは、ホレイショーの役割である。ハム レットの親友である彼は、これまた体を表す「友親」という名を与えられてい るが、実は密かに王子を「愛する」双なりという設定。こうなると俄然オフィ ーリア(浅芽)を交えた三者の関係が面白くなってくる。  言うまでもなく遊びは言葉だけではない。たとえば原作における劇中劇。上 杉はこれを園遊会に変え、放役者のみならず宮廷人から王や羽無劣人自身まで 参加する芸能大会にしてしまう。歌舞伎十八番あり、『ガラスの動物園』や 『ベルサイユのばら』のパロディあり、紙芝居ありという賑やかさ。先王殺し を暴くための芝居にも王自身がノッてしまってついその中に入り、ストロボ・ アクションで現場を再現してしまうのだ。  この手の遊びは枚挙にいとまがない。  また、原作では王妃ガートルードのロを通して語られるだけの狂ったオフィ ーリアの死も、ここでは実際に演じられる。ジャン=ミッシェル・ジャールの シンセサイザー音楽の流れに乗ったこの場面は印象深い美しさだった。ホレイ ショー(友親)がそれを目撃している。  彼(彼女?)は大詰めでも羽無劣人に復讐を完遂させる大きな役割を担って いる。死にゆく王子の最後の言葉は彼に向ってつぷやかれる「俺のかわりに飛 んでくれ」。屍の上に天から無数の白い羽根が降り積もる。  上杉本人をはじめ友親の円城寺あや、浅茅の西山水木(ああ、みんなの名前 をあげたい)など、よくもこんなにと思うほど役者たちがのぴのぴ溌剌として いるのが気持ちいい。  ちっともbrokenではない素晴らしい『ハムレット』だった。だから飛んでる 『ハムレット』。