h2_3 「翻訳調」を逆転させたベルイマンの完璧な舞台 ー『サド侯爵夫人』  落ち着いたペンガラ色の床。それが舞台奥で列柱になって立ち上がっている。 その更に奥は回廊で、背景に切り絵のような白い花が大きく浮かんでいる。  いきなり琴の音。  そうだ、これから始まろうとしているのは日本の芝居なのだ、とその澄ん だ音色によってつかの間思い出す。だが、それは本当につかの間だ。そして 時折、能や歌舞伎の所作を意識して付けたに違いない足の運びや扇の使い方 を目にするとき。そういうつかの間を除けば、目の前で繰り広げられるのは ヨーロッパの芝居以外の何物でもない。  不思議な体験だった。  三島由起夫が十人世紀のフランス人を主人公にして書いた『サド侯爵夫人』 がスウェーデンの女優たちによってスウェーデン語で演じられるのを、イヤ ーホーンで日本語の台詞を聞きながら、というアタマの中がインターナショ ナルにこんぐらがりそうな体験。演出はイングマール・べルイマンである。 (1月8日ー13日、東京グローブ座)  だが結論から言えば、アタマがこんぐらがるどころか、これから先日本人 がこの芝居を上演するには余程の覚悟と戦略が必要だと殆どゼツポウしてし まいそうなくらい、それは完璧な舞台だった。  サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人、ルネの妹アンヌ、自らサ ド侯爵の同類と認める悪徳の代表サン・フォン伯爵夫人、敬虔なシミアーヌ 男爵夫人、召使のシャルロッ卜らが、幕が降りるまで遂に姿をみせないサド 侯爵を巡ってそれぞれの立場を主張し、火花を散らす。彼女たちが置かれた 時代と状況、心のあり方などが、幕ごとに衣装の色調を変えて表現される。 一幕は白を基調とした淡い色。断髪のサン・フォン夫人の登場は、それだけ でひとつの衝撃だった。戯曲には「乗馬服」と指定してあるのだが、ここで はそれが下着のように体の線を露わに出した純白で、ブーツを履き、手には 鞭を持っている。ラ・コストの城から駆けつけた旅装のルネが、母の前に跪 き、はらりとピンクのヴェールを肩に流したときの優雅さは忘れられない。  二幕は赤や黄色などの濃い色で、フランス革命のさなかの三幕では黒やグ レーなどのモノトーンが女たちを包む。装置は、三幕で舞台中央に置かれた 暖炉だけという徹底した禁欲。  全てが周到に計算されている。たとえば、三慕ですでに修道院に入る決意 を固めているルネは、戯曲によれば刺繍の道具を手にしているのだが、ペル イマンはその代りにサド侯爵が書いた『ジュスティーヌ』を持たせる。彼女 が「アルフォンスから牢屋で手渡されたあの怖ろしい物語」について語り出 すには、こちらのほうがぴたりと決る小逆具だと言えよう。  また、三島が「民衆を代表」すると言っているシャルロットは、戯曲で指 定されている場面以外にもほとんど常に影のように姿を見せる目撃者になっ ており、三幕では、前場で元の彼女の主人であるサン・フォン夫人が付けて いたペンダントを、その死を悼む喪服の胸にかけているのだ。 『サド侯爵夫人』は、むしろ西洋演劇の伝統を汲む論争劇だ。  三島は「新劇俳優が(中略)育成し継承してきた様式的演技」である「翻 訳劇演技」を逆手に取ってこの芝居を書いたわけだが、皮肉なことにそれが スウェーデン語に翻訳され、スウェーデン王立劇場の女優たちによって演じ られることにより、「ものまね」ではない芝居になった。本来の伝統の流れ に還ったのである。  ルネは「時の果て、国々の果てにまで手をのばし、あらゆる悪をかき集め てその上によじのぼり、もう少しで永遠に指を届かせようとしているあの人。 ルフォンスは天国への裏階段をつけたのです」と言う。  後女の言葉を借りれば、三島は『サド侯爵夫人』によって西洋演劇の伝統 への裏階段をつけたのだ。ペルイマンがそれを見せてくれた。