S63_3 割れガラスの上を舞う白い牧神  闇を斜めに光が切る。光の源は舞台上手奥にうがたれた細長いアーチであ る。  下手の床には、ガラスの破片がびっしりとまるで巨大な三角定規のように 敷き詰められている。ところどころに点在する大小さまざまなターコイズ・ ブルーの石。  アーチのすぐ右の壁際には、棒を無造作に立てかけたふうに、後向きの男 がひとり額を支点として斜かいに突っ立っている。見知らぬ惑星にはめ込ま れたキリコの風景だ。  蠕動する鈍い連続音とアーチから射すスモーク混じりの光に押されるよう な格好で、真っ白な男が後じさりで舞台に出てくる。ゼンマイ仕掛けと見ま ごうばかりの足取り、腕や手の動き。それともこれはアンドロイドか。  ジョージ・シーガルの人像が動き出したかのような、髪の毛も顔も白く塗 った全身白ずくめのこの男が勅使川原三郎。いま最も注目されている踊り手 だ(と、躊躇せずに言い切ってしまおう)。彼が、東京・池袋のスタジオ200で 踊った『青い隕石』(1月22日―26日)ほど果敢で美しく、また危険なダンスは 見たことがない。  生きている人間からアウトサイド・キャスティングという手法で直かに型 どりして作られるシーガルの彫刻が連想されるように、これは現身(うつし み)と影の逆説の踊りでもある。  壁に立てかけられた方の男は、グレーのシャツにベージュのズボンという 日常的な姿で生身の肌の色なのに、まるで物体よろしく終始不動、いわば死 んでいる。そして、白い影のほうが、音楽番組ニュース番組などが混線した ラジオのような音にのって生き、激しく踊るのだから。  後半で勅使川原の攻撃的なステップを浴びるのは、ガラスを敷き詰めたス ペースである。ガラスは踏まれてピシピシとさらに割れ砕け、蹴散らされて 悲鳴を挙げる。白い踊り手はそこに勢いよく両膝をつき、どうと横ざまに倒 れる。ガラスと戦い、戯れる。  ここでドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』が流れてきたのだ。ガラ スの鋭角的なノイズに締め付けられてきた私たちの耳に、その曲は渇いた咽 にそそがれる水さながらに心地よいのだが、勅使川原はそこにもひびを入れ ることをやめない。緑の野原や牧歌とは程遠い美しい荒涼を包むなんという 衝撃的な違和。だが、スティールとガラスの建築物に囲まれ、遙かな宇宙ま でもが視野に入っている現代の私たちにとっては、これこそ今ありうべき 『牧神の午後』なのかもしれない。 『牧神の午後』と言えばニジンスキー。  そう、勅使川原三郎は現代のニジンスキーなのかもしれない。そう言えば、 両腕いっぱいに大きな青い石を抱え、胎児のように体を丸めた最後のシーン の彼は、映画『ニジンスキー』で見た拘束衣を着せられ床にうずくまるかの 天才ダンサーをふと思い起こさせた。  この白い牧神は何を夢見、目覚めて何を見るのだろう。