S60_9 女の解放区  娘、姉、妹、嫁、姑、娼婦――おんな偏の文字をこうして並べてみると、 そこに世間の因襲の影がさし、なんとはなしにしんどくなる。これに「妻」 が加われば、心はもう肩こり。  井上ひさし作『頭痛肩こり樋口一葉』は、いわばおんな偏の芝居である。 中心に居る樋口夏子(一葉)ですら、ここでは、小説家である前にまず戸主 という枷をはめられた姉娘なのだった。  時は、明治二十三年夏子十九歳の盂蘭盆から、明治三十一年彼女の母の新 盆まで、一景の例外を除いていずれもそれぞれの年の盆の十六日の夕刻、場 面は一家が次々と移り住んだ貧しい借家である。  五人の女たち――夏子、母の多喜、妹の邦子、かつて多喜が乳母をつとめ た零落士族の稲葉鑛、身内同然の娘八重――が盆礼に集まる。九回の夏を経 て、彼女たちは群像として十代から六十代までを生きる。世間との関係、男 との関係において、誰もがこもごもに、おんな偏で表されるさまざまな「立 場」を背負わされ、全体が多様な「女の一生」として浮び上がる。生活苦が のしかかった女たちの修羅模様を夏子もまた生きるのだが、作家という観察 者の眼をもって、また、生きながら自らに戒名を付け「死の世界へ心を移し て」、そこから一歩退いてもいる。  生前女郎だった花蛍という幽霊が、毎年夏子の前に現れるのも、彼女がそ んなふうであればこそ。花蛍は、自分と恋人とを自殺に追いやった悪の元凶 を突きとめて、恨みを晴らそうとするのだが、世の中全体に因縁の糸が張り めぐらされ、そのせいで恋人と添えなかったのだと悟る。「いくらなんだっ て世の中全体に取り憑くなんてことはできやしない。だから諦めたのよ」と 言う花蛍と、「でもわたし小説で世の中全体に取り憑いてやったような気が する」という夏子の対照。「世間には『婦人はかくあるべし』という常識が たくさんあり」そのために「息がつまって死にそう」だったという夏子の言 葉に代表されるおんな偏がんじがらめの窮屈さを、この芝居は語っているが、 全篇にふりまかれた笑いの素と共に、作者は周到に解放区をもうけてもいる。 それは少女時代と死後の世界。  邦子を除く女たちは、冒頭で盆の練り歩き歌をうたいながら可憐な少女と して登場し、最終幕では御魂さま=幽霊として現れる。前者の場合のユニホ ームが白地の丈の短かい浴衣なら、後者の場合は純白の死装束。「女が仕合 せなのは女になる前の、世間もなければ世の中もない、あの女の子の時分だ けなのさ」「静かな、自分の心も何もかもぼうっとした物思いのないところ」 ――この二つの領域では、誰もがおんな偏から解き放たれて、のびのびと呼 吸している。その解放区と窮屈なこの世とをつなぐのが、生者と死者が寄り 添うタイムトンネルとしての盆の夜。切なさと裏腹に、不思議な幸福感が寄 せてくる魅力ある舞台である。