S60_7 デュシャン的なるもの  冬の夜のひとり寝の寒さがわびしさを、フクスケの置物や飯たき用電子ジ ャー枕もとにおいて自らいやし、銭湯でパンツどころかランニングまで洗い、 婦人雑誌の新年号付録のケバケバしい家計簿せっせとつけ、ひまができれば ポルノ映画に通い、わずかばかりの日当が頼みの綱のその日暮しの中年男。 「独身者」といえば独身貴族に連想がゆき、聞えはいいが、何のことはない、 ウジが湧いても不思議はないチョンガーが、『あの大鴉、さえも』の主人公 である。三人は、一枚の巨大な透明ガラスを依頼主の「山田さん」宅に運ぶ 途中なのだが、もう日も暮れようというのに家は見つからない。足は痛む。 手はしびれる。ヘッピリ腰の姿勢ももう限界だ! 親方の指示によれば、地 理的にはどうやら届け先に当る高い塀の大邸宅に行き着くが、勝手口には 「三条家」とある。右往左往の果てに、ようやく山田家は即ち三条家、依頼 主はかつての可憐な童謡歌手三条はるみ、いまやポルノ女優の三条ルミだと 分かったものの、玄関はなし、勝手口の扉は開かず、ノブだけすぽっと抜け て、男たちは立ち往生。ガラスを壁に立てかけて、ノブの取れた穴から中を のぞけば、男たちの眼=妄想に映るのは、ガラスの館でくつろぐ三条ルミの 有難いお姿。三人は口々に大声で「三条はるみさん」「三条ルミさん」と呼 ばわり、少年のころの美少女への、中年の今の「性女」への、熱いあこがれ を喉も裂けよとばかりに吠えたてる。その思いが通じたか、いつの間にやら 扉はぱっくりと開いており、勇み立つ三人は、大ガラスを頭上にかざし、扉 の奥の闇へと入って行く。石塀全体がするすると上昇し、「穴」の向こうは 無窮の薄明。男たちは三人ぴたりと身を寄せて、まるで阿波踊りでも踊って いるふうな軽やかな足取り手振り、子供のごとく嬉々として、その果てに消 えて行く。  人は、見えない重いものをかかえながら、あいまいな目的地に向かって、 ただひたすらに、行く。男たちの求める夢の「女」は、少女、娼婦、母―― それはまぎれもなく、マルセル・デュシャンの『遺作』が、扉ののぞき穴か ら見せてくれるあの裸体に集約されたものに違いない。しかし『あの大鴉、 さえも』はデュシャンのもうひとつの大作『彼女の独身者たちによって裸に された花嫁、さえも』が変身し、芝居として登場したものなのだ。このタイ トルからしてデュシャンの語呂合せ好みを引き継いでいるが、知的冗談の表 層からもろもろのイメージの深層に至るまでデュシャン的なるものをちりば めながら、きわめて「俗」で日常的な、しがない独り者たちの言葉によって、 人あるいは男の「今」と「普通」を浮び上がらせる。そして、謎。ここには、 いかような「読み」をも許容するすぐれたアレゴリーの深さと広がりがある。 大笑い、なつかしさ、じわっと涙、拍手。 (作・演出竹内銃一郎。秘法七番館公演。5月1日―5日。下北沢本多劇場)