H1_9 「普通の情景」の不思議さ  ピーカン照りの海辺である。  二脚のデッキチェアには海水パンツ姿の男たちが座り、ビーチ・パラソル の下のエア・マットにもながながと寝そべる男、下手には顔にタオルをかけ た男がこれまた仰向けになっており、その傍らではまだ少年といってもいい くらいの若者が膝をかかえている。  東京乾電池の三十四回公演『お父さんの海水浴』(7月20日―27日、東京・ 新宿、紀伊国屋ホール)の幕開きは、夏ともなればどこの海水浴場でも見られ るようなこんなどーってことない情景である。  彼らが喋り出すことがらも、どこそこの誰々さんがどうしたこうしたとい った噂ばなしで、どーってことない。が、やがてその話から、ごれがどこか の町内会の団体旅行だということが分かってくる。どの人物をとってもそこ ら辺で出食わすようなフツーの人々なので、この海も江の島か館山あたりだ ろうと高をくくっていると、これがなんとオーストラリアのリゾート地パー スなのだった。 「フツー」の裏側からぬっと顔を出す意外性、異常性―東京乾電池が座付き 作家岩松了の台本によって創り出してきた町内劇シリーズやお父さんシリー ズ(その第一部『蒲団と達磨』で岩松は三十三回の岸田戯曲賞を獲った)の特 徴、面白さはそこにある。  これらのシリーズを始めるにあたり、主宰者の柄本明(今回はエア.マット に寝そべるお父さん役)と岩松は「なるべくつまらない時間を切り取り、緊張 感のない、ガンバラない芝居」を作ろうと決めたのだそうだが、その結果、 実に摩訶不思議な、劇的ならざる劇が生まれた。  柄本がいみじくも「切り取る」と言ったように、このシリーズは紛れもな く「スライス・オブ・ライフ」である。だが、このタームから連想される自 然主義文学の重さ暗さは全くなく、ひたすら淡々としていてオカシイ。その オカシサは先に述べた意外性、異常性から来る。言わば、電車の窓からふと 目に留まった他所さまの家の中の光景を切り取るふうなさりげない手つきな のだが、同時に、そこに在る人間関係――夫と妻、雇い主と使用人、バーの ホステスと客、等々――のねじれに拡大鏡を当てて見せもするのだ。  登場人物ひとりひとりの輪郭が、その人間関係や状況が、つかの間くっき りしたかと思うと、次の瞬間にはもうぼやけて何もかもが暖昧になる。現に 「お父さん」にしても、みんなに「野村先生」と呼ばれているからには何か の先生らしいのだが、果たして学校の先生なのか、それとも……。幕切れも 野村の姪が溺れたらしいのだが、その後は……?  私たち観客は、極めてリアルな会話に張り付いたこうしたいくつもの「ら しい」を繋ぎながら、そのあいだを忍び笑いや大笑いで埋めながら、「平凡」 とか「普通」の反逆を目の当たりにする。  こういう芝居はクセになる。