H1_6 玉三郎の稀有な変身  その場に一歩足を踏みこんだ途端に、どこかのお屋敷の古めかしいサロン にお邪魔してしまったような錯覚をおこすハイパー・リアリズム。どう見て も漆喰としか思えない天井と壁、板張りの床、ずっしりとしたびろうどのカ ーテン、時代のついた家具調度。明りはふたつのテーブルに置かれたランプ とほこりをかぶったシャンデリアだけだ。一方の壁にはホルバインの《墓所 のキリスト》の模写がかかり、客席はその壁際と向い側の壁に沿って三段に 組み上げられたベンチである。薄闇が観客と劇を等しく包み込む。  そこがラゴージンの住む家で、私たち観客が徐々に席につくあいだ彼は苛 々した様子で部屋のあちこちを歩き回ったり、ソファに腰を下ろしたと思っ たらまた立ち上がったり。  映画監督として名高いポーランドのアンジェイ・ワイダがドストェフスキ ーの『白痴』を構成・演出した『ナスターシャ』(3月1日―4月25日、東京・ 森下ベニサン・ピット)は、劇の空間の「中」に入った観客を透明人間化する このような場の作り方が何よりもまず特異である。  舞台装置の柱時計がボン、ボン、ボン……と七つ打つと(開演は七時!)部屋 の外に足音が聞こえる。ノックに応えてラゴージンがドアを開けると、靄(も や)の像のようにそこに立っているのは白い三つ揃い姿のムイシュキン公爵 (坂東玉三郎)。 ラゴージンはすでにナスターシャを殺してしまっている。それからほぼ二時 間にわたって、汽車のなかでのムイシュキンどラゴージンの出会いからこの 劇が始まった時点までが描かれる。過去の時間が、過去のナスターシャが、 そこに「今」としてよみがえる。  玉三郎は、愚直さと聡明さの一体化としてのムイシュキンを完璧に具現し た。眼鏡をはずし白いショールを羽織ると、ほとんどひと呼吸でムイシュキ ンからナスターシャに変身する。ハイパー・リアリズムの道具立てのなかで これをやってのけるのだから、演出も俳優もただものではない。  だがこの切り替えは、言うまでもなくウルトラマンの「へーンシン!」の 大仰さとは全く無縁である。実にさりげない。そのさりげなさ自体が奇跡だ。 ムイシュキンであるときの口跡はぼうっとしていて、言わばソフト・エッジ なのだが、ナスターシャになった途端にアウトラインのくっきりとしたハー ド・エッジになる。それだけで一瞬前とは別人の驕慢で矛盾に満ちた美しい 女になりきってしまう。  玉三郎という稀有の俳優が演じることによって、ムイシュキンとナスター シャが天と地ほどに違う人格であり、同時に精神的な双生児とも言うべき共 通点をそなえていることが文字どおり一目で「分かる」のだった。  もしもドストエフスキーが今ナスターシャ』を見たとしたら、心を動かさ れるあまり癲癇の発作を起こしたことだろう。