「トップ・プレイライト」キャリル・チャーチル 松岡和子 (1992年メジャーリーグ公演『トップ・ガールズ』パンフレット掲載)  手元に一本のカセット・テープがある。イギリスのBBC・ラジオ3が、 1968年に放送した『一卵性双生児』というラジオ・ドラマのテープである。 作者はキャリル・チャーチル。  この夏ロンドンへ行ったとき、ラジオ3のディレクターをしているネッド ・シャイエさんに会った。シャイエさんは、BBCに入るまえはタイムズの 劇評を担当していて、「キャリル・チャーチルを最も早く評価した劇評家の ひとり」を自認してもいる。彼女とは長いつきあいなのだ。  私が初めてシャイエさんに会ったのは一昨年の夏。BBCラジオは翌1991 年に「ジャパン・ウィーク」と銘打って、日本の現代演劇を紹介し、何本か の戯曲作品もラジオ・ドラマとして放送したが、彼はその企画準備のために 東京に来ていたのだ。私は、別役実や唐十郎の戯曲で英訳されているのを探 したり、日本の演劇状況についての情報を提供したりと、日本側でお手伝い をした一人だったわけだが、そんな話の合間に、私がキャリル・チャーチル の『クラウド9』を翻訳し、彼女の作品に傾倒していることも話した。  シャイエさんはそれを憶えていてくれて、オックスフォード・サーカスに 近いBBCのオフィスを訪ねた私に、『一卵性双生児』をダビングしてプレ ゼントしてくれたのだった。  デュアローグ(断っておくが、ダイアローグではない。言わば「二重のモ ノローグ」)と名付けられた『一卵性双生児』は、ラジオ・ドラマとしては ほとんど常識破りと言っていいほどの、変った作りの戯曲である。登場人物 はテディとクライヴという一卵性双生児だが、その両方をひとりの俳優ケネ ス・ヘイグが演じている。テディはロンドンで妻マーガレットと暮らし、ク ライヴは田舎の農場で妻ジャネットと暮らしている。どちらにも子供が二人 づついるが、どちらの結婚生活も破綻しかけており、それぞれに愛人がいる。  テープをかけると、左のスピーカーからはテディの声が、右のスピーカー からはクライヴの声が聞こえてくるのだが、二人が同じことを考えるとき、 また、子供時代の共通の思い出を語るときなどは、両方の声が同時に重なる。 二人の記憶がずれているとき(往々にして、それぞれが自分の都合のいいよ うに憶えている)などは、同時に違う言葉が発せられる。  ジャネットが自殺したのち、クライヴは、愛人ニコラと子供たちを連れて テディのところにやってくる。二人が会うのは十年ぶりだ。周りの人間は混 乱する。「パパが二人いる!」と子供たちは叫ぶ。妻を見殺しにしたクライ ヴは、罪の意識にさいなまれ、テディの目の前で睡眠薬を多量に飲んでやは り自殺する。ところがテディは、二人が瓜ふたつであるのをいいことに、死 んだのはテディだと言ってクライヴになりすまし、ニコラも農場も自分のも のにしてしまう。  双生児の近親憎悪、性格・人格の近似と相違、思考や行動の神秘的な同時 性、そしてアイデンティティというものの不確かさなどが、ラジオというメ ディアの特徴を存分に生かし、一人の俳優のふたつの声をシンクロさせると いう破格の手法を使って巧みに描かれている。時間は35分。  キャリル・チャーチルは、オックスフォード大学在学中から舞台劇を書い ているが、プロの劇作家としての仕事は、1962年のラジオ・ドラマ『蟻』か ら始まった。  精神分析医が異性を嫌悪する薬を使って患者を治療しようとし、言わば精 神的な性転換が起きて混乱した結果になる『恋わずらい』。  妊娠中絶の手術をした女性とその夫がベッドで語り合う『中絶』では、彼 女をレイプした男に対する夫婦のアンビヴァレントな感情が浮かび上がって くる。  2010年という近未来を舞台にした『酸素が足りない……ない……ない…… ない……ない』は、映画『ブレードランナー』を先取りしたような世界であ る。高層集合住宅「タワー」での生活は、酸素スプレーが常備品。大気汚染 と食料や物質の不足、そして厳しい管理が、暗鬱で危険な気配を醸し出す。 まるでキズの入ったレコードのように、単語やフレーズを繰り返してしか話 せない女の台詞が、全体の不安感を一層強く掻き立てる。  と、これだけ例を挙げただけでも、キャリル・チャーチルの初期作品がど んなに実験性に富んでいるかが分かるだろう。  手法の果敢な実験、人間心理の謎と一種のグロテスクさへの鋭い切り込み、 現代社会に対する鋭敏な問題意識(特に女性と男性の在り方)、潜行したり 浮上したりする(時には黒い)ユーモア、そして、洗練された台詞――初期 のラジオドラマ作品に見られるこうした特徴は、舞台劇としては初めてプロ の劇団によって上演された『所有者たち』以来、彼女の作品に一貫している。  『所有者たち』は、1972年12月にロイヤル・コート劇場アップステアズで 幕を開けた。流産で入院していたチャーチルが、退院後わずか三日で書き上 げたというこの戯曲は、所有とは何か――金、家屋、子供――という問いを 突き付けてくる。一種不条理な劇世界を持つブラック・コメディ。この第一 作目から、彼女は現代英国の劇作家として最も注目すべきひとりに数えられ るようになった。  キャリル・チャーチルは1938年9月3日、恵まれた中産階級の家の一人娘 としてロンドンに生まれた。少女時代からものを書くことが好きだった彼女 は、10歳から17歳までカナダのモントリオールで暮らし、1957年から60年ま で、オックスフォード大学レイディ・マーガレット・ホール・カレッジで英 文学を学ぶ。  1958年、大学2年のときに書いた一幕劇『階下(Downstairs)』は、翌年 のサンデー・タイムズ/ナショナル・ユニオン・オブ・スチューデント・ド ラマ・フェスティバルでも上演された。  61年の結婚、63年、64年、69年の出産(三人とも男の子)、そのあいだの 何回かの辛い流産、という私生活でのドラマを縫って、先に紹介した『恋わ ずらい』をはじめとするラジオ・ドラマを何本も書いている。  『所有者たち』のあともいくつかのラジオ・ドラマに加え、『セックスと 暴力への異議申し立て』(74年)、『わな』(76年)などの舞台劇を書き、 いずれもロイヤル・コート劇場で上演された。  劇作家としての姿勢のうえでも、戯曲の書き方のうえでも大きな転機とな ったのは、1976年の『バッキンガムシャーに輝く光』と『ヴィネガー・トム』 である。前者はジョイント・ストック劇団との、後者はモンストラス・レジ メント劇団との、ワークショップを経た共同作業から生まれ、また、キャリ ル・チャーチルのフェミニストとしての立場を明確にした作品である。  ジョイント・ストックは、演出家のマックス・スタッフォード=クラーク、 劇作家のデイヴィッド・ヘアらが中心となり1974年に旗揚げした劇団だ。当 初からこのグループは集団創作で舞台を作り出してきたが、チャーチルも 『バッキンガムシャーに……』において初めてその方法を試みたのだ。  モンストラス・レジメント(「猛女軍団」とでも訳そうか)は、1975年に 創設されたフェミニストの劇団である。劇団名の由来は、16世紀にジョン・ ノックスが書いたパンフレットのタイトル「猛女軍団に対抗する喇叭の第一 声」。  『ヴィネガー・トム』は魔女狩りを主題とした作品で、病気の治療や堕胎 を生業とする女性、男の手を借りずに生活する女性、奔放にセックスを楽し む女性などが「魔女」のレッテルを貼られ、理不尽な処罰を受けるさまが描 かれている。チャーチルは、「魔女として指弾された女たちは、往々にして 社会の周辺にいた。老いた者、貧しい者、独身者、性的に因習に囚われない 者」と言い、「私が書きたかったのは、魔女の登場しない魔女についての芝 居。邪悪さとかヒステリーとか悪魔に取り憑かれることなどを取り上げるの ではなく、貧困と屈辱と偏見について、また、魔女という非難を浴びた女性 たちが自らをどう見ていたかについての芝居である」と言っている。  共に17世紀のイギリスの地方を舞台にしたこの二作には共通する要素が多 い。「時代、宗教、階級、女性の地位などについて私が学んだ多くのことが、 この二つの芝居の両方に当てはまった」とチャーチル自身も語っている。  こうした共通性、及び共同作業による執筆ということ以外にも、この二作 はチャーチル戯曲にとって大きな意味を持っている。すなわちキャスティン グ。  『バッキンガムシャー……』では、25の役を6人の俳優が演じ、『ヴィネ ガー・トム』では、2人の神学教授の役は、現代服を着た女優によって演じ られる。一人の俳優が何役にも扮すると、チャーチルが言うように「戦争や 革命といった大きな出来事では、多くの人間が同じ種類の経験をするわけで、 (多重配役という手法を取ると)その出来事の実体をよりよく映し出すこと ができる」ばかりでなく、役と役との差異が際立ち、芝居全体が活性化して 奥行きが出る。  また、配役上の性の倒錯は、役の性と俳優の性をずらすことにより、その 人物が黙って舞台に出てきただけで、役柄のステレオタイプ性の批評になる ことをはじめ、多様な効果が生まれる。第一、見て面白い。  この配役上の工夫の効果がいかんなく発揮されたのが、1978年に再びジョ イント・ストックのために書いた『クラウド9』である。  私は、1981年の秋、ニューヨークでトミー・チューンが演出した『クラウ ド9』を見た。性の制度を撃つ痛烈さ、表現の洗練、爆笑と感動の涙の見事 な混在、そして凝った配役が生み出すおかしさと鋭い批評性――すっかり惚 れ込んだ私は、東京に帰ってから行く先々でこの芝居のことを熱っぽく話し たものだ。(『クラウド9』は、1982年に藤原新平演出で、1985年、86年、 88年、木野花演出で、いずれもパルコ劇場の製作で上演された)  時代と場の設定は、一幕がヴィクトリア朝の英領アフリカ、二幕はそれか ら百年後のロンドンだが、登場人物はその百年のあいだに25歳しか年を取っ ていないことになっている。この二重になった時間のへだたりも凝っている が、配役はさらに輪をかけた凝り方だ。ここでは男性が女の役をやり、女性 が男役をやり、人形が赤ちゃんに、白人が黒人に、大人の男が少女に扮する。 そうやって、男らしさや女らしさなどの「らしさ」と役割のステレオタイプ を鮮やかにあぶり出す。ここにもまた、キャリル・チャーチルが初期作品か ら絶えず挑んできた手法の実験・冒険が見てとれよう。  手法の実験といえば、今回上演される『トップガールズ』でチャーチルが 初めて試みていることがある。台詞のレイアウトである。戯曲の第一ページ を見ると、一幕の登場人物に関する注に続いて「台詞のレイアウトに関する 注」があり、実例を挙げつつ次のように記されている。 「どの台詞も通常は直前の台詞にすぐ続くが、次の場合は異なる。  1…ある人物が、他の人物の台詞が終わらないうちに話し出す時、そのき っかけは/で示されている。  2…時としてある人物は、他の人物に遮られても話し続けることがある。  3…時としてある台詞が、直前の台詞よりもっと前の台詞を受けることが ある。その続きぐあいは*印によって示されている」  考えてみれば、私たちの日常会話では、いや、相手の話をきちんと聞いた うえで話し出すべき討論の場ですら、この注に記されているようなことは絶 えず起こる。むしろその方が会話としては自然だとすら言える。チャーチル は、『トップガールズ』以降のすべての作品にこのレイアウトを取り入れて いる。  『トップガールズ』がロイヤル・コートで初演されたのは1982年だが、リ ンダ・フィッツサイモンズが編纂した『チャーチル調書』の年表によれば、 執筆にかかったのは1980年。現代イギリス第一の「トップガール」、マーガ レット・サッチャーが首相に就任した1979年の翌年に当る。作品執筆の背景 について、チャーチルは次のように語っている。  「この芝居の誕生は、右寄りの女性首相を持つという時代思潮と深く関わ っています。それにはずみをつけたのは、三年ほど前のアメリカ訪問です。 そこで何人かの女性に会ったのですが、彼女たちの話題は、いまアメリカの 会社で女性がどんどん進出していることが、そして、機会が均等になってい ることがどんなに素晴らしいか、というものでした。確かにそれもフェミニ ズムの一端でしょうが、それでこと足りるとは思わない。私に言わせれば、 右寄りのフェミニズムなどというものは存在しないのです」  キャリル・チャーチルは、常に過去と現在の両方を視野に入れた広いパー スペクティヴで作品を書いてきたが、『トップガールズ』はその好例である。 『クラウド9』と同じように、一幕は過去の世界、二幕は現代になっている が、一幕の登場人物は東西両洋の歴史上・芸術作品上の女性たちだ。一、二 幕を通して登場するキャリア・ウーマン、マーリーンの重役昇進を祝う空想 のディナー・パーティー。二幕に至って、彼女が社会的進出を果たした裏で 何が犠牲になったかが明らかになる。多様な女の生き方を提示して、女性に よる、女性のための、女性についての問いかけがなされている。  このように、キャリル・チャーチルは、作劇法の工夫や劇芸術としての完 成度の高さを目指しながら、その一方で社会や政治の関心も常に研ぎすまし ている。  最新作の『狂った森――ルーマニア発の劇』(90年)もまた、そうした芸 術性と社会性が見事に融合した作品であり、共同作業の結晶である。ただし、 今回の共作相手はルーマニアの演劇人。  1990年3月、キャリル・チャーチル、演出家のマーク・ウィング=デイヴ ィ、舞台装置家、照明家、舞台監督、そしてロンドンの演劇学校、セントラ ル・スクールで演技の勉強をしている10人の学生たちはブカレストを訪れ、 ルーマニアの俳優学校の学生たちとコラボレーションを行った。  三幕劇『狂った森』は、チャウチェスク政権を崩壊させた1989年12月の革 命を、「普通の人々」の側から描いた作品である。  一幕は革命前夜のふたつの家族――夫が電気技師、妻が電車の運転士をし ているヴラドゥ家、夫が建築家、妻が教師のアントネスク家――のスケッチ だ。ヴラドゥ家の娘で看護婦のフロリーナと、アントネスク家の息子で美術 大学の学生のラドゥは恋人同士、劇中では、革命後に結婚する。二幕は、革 命が起こった12月21日と22日にどこで何をしていたかを、学生、兵士、花売 りの女、ペンキ屋、秘密警察員、画家、翻訳家といった多種多様な人々が順 ぐりに語るドキュメンタリー・タッチ。三幕は革命後で、再び一幕のふたつ の家族が登場する。  「我々がやったのは革命か、それとも暴動か? 21日に銃撃していたのは 誰なんだ? 軍隊か、それとも軍隊の制服を着た秘密警察か? 何より肝腎 なのは、テロリストと軍隊は本当に戦っていたのか、それとも戦っているふ りをしていただけなのか? そして、誰のために? そして、誰の命令で?  あれだけの旗はどこから持ってきたのか? 広場にラウドスピーカーを置 いたのは誰なんだ?」――革命とその前後(チャウチェスク夫妻の処刑も含 む)の出来事についての素朴な疑問。政権は交替しても、主要な情報が庶民 から隠ぺいされていることに変りはない。  革命を境にした価値観と行動規範の転倒、歓喜と幻滅、そういったことど もが、時に家族の中の死者を蘇らせ、時にルーマニアとは切っても切れない (?)吸血鬼を登場させてファンタジーの要素を加味し、なまなましく、力 強く、アクチュアルな視点と普遍的なパースペクティヴを併存させつつ描か れる。  ともすれば卑怯未練に走り、すぐさま体制に迎合し、ひとりひとりが社会 の腐敗の種を内包している――そう言いたげなチャーチルの醒めた人間観は、 苦く痛烈だが、彼ら(我ら)のささやかだが熱い夢を語ることも忘れない。  『狂った森』がどんな演出でどんなふうに演じられたのだろうと興味は尽 きないが、読むだけでも実に面白い。そして、キャリル・チャーチルという 劇作家の技量の大きさを改めて感じさせるちょっと冴えた作品だ。  今年の夏のロンドン行きでは、いい舞台をいくつも見ることができたこと、 『一卵性双生児』のテープが手に入ったことのほかに、もうひとつ大きな収 穫があった。シャイエさんの口添えで、キャリル・チャーチルその人に会え たのだ。  キャリルさんが電話で教えてくれたとおりに、スイミング・プールを目印 にして住所を探す。もうひとつの目印の広場はすぐに見つかった。  円形の広場は薔薇庭園になっていて、それをぐるりと取り囲むように古い 造りのフラットが並んでいる。教えられた番地はこのあたりかな、と目を向 けたフラットの前に牛乳配達のヴァンが停まっていて、牛乳屋さんがイギリ ス独特の大きなガラス瓶を二本、そのドアの前に置くのが見えた。去年の夏、 バービカンで見たシェイクスピアの『間違いの喜劇』にも、牛乳配達が家々 のカラフルなドアの前に瓶入りの牛乳を置いてまわるシーンがあり、心の中 で思い出し笑い。と、そのフラットの窓枠に毛並の長い白黒の大猫が鎮座ま しましているのが目にとまる。鼻のあたりは、お正月の羽根つきでしくじっ た罰に墨を塗られたように、べちゃっと黒い。「あ、ネコ!」と思わず声を 出した途端、その窓の奥でこちらに向って大きく手を振っている女の人の姿 が目に飛び込んできた。それがキャリルさんだった。  フラットに招き入れられ、初対面なのにすぐさまくつろいだ気持ちになっ たのは、この素敵なアプローチのお蔭でもあったのだが、それだけではない。  キャリルさんの笑みをたたえた大きな目、その目にこぼれかかる白髪まじ りのストレートな髪、ストンとしたデザインの生なりの白のブラウスにジー ンズというシンプルないでたち、なんとなく雑然とした温かみのある室内― ―何もかもが心をなごませてくれたのだ。  あれだけ知的な芝居を書く人だから、ちょっと近寄りがたいのでは、と実 は内心いささか不安だったのだが、シャイエさんの言ったとおりとても「親 しみやすい(approachable)」人柄。  フラットの中にももう一匹美しいサバ猫がいて、おばあさんネコだという のにひどく若く見える。名前はカーリー。ヒンドゥ教の破壊の女神カーリー にちなんでつけた名前だそうだ。子猫のころ、あっちへ走りこっちへ走りし ていろんなものを壊したからなの、とキャリルさんはキッチンでお湯を沸か しながら笑う。さっきまで外の窓枠に座っていた黒白ちゃんも入ってくる。 こちらは男性で、名前はスパイク。やはり元気でスパイキー(短気)だった のが名前の由来。  キャリルさんが大ぶりのマグにいれてくれたミルクティーを飲みながらお 喋りしていると、演出家のレズ・ウォーターズが二人の子供を連れ、哺乳瓶 やお絵描きの道具を抱えてやってきた。下のお嬢ちゃんはまだおむつがとれ ていない。レズの奥さんは衣装デザイナーで、目下エジンバラ・フェスティ バルの仕事で留守なので、子供の世話は彼が引き受けているという。ジーン ズの上下、バスケット・シューズ、もしゃもしゃの金髪というレズにも、親 近感を覚える。ふたりとも、気さくでてらいがなく、誠実な人柄がにじみで ている。  話題はもっぱら日本での『トップガールズ』の公演のことだったが、先に 述べた台詞のレイアウトに話が及ぶとき、キャリルさんが言った。  「日本人は礼儀正しいから、人の話を遮ったり、途中で割って入ったりは しないんじゃありませんか? 『トップガールズ』の女性たちは、日本の観 客には礼儀知らずに見えるんじゃないかしら」  私が「いえ、そんなことはありません。特に女同士の気のおけないお喋り では、みんな我先に話そうとしたり、おんなじですよ」と答えると「そう、 よかった」とほっとしたような笑顔を見せる。  謙虚で人間的な愛らしさを失わない人。  この日キャリルさんは、いつなんどきご長男に二人目の赤ちゃんが生まれ るか分からないということで、胸をときめかせていた(リハーサルのために 東京入りしたレズに尋ねると、新しいお孫さんは男の子だそうだ)。  キャリル・チャーチルの劇では、観念の世界と日常世界が見事に融け合っ ているが、それと同じように、彼女の創造生活はしっかりと生活に根を下ろ していると見た。  キャリル・チャーチルは本物のトップ・ガール、正真正銘のトップ・プレ イライトである。