『忘れの構造』・1

戸井田道三 ちくま文庫

 

記憶力がもっとよければ、テストの点も良くなるだろうな。

学生時代、そう思ったことが全然「ない」人は、きっと、少ないのではないでしょうか。

定期テストにも入学試験からも解放された今では、覚える努力を放棄して、

「どこを探せば分かるか?」だけを、把握しておくようになりました。

ずいぶんズボラな話ですが、でもこうすると、ぶ厚い辞書のすべてが、

自分の知識庫と化します。いい気分です。(^^;?

 

とはいえ、何かを思い出せないと、ああ〜、私って・・と嘆くことは、今でもあります。

でも、この本は・・この本の著者は、そんな常識を、ちょっと、裏返してくれます。

「忘れること、忘れていることにこそ、大事なことがある」 と。

 

たとえば、『源氏物語』について・・

 

「口承文芸ではなく、紙に筆で文を書く時代に、毛筆のおさえたり浮かしたり、

のばしたり止めたりする流麗なひらがな(原文傍点)の書き心地を実感できなかったら

あの文章は書く可能性がうまれなかった。それは文体という身体であろう。

書く人自身は忘れている。」(「内と外の間の漠然とした領域」より)

 

ちょっと分かりにくいかもしれませんが、要するに、自分では意識していないけれど、

どんなものに、どんな筆記具で書くか、それによって、文体が違ってくるんじゃないか、

というのです。そして、そのことを自分では意識していないことが、重要なんじゃないか、と。

 

私は・・何かしらの「創作もの」、たとえば詩とか短歌も含めてですが、

そういったものを書くときは、まず最初に、紙に書くのが好きです。

筆記具は、先の丸いエンピツなんかが、最高です。

紙は、手近な切れ端のこともあれば、ノートのこともありますが、

とにかく、紙に、手で書きたいです。

ワープロもパソコンも、もちろん使うし、便利で、

今も、じつはこの文章は、パソコンで打っているのですが・・(^^;

 

ワープロやパソコンだと、何がイヤかいうと、変換が、うっとおしいようです。

こちらが考えてもいないような漢字を、突然見せられるのがイヤなんです。

頭の中にある世界を一生懸命に追いかけているときに、

急に、現実に引き戻されるような気がするらしいです。

 

その一方で、いま書いているみたいな文章は、

ワープロやパソコンが書きやすいです。

自分の思考の速度に、キイがついてきてくれる。

これが、紙に書くとなると、まどろっこしくて、字にならないです。

編集や書き直しも自在なので、便利でもあります。

 

・・そう考えてくると、私にとっては、感性を重視するときは、まず、手書き。

論理性を重視したいときは、機械打ち・・ってことに、なるのかな。

でも、もしかしたら逆? の人も、いるかもしれません。

そういうものについての、アンケートとかあったら、面白いかな? と、思います。

世代でも違うかもしれない。

私が手書きが好きなのは、そういう時代が長かったせいかもしれないです。

 

ああ、まだもうひとつ、別のことで、書きたいことがあったんですが・・

長くなったので、今回は、これで。(^^)

 

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