(吹く風を心の友と)
〜中原中也 未完詩篇より〜
あるとき、ふと詩を書きました。
*
私はあなたに ただ恕してほしかったのです
ゆるすという字は「許す」ではなく
私はただあなたに 「恕して」ほしかった
悪いのは私
悪いのはこちらだったとしても
それがもうとっくに過ぎたことで
どうがんばっても償うことができないことであるのなら
私はただあなたに 恕してくださいと願うしかなかった
恕すよりほかにどうしようもない
人と人との関係もあるということを
私はただあなたに 分かって頂きたかったのです
*
この詩は、ボツにしました。
(いろいろ、事情があったのです。)
ただ、私が言いたかったのは、私がいつも「ゆるす」ということを、
「許す」ではなく「恕す」と考えてしまう、ということです。
いま、この文を打ちながら、「ゆるす」と書いて変換を押しても、
「赦す」は出てきますが、「恕す」は出てこない。
「恕」という字を辞書でひくと、はじめて「ゆるす」という読みが出てきます。
意味は「おもいやり。いつくしみ。」
「恕す」は、「他人を思いやって、大目にみる。寛大に扱ってとがめない。」
(『漢検 漢字辞典』より。)
この字に最初に出会ったのは、中学生のとき。
中原中也の詩の中でした。
国語の教科書に載っていました。
「恕す」という言葉は詩の最後のほうにあって、
そのあとに、あの童顔が、白黒写真で付いていました。
授業中退屈したとき、何度も眺めた、あの顔です。
私はなんでもすぐに忘れてしまうので、詩の題名は覚えてませんでした。
ただ、「恕す」という言葉と中也の顔が、セットになって記憶に残りました。
なんという題名の詩か、全体がどんな詩だったかもぼんやりとしたまま、
「恕す」という言葉だけが、しっかりと、私の中に残ったのです。
中也の詩は好きだったので、詩集も持っていました。
でも、その中にその詩は、載っていませんでした。
その詩を見つけたのは、最近です。
それは、未完詩篇の中にありました。
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吹く風を心の友と
口笛に心まぎらはし
私がげんげ田を歩いてゐた十五の春は
煙のやうに、野羊のやうに、パルプのやうに、
とんで行つて、もう今頃は、
どこか遠い別の世界で花咲いてゐるであらうか
耳を澄ますと
げんげの色のやうにはぢらひながら遠くに聞こえる
あれは、十五の春の遠い音信なのだらうか
滲むやうに、日が暮れても空のどこかに
あの日の晝のまゝに
あの時が、あの時の物音が經過しつつあるやうに思はれる
それが何處か?──とにかく僕に其處へゆけたらなあ……
心一杯に懺悔して、
恕されたといふ氣持の中に、再び生きて、
僕は努力家にならうと思ふんだ──
(『中原中也全集 第2巻 詩2』 角川書店より)
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全文引用、お許しを。m(_)m
タイトルにかっこ( ) が付いているので、本人が付けたタイトルではないんだと思います。
でも・・・
そうなんです。
お気づきだと思いますが、このタイトル。
なんと、似ていることでしょう。
私は、たぶんこの詩から、自分のHPタイトルをつけたんです。
タイトルをつけたときは、そんなこと、少しも思い浮かびませんでした。
十五の年の出会いが今まで、意識の奥で生きていたんだと思います。
好きなフレーズだったんです。
HPを開いて2年以上経ってから、
突然、ふと気が付いたという。 ・・少し間抜けな、お話でした。
(2002年秋)