離婚
|
■それぞれの不満が爆発したお正月■ それぞれの持っていたものが大爆発を起こしたのは、大晦日から正月元旦にかけてだった。ささいなことが原因で夫は出て行く。ひっくり返された年越しそばだけが残った。 年が明けて帰ってきた。 代わりに私が家を出た。いっしょにいたくはなかった。そのころ住んでいたマンションとは別に、以前住んでいた病院の住まいがそのまま残っていたのだ。子どもたちはすでに寝ていた。 大量の睡眠薬をのみ、何もかも忘れてしまいたかった。 夜が明けた正月元旦には、2人の子どもを連れて夫は実家に帰っていた。昼過ぎに舅から電話がくる。その前に夫は寝ている私の様子を見に来ているのだ。睡眠薬を飲んでいることも知っていたし、医者なのだからそれがどのような状態かもわかっていたはずだ。夫は私に罰を与え、見せしめにし、舅や姑の力を借りて懲らしめたかったのだろうか。その頃、正月には夫の実家に帰るのが当たり前の事だった。長男の嫁が、いかなる理由があろうと正月顔を見せないなんて、彼らには耐えられない屈辱だったのだろう。 子どものことも気になったし、良い嫁を演じなければならないと思っていたので、無理をしてタクシーを飛ばした。 しかしそこで起きた事は、舅との大喧嘩。今日はこのような状態なので子どもを連れて帰ります、と言ったとたん、舅は怒鳴り始める。子ども達は取り上げられ連れて行かれる。夫の妹が子ども達を抱えて「私が育てます」と言う。夫はうろたえて救急車を呼んだり、パトカーを呼ぶばかり。あの家庭を侮辱する人は皆そうされてきたのだろうか。 舅は、2階に子どもを連れに行こうとする私を力ずくで押し止め、笑いながら言った。「暴力はいかん、暴力は」。姑はありとあらゆるこれまでの不満をぶつける。「あれもこれもしてあげたのに、全くあなたって人は…」 狂っていた。すべてが。 舅や姑は自分に服従しないものに腹を立てていたのだと思う。嫁としてではなく個人として振る舞う私が嫌だったのだ。彼らは地位や名誉のある、すべての人々に君臨している人々だった。 その日は私の両親が来て、子どもといっしょに私を連れて帰る事になったが、私は実家になど帰りたくはなかった。父の車から途中で降りてタクシーを拾い、自分のマンションに帰った。誰からも離れて、ひとりになりたかった。そして本当にひとりぼっちだった。 夫からその後連絡はない。 後に聞いたところによると、舅は夫に「本当にいいんだな」と念を押した上で「後はおれに任せておけ」といったそうである。 舅はその次の日私の実家を訪れ「離婚という事に…」と私の両親の前で言ったそうだ。 私の父はそのとき何も言わなかったと言う。「本人達のことですから」と。 |
|
■おとしまえ離婚■ それから夫とは1度も話す事なく、離婚になった。仲人も間に入ったが、舅の意向が絶対で如何ともしがたいという事。夫の意志は、彼のはんこが押してある離婚届を見た時にわかった。彼の筆跡で彼が署名捺印した離婚届。他の欄は空欄だった。離婚する意志だけがあり、条件はあなたの言う事に従います、という事か。 彼の核の部分は、彼の実家にあった。特に彼の父親に対する畏敬の念は、私にはどうする事もできない、決して立ち入る事のできない領域だった。それは決して愛されたことがなかった夫の、父親に認められたい母親に認められたいという心の叫びだったのかも知れない。 しかし夫は離婚届を出さなかった。彼のなかでもまだやり直しということが頭を離れなかったらしい。ただし、親の認める範囲で。 離婚届を出したのは、その後舅の目を盗んで私と会い始めた彼が、ちょっとしたことで私に腹を立てたときだ。だから私は正確な離婚の日にちを知らない。 ここで彼が離婚届を出したことで、私は舅や姑とのつながりを断つことができた。 |
|
■子どもを手放す■ 離婚は仕方がないとしても、子どもの事では相当悩んだ。離婚は子どもをどちらかの親から引き離す。 周囲は皆「子どもは置いていった方がいい」と言う。それがあなたの為だから、と。その頃私はまだ若かったし、子どもがいないほうがやり直しがきくということだ。それに夫の元にいたほうがお金にも困らないし、学校だって好きなところに行けるのよ、とも。 悩んだ。悩みに悩んだ。悩んでいる時にも彼らはいつものように私のそばにいた。前と変わらず泣いては吐き、わがままを言い続ける彼らが…。 が、ある人からの1本の電話で、私は子供たちを彼に託す事を決心する。 「ねえ、子ども達は置いていきなさい。好きな時に会ってもいいんだし、必ずいつかはとりもどせるんだし。置いていった方が、彼らに、子育てってどんなに大変か教えるいい機会になるよ。それに彼らだって子どもはかわいし、孫はもっとかわいい。絶対に悪いようにはしないわよ」 その時、そうか、夫婦は別れてもこの子たちの母親であることに変わりは無い、いつでも会っていいんだ、ということに気がついたのだ。しかし夫や舅は子どもに合わせてはくれなかった。「この子達が大学生になった頃に」と舅は言っていたという。 子どもを捨てるような母親。これが私に張られたレッテルだった。 子どもを手放してしまった心の裏には、長年の疲れと、少しは自分に戻って私を開放したいという思いと、あなたたちで見れものならこの子達の面倒を見てご覧なさいよ、などという複雑な入り組んだ思いがあったのだと思う。 心身ともに疲れていた。 子ども達を手放した後の事など、考えるゆとりが全くなかった。 2月5日、子ども達は夫と舅と姑のところに行ってしまった。彼らは、これから母親には会えないなんてことは全く知らず、ただ遊びに行くつもりで、夜には母の元へ帰ってくるつもりで、元気に出かけていった。ボストンバッグ1つの荷物と共に。「ママ、いってきまちゅ」と小さなお手手を振って。勿論、長女は籠に入ったまま、何もわからずに。哺乳ビンとミルクを籠の後ろに乗っけて。 それから私は6ヶ月間、赤ん坊を見ていない。彼女を次に見た時には、もうお座りをしていた。歯が生えていた。 長女が8歳になった今でも手放していた頃のことが尾をひく。その6ヶ月間は、何をしても、どう頑張っても埋まらない。私にとっての生涯の課題となってしまった。 先日長男が「かあちゃんと一緒にいた9年半」という言い方をした。「なんで?あんたは10歳じゃん」「だって半年間離れていたからね」。 子どもたちにとってもこの半年間は大きなとげとなって心のどこかに引っ掛かっているようだ。 |
|
■縁というもの■ 子ども達を手放した翌日に引越し。私は見つけておいたマンションにひとり分の荷物を運んだ。 引越し業者で配置された人たちの中に、私が中学校の頃教えていた生徒がいた。 「先生、こんな荷物を運んで、離婚でもするの? 」 「そうだよ」 初めて第三者に私の離婚の事を話す。教師と生徒という立場を離れて話す彼との他愛もない会話が、少し、私の心を慰めてくれた。 離婚という現実にであって初めての社会との接触だった。 それから暫くして、私は弁護士事務所に勤める。 「縁」というものがある事を私は信じている。私が離婚で苦しんでいた時、弁護士事務所の求人を偶然新聞で見つけた事や、他にも沢山の応募があったのに採用された事、そこで3人の弁護士や2人の事務員、そして何より、多くの事件に出会えた事は、全く「縁」以外の何ものでもなかったのだと、今では思う。 離婚に対する考え方は3人の弁護士それぞれみな違っていた。私の雇い主である長老の弁護士は「君、安易に裁判なんてしてはいけないよ。君の心の中に旦那さんや子ども達の事があるうちはいけない」と言い、鷹派の正義派弁護士は「裁判して慰謝料をちゃんともらうべきだ」と言い、私に1番年の近いよく相談していた弁護士は「僕が旦那と話をする。弁護士としてではなく、友達として」と言ってくれた。 広く社会というものを、私はそこで見る事ができた。離婚なんてたくさんある事を知り、いろいろな事件がある事を知った。そして何より、自分の気持を晴らす事なんて、お金でも法律でもできない、自分の気持を納めるのは自分にしかできない、事を知った。相手を許す許さないなんて事はもともと無いことを知った。すべて自分の問題なのだ。 |
|
■子どもをこの手に■ 「考えても仕方のない事を考える事の空しさを知った」と子どもを手放したある母親が取材で答えてくれたことがある。でも当時を振り返って、私はその意見には反対だ。絶対に諦めない事だけが次の道を開く、と私は信じている。 私は絶対に子ども達を取り返したかった。その為にはできる事なんでもする。一度手放したからこそ、私には絶対に子ども達が必要な事がわかった。離れてはいられない事がわかったのだ。夫に対してもそれは全く同じ気持だった。私は彼を愛していた。その頃はまだ。 やり場のない思いで、何度も自殺未遂をして最後には元夫によって精神病院に入れられた。仲人といっしょに私の荷物を運び出した時、出て行ったときそのままに残っていたおもちゃに手を合わせ小さい子ども達の幸せを祈った。私にできうる限りの養育費を送り続けた。家を出てからは、連絡が取れて頻繁に会う事ができた夫に、子どもを帰してくれるよう頼み続けた。長男が行っている保育園も訪ねた。ちょうど彼は寝ていて、寝顔を見て帰った。涙が帰りのタクシーの中でもあふれてあふれてとまらなかった。 6ヶ月後、夫は子ども達を連れて彼の実家を出てきた。舅に罵倒され、ののしられ、背中を蹴られて。 それからまた、子ども達との生活が始まった。 勿論、夫とは一緒には暮らさない。籍も入れない。事実上の通い婚、だった。 弁護士事務所は、先生の理解があって辞める事ができ、私はまた専業主婦となる。夫の病院を手伝いながら。 そんな生活が2年半ほど続くことになる。 |
|
■離婚から復縁まで■ それまではずっと、他人の目を気にして暮らしてきた。人の評価が自分自身の評価だった。それが、離婚や復縁をきっかけにまったく気にならなくなってきた。 人は私が思っているほど、私の事を気にかけてくれてはいないものだ。彼らは、他人の不幸をとても喜ぶが、他人の幸せに対しては興味を持たない。離婚して子どもを手放して散々不幸だった頃、あれこれと手を焼いてくれた人々は、私が元通り落ち着くと、あまり近寄ってこなくなった。 籍が入っていようがいまいが、一緒に暮らしていようがいまいが、それは人々の関心を誘わない。 立ち直った私が、それまで通り平和に子ども達と暮らしている事、それが人々の関心を引くのだ。 それまで私の幸せは全て夫のおかげで、自分は何もしていないという事がとても引っ掛かっていた。しかしそんなことどうでもいいことだったのだ。例え、生活費は全て夫が出していたとしても、私には役目があった。それは単に子どもを育てるとか、家事をするとかではなく、私の存在そのものが皆に必要とされている、という確信だ。 子どもは保育園に行っていても、塾にやらなくても、料理を手抜きしても、1日くらい掃除をしなくても、皆が生活する上では、全く支障のない事に気がついた。そのころからようやく我家に「生活」というものが存在するようになる。 と同時に、それまでのホテルのような、モデルルームのようなマンションを引っ越す事にした。広い庭の1戸建てを契約。築25年のその家には、私が少女時代を過ごした時と同じ空間が残されていた。庭は百坪あり、四季様々な木々や球根や草花の種が息づいていた。 家を借りてすぐに3人目の子の妊娠に気付く。ずっと欲しかったのだが1年くらいできなかったので、半ば諦めていた時の妊娠。 生む事には全く悩まなかったが、籍をどうするか悩んだ。 私は離婚の際、子どもも手放した事だし、旧姓に戻していた。上の2人の兄姉との生活に支障はないが、今度生れてくる子どもの姓が私とは同じだが兄姉と違ってしまう。兄弟でいて父親も母親も同じなのに姓が違うなんて。 結婚とか籍には全くこだわらなくなっていたものの、やはりそれはまずいんじゃあないかと、随分考えた末再び籍を入れることにした。 生活自体は何も変わらない。 2人目の子どもを早産している私は「子宮膣管無力症」と診断され、手術を受ける事になった。子宮の入り口および膣が、子どもの成長で大きくなる事に耐えられず、途中で開いてしまう。だから安定期の5ヶ月に入ったら、閉じてしばってしまう、というものだ。 10月にその手術を受け、一週間入院した。大した事はないと思っていたが、3日間はベッドに縛り付けられる、大した手術だった。 そしてその頃、夫は彼女に夢中になっていく。 |
|
結婚していた間ずっと続いていた陣痛は、この離婚をきっかけに社会性というものを生み出しました。誰が正しい、誰はおかしい、なんてことはない。すべてが違っていて当たり前。人にも様々な側面があり、光が当たる方向で全く異なる表情を見せる。広い世間や人は知れば知るほど面白いし興味深いものでした。 この離婚でのすべてのことが、現在の私の生活の基盤です。世の中に偶然は無いし、すべてのことがつながっているのです。 |