私の結婚

(かなり長文です)


 私は昭和37年生まれ。日本の高度成長と共に育つ。公立小学から国立の中学に進み、県立高校を卒業し大学で心理学を学んだ。

 勉強は得意ではなかったが、何とか教師になる。教師なんて大っ嫌いで、法学部に進んでマスコミの世界に入る事が夢だったのだが、ある日見たTVドラマ「熱中時代」が私の進路を変えた。「先生って素晴らしい、私にピッタリかも」。ある意味教育学部ならば二次試験でそんなに勉強しなくてもすむというずるい心が働いたのかも知れない。

 教師の仕事はやり甲斐もあり楽しかった。しかしその一方で大きくのしかかってきた問題「結婚」。私はもてない訳ではなかったが、プライドが邪魔をして人より善い条件での結婚を望んでいたのだと思う。そう、私は常に「私はみんなとは違う。皆よりもっとすごい事をして驚かせてやるのよ」と思っていたようだ。

 また、小学5年生の時に、好きだった先生に手相を見てもらい「お前は初恋の男と結婚するよ」といわれた事がずっと頭の中にあったのかもしれない。 初恋の相手と結婚するんだから、下手な相手と恋愛してはいけない。


 婚した相手は医者で、自分の病院の開業をまじかに迎えていた。その父親と母親は実業家。ついでに妹も実業家だ。後に実業家になる弟は、その頃はまだ学生だった。ちょうど私の父もその職業としては頂点を極めていて、まさに、夢見た通り私が絵に描いた通りの結婚だった。

 結婚式の招待客は400人、様々なジャンルの招待客、凝ったプログラム、私はその時まさに主人公だった。

 私は夏休みに通っていた病院で、そこの医師である夫に見初められ、彼からの猛烈なアタックの結果結婚したのだ。2度目のデートで結婚を決め、5ヶ月で結納、9ヶ月後の結婚式だった。なにも知らない出発。結婚後暫くして私は、全く違った世界でひとりぼっちの自分を発見する。


 その頃、夫の病院の上に住んでいて、私は転勤で僻地の学校に変わったばかり。通勤時間は毎日片道1時間半だった。

 学校という職場は始業時間が早い。8時に間に合うように6時半には家を出なければならない。夫の病院は9時半から 7時まで。しかし彼は夕食後たいてい出かけていった。帰りは必ず午前様。開業したてでこの先の不安もあったのだろうし、毎日患者さんだけとしか接していないと、どこかで誰かと付き合いたくもなる。

 結婚したばかりでそんな生活が続く。夜、何もする事がなくひとりをもてあました。ずっとひとりだった頃は、全く気にもかけなかったのに、ふたりになってからの独りの時間の方が長く感じられる。

 彼が帰ってくるとほっとして布団に潜り込む。しかし午前2時に寝て午前5時に起きる生活が長続きするはずがない。だんだんと遅刻が多くなり、欠勤も増えていった。 

 けんかも増える。

 結婚したとたん生活に埋もれてしまうのが嫌だった。私はふたりを中心に結婚生活を考えていたのに、夫は自分の生活の中に私という存在が加わっただけだった。すれ違いではなく根本的な考え方の違いだったのだ。私の方に「何かをして欲しい、幸せにして欲しい」と依存する気持ばかりがあり、自分は一体どうしたいのか何をしたいのかが、全くなかったのだと思う。

 口を開くと愚痴ばかりになるので、彼の両親とも上手く行くはずがない。彼の周りは独立した、自営業の代表者ばかりだった。皆、我慢して苦労してやってきたのだと、口をそろえて言う。私はそんな話なんて聞きたくなかったのだ。「そうなの、彼ひどいわね。こんなに可愛い奥さんの事をほったらかして。私が言ってあげるわ。」そんな言葉ばかり期待していた私は、全くの子どもだった。


 子どもができて、仕事を辞めた。

 切迫流産でずっと入院していたので、辞めた時、周りはみんなほっとしたらしい。惜しまれて辞めるのではなく、皆が辞める事を望んでいた事に傷ついた。

 初めての就職、初めての社会、初めての恋愛、そして結婚。その環境の変化はとても大きいストレスだ。仕事を辞めて、とにかく1日中寝ていた。眠くて眠くてたまらなかった。おなかもどんどん大きくなり、そのおなかを抱えて丸くなっていた。

 私がいつもころころ寝ていたのが、彼にはたまらなく嫌だったらしい。

 「だらしない、ちゃんと、きちんと」母に言われつづけた言葉を今度は夫が言うようになった。

 彼には「奥さん」が必要だったのだ。自分が脱ぎ捨てたものを片づけ、散らしたものを整理し、食事や洗濯掃除アイロンすべてをきちんとやり、生活の為や仕事の為に、自分にとって必要なサポートを、TPOを踏まえて的確にこなす。それが彼の求めた妻だった。家柄や職業、社会性や環境が、彼を支えていたプライドだ。それにふさわしい妻。時には割烹着姿で茶殻を撒き、ほうきで掃除をする姿であったり、時には颯爽とスーツ姿で出かけるキャリアウーマンであったり、エプロンがけで鼻歌を歌いながら料理をする新妻であったり、大勢の中でにこやかに人と談笑するパーティの花であったり。また、夜には、恥じらいつつも大胆な女に変わり、話をする時には、男の心が読み取れるホステスであらなければならなかった。


 難産で長男を産み、母親になる。

 私は母親になっただけなのに、周りはそうは捉えてくれない。全くうるさいことこのうえない。

 「長男の長男だから」つまり跡取りというわけ。お祝いはひっきりなし、お客もひっきりなし。行事もひっきりなし、指示指図もひっきりなしだった。

 その頃ちょうどバブルの絶頂期で、日本中が好景気に浮かれていた。全て順調だったし「望月の欠けたる…」の心境だったのかもしれない。

 その子はその子としての人生を始めたに過ぎなかったし、私はその子を産んだに過ぎない。でもその子は生れながらに跡取りで、事業家の孫で、医者の子だった。私はまたいろんな人の期待に添うように母親役をし、その子をみんなの期待に添うように育てなければならなかった。

「商売人の孫が人見知りなどしてはとんでもない」

「父親の跡取りになるには、勉強ができるようにならなければ」

「アトピーなんてならないように」

「もっと、もっと、もっと…」

 お金はあったし、暇もあった。子どもの為という大義名分もあった。育児しかする事がなかった。のめり込むのは、当然だったかもしれない。 

 育児を頑張っている母親の役は、ある意味楽しい。

 着飾らせる、塾にやる、スイミングもさせる、お散歩に行く。

 全て「子どもの為」「子どもがいるから」。

 でも自分には何もなかったのだ。夫の地位により守られ、夫の収入で生活し優遇され、夫の子どもとして子育てし、夫の妻として社会に存在していた。

 私は一体何?自分に何もない事を、その頃は直視できなかった。自分には何もない事がわかったとしても、おそらく何もできなかったと思う。夫も私の事を同じように思っていた。「お前が何を言ったりしたりしても、結局はすべておれのおかげだろう」と。

 美人でお金持ち、賢くて可愛い子どもを連れた、お医者さんの奥様。これがその頃の私だった。

 2年後、市内の豪華なマンションに引っ越し、長女を産む。

 夫婦関係はその頃とても悪く、彼を取り巻くほとんどの人の評判も悪かった。

 「あんな暮らしをしていて、何で不満ばかり言っているんだ?」

 「全て、御主人のおかげなのにね」


 長男が1歳半の時に次の子を妊娠。子どもができれば、相手が変わる、単純にそう考えたのだ。相手を変えることしか考えられなかった。

 当時離婚は考えた事がない。言えばどうにかなる、なんとかなる、自分の主義主張ばかりを押し通そうとしていた。長男は両親のけんかばかり見て過ごす。子どもの事を考えるゆとりもなかったし、子どもだけに夢中にもなれなかった。それは夫が家庭を顧みないせいではなく、常に主人公でありたかった私と、どうしても自分が主人公になれない現実とのギャップに対する苛立ちだったのではないかと思う。 

 妊娠中ずっと具合が悪かった。おなかは張るし、変なおりものが出る。でも、長男がいたし、亭主は頼りにならない。いろいろな事をいわれたくないという一心で、病院へは行かなかった。

 長男を妊娠中、切迫流産で入院していた時姑が部屋に駆け込んできて「一体大丈夫なの? それでまともな子が産まれるわけ? 」とため息をついた。その頃中学校で特殊学級も持っていた。「あなたがそんな仕事をしているから、それでおんなじような子どもができるのかもしれないわね」「我が家の家系には誰も変なものはないのだから」それに「一体、誰が(夫の)朝ごはんをつくるの? けっこうなご身分ね」と他の入院患者もいる前で言って帰った。

 長男の時は大丈夫だったのだから、今度も大丈夫、そう言い聞かせる。

 長男を連れて、沖縄にも行った。とにかく、いろんな事をしていたかった。 

 そして、沖縄から帰ってきての8カ月の定期検診で、即入院。

 子宮が開いている。絶対安静。点滴の日々。長男はまた私の実家へ。

 1週間の入院後、その日まで車椅子だったのに、突然「帰っていい」と言い渡される。

 長男もいたことだし、喜んで帰った。帰るとやっぱり掃除などしたい。クリーニングを取りに行った時に、変な痛みを感じてうずくまってしまった。

 そしてその夜破水。救急車で病院にとんぼ返り。

 絶対安静の甲斐もなく、3日後には陣痛が来て、長女誕生。予定日よりも2ヶ月早かった。

 1870グラム。未熟児としては大きかった彼女は、保育器の中にいたが、次の夜危篤状態で大きな病院に救急車で運ばれていった。ずっと子宮が開いていた為に、どこか感染していたらしい。

 私に残されたものは、保育器の中にいる彼女の写真1枚きりだった。

 長女が産まれた頃、夫には彼女がいたと後に知る。その人は2回目の離婚の原因になった人。生れた後、夫に電話をしたが、留守。彼が病院に来たのは、翌日昼過ぎ。彼の両親は、私が入院している間、1度も来なかった。

 小さな小さな命。一度も抱いた事もなく、かえでの葉っぱくらいのお手手を触ったぐらいの我が子。どこかで生と闘っている我が子。

 私にできる事は、祈る事だけだった。

 毎日、張って張って痛い、飲む者のいないおっぱいを冷やして寝た。 


 赤ん坊がいないまま退院。実家に帰る、長男も一緒だ。夫はほとんど来なかった。

 おっぱいを絞り、病院に届ける。週2回の面接日といっても、遠く部屋の外から保育器の中の我が子を眺めるだけ。望遠鏡を持っていこうかと真剣に考えたものだ。

 やがて我が子を抱けるようになる。おっぱいもやれる。おしめも代える事ができる。でも消毒して入れるのは母親だけ。外から私の母に連れられてみている長男は、やきもちで泣いたりぐずったり。

 1度、姑と偶然エレベーターの中で一緒になったことがある。「かわいそうに」彼女は言い続けた。「あなたが沖縄なんかに行ったから」。誰にも言っていなかったのに知っている。夫が言ったらしい。言葉の端々に「あなたのせいで…」が感じられる。

 長男と2人でマンションに帰ってきても、夫は帰ってこない。

 長男を近所の保育園に一時預かりで預けて、タクシーを飛ばし長女に面会。抱きしめおっぱいを与え、またタクシーで帰る。毎日この繰り返し。

 保育園が初めての長男は、元々人懐こい子ではあったが、やはり迎えに行くと飛びついてくる。しかし彼は1度も泣かなかった。泣かないことが彼の気持ちを表していた。

 この頃から、私は睡眠薬を飲むようになる。

 起きるともう12時で、長男はすでにひとり枕元で静かに遊んでいる。赤ん坊の面会の時間が迫る。慌てて長男を預け、長女に会いに行った。睡眠薬のせいで、いつも頭がはっきりせず何がなんだかわからなかった。

 夫は帰ってこない。たまに会ってもけんかばかり。その頃彼の頭の中は彼女の事でいっぱいだったのだ。


 1ヶ月を6日ばかり過ぎた日、ようやく長女が退院。その時2500グラムとちょっと。

 どこを感染していたのかは結局わからずじまいだったのだが、胃腸は確実にやられていたらしくミルクを飲むと必ず吐いた。その度彼女や私の服がミルクで汚れ、シーツやお布団まで1日何度取り替えた事だろう。それは彼女が3歳になる頃まで続く。ただし、彼女を手放していた半年間のことはわからない。

 長男は赤ん坊をとても可愛がった。しかし彼もまだ2歳。ミルクを作ると自分も飲みたがり、授乳で真夜中に起きると一緒に起きてきた。ベビーベッドには一緒に寝るし、赤ん坊のおもちゃを取っては壊した。

 吐いてはまたおなかが空いて泣きつづける赤ん坊と、まだまだ赤ちゃんの2歳児を抱えて、あの頃一体どうやって生活していたのか思い出せない。しかも社会的には、にこやかに明るく良い妻、良い母、良い嫁を演じていた。

 未熟児を産んだ、という責任の重さ。私の責任だ、と自分でも思い、他の誰もがそう感じていた。夫は周囲と同じ目をして私を見る。

 週に1度の病院通い、なかなか座らない首、飲んでは吐く為に増えない体重。

 長男が優良児だっただけに、比べる事が辛かった。


 しかし一方、病院のNICUには、いかに多くの病気の子どもがいて、いかに多くの両親の涙がこぼれているかという事も知る。

 「毎日、新聞の死亡欄をつい見てしまうのね、0歳を見つけると、この子もそうなるのかしらって、つい思ってしまう」と言った母親の事が、忘れられない。

 管がいっぱい付いた子どもをベビーカーで連れてくる母親。

 出産の時のトラブルが思ったより多い事も知った。

 3年生ぐらいの子が、大人のおむつをつけてベッドに寝ている。

 私はそこで何を感じていたのだろう。


 2歳の長男、4ヶ月の長女。食べさせて、飲ませて、あそばせて、排泄させる。入浴させて、長女に合わせて夜も起きる。着飾って医者の妻を演じ、すべての役目を完璧にこなそうとして…。

 私は壊れつつあった。


 この時期の痛みや苦しみは陣痛に似ている。私は結婚や出産を経て、何かを生み出そうとしていた。生まれてくるのは自分自身だ。

 この結婚生活で生み出されなかった私は、2度目の結婚生活で再び陣痛を経験する。人は段階をふみ、時期を待ち、そして生み出されるのだと今は信じている。


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