たかが栗、されど栗 Part1


 今年も実家からたくさんの栗を送ってきました。実家には大きな栗山があり、父と母が仕事の合間に丹精し、毎年この時期につやつやと大きな新鮮とりたてをいの一番に送ってくれるのです。

 箱をあけると、ぎっしり詰まった懐かしい姿。なんとも言えない香りがします。

 元々祖父と祖母がやっていた栗園を父と母が引き継ぎ、しかし父には本業もあるので、専ら日曜日に下草を刈ったり、肥料をまいたりし、収穫期になると平日は母がひとつひとつ拾い集めては家に持ちかえり、選別をし、市場に出していました。

 母は車の免許を持っていません。少し離れた栗園まではリヤカーを押して行き、朝から暗くなるまで広い畑をひとりで拾い、重たい栗をリアカーいっぱいに積み、1歩1歩押したり引いたりしながらなんとか家まで持ち帰っていたようです。雨が降ろうが拾うのを休むことは出来ません。栗は新鮮さが何よりですので、その日に拾ったものを翌日の市場に出すのが原則です。1日遅れて古くなって出荷した栗は、並んでいる他のつやつやしたものと比べると、輝きがなく表面がやや渇き、すこしだけいつもより小さく感じられました。見ているこっちの方も、堂々としてはいけないような、置いたらすぐに立ち去らねばならないような気になりました。

 小さい頃は栗が嫌いでした。

 時期が来ると、家中が忙しくなり、庭には栗のイガや真中で育ちきれなかった実の入っていないぺしゃんこの栗が散乱し、裏庭中が栗用品で埋まり、土日ともなると必ず手伝いをさせられました。

 栗拾いは辛い作業です。中腰で拾うのですぐに腰が痛くて痛くてたまらなくなります。辛くってしゃがむと、お尻に栗のイガが刺さるし、背伸びをすると、頭にイガが突き刺さります。おっとっととよろけて木をつかむとねっちょりした感触。木についた虫をつぶしているのです。拾った栗が虫食いだと、ぬるっと出てくる虫とご対面なんてこともあります。

 しかし、今考えると、あれはなんて贅沢な経験だったんでしょう。

 足元の真っ黒いほくほくした土からは、たくさんのこうろぎや、かえるや、ばったや鈴虫が出たり入ったりしています。家族から離れてひとり広い畑で座っていると、木漏れ日が枯葉を照らし、風がボトンボトトンと栗の実を落とす音だけが聞こえてきます。どんなに辛くても拾い終わればそれでおしまいです。持ちかえって選別してはかりにかけ、袋に積めたものを並べると、なんとも言えないすがすがしさを感じたものでした。

 両親も歳をとり、昔ほど本格的には栽培していないようですが、それでも時期がくれば栗は実り、茶色く輝く実は何処そこに落ちています。それを拾い拭いて何処よりも早く我が家に送ってくれました。 


 ところで、私は栗の皮をむくのが大嫌いです。

 兄が中学の頃、栗の皮をナイフでむいていて、指の先端を半分切り落としたことがありました。すぐに病院に行き処置をしたのですが、とうとう指はつながらず、兄の人差し指だか、中指は、今でも少々他の指より短くなってしまっています。近所の病院に駆け込んだもので、麻酔もなしにぶつぶつ縫われ、卒倒しそうに痛かったという話は、当時小学生だった私を震え上がらせました。

 だから、と言うわけではないのですが、もともとのずぼらな性格で「いやだ、そんなの面倒くさいから 」栗の皮をむかない、というと母に怒られるので、この事件は私が栗の皮むきをしない、最良の言い訳になっています。

 そこで送ってきた栗は、その場で袋に分けられ、手分けをしてご近所、友達関係に配られることになるのです。毎年、まだ出始めの頃に配るこの栗は、季節の初物をお届けする意味もあって、たいそう喜ばれます。

 今年も自宅用に少しだけ残し、せっせと袋に詰めていると、目の前にたくさんたくさんあった栗が見る見る減って行くものですから、子ども達は大変慌てます。

 「なくなっちゃうよ 」「まだあげるの? 」「もういいよ 」。

 なにもなければ欲しくも何ともないものでも、目の前にたくさんあるものが減って行くのはなんだか損したような気持ちになるのですね。では、あれば食べるのかというと、全く食べないくせに。

 よく思うのですが、子どもって基本的にけちですよね。なんでもたくさんあればいいと思っているし、減ることを嫌う。自分の物と人の物厳格に区別し、人の物がこっちに来るのは大歓迎だけど、自分の物を譲るのはいてもたってもいられないくらい悔しい。地団駄ふんで、転げまわって、天を仰いで泣き嘆く。あれって、社会性が目覚める前の、食料を確保し何があっても生きぬこうとする本能なんでしょうか。


 つるは恩返しに反物を織る。すずめはつづらをくれる。亀は竜宮上へ連れて行ってくれるし、蜘蛛を助けたら命まで救ってくれる。

 栗は栗御飯に変身して恩返しをする。

 つまり、うちにあれば食べきれずに捨ててしまう栗を配り、栗達にその役目をつつがなく遂行させてあげたら、栗達は栗御飯になってもどってきて恩返しをするのです。

 去年は栗が秋刀魚8匹に化けたりもしましたが。

 そうです。今年もちゃんと各地から「少しだけどどうぞ 」と、ほかほか暖かい、しかも様々な工夫がされて一段と美味しくなっている「昨日いただいた栗で作った栗御飯 」をいただくのです。

 おとめ子が友達の家に持っていき「留守だったの。持って帰ると重たいから帰り道で(別の友達に )あげてきた 」と偶然手渡したその家は、うなぎ屋さん。翌日、シメジやにんじん、しいたけなどと共に彩りもきれいな吹き寄せ御飯にしてくれました。

 偶然が幸運を呼ぶんですね。

 お隣さんは、黒米を混ぜ込んだ栗おこわにしてくれました。

 3軒先の家からは本が届き、その隣りからはお菓子が届く。

 いや、別に私は見かえりを期待しておすそ分けしているのではないのですよ。でもたまには良いことがあったっていいじゃあないですか。

 ひと箱の栗から生まれる様々なもの。父母から我が家へ、そして人様へ。

 それはまた形を変えて自分に戻ってくる。

 ちょっとこころが温まった出来事でした。