役に立つ育児書を考える Part.3

 まったくのお久しぶりです。

 あれから時は流れ、子どもたちも幾分成長しました。ふた男はその後なんとか1日10分程度のバイオリンのお稽古をやり続けていますし、おとめ子とひつ次郎は事あるごとにバトルを繰り返しています。しかし、おとめ子は友達の家でクッキーを焼いた際、ちゃんと、ひつ次郎用に機関車の形をした特製クッキーを作り大事に抱えて持ち帰りました。ひつ次郎はその他にもたくさんのクッキーをほしがりおとめ子に拒否されてしばらくはふくれているものの、世の中はそう甘いものではないことを身にしみて感じたようです。その証拠に翌日はおとめ子に見つからないように黙って残りのクッキーを盗み食いしています。

 えっ、どういう技術を使ってふた男にバイオリンをさせたのか、ですって? いえ、3日間もやってないのに黙っていたら、彼のほうが黙っている母親に恐れをなして翌日からはちゃんとやるようになったのです。こっちはうっかり忘れていたんですが、これも技術のうちかもしれません。

 母親には、何の成長もみられません。

 母子家庭になり、わずらわしいものから逃れて上京し、世帯主となり、誰も文句を言ったり、私の日々の行動をたしなめたりする人がいない環境にすっかり慣れてしまい、とんでもない君主母となりつつあります。たまに、見かねてか、言いたいのか、許せないのか、私を酒の席に呼び出し、気分良く飲んでいるにもかかわらず突然「そんなことではだめだ 」と説教を始める方もおられます。たいていは子どもの友達のお父さん方です。

 「あんたはおかしい 」

と真正面から見たくもない人差し指を突きつけられて、何度も何度も言われたこともありました。

 「もっと運動をさせなければ。男の子は運動だ、とにかく運動だ、なにがなんでも運動だ。運動もしないやつはろくでもない子どもになるし、させない親も親だ。塾なんて早すぎる。何を考えているんだか 」

嫌いでサッカーを止めたばかりの頃、ふた男の友達のお父さんに言われ続けたこともありました。

 そんなときには、 

「気楽でいいわねえ 」「うらやましいわ、でも私にはとてもできないわ 」

と、「いったいどうやって暮らしているのよ 」という気持ちを秘めて遠まわしにおっしゃるお母さん方の話とはまた少し違った受け取り方をしてしまいます。

 「私はあなたの女房じゃあない 」

うるさい、放っておいてちょうだい、私は私でちゃんとやっているのよ。

 でも、そう怒りつつ家路につき、子どもに愚痴をこぼしながら八つ当たりして寝かせ、1人になったときに、猛烈な不安が襲ってくるのです。

 本当に駄目なのかな、私って。

 本当はなにもできなくて、母親としても失格で、人間としても最低で、誰も頼る人もいないし、独りよがりで生活していて、世間からは外れてしまった異端児になっているのかな。

 こんな母親と一緒にいなければならない子どもたちは、不幸なのかな。こんな母親に育てられた子どもはまともにはならないのかな。

 だから離婚なんてしてしまったのかな。

 彼らは我慢して社会的にも経済的にもちゃんとしていて、偉いんだろうな。

 それに比べたら、私や私の子どもたちはどん底だな。

 もはやこれでは母親とは言えないのではないか、そう落ち込んでしまうこともまた多いのです。

 そして、子どもに八つ当たりしたことを独り反省し、後悔し、再び、こんな母親に育てられてあの子どもたちは一体どうなるんだろう、と行く末を案じ、落ち込む。

 そして、せめて子どもだけは、と頑張らせるものの、結果の出ないことに苛立ち当り散らす。

 そしてまた後悔。

 こんな繰り返しが続いておりました。


 おりしもそんな頃、一冊の本を読み返す機会がありました。

お母さんのガミガミが子どもを駄目にする 」山崎房一著。

最初に読んだのは、まだまだ子どもが小さい頃だったと記憶しています。

 今回は、本棚から溢れ出した本が部屋中にあふれ、もう収拾がつかなくなってしまい、昔読んだ育児書を誰かに差し上げようと平積みにしていたものの中の1冊を偶然ぺらぺらとめくっていたら途中で止められなくなってしまい、お風呂の中で一気に読み上げてしまったものです。

 昔も現在もこの題名にドキッとさせられるということが、私の進歩のなさを明確に物語っています。

 「母親のガミガミは、子どもを服従させようとする悪しき母性後遺症から起こる 」

 「母親が一人の人間として満足していない欲求不満のはけ口が、子どもに向けられガミガミとなる 」

 「子どもの人格を認め、一人の人間として対等に扱い、良いところを見出しほめることが真の教育である 」

 「愛とは思っていることではなく、行動であらわすこと 」

 「母親とは演ずるもの。母親の行動はすべて理性で生まれる。そこにちりばめられた愛情とは、すべて具体的な行動で示されなければならない 」

と、その本からは、大まかに以上5つのことを読み取ることができました。 

 世の中に偶然はないと信じています。すべての出来事は、現在の自分がおかれている状況にとって必要だから与えられたもので、それは必然だと思っています。この時も「この本は私のために書かれたものだ 」と強く強く感じました。本当に私のためだけに書かれたものだったら、1996年の段階で17刷りも増刷されているわけがないのですが。

 私の問題は、自分に対しての自信のなさやそれから生じたコンプレックス、そして、それを子どもに八つ当たりしてしまう母子密着、愛を形に表すことができないぐうたらさ、にあったのです。

 だからほかの人にいろいろ言われると揺れ動いたり、自信喪失したり、ほかをうらやましがったり、やたらと子どもに当たったりしていた。自分ではまったくなにもせずに、母子家庭をたてにとって子どもにばかり努力しろと強制していた。

 母親である立場だけに満足して、母親としての行動がなかったのです。


 さて、問題提起と原因究明ができました。

 つぎなる問題は、解決法を考えることです。

 私自身のコンプレックスをなくし、自信を持ち、子どもを一人の人格と認め、誉め、愛情を行動として表すには、一体どうしたらよいのでしょうか。

 この本には、母親が自分の欠点を抹殺し、開き直って陰日向裏表を良しとする、二重人格者になることだ、というニュアンスのことが書かれています。人に良く思われようが悪く思われようが、そんなことは一切気にせず、思いのままに行動すること。それがすなわち自分自身を認めることであり、そうすると子どもの欠点が気にならなくなるものだ、と。

 そして、子どもに対しては、良い母親を演じる一人の人間になるのだ、とも。

 そうか、そうか、そうなんだ。

 要は、私が世間から日ごろ思われていることを、実際に行えばいいだけなんだな。でも、実際にそのようなことを平気でやっているかのように見せていて、実は繊細な薄っぺらいガラスのような神経にいつも傷をつけて、でも笑って耐え忍んでいる私から言わせていただけば、これは実に難しくてつらいことではないでしょうか。思わせることと、実際に平気でやってのけることでは、大きな違いがあるからです。私は決して思いのままに行動したりはしない。爆発したら別ですが。

 しかし、ここを乗り切らなくては先へは進めません。

 ふーん、全く、母親であり続ける事は簡単ですが、母親をやり続けることとは、なんてややこしいのでしょう。

 面倒くさくもある。しかし、私は私のために、ここをなんとか克服しなければならないのです。だって、もうどなた様かのお父さん方から説教されるたびに、または、子ども達を叱り飛ばすたびに、後悔したり、懺悔したり、つらい思いをしたりするのは、なんとしても終わりにしたい。

 ましてや、名前も書かない男性からの、お叱りや、あんたが悪い、あんたはだらしない、といった内容のメールにいちいち傷ついたり、考えたり、怒ったりすることももうしたくはない。

 余談ですが、いただくメールから考えるに、女性が自分の体験と比べて考えるのに対し、男性は、理想としてや、あるべき姿として物事を捉えることが多いようです。女性がより現実的なのに対し、男性はロマンティックなのでしょうか。そして言葉尻を捕らえて、ひとつひとつに意見を述べるのも、また男性に多いようです。女性が自分の意見や体験と引き比べて感想を送ってくるのに対し、男性はご自分の社会に照らし合わせた評価を送ってこられることが多い。これはどちらが良いとか悪いとかではなく、単に男女差として私が捕らえた、違いなのですが。

 自分をあるべき位置やもとの姿にとどめたい女性と、あるべき場所や姿にすべてを押し込めようとする男性。なんだかそんな違いを感じさせられています。

 だから、理想的な母親とか父親はこうあるべき、なんて考え方はおいおい男性のもので、女性は、自分が形作る家族の一員としての母親の役割や、父親の役割として捉えているのではないでしょうか。

 子どもの友達のお父さん方が私にお説教されるのは、私の家族形態や母親としてのあり方が、あまりにも彼らの捉えておられる一般的な母親や、母子家庭とかけ離れているからだと、分かってはいます。が、腹はたつ。

 腹が立つのは、修行が足りないからだ。彼らが悪いからでは決してない。


 さて、ここで、私の心の師匠、久田恵さんの登場です。

 前回も「子育ては技術だ 」ということが書かれた本を紹介したことからも、技術習得が重大な課題であることが分かります。なにしろ、前回からずいぶん月日が過ぎているのに、なんの改善もなされていないのですから。

 「受験期の息子 」久田恵著によると

 「たっぷりの暇と時間を与えておけば、子どもの生理は自然と好きなことの方へ、好きなことの方へと向かうのかもしれない 」

と書かれていて、ドキッとさせられます。

「子どもには時間と暇を与えなければならない 」

とさらに念を押されて、うーん、と考え込む。

 いっきなり、一番痛いところを突かれた感じ。

 今の子どもには時間も暇もない。ボーっとしていたり、ほけーっとしてみたり、ふらふらっとしていたりする時間は全くないのではないのかしら。親は、この子が好きなことを早く見つけ出してそこへ進むために、なんて分かったことを口では言いながら、実は好きなことを探す時間や心のゆとりも許してはいない。

 常に先を先をと親が考えてくれ、「こんなことじゃあこの先どうなることか 」「今やれることを今のうちに 」とせきたてられるままに、行き着く先がどこなのかも分からず、定まらない目標に向かって、ただ闇雲にがむしゃらに走らせられているのが、今の子ども達なのかもしれません。

 で、その理由はといえば、私達母親の経験上の失敗を繰り返さないために、成功を味あわせるために、なのではないでしょうか。でも、失敗って何? 成功って一体何なのでしょう。

 ここでも、私達母親の自信のなさや不安が、子どもに色濃く出ていることが分かりました。自分になにもないし、満足していないから、とりあえず、子どもには勉強させて、お稽古事もなにかをやらせておこう。そのうちに、子ども自身が好きな道を探し出してくるだろう。しかも、それは、私が望んでいたものとあまりかけ離れていないものに違いない。

そう、どこかで思っていたのかなあ。

何かを精一杯、とにかく、必死でさせる、ことが技術だと思っていたのに、なにもさせずに、ただ暇と時間をあたえ、ぼーっとさせること、が本来の技術だったのです。

見えない将来に対してのあせりや不満ばかりが募り、どちらもがストレスを溜め込み、いつか膨れ上がり爆発するまで何にも気がつかない、のでは後の祭り。しかし、何事にも遊びやゆとりがなければそうなってしまう。遊びやゆとりを演出しつつ、技術を踏まえて子育てするのが、母親を演じるって事なのでしょう。

 これはいよいよ急がなくてはならない。どうにかして、母親としての技術を身に付けなければ。

 今まで思っていただけの愛を行動で示さなくては。

 開き直り、自分を認め、二重人格者になりきること。

 たとえ何を言われても、言い返す言葉をもち、現在のガラスの神経を、ダイアモンドに変えること。それは果たしてできるのでしょうか。そして、ありのままの子どもを認め、長所を誉めて伸ばす手伝いをし、子どもを母性の残骸から解放すること。

 これから、この実践をしていきたい、と最近心に誓っています。

 経過や結果はこれからおいおいご報告するつもりでおります。

戻る ホーム 次へ