子どもを愛しく感じる時


 洗濯していたズボンやシャツのポケットから、どんぐりや、小石、道端で摘んだであろう花や、木の実が出てきた時。

  ああ、この子は生活を楽しんでいるんだなあ、きっと輝いた目でこれらをひろって大事にポケットにしまっておいたんだろうなあ。

 「早く、早く 」とせきたてて、「急いで、なにやってんのよ 」「教科書がないんだもん 」「どうして昨日のうちに用意しておかないのよ 」「昨日探してって言ったじゃあないか 」「どうして私があんたの教科書のありかを探さなきゃならないの 」・・・ 。そう怒鳴り合いながら、半分泣きべそをかいている小学生をなんとか追い出し、周りの景色を見る暇もなく自転車を飛ばして保育園児を送ってきて帰った家。休む暇もなく食事の後を片付けをし、回していた洗濯機から洗濯物を出して2階で干していた時間、誰かのポケットから様々なものが出てくると、それをしばらく眺めていることがあります。

 「ああ、怒りすぎたかなあ 」「探してやればよかったかなあ 」「一体どこで拾ってきたんだろ 」「どんな顔して遊んでいるのかなあ 」。

 赤い木の実やどんぐりは、忙しくてついつい季節を忘れてしまいそうな私に、日頃の飾りのない彼らの日常の姿とともに、季節までもを運んでくれます。こっちがその気になって見渡せば、世の中様々な楽しいものがあるんだよ、ってことを教えてくれます。

 そんな日には、洗濯物の向こうに広がる青い空に深呼吸して、少し落ち着いて家を出ることが出来ます。

 時にはそんなものが、彼らが小さかった頃に使っていたリュックのポケットから出てくることもあります。2歳のふた男、1歳のおとめ子、3歳のひつ次郎。たった一つの石ころから、一枚の遊園地のチケットから、その時の景色や子どもの着ていた服や笑い顔がたちどころに思い出されるものです。

 あんなに小さくて、ひとりではなにも出来なかった彼らが、現在ではとっても成長している。

 足りないところばかりを見て不満ばかり言い、もっと頑張れ、もっと頑張れとどうしても言い続ける私に、リュックの中の小さかった頃の彼らが、大丈夫だよ、ちゃんと大きくなってるよ、心配しないで僕らを信じて、と告げてくれているのかもしれません。


だいま。友達の家に遊びに行ってきます 」「ピアノに行ってきます 」「6時に帰ります 」などと書かれたメモを見つけたとき。

 その場にいなくてもどこかで覚えていてくれる、存在を気にしてくれる人がいるっていうのは、とっても心地の良いものです。

 このメモ。枕もとに「おかあさん、昨日はごめんなさい 」と置いてある時もあるし、私の電話中に直接話しが出来ないので、「誰から? 」「ごはんまだ? 」なんて確認をとるために使われたりもします。

 直接話さなくても、一言の言葉でつながっていることもある。ちょっと幸せを感じる瞬間です。

 ふた男やおとめ子がまだ小学校の低学年だった頃には、お帰りノートというものを作っていました。玄関のカギを開けて誰もいない暗い家に入り、帰りの遅い私をじっと待っていなくてはならない彼らに、せめて文字でもいいから「おかえりなさい 」と言ってあげたくて。

 「おかえり〜 。学校どうだった? 洗濯物を入れておいてね。ちゃんと宿題をして待っててね。じゃ、行ってきまーす 」

 毎回このような簡単な走り書きでしたけど、そのノートには彼らの落書きが加わってぐちゃぐちゃになってしまっていました。これまでに3冊ぐらいになっているでしょうか。

 ここ数年、いつの間にかノートに書いて行くことはなくなっていました。が、今年、ひつ次郎が入学。また復活するかもしれません。


 校や保育園に出かけた時、廊下に立たずむこっちの存在に気がついた彼らの表情。顔中がぱっと明るくなり、唇とほほがふふっと緩み、気がついているのにそっぽを向き、でも、再びすぐに振り返って確認し私がいることに安心した顔だけど「なんだよ、来たのかよ、別にいいのになあ、何しに来たんだよなあ、全く 」ってな知らん顔をしているのを見たとき。

 授業参観なんてひとりあたり5分もいられたら良いほうなんだけど、それでも私の姿を見るとそんな表情をするのです。子憎たらしい。

「来たよ、ちゃんと母親やっているよ、関心はあるんだけど、時間がないんだよ、じゃあ行くからね、ちゃんと頑張るんだよ 」

目と目でそんな会話を交わしたつもりになって、母親は満足してすぐに立ち去ってしまっても、子ども達はなんだか安心し満足するらしい。それがちょっとの時間であったとしても。

そんな彼らには、私の方が助けられています。廊下を突っ走り、スリッパが脱げ落ちそうになるくらい勢いで階段を駆け下り、靴に履き替えて校門を飛び出し、そのまま地下鉄の改札を通り過ぎるまで走り続けることになろうとも、必ず顔だけは出すようにしているのは、子どもの為と言うよりは、自分のためなのかもしれません。

そんな日は一日中私のどこかに、子ども達の、うふふ、の顔が残っています。


 して、なんと言っても一番子どもが愛しく感じられるのは、寝ている彼らの姿を見つめているときでしょう。

 朝から彼らとの間にどんなことがあったとしても、自分自身のことでどんなに辛いイヤなことがあったとしても、夜中仕事を終えて入浴し、今日も一日終わったなあ、でもまた明日が来るなあ、なんて思いながら2階に上がって行って、彼らの姿を確認したとき、その無邪気なあどけない寝顔を見たとき、疲れも思いも一瞬忘れてしまいます。

 夜だけは、どんな子どもだって天使。

 冬の寒い日には、とっても暖かい彼らの布団にそっと足を突っ込んで、ああ、暖かいなあ、と眠りにつくのです。人ってあたたかい。そばに人がいるっていいなあ。

 また朝がきて、戦争のような一日に耐えられるのは、この夜があるから。

 明けない夜はない、なんてよく使われることばです。明けてくる朝にばかり焦点が当てられてありがたがられているけれど、夜があるからこそ、明けてやってくる朝がありがたいんだなあ。

 子育てが楽しいのは、様々な個性とのぶつかり合いがあるからなんでしょう。この3人の子ども達には、それぞれいろんなところがあるし、良い面もたくさんあるし。もっともっと認めて褒めて優しくしよう。そう誓って眠りにつくのです。

 ですがね、朝になると

「なにやってんのっ! さっさと食べて支度していきなさーーーーい!! 」って怒鳴ってるんですけどね。