在外研究途中経過 (5月25日)

Stanford Center for Buddhist Studies

Co-sponsored with Stanford Friends of Tibet and Bay Area Tibetan Studies Assosciation

The Changing Roles of Nuns in Tibetan Society

By Elozabeth Napper; Tibetan Nuns Project

Mon. May 22, 2000 8:00p.m.

題名は「チベット社会における尼僧の役割の変化」とでもいうことになるのでしょうか。

講師は、カール先生の古いお知り合いだそうです。スタンフォードを卒業し、15年以上チベットで尼僧教育プロジェクトに携わっていたらしく、その設備や教育内容の変容について、スライドを使用して報告されていました。

内容的には、古い時代の質素で不充分な設備に始まり、それが、'80の介入以降の「Treat to World Peace」の運動への積極的参加。そして90年代のプロジェクトで建設された立派な尼僧院へと、時代をだとって、その修行・教育環境の変容を示す形です。最初の印象は、NHKのシルクロード系の番組を見ているような感じでした。

興味深かったのは、やはり'94に建設された尼僧院における修行・教育の様子。とても立派な建物で、そこで行われるのは、仏教の修行に止まらず、裁縫や農作業、それからパソコン教育に至る、極めて近代的な教育全般にわたるものとなっているとのこと。

尼僧さんが、I-Macの前に坐る姿は、かなり驚きでした。それと同時に、儀式の鳴物の稽古もあり、これが伝統的仏教(国教としての)と近代教育という、二つの柱を両立した姿ということになるのでしょう。

チベットを専攻されている方には、よく知られた内容かも知れませんが、私にとっては、とても新鮮で刺激的な報告でした。

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スタンフォード名物?のリス君。そこら中を走り回ってます。

Prof. Carl Bielefeldt

「ZEN Buddhism」の講義

今学期の講義も、いよいよ終りに近づいてきました。最終回までをまとめてご報告いたします。

5月15日(月) この日のタイトルは「Patriarchal Zen」。直訳すると「祖師禅」ということになるのでしょうか。唐代の「Classical Zen」から、会昌の破仏を経て五代、宋へと繋がる展開についての解説でした。その中で、やはり強調されるのは馬祖の存在でしょう。そこから、バラエティーに富んだ五家へと展開していったことを指摘し、さらに、『臨済録』の「著衣喫飯、あ(&M07727;)屎送尿」の一節から、禅において自己独自の体験に基づく自発的な自己構築が重視されると結論づけていたようです。ただ、私が聞き漏らしたのか、百丈の名前が出ていなかったのが少し不思議。

5月17日(水) この日は、「Zen Dialogue」。「禅の対話」というからには、禅問答の話かとも思ったのですが、それは次回らしく、ここでは、古則公案として話頭が成立する前の、教育法としての対話として、祖師の語を挙げ、それを「禅機」と定義していました。考え方の基本は、どうして種々の「行動」が救済論へと繋がるか、というもの。まず最初は、「禅機的教育」の代表として、「臨済悟黄檗棒」の話を持ちだし、さらに、その「必死」なところを「香厳上樹」の話で強調するという展開。学生たちに、かなり受けていました。そして、禅機の象徴性と激しさを伝えるために、「倶胝一指頭禅」と「南泉斬猫」を紹介。最後に「咳さえも仏の声」という趙州の言葉で締めくくっていました。語り方が上手なためでしょう、かなり学生にウケていました。

5月19日(金)前回の「対話」が、「公案」として成立する過程の解説が、この日の講義内容でした。具体的には、宋代の公案集の成立事情といったもの。『碧巌録』・『無門関』などの名前が出され、祖師の語が、仏法を適切に示した「発言」として、公案化してゆく過程の解説だったと思います。

※この日、「Evaluation Paper」(学生の書く講義評価票)が配布されました。配っていた院生が、私にも一部くれて、「全部"poor"にしろ」と、たきつけます。でも、さすがに提出はしませんでした。しかし、このようなシステムが在ると、講義をする側にも受ける側にも緊張感が生まれますね。

5月22日(月)「Rinzai Zen」。前回の「公案」を受けて、五家の内で今に残る臨済宗と曹洞宗の特徴の解説が、この「Zen Buddhism」の講義の締めくくりとなるようです。まず、両者を特徴的に捕らえるため、臨済禅は、貴族や武士の間に受け入れられ、曹洞宗は地方庶民の間に展開したことを示し、それから、「看話禅」の成立と展開へと講義は進められました。それは、一言で「公案に集中すること」を要求されるものと定義付けられていました。さらに、白隠による体系化まで歴史を辿り、最後に、『近代相似禅評論』の英訳を用いて、「趙州無字」の公案の、室中における模範解答を紹介していました。とにかく何でも「無」と答えるヤツです。でも、種明かしをしてしまって、本当によいのでしょうか。といいながら、実は私も駒大の講義で使っていたのでした。

5月24日(水)さて、しんがりに控えしは…いよいよしめくくり、曹洞禅の出番です。前回は、看話との対比で「Silent Illumination Zen(黙照)」の存在を示していましたが、今回は、そのほとんどが道元禅の話だったようです。まずは、大慧と道元の『正法眼蔵』の話に始まり、道元禅師の『六祖壇経』の「見性」批判。そこから、「悟り体験」への否定へと展開して行きました。そして、「坐禅」の強調。これは、あくまで自己を変革する作業ではなく、「どのように仏陀である行動をするか」ということの現われであるとし、それが、「自己自身で仏陀の超越的立場を証明すること」であると定義されているようでした。見事なまでに基本通り、という感じ。さすがに『普勧坐禅儀』で学位論文を書いた方です。そういえば、道元禅師の坐禅を「サメ」に例えていたのも、興味深いものがありました。つまり、「サメは泳いでいないと(鰓に酸素が入らず)死ぬ、それと同様に、本証としての坐禅における「仏陀としての自覚」は、それを忘れたとたんに消滅する。」ということなのでしょう。私は、その通りだとおもます。でも、これには異論のある方も多いかもしれませんね。

さらに、学生の質問も良かった。つまり、「悟りを否定するといったって、釈尊ははっきりと"悟り体験"(peak experience)をしたではないか。それを翻してどうする?」というもの。まさに、基本通りの質問ですね。また、学部生としては、きっちりとした指摘です。それに対して、カール先生は「自己を変革するのが悟りではない、あくまで坐禅というpracticeが仏陀なのだ、何か別の者になることを「悟り」と考えることに対する、『悟り(体験の)否定』なのだ」。と答えておられたように思います。これもさすが。カール先生は、「いつも出る質問です。」と仰っていましたが、それがいつも出るということは、学生の意識の高さの証明といえるでしょう。

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カール先生、講義の締めに「Thank you for your attention. Good luck your paper.」の一言。

それに対して、学生たちが、大きな拍手で応え、とてもよい雰囲気でした。

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