在外研究途中経過 (5月7日) 

The Buddhist Experience:Facets of a Religion (Part 2)

in Green Gulch Farm Zen Center

今回は、先送りしていた、先週のシンポジウムの続き。各プレゼンテーションの内容についてご報告します。といっても、聞き取れた範囲で、です。いつものとおり。

かの有名なフーバータワーです

Speaker & Title

(1) Carl Bielefeldt (Stanford Univ.) : Buddhist Thought

プレゼンターの紹介と、この後の発表の導入となる、仏教に対する基本的理解を促す内容でした。ただ、同じ仏教で、現世を否定的に捉える見方と肯定する考え方(穢土と仏土)のあることを指摘し、それをどう説明づけるか、というところから問題提起をしていたのはさすがでした。

(2) Gil Fransdal (Sati Zen Center) : Buddhist Practice

まず「拈華微笑」の話を取り上げ、言葉による教えよりも、自己の体験を重視すべきことを説明、そのあと、全員参加で『延命十句観音経』を唱えました。つまり、坐禅だけでなく、Chantingも、ひとつの「参加型の」実践として捉えてゆくということなのでしょう。それにしても、たぶん初めてであろう参加者の読経がとてもきれいに揃っていたのには驚きました。

(3) Max Moerman (Barnard Collage) : Buddhist Art

スライドを使用して、まず「仏陀のイメージ」という感じでしょうか、中国からインドに遡る形で、仏像やストゥーパ、それと外輪のレリーフなど、ブッダを象徴化した彫刻を見せていました。最後は、曼荼羅から阿弥陀へと移り、まさに仏教芸術全体を駆け足で閲覧した感じでした。

(4) Hank Glassman : Buddhism and Family

「家族」を、どのように捉えるのか興味深かったのですが、中世日本の資料から、「釈迦本事」(亡き摩耶夫人の救済の為に釈尊が兜率へ登って説法したという話)と、目連の非母救済説話(つまり施餓鬼の起源譚)を取り上げ、仏教における家族供養の意識の存在を指摘していました。そしてそれが、インドに起源を持つ逸話であり、さらに近世の日本でも重視されていたことから、米国の禅においても重視されるべきであるという展開。ただ、亡き人への供養と家族意識とを同一文脈で語れるかどうかは、今少し議論が必要かもしれません。

(5) Anne Klein (Rice Univ.) : Buddhism and Culture

チベット仏教の専門家で、スライド使用で、チベット仏教文化について解説されていました。そのあと、各国文化の違いについて、主体的自己表現の方法の相違の面から捉えていたようなのですが、残念ながら、具体的コメントをできるほど聞き取れませんでした。

(6) Mark Gonnerman : Buddhism and Nature

仏教と自然、この問題は、私自身に、基礎知識が少なかったため、ほとんど理解することができませんでした。申し訳ありません。

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「ZEN Buddhism」の講義

今週から、いよいよ禅の幕開けです。

5月1日(月) まず、仏教への中国的アプローチとして、現実を仏陀の世界と捉える肯定的世界観を示し、そののち、「大乗」をNormalとSurpremeという2種類に分類する形で、その特徴を説明しているようでした。どうもこれは、圭峰の四種禅を意識しているような感じ。もちろん、禅の「頓悟」の思想は、「Surpreme(最高)」の方に分類されるのでしょう。それから、禅思想の形成過程の解説に入り、達磨から六祖の誕生までを概観し、「Sudden School」の始まりとしていました。

5月3日(水) 「六祖と敦煌本『六祖壇経』」です。まず、8世紀の神会の北宗攻撃の解説から、敦煌禅籍についての概説、そして『壇経』の内容解説へとすすんでいきました。『壇経』の書誌的解説のあとは、慧能伝を解説して終了。街で『金剛経(Diamond Sutra)』を聞き発心、黄梅に参じて米つきをし、「六祖心偈」の呈示→「碓房撃碓」の話→追跡者道明→「風幡」の話と続いて、最後は六祖のミイラ(首)の話で締めくくっていたようです。さすがにこの日は、とても良く内容が分かり、なんだか急に英語のリスニングが上達したような気になりました。(もちろん気のせい。日本語でなら、自分で暗唱できる内容だから、よく分かっただけ)

5月5日(金)六祖伝のあとは「Sudden Awakening」です。いわゆる「聖人伝」としての『六祖壇経』から、やっぱり、というべきか、「心偈」の内容を、神秀の偈と対比する形で詳説しているようでした。「頓悟」・「漸修」の話となると、確かに、この偈文の対比を外して語ることはできません。その意味では、基本に忠実ということになるのでしょうが、悟りの「頓」・「漸」をどのように捉えていたのかは、残念ながら、聞き取れませんでした。残念です。

じつは今週、カール先生が、講義のサマリーを下さいました。もしかすると、このページのコメントを見て、あまりに的外れであることに驚かれてのことではないかと案じております。過去の分も含めて、今一度良く読んで、訂正をいたします。

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