この本の討論会2週目は、後半の250頁についての討論です。中心は「日蓮」。でも、結論部分は、全て中世本覚思想に関するものです。先週も書いたように、Part
3は、あくまで本覚思想の成立と展開の一形式の例示という位置づけとなります。
Table of Contents
Part 1: Prespecrives
and Problems
本覚思想の発生と展開を俯瞰。その後、鎌倉新仏教との関係を、対立的部分に焦点を当てて論説。
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Part 2: The World
of Medieval Tendai
天台本覚思想に対する従来の評価を再検討。「本覚ゆえの修行否定」という一面的な見方だけで、中世の天台本覚思想を語るべきでないことが主張される。あくまで新旧の対立的思考に立たない。それゆえ、鎌倉新仏教は、教理的には「本覚を母体」として成立し、国家仏教的要素(ヒエラルヒー)の打破を目指したものと定義されているように思われる。
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Part 3: Nichiren
and His Successors
Chapter 6: Nichiren and the New
Paradigm
Chapter 7: Hokke-Tendai Interactions
and the Emergence of a Nichiren Hongaku Discourse
新仏教の一例として、具体的に「日蓮およびその教団」について検討。第6章は、日蓮の伝記の詳述で。最終的に、日蓮の思想的特徴を
Single Condition, All-inclusivweness, Demphasis on Moral Cultivetionとしてまとめていました。そして、やはり、日蓮の新教団の設立をヒエラルヒーの打破に帰着させています。
第7章では、その後、法系の伝承者立ちにスポットを当て、日蓮没後の法華天台についての詳述です。でも、私としては、基礎知識のないこともあって、本書の論旨にどのように積極的に関わってくるのか、あまりよく掴めませんでした。
ゼミの議論でも、第6章の日蓮の詳伝と第7章は、もう少し端折ってもよかったのではないかという意見が大勢を占めておりました。
Conclusion
結論は、日蓮に触れることなく、本覚の定義とその中世的理解に戻ります。絶対的な現実肯定の上に立つ本覚法門は、まず密教より極めて大きな影響を受けて成立したというのがひとつ。しかしながら、現実絶対肯定に立ちながらも、それは修行の意義を見失ったのではないということが第二。最後に、その観点から新仏教を見たとき、そこには、積極的な思想的差異は認められないというのが、だいたいの結論のようです。
確かに、本覚や一行専修を「密教的な画一化(集中化)」という枠組で括ってしまえば、新・旧仏教、あるいは新仏教相互の差異は、単なる表現形式の違いにのみ帰結されます。となれば、必然的に、新仏教の成立意図は、政治・社会的な背景に基づく教団組織の改革ということになる。ここに登場するのが、顕密体制論ということなのでしょう。確かに論旨としてははっきりとしていると思います。でも、本当にそれでよいのか?残念ながら、今の私には、これに反論する準備がありませんが、すべてを「密教」に帰結させてしまうことと共に、新仏教の定義についても、平雅行氏による黒田理論の補強の後も、いくつかの異論が提示されているのも事実です。それらを踏まえて「顕密と異端」の見直しが要求されるのではないでしょうか。
じつは私も、黒田理論に「乗った」一人なのです。確かにこの理論は大鉈としての切れ味はとても鋭いと思います。しかし、個々の教団について具体的に見ると、かなりの無理が見えてくるのも事実。このあたりを、どのように補修してゆくか、(あるいは訂正するか)ということが、私の当面の課題なのですが、この本は、その周辺の事情を極めて綺麗に組み立ててくれているという点で、私にとって、改めて自己反省の契機を与えてくれるものとなったように思います。