明日31日は、ハロウィン。町中いたるところで、子供が仮装するためのコスチュームが売られています。バービーちゃんや忍者など、いろいろあって、見ているだけでも楽しめるのですが、何としても、種類の豊富なのが「ポケモン」。男の子用にはヒトカゲやカメール、女の子にはプリンなど(英語では違う名前だったかな?)が、衣紋掛けにずらりとぶら下がっておりました。
「デジモン」や「ポケモン」はこちらでも大人気のようですね。そうそう、夏にやっていたポケモンの映画「Pokemon 2000」は、日本で昨年公開された「ルギア爆誕」の焼き直しでした。アニメの世界では、日本の方が情報発信の先進国になっているのでしょうか。
ところで、私も、もしかすると「Trick & Treat」のご一行様がお見えになるかもしれないと、お菓子だけは用意しました。でも、いったい何人来てくれるのか・・・。もし、誰も来なかったら、用意したお菓子を全部自分で処理しなければなりません。そうなったらどうしよう。
Table of Contents
Chapter 1: Introduction
まずここでは、黄檗禅を「臨済の亜流」と捕えず、あくまでそれを、当代の新しい宗教活動(New Religious
Movements) という範疇で捕えていくべきことが述べられているようです。
Chapter 2: School, Sect, or Lineage?
黄檗が、独立した「宗」なのか、あくまで禅の「一派」に過ぎないのか、それを西洋のSchool,
Sect あるいは Lineage という概念の下で考察しています。特に、明治七年の宗派としての独立の前後の出来事に注目しているようです。
Chapter 3: Beginnings
黄檗が、独立した一派として成立した時期についての考察。1.中国での隠元の黄檗山住持、2.隠元の来朝、
3.万福寺開創、 4.明治政府の宗派としての認可、の4点の可能性を指摘しています。最終的断定は控えているようですが、万福寺開創に重点を置いていることは、妥当な結論と言えます。それゆえ、本の題名も「黄檗宗」ではなく「黄檗禅」なのでしょう。
Chapter 4: Laying the Founders
この章は、外護者に関する考察です。万福寺開創とその後の急激な展開の経済面で支えたものとして、幕府の存在を最も重視しているようです。確かに、法度や資金の面から考えれば、これは、しごく妥当な見方と言えるのでしょうが、帰依者として直接禅僧たちと触れ合ったであろう中国帰化人たちの存在意義について、もう少し知りたかったような気がします。
Chapter 5: The Chinese Founders
黄檗禅(あるいは黄檗派)の創始者としての中国僧の紹介です。次章と共に、個々の僧侶の生涯についての詳述が中心。黄檗関係僧侶の伝記資料としては、かなりまとまった内容です。
Chapter 6: Japanese Converts
黄檗禅に参じ、その参加に加わった日本僧たちの紹介。
Chapter 7: Obaku's Monastic Style
ここは、「檗様」についての章。江戸時代の曹洞宗に議論を巻き起こした『黄檗清規』や、「念仏禅」、それから「三壇戒会」などを取り上げ、中国明様の叢林生活を紹介。それらがあくまでも「見性成仏」・「以心伝心」という禅宗古来の思想的背景を貴重においているという指摘は、第1章に見える筆者の主張の延長上に位置する記述と思いますが、興味深いものでした。さらに僧侶の服装や長爪長髪などについては、基本的に「エキゾチックで日本に馴染みにくい風潮」として捕えているようでした。このあたりの解釈は、結論部分につながっているようです。
Chapter 8: Pure Land Outside, Zen Inside
禅と念仏という2種の修行を、どのようにして一致させるかが考察の中心のようです。基本的には、禅浄の兼修を、『六祖壇経』に見える浄土の記述から、禅思想の中で正当化し、さらに華厳や天台の観想念仏の存在から、黄檗の念仏も、同様に内的な阿弥陀を観想するものとして、禅の中で矛盾なく実践されたものと結論づけているようです。
Chapter 9: Obaku in the World of Japanese Zen
Buddhism
いよいよ、というべきか、やはりというべきか、黄檗禅を語るにあたっては避けて通れぬ話題、その他の禅宗各派との関係の登場です。とはいえ、どうも妙心寺との軋轢が中心となっている気配。『禅林醜弊集』と、無著道忠の『黄檗檄』を使っていました。私としては、この章では、もう少し第7章との絡みで論じでもらいたかったような気がします。
Chapter10: Obaku and the Secular Authorities
世俗的権威と黄檗派との関わりが、この章の中心。法度と紫衣敕許の問題にはじまり、朝廷と幕府双方の外護・統制の状況について論じています。朝廷の外護は重要だったものの、禅の一派としての存立には、幕府の(統制下における)支援が不可欠だったと結論づけているようです。
Chapter11: Conclusion
さていよいよ結論ですが、ここで、私にとっての最大の問題は、イントロで示された、New Religious
Movements なるものの概念規定がはっきり理解できていないこと。筆者は、それに当てて黄檗の展開の成否を論じているので、本来、具体的なコメントは控えるべきなのかもしれません。結論は、「中国から入ってきた新思潮としての黄檗禅は、中国からの来朝僧たちの手によって驚異的な展開を見せた当初は成功だったが、その後、日本化することによって、その勢いを失ったという点においては失敗だった」ということのようです。しかし、私見によれば、むしろ、黄檗禅は、日本化することを拒んだ(とくにそれは万福寺の儀軌に特徴的に示されていると思うのですが)ために、その基盤を失ってしまったのでないかと思うのです。この辺りは、文化的影響との関連からも指摘できるのような気がします。
しかし、最初に触れたように、私としても、これほどにまとまった黄檗禅に関する使用に出会ったことは今迄になかったわけで、そのような膨大な資料に対し、個人的な思い入れだけで、コメント附すことに若干の躊躇がないわけではありません。その点では、自分がいままで抱いていた黄檗観に、大きな問題提起を与えられたものと受け取り、資料の再吟味の必要性を改めて感じた次第です。
それにしても、アメリカにも、良い本がたくさんあるのですね。