Dharma eye 2001.4月号原稿
正伝の仏法(道元禅)と中国南宋時代の禅
道元禅師が中国曹洞禅から受け継いだものVisiting Scholar, Stanford Center for Buddhist Studies
駒澤大学助教授
石 井 清 純近来、空手にて郷に還る。
所以に山僧、仏法無し。
(『永平広録』巻1,第48上堂,原漢文)唐代(618-907)に五家として発展した禅宗も、南宋時代(1127-1279)には、臨済宗楊岐派が擡頭する形で次第に収束に向かっていた。しかしその中にあって曹洞宗もまた、丹霞子淳(1064-1117)とその弟子たちによって黙照禅が標榜され、確実にその法脈を伝えていたのである。
道元禅師(1200-1253)が中国の禅に触れたのは、西暦1220年代のことであるから、禅師の見聞した禅は、この二つの流れの延長線上にあった。そして、道元禅師は、当時全盛を極めていた臨済宗ではなく、曹洞宗の法系を選び取ったのであった。
道元禅師自身の『嗣書』は次のような法の流れを私たちに示してくれる。
これをみれば、彼が曹洞宗の系譜上に位置していることは、紛れもない事実である。
しかし、道元禅師は、「この曹洞の称は、傍輩の臭皮袋、おのれに斉肩ならんとて、曹洞宗の称を称するなり」(『正法眼蔵』「仏道」)と自分の禅を曹洞禅あるいは曹洞宗と呼ぶことを嫌った。これはいったい如何なる意味をもつのか、以下では、それを明らかにしてゆく形で、中国の禅と道元禅師の禅との接点を見てゆくことにしたい。
事実上の法の流れだけでなく、思想的な特徴についても、道元禅師の禅は中国曹洞宗の禅、即ち「黙照禅」に近い。ただし、全面的に同一ではない。
「黙照禅」とは、上の系図の真歇清了(1088-1151)と、その兄弟弟子の宏智正覚(1091-1157)の時代に集大成した宗風である。黙照の「黙」は坐禅を意味し、その中に、本来仏である自己、即ち「証」を見出す(照)というものである。その特徴は、以下の三点にまとめられる。(1) 本来清浄なる自己の強調。
(2) それゆえの、「悟り体験」の否定。
(3) 悟っているものとしての坐禅の強調。このように、「黙照禅」とは、あくまで本来清浄なる自己が坐禅によって体現するものであることを強調した。それゆえここには、ある瞬間の、特別な体験としての「悟り」の入り込む余地は無い。これは例えば、宏智が「真実の做処はただ静坐黙究なるのみ」(『宏智録』)と述べていることによっても知れよう。
では、この「黙照禅」と道元禅との類似性を見てみよう。
まず第一にあげられるのは、「悟り体験」の否定である。道元禅師は、『弁道話』の中で、「一生参学の大事ここにおはりぬ」と述べられながらも、それをけっして「大悟」とは呼ばなかった。その瞬間を「身心脱落」と名づけていることからも、それは明らかである。
第二には、「只管打坐」の強調である。これは、仏としての坐禅であり、上の(3)、すなわち「仏としての坐禅の強調」に相当しよう。
そして、「自性清浄」の教えが、六祖以来の禅思想の伝統であることを考えれば、道元禅師の禅が、黙照禅を受けたものであるとすることに異論をさしはさむことは不可能である。
しかし、近年の研究によれば、このような類似点を持ちながらも、道元禅は、中国曹洞禅のすべてを、無条件に受け入れたものではないことが明らかになった。
いまここでは、それについて詳細に論証した石井修道博士『道元禅の成立史的研究』(1991,大蔵出版)を要約する形で、それを見てゆくことにしたい。
まず、黙照禅の問題点を明確にするために、『宏智録』の次の一節を見てみよう。渠、修証にあらず、本来具足す。他、汚染せず、徹底清浄なり」(人は修行も悟りもない。もともと(仏として)完成している。その人は(はじめから)汚れることなく、徹底して清らかなままなのである。)(『宏智録』)
この一節は、宏智が、思想的前提に「坐禅」を置いていることを考えれば、「坐禅の徳」を示したものと解釈すべき文章である。
しかし、その前提を抜きにしてこの文章を見るとどうなるであろう。そこには、「本来仏であること」の強調のみが残され、修行の必要性はまったく出てこなくなってしまう。このように、「黙照禅」は、この本来性(本証)を修行の必要性(妙修)よりも強調する傾向にあった。
道元禅師が危惧したのは、まさにこのような「修行無用論」であった。本来仏であることにあぐらをかくと、まさしく宗教的実践は何も行えなくなってしまうのである。
そこで、道元禅師は、それを正すために「仏ゆえの修行(妙修)」に力点を置く。「もともと仏である自己」という基本的な立場を踏襲しつつ、それが、あくまで「坐禅」、あるいは「自己研鑽」しているという状態においてのみ働いているとし、修行の重要性を再確認した。それによって、悪しき無事禅(修行否定の禅)に陥ることを未然に防いでいるのである。それが、道元禅師の禅の特色ということになるであろう。
これを、道元禅師は「正伝の仏法」(釈尊より正しく伝わった仏法)と呼ぶ。そしてこれは、釈尊成道の瞬間の行を正しく受け継いでいる、という道元禅師の自負心から発せられた言葉なのである。
最終的に、道元禅師が「曹洞宗」あるいは「禅宗」という名称を否定される縁由はここにある。つまり、禅師はこの「正伝」を、ある特定の宗派という固定的な枠組に嵌め込んでしまうことを拒否されているのである。
同じ宋代に展開した禅に、大慧宗杲(1089-1163)の「看話禅」がある。これは、「黙照禅」を批判する形で成立したものであるが、これを道元禅師は厳しく批判した。
いまここで、少しく大慧の看話禅を見て、道元禅師の批判点を明らかにしておくことにする。
まず、大慧が批判の対象とした「黙照禅の特徴」であるが、それは先にのべた「修行無用論」的要素に他ならなかった。つまり、大慧の看話禅創唱は、道元禅師の「正伝の仏法」の確立と、動機を同じくしているということになる。
しかし、そこには方法論に大きな違いがあった。
大慧宗杲は、修行を積極的に導入するために、あえて「現実の我々は迷っている」という「始覚」の立場に立った。そしてそこから、公案を熟考するという「悟りへの努力」により、「悟り」を体験すべきことを主張したのである。これを、大慧は「以悟為則(悟りを以て則と為す)」と表現している。
このように、「悟り体験」を強調した看話禅は、その明解さゆえ多くの在家信者を獲得し、南宋代の禅宗叢林を席捲する勢いを得た。しかし、冒頭に述べたように、道元禅師はこれを受け入れることなく、逆に次のように批判された。宗杲禅師なほ生前に自証自悟の言句をしらず。いはんや自餘の公案を参徹ぜんや。いはんや宗杲禅老よりも晩進のもの、たれか自証の言をしらん。(『正法眼蔵』「自証三昧」)
「本来的な悟り」を否定した大慧とその弟子たちは、それゆえ「正しい悟りの本質」を見失ってしまったというのである。つまり道元禅師は、大慧の禅を禅の思想的伝統から逸脱したものと捉えていたのである。さらにまた、大慧が、禅師と同じ「修行の必要性の再認識」を旗印にしていただけに、それをことさらに強く否定する必要があったのであろう。
石井修道博士は、このような受容と批判の形式を次のように総括されている。道元禅師はそっくりそのまま無批判に宋朝禅のすべてを取り込んだのではなく、大慧に反発しつつ、しかし大慧が行ったのとは別の方向でその悪しき宗弊を打破し、純一な仏法としてこの日本に花開かせたということになるであろう。それゆえに、道元禅は、中国曹洞宗という枠組を越え、純一な仏法としてとらえるべきものとなるのである。(『道元禅の成立史的研究』)
さて、道元禅師と南宋禅との思想的な関係について考えてみたのであるが、最後に,いまひとつ道元禅師自身が、中国から正しく伝えたものとして主張されたものについて触れてみたい。
それは、禅の純粋叢林機構と、各種の行事である。
これは、『正法眼蔵』には、あまり多くは触れられていない。それゆえに、看過されてきた感も無しとしない。しかし『永平広録』に目を移すと、そこにおいて禅師は、現在我々が営んでいる成道会に始まり、上堂や晩参といった説法の形式、それに僧堂という伽藍形式まで、叢林が成り立って行くのに重要な儀式や機構は、みな道元禅師が中国から持ち帰ったものだと言われるのである。
例えば、『永平広録』には次のような上堂が記録されている。(1) 臘八上堂、日本国の先代、曾つて仏生会・仏涅槃会を伝う。然れども、未だ曾つて仏成道会を伝え行ぜず。永平、始めて伝え、已に二十年なり。今より已後、尽未来際に伝え行ぜん。(『永平広録』巻5、第406上堂。原漢文)
(2) 当山始めて僧堂有り、これ日本国始めて之を聞き、始めて之を見、始めて之に入り、始めて之に坐す。学仏道の人の幸運なり。(『同上』巻4、第319上堂。原漢文)この他、道元禅師が、典座の正しい意義を伝えるために『典座教訓』を著わされたのはあまりに有名である。とまれ、道元禅師は、これらの行事の正当性に絶対なる自負心を持っておられた。そして、それこそが、仏教に帰依するものの理想の姿だというのである。
しかし、ここで歴史を振り返ってみれば、ここに見える行持は、曹洞宗という一宗派に止まるものではない。中国唐代の百丈懐海(749-814)以降、禅が、独自の修行形式を打ち出し、自らの足で確と地面を踏み締め出した頃の、普請作務と坐禅を中心とした宗教活動を今に映し出すものなのである。すなわちここにも、禅師自身が「曹洞宗」という呼称を嫌った理由を見出すことができるであろう。
禅宗は、9世紀に初めて宗派として独立したと言われる。そしてそれは、インド以来の僧侶の規定と、教団の運営方式を覆し、日々の生産的活動の中に仏法としての意義を見出すという、一種の宗教的革新運動であった。
その後、中国では五山十刹制度が確立され、禅宗は大きく発展する。それは、室町時代に、日本に移植され、ここに日本における禅林機構が確立した。
しかしそれらは、あくまでも時の権力者と結びつき、作り上げられた政治的な機構であった。
道元禅師は、そのような権力との結びつきを嫌った。そして、越前の地に、如浄禅師を通して付け継いだ、唐代に確立した禅の純粋叢林そのものを形作ろうとされたのである。
つまるところ、道元禅師が意識された中国禅とは、この、最も純粋で最も活力に満ちた、創成期の禅そのものであったと言えよう。
もちろん、禅師は直接に唐代の禅を見聞したわけではなかった。その意味では、それは禅師の胸中に理想化されたものともいえるのである。しかしそれでもなお、それは、初期禅宗の純粋で伝統的な叢林形態を維持する意図の下に伝えられたものに他ならないかった。
伝統的形式の踏襲というと、一種、無批判な伝統の墨守を意味しているかのような印象を受ける。しかし、道元禅師が、けっしてそのような意識の下に伝統的行持の実践を強調されたのではないことは、上に述べた思想的背景により明白である。むしろそれは、歴史的事実としてはインドの叢林生活とも、また禅師が直接体験した南宋禅林の全体像とも違ったものであった。まさしくそれは、時代に対応し、そこに、仏道を修行する最良の環境を作り出すための精力的な活動だったのである。
道元禅師の教えを、このような観点から捉えると、その存在意義は往古の日本にとどまるものではなくなる。それは、現代に生きる我々にも、社会と一体となった、より生き生きとした宗教的生活・生命活動をもたらす極めて柔軟な教えであった、と私は信じる。
道元禅師の750回大遠忌を迎える今、21世紀の始まりと共に、その精神性と実践性を、今一度問い直すよい機会なのかもしれない。