ASAHI SUPER CUP Hawaii International Sail Race Challenge 2001
−「Team NAOMI」 レース参戦記−


約束通り、全員で表彰台に上がりました!

コンセプトは「全員で平等に活躍し、平等に楽しむ」。大成功でした。おかげさまで3位入賞。
東京・名古屋・岡山・鹿児島、9名の仲間達は事前練習の代わりに毎日メールでシュミレーションしました。
チャーター艇のオーナーに、「また来年同じメンバーで来い」「君たちが来るなら空けて待っている」と言って頂いた時には涙が出ました。
貧乏チームにかかった費用はひとり13万円+各10万円ほどの航空券代。
「表彰台に上がりたい」が現実になりました。ヨットが好きで好きでたまらない、気の合う仲間達全員の活躍です。

【レース一日目】

 まずレース初日の朝、ヨットが出航出来ないと言うトラブルに見舞われた。チャーター艇KURREWA、Farr38ft

 ホームポートのカネオヘからワイキキのアラワイマリンに運ばれてきた「KURREWA」の喫水は約2メートル。つまりそれ以上の深さがなければならないのに、潮が引いてもっと浅くなっているらしい。キールが底の泥に引っかかっているようだ。桟橋からバックしても全く動かない。何とか前方にロープで引っ張り、勢いをつけてエンジンをかけたり、ギリギリ人間を右や左に寄せて傾けたりしたが動かない。無理にしても壊れるだけなのでオーナーはこれから潮が満ちてくるはずだから十五分だけ待とうと提案した。十五分後何回目かの脱出を試みるが失敗。アラワイマリンの人が心配して見に来てくれてもどうにも出来ない。取材艇や観覧艇が次々出航していくのをただただ見送るしかない。
 これ以上抜け出せなければもうスタートに間に合わないと言う時間になり、最後のチャレンジを試みる。全員がヨットを降りて押す。オーナーひとりがヨットでエンジンをバックにかける。「うっ」。なんとか脱出。皆飛び乗って全力でレース海面に走る。

 この日、なんと第一レースはファーストフォームで一位、第二レースは二着で修正三位となる。他艇もトラブル続出のようで、まるでディンギーのように転覆し、しばらく起きあがれなかったヨットや、メインハリヤードが切れたヨットもあったようだ。
世の中、何が幸いするか、災いするかわからない。自分たちも驚いたことにこの日のレース終了後、我々はクラス一位になっていた。


【レース二日目】デッキ上全員で。

 「表彰台に上りたい」。そもそもレース経験のないE子の言葉で始まった。
 一回きりの東京でのミーティングにスーパーカップレースのポスターを持って行った時だった。「この写真の中のひとりに、私もなれるのね。」と名言を吐いた後のセリフだった。

 二日目の第三レースはココヘッドのブイを回ってくる、少し距離の長いレースだった。レースのポイントも二倍になる。ヒール、つまり重りとして左右に体重移動するE子ともうひとりの女性クルーは、初日の二レースだけで足にびっくりするほど、何かの病気かと言う位大量のアザを作っていた。昨夜、なんとか探し回ってサポーターを買ってきたようだ。足にグルグル巻き付けているだけで不平を言うどころか、楽しそうだ。
 レーススタートからココヘッドまでは上りのレグなので船齢が古い私達には苦しい。当然タックの回数も多い。ジリッ、ジリッと追い上げられる。ココヘッド沖のマークを周り、スピンを揚げる。周りではスピンが制御出来ず、あちこちでブローチングをしている。そこを小さめのスピンをコントロールして何とか耐える。何艇か追い抜いた。波に乗せてサーフィングする。8ノットオーバーのスピードだ。フィニッシュ。
 結果は一着。レーティングつまりハンディキャップ修正で二位。第一レースからの総合でまたもや一位タイの、出来過ぎた成績だった。
 あと一日。かえってプレッシャーがかかり緊張する。表彰台に、本当に上れるのだろうか。まさかねぇ…夢みたいな話でどうにも現実味がない。ただ、「何とか無事に最終日のレースを過ごしたい」と思ったのだが、そうは問屋が卸さなかった。


【レース最終日】

 「5、4、3、2、1、スタート!」。レース最終日、第四レーススタートの直後だった。
 「ボンッ!」鈍く嫌な音が船体に響いたかと思ったらセイル(帆)がバタバタとシバーした。ヘルムスマンがラット(舵)をくるくる回し、「舵が効かない。」と言った。舵とラダーを繋ぐワイヤーが切れたようだ。車で言うハンドルが効かなければ方向が変えられず、当然レースは出来ない。しかし、経験を積んだコックピットの仲間達は冷静だった。オーナーにエマージェンシー(緊急用)のティラー(舵棒)を持ってきてくれるように頼み、とりあえずジブセイルを下ろしてコースから外れる。後で「蒲鉾板」と名付けられた長さ三十センチばかりの、材木の切れ端のようなエマージェンシーティラーを取り付ける。大きな舵輪に変わってこの棒で舵を取るのだ。

 初め「申し訳ない。ダメだ。」と言っていたオーナーを説得し、とりあえずヨットをレースコースに戻してみる。ここで棄権しマリーナに戻ったところで最後のレースに間に合うよう修理出来る可能性は薄い。「このまま走れる?」「何とか。」一度下ろしたジブセイルを揚げ、負荷を減らす為にメインセイルをワンポイントリーフして面積を減らす。梃子の原理で棒の長さが短いほど大きな力が必要なのだ。ヘルムスマンが頑張っているのを見て、オーナーが加勢に入った。舵の左右から二人掛かりの操舵だった。

 「最後まで走る。棄権はしない。」一度落ち込んだ空気が消え、みんなにそんな雰囲気が流れた。かえって緊張が取れたようだった。第四レースは当然ビリだった。だけどそんなに差もなく最後まで走りきった。最終の第五レースもそのまま行くと決めた。

 当然第五レースも苦戦した。舵に負担がかかりすぎるのでセイルの面積はこれ以上大きく出来ない。それでも最後に一艇抜いた。風が味方してくれたようだった。前日までに艇が壊れて出場していないチームがあったので六着と五着だ。いつも賑やかな仲間が、さすがに帰港するときは元気がなく、静かになってしまった。「やっぱり表彰台は夢だった。」と誰もが思った。

 この日の夕方はヨットクラブでのバーベキューパーティーだった。部屋でシャワーを浴びた後生まれて初めての胴上げです、パーティーまでの時間に、とりあえず張り出されている成績を見に行く。「?」。私は成績表を三回見直した。「1、2、3」と数えてみる。「えっ?」なんと三位に入っていた。しかも二位同率での三位だった。 すぐにはちょっと信じられないほど最高の気分だった。女性クルー二人とオーナーにはBBQパーティーの乾杯まで内緒にした。「I have a big news. We are third place!」 まるで優勝したような騒ぎだった。一度は諦めていた入賞だった。ヨットのオーナーと私はみんなに胴上げされた。どっちが上だかわからなくなった。

 パーティーが終わっても興奮は醒めなかった。ハーバーパブへ飲みに行く。通りかかったヨット雑誌「舵」の編集長とカメラマンも引きずり込む。皆ウェイトレスに気前よくチップをはずんだ。オープンテラスの風が気持ちよかった。



これがトロフィですどこかのお金持ちとか、著名なヨットのオーナーとか、プロのヨット乗りとか、そんな人はひとりも居なかった。自分たちだけで、お金を出し合って出場した。しかも、チーム名は私の名前だった。以前、「大勢乗っているヨットで優勝するよりも二人きりのダブルハンドヨットレースで完走したい」と思った。私が乗っていてもいなくても、どうせ結果は同じだと言う気持ちが嫌だった。人任せに出来る状態にはしたくなかった。その気持ちが甦った。全員にその気持ちを、人数分の1の活躍と、人数分の1の楽しさを味わって欲しかった。安いコンドミニアムに雑魚寝した。初日のレースはキールが海底にひっかかりスタートギリギリ40分前に桟橋を離れ、2レースを残した最終日の第四レースはスタート直後に舵を接続するワイヤーが切れた。9人のメンバーのうち、3人はヨットレースに慣れて居らず、2人は泳げなかった。だけどお腹にライフラインの跡を残し、足中くまなくアザだらけにして、ハイクアウトした。全員、何をしても明るく、楽しかった。何ひとつもめごともなかった。やっぱり、信じていた通り、ヨットは「人で帆走る」と痛感した。目の前にチーム名の入った盾がある。当分はこの幸せな気分に浸れそうだ。みんな、ありがとう、ありがとう。


このページは「徒然草第四段(ハワイ編)」の抜粋です。
その他、「2001ハワイで見つけたもの」「2001レース結果表」も併せてご覧下さい。

【Race Infomation】
主催:アラワイマリン   メインスポンサー:アサヒビールUSA(注:2002年のメインスポンサーは未定です)



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