ホノルル便り ーマヒマヒ日記ー 後編        



2002.03.02 ―Movie Week―

やっとDianneがメインランドから帰ってきた。
私が学校から帰るなり、「夕飯は?私、お腹空いちゃったわ」と言う。何か適当に作れないこともなかったが「美味しくて安い和食の店に行きましょうか」と言うのだ。そんなことを言うのは初めてだったのでもちろんOKした。だけどDianneはノーメーク。お化粧しなければ絶対に出掛けないタチなのに面倒じゃないのだろうかと思って尋ねたが料理をするよりは面倒ではないらしい。「何時に行くの?私はいつでもいいけど。」(どうせいつも化粧なんてしたことないし)と言ったらお腹が空いたはずの彼女の方が慌てていた。

店は「SEKIYA」と言う。日本名である。車がないと行かれないような場所だ。空席待ちの列が出来るほど混んでいる。日系人は多かったがどこからも日本語は聞こえてこない。観光客は皆無だ。店には鰹だしの良い香りが立ちこめていて味は安心出来るようだったが、和食のメニューしかないくせに日本語のメニューはなかった。Dianneはメニューを見る前から「天ぷら定食」と決めているらしい。さて・・・どれも10ドル以下で食べられるようだ。どれにしても漬け物とみそ汁が付くらしい。う〜ん、よし。「カツ丼」にしてみよう。

運ばれてきた漬け物は白菜漬けで、みそ汁も玄米茶も美味しい。カツ丼も味は期待通りだったが、量は予想を遙かに上回っていた。日本で言えば大盛りの更に上、「特盛り」って感じだ。蓋が出来ないほどの量である。動けなくなるほど大いに食べた。Dianne曰く、「和食はワイキキで食べちゃダメよ。」とのこと。あんなに高ければ食べられない。充分満足した。

学校はCulture Dayが終わり、バレンタインデーが過ぎたと思ったら今度はムービーウィークだった。その頃、ちょうど期間半ばと言うことで継続の有無を聞かれる。私達は全員5年間の留学ビザを取得して来ているので次のTERMに期間延長出来るのだ。親親戚に勉強しろと言われ学費を出してもらっている若者達は良いとしても自分ですべてを負担している人達は苦しい。だが自費で来ている人ほど勉強熱心なのも事実だ。まぁ、5年以内ならまた来られるので一端帰ろう。これで10週間の期間半ばなら3週間のコースは「体験」としか思えない。身体が生活に慣れるまでに終わってしまいそうだ。

そうそう、「Movie Week」である。ひとつの映画について、やはりなめらかに話す「Fluency」の授業を何回か使って行われる。初めはみんなで登場人物だけの何カットかのシーンを見せられ、それぞれのキャラクターについて話し、書く。「親切そうだ」とか「ひげがある」という感じだ。次にいくつかの短いスリリングなシーンを見るのだが、これがふたり一組となり交代に片方の人は見ることが出来ない。スクリーンに背を向けるのだ。それを、画面を見ているパートナーがひたすら説明する。「あっ、ラブシーン、キス・・・しない。ダンスだけ。」「あ〜、路上の車を盗んだ。逃げた。逃げている。追いかけた。あ〜。」と言うことになる。「どうして盗んだの?誰が追いかけているのよ。」「ほら、えーと。」と大変な騒ぎだ。もちろん英語しか使ってはならない。週の最後にこの映画を通しで見てやっとなんとかつなぎ合わせる。

その映画の中で盗んだ車を追い詰めた時、追い詰めた人が「Hot Dog!」と言う。
さて、この古い言い回しの英語をご存じの方が居られるでしょうか。

「Movie Week」の後は、恐怖の「中間テスト」が待っていた。

2002.03.04

―The fifth weekend―

土曜日のsailing classは絶好のsailing日和。快晴だ。少女のようなコーチ、Jenは7歳の時からサンディエゴでヨットに乗っているそうでなんと19歳と本当に少女だった。20フィートのヨットに適当にマークを3つ積み、本当にアバウトにその辺に投げ込む。そのマークを回る練習をする。途中、Jenは知らん顔でライフジャケットを海に落とし、「キャー大変!人が落ちちゃったわ。」と叫ぶ。船舶免許でやらされた人命救助だ。だが妙に明るい。ゲームみたいだ。繰船を手間取ると、「早く、早く、水が冷たくて凍えてしまうわ。あ〜、ぶつかっちゃう」と大騒ぎされる。そう言えば初日、彼女は自分のビーチサンダル片方を海に落とし、「ちょっとごめんね」と繰船を替わって拾っていた。とにかく教育用の海面だけあってまったく波も立たず、広い川の片方が橋で塞がれているような四角形の穏やかな海域なのだ。

再び彼女の運転で定刻通り12:30にハワイ大学へ戻ってきた。
この日、ホストマザーのDianneが「どこかへ迎えに行ってあげるから、一緒に以前裾上げを頼んだ服を取りに行きましょうよ。」と言ってくれていた。土日は坂を上がるバスがなく、帰りは徒歩となるので大歓迎だ。夕方アラモアナS.Cで待ち合わせることにしたので気が大きくなり、ダイエーでジュースなどを買い込んだら待ち合わせ場所までが重かった。(当たり前だ(^_^;))二人で私がまだ行ったことがない方のアウトレットショップ「ロス・ドレス・フォーレス」に寄ってから、服のお直しを取りに行く。服は丁寧に直してあったがスーパーの袋に入れるでもなく直のまま。Taxもなく、小さな店の入り口に何とかカーテンで区切った試着室がひとつと鏡があるだけだ。それでも人が並ぶほどの盛況振り。やはり手先が起用なのは東洋人なのだろうか。腕に自信のある方、ハワイでの開業をオススメします。

日曜日もちょっと買い物に出ただけで勉強しなくちゃならなかった。翌週は中間テストが待っている。
問題は「OVAL」と呼ばれている口頭試験。まずA〜Fまで6つの構文が決められている。当日、その場になっていきなり指名されたパートナーと二人で先生の前に出る。そこで「じゃあー、Bで会話してみて下さい」と言われるわけだ。そのBの構文を3つ以上、更に「新しく教科書に登場した単語」と言うのもいくつか含めなくてはならない。クラスによってはあらかじめパートナーや構文を決めてくれるそうだが、我が愛しのダニエル先生はそんなのは許してくれなかった。つまり「暗記は出来ない」と言うわけだ。これが結構難しく、例えば仮にそのBの構文が「Whyを使った疑問文」だとする。相手に会っていきなり「Why〜?」とは尋ねにくい。何か前置きも必要なのだ。しかも立て続けに相手に質問すると言うのも不自然だ。「どうしてハワイに来ているの?」なんて疑問文では「新しく教科書に登場した単語」が含められない。文章を難しくしようとすると何かしらを間違える。自分で作った文章ながら「これでいいのか」と不安になる。最大の難関は「そこで相手が何と答えるかわからない」点にあった。つまり、シナリオのない劇を、しかも英語でやらされるわけだ。日本人同士がパートナーになるとも限らず、そうなると相手の発音も聞き取れず問題は更にやっかいになる。

翌日月曜日は学期2度目の祭日だったが、そんな訳で私は友人のSHIZUと二人、貴重な祭日を使って会話の練習をすることにした。
場所は私の滞在先から近い「カハラモール」。スターバックスコーヒーやジャンバジュースなどが並ぶモール内の真ん中には、おあつらえ向きのきれいな木製のテーブルや椅子が並んでおり、結構本を読んだり勉強している人を見かける。ショッピングセンターと言っても高級感が漂い、静かである。私達はそのテーブルでスタバのコーヒーとパニーニグリルのサンドウィッチを半分ずつにして4時間勉強した。翌日火曜日の授業は練習日でだいたいの傾向がわかったため、私は家に帰ってから再び文章作りに追われたが、ワイキキに住むSHIZUはまた別の友人達とデニーズの店員に質問しながら更に4時間やったそうだ。

おー、私達ってば結構勉強熱心!

2002.03.06

―To take the exam―

テスト当日朝、SHIZUと私は再び二人で早めに登校し(う〜ん、懐かしい響き!)2時間の会話練習を重ねた後、ランチに水曜日しか売っていないと言う3ドルちょっとの「ミニ照り焼きチキン」(チキン2つ、ライス、サラダかマカロニサラダ)を平らげた。確かに疲れは出ていたし日頃平気なSHIZUでさえ私と同じように夢に会話が出てきたと言うが、別の友人は何日も寝られず、ご飯も食べられず、見るからに具合が悪そうだった。毎日山のような宿題を出している先生もさすがに何度となく、「忘れないで下さい。ここはハワイです。別に試験の結果が悪かったからと言って大学に行かれなくなるわけでもなく職を失うわけでもありません。ホラ目を閉じて外に出て散歩をしていると想像しましょう。あなたの大好きな友達に会います。あなたは何かを見つけて拾い、ポケットにしまいます。暖かな良い気分です。」と暗示にかけてくれようとしたがあまり効き目はなかった。日本人は人前で、特に英語で話す試験なんてめったに経験していないのだ。そう言えば確かに私達は「好きで」勉強しに来ているわけだ。

パートナーはくじで決まる。カードを引く。何番を引いたかは自分にしかわからない。「次は何番にしようかな。じゃ5番と10番の人。」と先生にいきなり指名されるわけだ。打ち合わせのしようがない。

それが私のパートナーは何とSHIZUだった。私が3番で彼女が6番だった。
まさかふたりでやることになるとは夢にも思っていなかったが、私達は昨夜カハラモールで火事があったことにし、いや火事はアラモアナショッピングセンターだったと言い返し、来週目を見張るばかりの盛大な友達の結婚式がありそれに行くこと言うことにし、SHIZUは今女優を目指して勉強していると言い、私はアーチストになりたいとホラを吹き続けた。ちゃんと会話になっており、かつ構文さえ合っていてそこに新しい語彙が含まれていればホラでも構わない。しかも相手がどんなにホラ吹きかと言うことはもちろんわかっていたのでまったくうろたえることなく相づちを打った。構文か、語彙か、何かが足らないと出来るまで繰り返させられるので長くかかるが私達は5分足らずで終了した。先生から「おめでとう」と握手された。

終わったチームは休憩を取って良いことになっていた。SHIZUは教室を出たとたん「神は見放さなかった。」とこっそり日本語でつぶやいた。

こんなことは後にも先にも二度とないだろうと思うので両親のために追記しておく。翌週告げられた成績は口頭試験が96点、筆記が92点で総合評価は「very good」を上回る「outstanding」だった。先生には「完璧を目指してはいけません。続けることが大切です。このまま続けて下さい。」とだけ言われた。自分で学費を負担するとなると、こうも違うものなのだろうか???

2002.03.09

―The sixth weekend―

試験が終わったので当然遊ぶことにする。
まず土曜日は最終回のsailing class。それがなんとまたもやテストだった。今までの授業をちゃんと理解しているか確かめるための試験で、日本語ならたぶんパーフェクトだと思われるようなテストなのだが当然英語だった。おー!解らなければ説明するって言ったってそれももちろん英語。それでも図解されていればなんとかなると思ったのだがいつくかの文から正しい物を選ぶとなると微妙な言葉の違いを読みとらなくてはならない。中間テストなんてどうってことないと思えるほど難しい。みんなの、たぶん3倍はかかって何とか終えた。電子辞書を持っていて良かった。どうにかなったようだった。あー!

最終日だと言うのに参加者は更に少なかった。20フィートヨット2艇のはずが1艇はディンギーになってしまった。で、さらに、「乗ったことあるよね」と、いつの間にか私が19歳の少女のコーチとそのFJに乗ることになっていた。(だから私はクルーザーのナビゲーターなんだってば(^_^;))幸い風が少なく、ひっくり返ることはなかった。FJは20フィートの練習用ヨットと違ってピカピカの新品で気持ちが良い。

ハワイ大学に戻って来たらお腹がぺこぺこだった。今日こそチャレンジする日だと、日頃気になっていた大学近くの「金華海鮮酒家」と言う食堂に行く。「海鮮酒家」と言っても日本で言うラーメン屋さんの風情だ。ガラス張りの店の前に張ってある「Chicken with broccoli cake noodle $3.50−」を試してみようと思う。どうも「cake」が怪しげだったがあまりに安いので珍しく試してみることにした。結果は大正解。土曜日なので何品か頼んで楽しんでいる人やレジにはテイクアウト待ちの人でにぎわっていた。私は普通のラーメンを想像していたのだが焼きそばだった。しかもソース焼きそばではなくちゃんと中華料理店の焼きそばだ。「cake」は「塊」の意味だとハフハフ食べながら辞書を引いて初めて解った。鶏肉とブロッコリーがゴロゴロとふんだんに使われていた。

日曜日はなんと友達のSHIZUとノースショアに行く。去年の夏にも行ったのだが2月は高い波が来るので世界的に有名なサーフィンのメッカとなるらしい。バスで行けば良いと思っていたのだが接続が悪く、特に休みの日となると本数が減るので1日がかりなのだそうだ。そこでここのHPからリンクを張っている「モーハワイコム」の編集長に、とある企画を出してみた。「ヤッテルハヤッテル」と言うコーナーで、ハワイへ来た日本人が希望するイベントを体験し、それをHPで紹介すると言うコーナーだった。「ノースの大きな波が見たい」と言う企画は難なく受け入れられた。
日曜日の朝、待ち合わせの9時前に、ワイキキに住むSHIZUを乗せた通称「へなちょこカー」がカハラモールに到着。出発前の記念写真を撮られて(あー!)一路ノースショアへ。バスと違って早い、早い。心配された天気も着く頃には回復し、いつものハワイの澄んだ青空だった。大波を見られそうなビーチを端から立ち寄り、何枚もボードを積んだ車の後を付け、何と本当に「TUBU」なんて書かれている大会に遭遇した。いやぁ、良かった。夏に見た、同じビーチとは思えないほどの波。その時の波はさすが編集長の撮った写真の方がきれいなので「モーハワイコム」、「ヤッテルハヤッテル」と言う左上のコーナーの、3/1更新分「ノースの大波が見たい」へどうぞ。どちらがSHIZUでどちらが私かはご想像にお任せします。

めでたく取材が終わり、お約束「クアアイナ」の「アボガドバーガー」を食べ、私達が「ストロングカレント」でTシャツを物色している間は編集長にお昼寝してもらって、帰りにドールでパイナップルアイスを買い、無事帰って来た。いゃあ、良かった。いゃあしかし、Tシャツは子供用のLサイズがぴったりで安く上がったのは喜ぶべきか、悲しむべきか。

予定より早く帰ったので明るいうちに宿題をすることにする。こちらではホテルでも一般家庭でも、どこも夜勉強するのにふさわしい明かりがないと皆嘆いている。明るいうちにやるに越したことはない。ラナイ(ベランダ)のガラスのテーブルでダイヤモンドヘッドを眺め鳥の声を聞きながらやる宿題っていうのもなかなかオツなものなのだ。風が心地よい。

2002.03.11

−To understand English−

「その日」は意外に早くやって来た。こちらへ来て二ヶ月足らずのある日だった。
試験が終わってノースショアで大きな波を見た翌週、いつものようにホストマザーのDianneと二人夕食を食べていた時だったと思う。テレビではニュースをやっていた。結構久しぶりに見るテレビだと思った。それが何だかいつもと違う。

留学を経験した友人達はみな口を揃えて「ある日突然英語がわかる」と言った。そんなことがあるはずはないと思っていた。その意味が突然わかった。
昨日まで知らなかった単語がいきなり何も勉強せずに、理解できるはずはない。わかったら神様だ。そうではなくて、今までは知っている単語、なぜか特に名詞だけが聞こえていた。例えば「book」とか「school」とか、知っている単語だけがとびとびで聞こえてくるのでそれから何となく想像していた。「ははぁ〜ん。学校の話をしているのかな。」と。それが今度は反対に「知らない単語だけが抜け落ちて」聞こえてくるのだ。うまく説明出来ない。知っている単語の数は昨日と変わらないのだ。(当たり前だけど。)だけどこのような文章がほんの数行でも聞こえるだけで気分的には大違いなのだ。いきなり世界が開けたような気がする。

「There was a serious fire at the ○○Hotel.」とアナウンサーが言ったとする。「serious」は知らない単語だとする。たぶん今までは良くて「fire」と、ともすれば「○○Hotel」しか聞き取れていない。それが
「serious」だけ抜けて聞こえてくるのだ。今まではもともと知っていた単語なのに「There was」なんてところは聞こえていなかったに違いない。そりゃあ、「a」なのか「the」なのか早すぎてわからない。だけどその文の全体像さえ見えれば、「a」であろうと「the」であろうと「○○ホテルで火事があった」ことさえ解れば「○○ホテルの話をしているのかな」と思うよりずっといい。(はぁ、なんて低レベル(^_^;))

そんなわけでスキーで言えば何となく転ばずに初心者コースをへっぴり腰ボーゲンで降りてこられた気分である。ひょっとすると千里の道を一歩踏み出しただけなのかもしれないが・・・。これが今だけなのか、後退するものなのかは解らない。こちらへ来て今までだってわかったような気がしたと思えば崖から突き落とされたような気分になり、一進一退を繰り返している。これが鬼のダニエル先生の試験のおかげなのか、いつでも何でも答えてくれる優しいベス先生のおかげなのか、はたまた毎日私が嫌にならない程度それとなく会話を直してくれるDianneのおかげなのかもわからない。が、とにかく、ほんの一歩だけでも前進したようで嬉しかった。

「正確」に話す「Accuracy」のクラスのテストの後、「なめらか」に話す「Fluency」のクラスも望外に「Outstanding」と言う評価で(こちらは欠席0、遅刻0、宿題を忘れずまじめにレポートを提出しただけの肉体評価なんだけど、出来る人だけと言われたインタビューのレポートを出したのが効いたらしい。)先生の当たりも柔らかくなりほっと一息。中間テストの後の日程は加速度がついて飛ぶように過ぎていく。倍速ビデオのようだ。今度の山場は「スピーチコンテスト」。そうそう、こちらへ来て二度目、電子辞書の電池を入れ替えた。めったになくならないなんて大ウソだ。

2002.03.13

―About a stay home―

実はどういういきさつか、ホストマザーのDianneは20年近く住んだ家を売ることにしたらしい。どうやら木造の大きな家はメンテナンスにも手間がかかるのでどこかコンドミニアムにでも引っ越そうと言うことらしかった。エージェントが見に来たりして結構慌ただしく、エージェントは「家を売りたいのならペンキの塗り替えなどメンテナンスをしてからでないと高く売れない」と言ったと言う。そんな訳でかどうか、「家の殺虫消毒」をすることになったと告げられた。結果、食品すべてと冷蔵庫の中身までビニール袋に詰める大作業をしなければならず、なんと「24時間は家に帰ってきてはならない」と言う。Dianneはどこかホテルを取ると言ってくれたが私はワイキキのSHIZUの部屋に泊めてもらうと断った。彼女も友達の家に泊まることにしたそうだ。(ちなみにこの「殺虫消毒」はコンドミニアムなどでも義務づけられているようで、友達はある日用事もないのに朝8時までに部屋を出てくれと言われたという。)

泊めてもらった翌日はHulaの練習日だった。当然帰りに坂を上るバスはなく、Dinneは荷物もあるだろうからもう一度SHIZUの家に帰って電話をすればワイキキまで迎えに行くといってきかなかった。その夜、ボーイフレンドもラスベガスから手伝いに来てくれていると言うことで迎えに来てくれたDianneとテイクアウトのディナーを3人分買って帰る。大量の殻付きエビの炒め物とマヒマヒ(シイラ)のガーリック焼き、それにご飯とサラダと言う豪華版で6ドルちょっと。美味しい。迷惑を掛けたのだからと言う理由でDianneのおごりだった。SHIZUはDianneがきれいなので驚いたようだ。それを伝えると「みんなを呼んでディナーでもしなくちゃね。」と笑っていた。

翌日はボーイフレンドと3人で和食の店に行く。本当にこちらの人はイライラとかセカセカしない。無理もしない。殺虫消毒の為梱包したビニール袋だってまだほとんどがそのままだった。何とDianneは「今日は彼が運転すれば良いから」と紙コップに氷とカクテルを二杯分注ぎ私に一杯を渡す。飲みながら車で行くそうだ。びっくり。

マッカリーショッピングセンター前の、「いらっしゃい」と言うその店は、韓国人のご夫婦が去年開いた店らしく値段が安いので結構繁盛しているようだった。リカーライセンスを持っていないのでお酒の持ち込みは自由なのだそうだ。だがしかし、「いらっしゃいませ」以外の日本語は話せない。しかも、またもやメニューがローマ字で読みにくいことこの上ない。「AHI SASHIMI」というメニューがマグロの刺身だと気づくまで3秒ほどかかった。だが、安い。「てんぷら定食」(Dianneのお気に入りらしい)は天ぷら、きんぴらゴボウ、みそ汁、ご飯に更に一品付いて10ドルを切っている。その一品と言うのが「マグロの刺身」「トンカツ」「フライドチキン」「焼き魚」などから選ぶことが出来た。「AJI」も「SABA」も日本語だった。私が説明した。Dianneと私は刺身を選んだ。ボーイフレンドのおごりだった。

そしてその週末、「ガレージセール」を開くのだと教えられた。彼らは金曜日までたいした準備をせず、私は一体何が起こるのか楽しみなのだ。

2002.03.15

―The seventh weekend T―

先週sailing教室が終わってしまったのでのんびりした週末を迎えるはず、だった。だがしかし、新聞広告に掲示したガレージセールの時間は午前9時からなのに、Dianneとボーイフレンドの言ったとおり、朝8時前から客が現れた。こんな、閑静な住宅地の一軒にそんなに客が来るはずはないと思った私が浅はかだった。「ホノルルアトバタイザー」紙の告知欄には地域別にたくさんのガレージセールが告知されていた。

確かに金曜日、ガレージの車を出して家の前の路上に停め、ガレージにいくつか、一体こんなモノどこにあったのだろうと思うようなテーブルを並べ、物干し竿状のものにハンガーにかけたDianneの服が吊してあった。だが準備万端と言う風情ではなかった。シリアルに牛乳をかけてかき込み、客の相手をしながら並べていくのだ。次々に客は来る。だがたいして長居はしない。そもそもいくら2台入るからと言ってガレージ1つなのだ。しかも客も心得ていてちゃんと並べていない品物はダンボールの中まで見て行く。私はラナイ(ベランダ)にあったガラスのテーブルにTシャツなどを並べた。ただ畳んで並べるだけなら、日本人なら誰に頼んでもたいした差はないと思うのだがとても有り難がられた。並べ方が「perfect」なのだそうだ。その他の品物も、きっと日本人ならば高く売れるようにホコリを払ったり洗ったりするだろうと思われるのにそのままだった。

もっと驚いたのは値段だった。Tシャツなどは全品1ドル、あとはたいてい3ドルか5ドル。新品で値札がついたものから「本当に使えるのだろうか」と思われる壊れたボディボードや履き古した靴まで、きっと日本人なら買わないだろうなと思われる物も売れた。客は買ったモノを袋にも入れていないのにホコリの付いたまま車で持ち帰った。カルチャーショックだ。私には会話も難しい。当然ちゃんと「これはいくらですか」と目を見ては言ってくれない。目と手は品物を物色しながら「これ、安くならない?」などと言うのだ。英会話の勉強には打ってつけである。もうひとつ、来た客もこちらも必ず「Hello、ご機嫌いかが?」と挨拶するのは気持ちがよい。

とにかくDianneは衣装持ちだった。私がジーンズやワンピースなど何枚も服をもらったのにもかかわらず、更に次々と出てきた。たぶん衣装棚のスペースは日本の六畳間ではまったく足りないだろう。服を並べるのは楽しいので、私はTシャツを並べ終わった後、物干し竿にかけられた服もきれいに並べ直した。ロングドレスが5ドル、ジャケットやブラウス、スカート、ズボンなどが3ドルだった。私はたぶん私のサイズであると思われる黒のチャイナブラウスを発見。めぼしいTシャツと一緒に「買っても良い?」と聞くと「お金はいらないからさっさとkeepしておきなさい」と言われた。率の良いバイトである。

客の中にはプロも居た。「アンティークの家具はないか」とのことだった。Dianneは家の中に入れ、ピアノを見せたようだ。木製のピアノである。普通にも弾けるが、よくレストランなどにおいてあり人が居なくてもメロディーを奏でるようなシステムが付いている。そのシステムの調子が悪いらしい。前面には巨大なオルゴールの中身のような装置が付いていた。

日本語が聞こえた。「もし日本人が来たらお願いね」と言われていたのでガレージに出た。こちらに住んでいる日本人の家族らしい。「何かご質問はありますか?」と聞いたら「日本語がお上手ですね。」と返された。(当たり前だ。(^_^;))じつはこう返されたのは先日カハラモールのバス停でバスの時刻とタクシー乗り場を教えた時以来すでに2度目である。日本人から英語で話しかけられた事は数え切れない。

お昼は忙しそうだったのでチャーハンを作ろうかと申し出た。何か必要なものはあるかと尋ねられたがもともとチャーハンなんて残り物で作るのだ。前日のチキンの残り、冷凍ベーコン、卵、万能ネギ、タマネギがあったので充分だと答えた。好評だった。

2002.03.17

―The seventh weekend U―

翌日の日曜日は何も予定がなかったので、以前から行きたいと思っていた「ビショップミュージアム」へ行くことにした。例の如くリュックに地図と水を入れ、バスパスを持って出掛けた。入場料は14ドル95セントと半端な数字で、すっかりこちらの感覚になっているため高いと思い「ジャパニーズビーチプレス」と言う無料紙の20%割引券を切り抜いて持って行く。だがしかし、少しも高くはなかったのだ。

バスを乗り継いで最寄りのバス停に到着した。アメリカ本土から来ている年輩男女のご兄弟と一緒だった。他のアメリカ人観光客と同様、2〜3ヶ月寒さを逃れて来ているようだ。到着したのは午前9時過ぎ。入場料を払うと英語か日本語の「その日のスケジュール」と「館内ガイド」をくれる。この日館内ツアーは英語版が10時からで日本語版が10時30分から開催されるとあった。行かれる場合は10時前の到着をオススメする。この「その日のスケジュール」は何を見ても参加しても入場料以外にお金を払う必要はない。だから何となく日本人かな、と思われる人相手に「日本語ガイドツアー」が勧められるが、別途40ドル余り払っても追加されるのは簡単な昼食とレイ作りのレクチャーだけだしもともと正規の日本語案内があるので特に参加する必要はないと思う。反対に「ガイドツアー」には何名かの団体が参加していたが、通常の日本語ガイドはなんと私ともうひとり年輩の女性二人だけだったので個人ガイドを雇ったようだった。

とにかく、日本の「博物館」と違うのだ。まず第一に建物だけで完結していない。
この日は良い天気だった。入場料を払った建物は入り口の手前にコーヒーショップとギフトショップがあり、メインの建物へは外を歩かなくてはならない。日本だったら「雨が降ったらどうするんだ。屋根ぐらい作ろう。」と言うことになるだろう。だがしかし、屋根はなかった。素晴らしい庭園である。ブーゲンビリアやプルメリアがブルーの空に映えてきれいだ。

とりあえず「勉強だ」と思い、10時からの英語のガイドを聞く。後ろで聞いていると年輩の日本人女性に「あの、日本語のガイドはここで待っていれば良いのでしょうか。」と声を掛けられた。私が日本語のパンフレットを持っていたからだ。「すみません。わからないのですが、私はとりあえず英語のガイドを聞いてみます。」と答えた。そうそうこんな時、アメリカ人は「すみません」「ごめんなさい」「申し訳ない」とは答えない。「ありがとう」と言うのだ。バスの中で何か注意された人が居た。その人は日本人なら必ず謝る場面で「ありがとう、教えてくれて。」と言ったのだ。何毎につけてもpositiveなのだ。すぐ落ち込む私としては大いに学びたいのだがなかなか難しい。

英語のガイドを聞いた後、その婦人と二人で日本語のガイドも聞く。まったく説明する内容が違うのには驚いた。そう言えば昔どこかで「ポリネシア三角形」と聞いたような気がする。ハワイ、イースター島、ニュージーランドを結ぶ三角形だったとは。その後、その東京から来たユアサと名乗る婦人とおしゃべりしながら館内を見学した。そして英語ガイドを聞いた人も、特別日本語ガイドツアーに参加した人達も、私達も皆一緒にフラダンスを見る。観客はたいした人数ではない。素晴らしかった。カメラを持って来なかったのが悔やまれたほどだ。すぐ目の前でのフラに魅せられた。通常のメロディーのあるフラも、私の好きなリズムとアカペラだけで踊る「カヒコ」と言うフラも、男性のフラも堪能した。

お昼ご飯を食べる間もなく「日本語版プラネタリウム」の時間だった。もちろん今はほとんど手に入らないと言うコア材で出来たメイン建物とは別棟である。再び庭を横切る。申し訳ないほどの人数だ。例の、ちゃんとドーム型のプラネタリウムはNASAも協力しているそうで映画付きでわかりやすく、大変為になった。ハワイでは東西南北を32に分けて呼び名があるそうだ。その中に「Na Leo」と言うハワイアンソングで有名なグループの名を見つけた。ハワイ語も興味深い。

もっと興味深かったのが「ガーデンツアー」である。ツアーと言うだけあってハワイでよく話題に上る植物はたいてい網羅されていた。実際に咲いているのだから凄い。ハワイの州花は黄色いハイビスカスだと言う話から、高価なウクレレや昔はカヌーを作ったというコア、マラカスを作るラアニア、実に穴を開けてレイを作れば一生保つと言うハワイ州の木ククイなどを見て歩く。葉を編み、実は筆や刷毛にするというラウハラは何のことはない南西諸島あるアダンだとわかった。

ユアサさんと一緒にカフェで遅めの昼食を取る。揚げたてマヒマヒと生野菜のバーガーはまたもや大量のフライドポテト付きで3ドルくらいだったと思う。彼女も私もお茶は持参していた。カフェテリアで大学の同じコースで学んでいるおじさまとばったり会った。午後から来てはいけない。ユアサさんは私の母親とほぼ同じ年で、毎年半月ほどご主人の会社の寮に滞在しているのだと言った。そのご主人は出発当日気分がすぐれないとキャンセルしたため一人旅なのだそうだ。娘さんがTOEICで高い点を持っているにもかかわらず少しもしゃべれないと嘆いていた。英語を勉強したいと言うので私の参加しているプログラムをお教えした。やる気充分だった。私の母と互角だろう。またもや女性、強し。

2002.03.19

―Birthday―

ホストマザーDianneの誕生日だった。58歳だそうだ。「どこか食事にでも行くなら、良かったら私も誘ってね。」とボーイフレンドに言っておいた。私は以前、授業の一環として作ったブレスレットをハワイ大学のマスコットの白い熊の首にレイのようにかけ、カードを添えた。

学校から帰るとボーイフレンドが待ちかまえており、「すぐ行くよ」と告げられた。「5分待って」と言うと「2分」と言う。珍しく急いでいるらしい。当のDianneは「まったく計画性が無いんだから。ごめんなさいね。」とソファに座っている。支度の早いのは数少ない私の取り柄?なので、ほぼ1分間で部屋を出た。ワイキキのサーフライダーホテル内「チャックスステーキ」へ行く。早く行くと「アーリーディナースペシャル」と言って安いのだそうだ。外の、ほぼ海の上のテーブルに座り、夕陽を眺めながらワインを飲み、食事をした。サラダバーで久々にこちらのクルトンは巨大だったのを思い出した。パンを食べなくてもお腹がいっぱいになりそうだ。Dianneはプレゼントをとても喜んでくれた。手作りというのが効いたらしい。食事の後店員がゾロゾロとロウソクを立てたアイスクリームケーキを持って来て、歌を歌ってくれた。アメリカのケーキとしては珍しく上品な甘さで美味しかった。値段はサラダバーとメインディッシュ、グラスワイン(結構量がある)など各自飲み物を頼んでも一人20ドルくらい。さすがに安い。「来てくれてありがとう」と、またまたボーイフレンドのおごりだった。

車に乗ったのでてっきり帰るのかと思った。だが方向が違う。「どこへ行くの?」と聞くとDianneが笑い出した。「そうそうまだ言っていなかったわね。ゲームセンターよ。」「ゲ、ゲームセンター?」本当にゲームセンターへ行った。ラスベガスみたいだ。ドアにドアマンが立っている。いくらかのお金をクレジットカード状のものに替えてから遊ぶのだ。簡単な食事も出来るようになっていた。ボーイフレンドは(と言っても57歳なのだが)ラスベガスに住んでいるだけあって得意のようだった。画面を見ながらハンドルを操作し障害物を避ける運転のゲームやスロットマシン、実際のボールをゴールに投げ込むバスケットボール、見ているだけで大笑い出来た。Dianneはベルトコンベア状のものに乗って、目の前のスクリーンを見ながら滑るスキーがうまかった。スピードが早く、斜面が急なので思わず力が入り目をつぶってしまいそうだ。ゲームに勝ったり、良い成績が出るとマシンの下からゾロゾロとチケットが出てくる。客はその枚数に応じて品物と交換できるしくみになっていた。

学校ではスピーチコンテストを前に、なんと「international communication」と言う難しい話題で文を書かなければならなかった。とてもテロ事件や戦争などと言う難しいことは書けそうもないので強引にsailingに持っていくことにした。「レポート用紙2ページ」と言うのは結構な量だ。だがしかし、ご承知の通り私は日本語で文を書くなら別にどうってことはない。苦痛でも何でもなく楽しみに近い。書いているうちにみんなが言うほど大変ではないことに気づいた。ただ言葉が違うだけなのだ。言葉だけならいくらでも先生やインターチェンジの学生が直してくれる。そう思ったら気楽だった。どこの国の人にも、文章を書くのが苦手な人が居るらしい。

2002.03.21

―Friday Night Yacht Race Again―

どうやらこのスピーチコンテストは各クラスで2名ずつ代表を選出するらしい。授業時間にクラスメイト全員が一人ずつ前に出てスピーチする。聞いている人は採点しなければならない。全員のスピーチが終わったところで各自紙片に良いと思われた人の名前を2名書く。集計した担任のベスが「おめでとう」と言った。選出されたのは赤い糸で結ばれているのか(^_^;)、またもや私とSHIZUだった。書くのが嫌いでない上に人前であがない特異体質?のせいだ。Oh My God!あんまりめでたい話だとは思えない。

その翌々日、私達2人は別のクラスの審査員の待つ大きな講堂でもう一度スピーチしなければならなかった。だがしかし、前日の夜、SHIZUから39度の熱があると電話があった。当日になって私達のクラスだけ、コンテストは持ち越された。

だがこの日ついていなかったのはここまでだった。この日は金曜日。コンテストに参加しなかった分だけ早く終わった。「ひょっとしたらFriday Night Yacht Raceに間に合うかもしれない。」私はワンピースにサンダルのまま、バスに飛び乗り、乗り換え、イリカイホテル前からハワイヨットクラブまで全力疾走した。出航は5時だ。桟橋の入り口で前回一緒だったと思われる人と会った。「何をそんなに慌てているの?」(ハワイでは走っている人はおろか急いでいる人も滅多に見かけません。)「あなたもレースに出るの?」「そうだよ。まぁ、落ち着いて。」(間に合った!)5時を5分過ぎていた。Hankと奥さんも来ていた。「出航が遅れたからラッキーだったね。」と肩を叩かれた。スタートは5:30だ。ちょうど2ヶ月ぶりだったが覚えてくれていたようだ。私はサンダルを脱ぎ捨てて、裸足でヨットに飛び乗った。

あまり風もなく、2ヶ月前と同じように金色からオレンジへ、そしてピンクへと光る夕陽が美しかった。とろけそうなオレンジ色の夕陽の中にセイルの黒い陰が、出来過ぎくらいの景色だった。唯一の日本人であるパイナップル博士は来ていなかったが、前回よりみんなの会話の内容が理解できた。一緒に大きな声で笑った。やはり開けた海面は気持ちが良い。スゥエーデンとのハーフだというロサンジェルスから来た女の子に質問され、何とかヨットのしくみを説明した。彼女はわかってくれたようだった。帰り、追い風で舵を取れと言われた。「だから追っ手は苦手なんだってば。」「大丈夫、大丈夫。」私はワンピースに裸足のまま舵を取った。

レースが終わってヨットクラブのバーに行く。夕方からしか開いていないショップを覗くと新しい商品が入荷されていた。仲間内で好評の、フラダンスを踊っている少女がついた帽子とTシャツを買った。フラのスカートの部分が毛糸で出来ており、触ったり風が吹くとめくれるのだ。ハハハ

帰り道のことは何も考えていなかった。ホストマザーにはバスの待ち時間に「間に合うかもしれないからレースに行ってみる」と電話を入れておいた。「遅くなったらカハラモールから電話をすれば迎えに行く」と言ってくれていた。だがしかし、いつもは必ずヨット泊まりのHank夫妻が、翌日釣りに行く為早起きしなければならないので送ってくれると言う。何せHankの家は隣なのだ。ヨットクラブの2階で生のバンドを聞きながら3人で夕飯を食べた。サラダだけで充分だった。もうひとつ嬉しいことに、今月末Hankの家での夕食に招待された。「ボブ、知ってるわよね。彼も来るの。」と言われ、そのボブが去年アサヒスーパーカップヨットレースの時ヨットを貸してくれたオーナーのボブだと気づくまで5秒ほどかかった。今回来てまだ会っていないので楽しみだ。
帰りは新車のジャガーで帰った。

2002.03.23

―The Eighth Weekend―

土曜日、2週続けてホストマザー達はガレージセールを開いた。金曜日の夜Hankに送ってもらった時、珍しくガレージに灯りがついており翌日の準備をしていた。今回は結構大掃除をしたらしく衣服以外のものも多く出ていた。午前中手伝ってお昼頃出掛けた。今日はクラスのみんなと「ホエールウォッチング」に行くのだ。

この「ホエールウォッチング」が、またびっくりするほど安い。参加人数によって1人8ドルだか9ドルかだった。ワードウェアハウス前のケワロ湾から出航する船に乗る。天気も良く、波もなく、絶好の行楽日和。一般のパンフレットには1人40ドルだかの値段が記載されていてびっくりした。何か学校の契約なのか学生割引なのかはわからない。しかももしクジラが見られなければ後日無料で参加できるクーポンをくれるとのことだった。

先生は船酔いを心配しているクラスメイトに良い薬を持っているからあげると約束し、前日「乗ってからでは遅いです。1時間前に飲んで下さい。」と言って授業中みんなに配った。前日の夕方、同じ海域を走っているわけだし、2時間ばかりで今更酔うこともなかろうと思うと妙に良い気分だ。もともと私はひどい乗り物酔いのタチなのだ。一番大切なのは「私が酔うわけないじゃん。」と言う思い込みなのだが、そう簡単には思い込めないのも充分承知している。バスでもタクシーでももちろん船でも酔っていた。だがしかし、ここのところ酔っていない。人間、慣れるものなのだろう。しかも「履き慣れた運動靴を」と言う先生の注意を珍しく無視し、日焼け止めも帽子も何も持たず、暑いので短パンにタンクトップ、それとビーチサンダルで出掛けた。手軽っていうのは心も軽い。

まさしく昨日の夜ヨットで走った海面である。確かにヨットよりスピードがあるので揺れている。揺れに身体を合わせるのは久しぶりだ。私は余裕を見せて無料のグァバジュースとハンバーガーをもらってパクついた。本当にこんなところでクジラにお目にかかれるのだろうか、と思っていたら本当に居たのだ。それも「遠くからクジラらしきものを見ました。」なんてセコイものじゃない。あっちでは潮を吹き、こっちでは親子らしきクジラが2頭並んで泳いでいる。だがしかし、カメラに納めるのはなかなか難しい。見ると山の方に雲が出て、虹が出来ていた。仕方がないから虹の写真でも撮ろうかとサンダルを脱いで椅子に上がりカメラを構えたとたん、そこにクジラがはねたのだ。もちろん私はデジカメのシャッターを切った。回りの、高級一眼レフを持ったアメリカ人から囲まれた。一躍ヒーローになった。一番喜んだのは連れてきてくれたダニエル先生だった。もともといつもは1、2度しか見られないクジラが何度も見られたのでゴキゲンだったのに拍車がかかった。私はデジカメの小さな画面に跳ねたクジラを表示してみんなに見せた。

夕方、ガレージセールを終えたらホストマザーとボーイフレンドがワードウェアハウス近くの寿司屋に行くというので待ち合わせた。少し時間もあったのでウィンドショッピングも出来た。「ロック寿司」と言う店だった。混んでいる。またもや天ぷら(どうしてこんなに好きなんでしょ)、照り焼きチキンか焼き魚、寿司か刺身、みそ汁がついてここも10ドルそこそこというリーズナブルな店だった。今まで食べた天ぷらの中では一番美味しかったような気がする。少なくともエビは衣にだまされるようなことはなかった。驚くべき事に「寿司」を選んでも別に茶碗に盛ったご飯が出てくる。二人分のご飯を持ち帰ってオカカを混ぜ梅干しを入れておにぎりを5個作っておいた。「食べても良いか」とわざわざ部屋までボーイフレンドが聞きに来た。「もちろん」と答えた。

日曜日はカハラモールをウロウロし、リバティハウスからメイシーズに変わった2階の子供服売場でバーゲンのラルフローレンTシャツをゲットした。

2002.03.25

―Kodak Hula Show―

スピーチはSHIZUか私のどちらかが卒業式で同じスピーチをしなければならなかった。10年前にオーストラリアへの留学経験を持つSHIZUに決まり、一難去った。だがまた翌週、今度は「Final Exam」が待っている。中間テストが終わって以来、授業の進み具合も心なしか早く、月日も飛ぶように過ぎていく。

Hulaの授業も終わってしまった。最後の授業では先生がひょうたんをくり抜いたようなipuと言う楽器を披露してくれ、みんなのリクエストで、リズムで踊るカヒコを習った。先生はひとりひとりにメッセージを書いたカードとクッキーを配ってくれ、記念写真を撮った。私達は「必ず事務所に遊びに行く」と約束した。

3ヶ月は短い。勉強するには最低限の日数だ。まじめに授業に出席し、宿題をこなし、ラボへ行ってテープを聞き、レポートを書き、2回のテストに備えればせいぜい日曜日にその辺へ買い物か食事に行くくらいしか出来ない。それでも私はHulaやSailingのプログラムに参加し、ノースショアにも遊びに行った。Friday Night Yacht Raceにも出た。クラスメイトの中には「どこにそんな時間があるの?」と驚く子も居れば、反対に宿題をせずに遊んでいる子も居る。sailing教室を勧めてくれた担任のベスは私を「accomplish」と表現した。仕事などを成し遂げる、完成する、果たすと言う意味だ。だが本人はちっとも成し遂げた気分じゃない。友達になったSHIZUはヨットに乗らない分、知り合った日本人の不動産屋からウクレレを習い、彼女の仕事であるネイルサロンを英語の勉強にもなると見学して歩いている。だがしかし、彼女も成し遂げた気分ではないらしく、2人ともまだまだやりたいことが残っていた。

そんなわけで私達は「まだやりたいこと」のひとつ、火水木の午前中しかやっていないと言う「コダックフラショー」を見に行くことにした。授業は12:30からである。何とか間に合うだろう。ラボでテープを聞く宿題を前日の午前中に済ませ、水曜日に出掛けた。良く晴れたこの日は、SHIZUの何度目かの誕生日だった。Hulaはさすがに長年続いているだけのことはあって素晴らしかった。とても無料とは思えない。最後は皆で一緒に踊った。このショーをこれから見る方、私でさえ暑いので帽子をお忘れ無く。もちろん写真は撮り放題。闘牛を見るように?、真ん中の芝生の舞台を囲んで観客席の方が段々に高くなっている。陽射しを遮るものがまったくないので真夏は避けた方が良いかもしれません。

このショーはカピオラニパークと言う場所で行われている。ワイキキのはずれ、動物園側である。誰に聞いても解るので心配は要らない。私はカハラから乗った58番バスの運転手に「コダックフラショーを見たいんだけど」と言ったら「OK、OK」と言われ、停まってから「あっちだよ」と教えられた。図らずも指示された方角に歩いている途中、もうひとつ私が見たいと思っていた「ピープルマーケット」(朝市)に出くわし、何だか得した気分。一緒にバスを降りたおばあちゃんはこちらが目当てだったらしい。ゾロゾロと買い物カゴを引いて人が集まっていた。

2002.03.27

―The Ninth Weekend―

そんなわけで、いくら翌週試験だからと言っても勉強だけと言うのもつまらない。「土曜日の午前中、動物園へ行かない?」と言う誘いに乗ることにした。またもや良い天気で動物園は暑かった。入場料は6ドル。こちらに住んでいることを証明出来れば4ドル。初めてIDが役に立った。SHIZUと別の友達がサルが好きだというので見に行く。日本の動物園で言うところの「猿山」には白い猿の猿山とパンダそっくりのツートンカラーの猿の猿山があった。勝手に「パンダ猿」と名付けた。そう言えば私が知っている日本の猿山は「ニホンザル」だった。道理で探しても居ないはずだ。

「ホノルル動物園」は日本の動物園と作りが違って楽しめた。さすがにあちこちに放し飼い?になっている鳥がカラフルできれいだ。何とシマウマが目の前を走った。私達は豚を追いかけて走った。後ろの景色がワイキキのホテルというのもなかなかだ。100キロを優に越えるだろうゾウガメがムシャムシャとサボテンを食べていた。開園の9時に入場し、お昼まで遊んだ。

さて、再びSHIZUと私だけとなり、近くの韓国料理店で7ドルいくらかの冷麺を食べながら試験対策について話し合った。今度は二度目で少しは要領が解っているので前回のようには慌てなくて済みそうだ。食べ終わった後、教科書を広げて勉強した。店はそんなには混んで居らず、「そろそろ場所を移してコーヒーでも」と会計をすると店の人に「いつでも勉強しに来てかまいませんよ。」と言われた。私達はついでに「この文、正しいですか?」なんて質問した。こちらの人は誰に聞いても皆、親切だ。聞かなくても「何かわからないことがあったら聞いて良いよ」と言ってくれる。

午後4時にDianneが迎えに来てくれると言うので隣のマクドナルドに場所を移し、海を見ながら勉強した。今回のトピックは、「強盗事件」か「歯医者」か「体重問題」なのでそんなにホラを吹かなくても済みそうだった。私は迎えに来てくれた車で約束通りホストマザーと洋服の修理屋に行ったが、SHIZUはそのままビーチで勉強しようとしたらしい。教科書を広げていると次々にいろいろな人から声を掛けられ、しまいにはどこかの知らないおじさんに「チチ」をごちそうになり、海岸でフラショーを見たそうだ。ワイキキビーチで教科書を広げている日本人と言うのも(しかも他の観光客のようにブランド品も身につけず、実用一点張りのリュックを背負って)珍しいに違いない。

私達は服のお直しを頼んだ帰り、「ジッピーズ」に夕飯を買いに行った。ポリスカーが通行止めをしていた。交通事故だと思ったのも束の間、なんと強盗事件だった。撃たれた人は救急車で運ばれたそうだ。教科書のトピックがあまりに難しく現実離れしていると話していた矢先だった。強盗だの、刑務所だの、犯罪だのと言う難しい単語よりももっと実用的な単語を覚えたいと言っていたのだ。「犯罪」はこちらでは最も実用的なトピックらしい。現に家に帰ってテレビのニュースをつけると、アナウンサーはほぼ教科書通りのことを喋っていた。

そうそう、「ジッピーズ」の「チキンプレート」はなかなかである。ケンタッキーフライドチキン大の唐揚げ3個にライス、野菜サラダかマカロニサラダで税込み6ドル4セント。量が多いのはわかっているので先にご飯を取り分け、翌朝お茶漬けにした。

その夜から翌日の日曜日いっぱい嵐のような風が吹いた。日曜日は青空なのに外に出られないほど横殴りの雨が降っていた。神様のお告げだと諦めおとなしく家に居ることにする。朝、今まで見たこともないような虹がラナイ(ベランダ)の目の前に出来ていた。手を伸ばせば届きそうである。左側の眼下の家から右側の家まで180度完全に見えた。私の居る、この場所の人が見るために誰かが描いたような完璧な虹だった。しかも二重にかかるダブルレインボーだ。Dianneに教えると普段は見慣れていて感動してくれない彼女もさすがに驚いたようだった。慌てて部屋に戻りカメラを手にラナイに飛び出した。その後コーヒーをいれて虹を眺めながら飲んだ。最高の贅沢だ。

そうそう、ハワイでダブルレインボーを見るとまたハワイに来られるのだそうだ。私はもう何度見ただろうか。

2002.03.29

―graduation―

火曜日はまず筆記試験。私は前回同様、ヒアリングの部分で本当にバカみたいなスペルミスを犯した。そして翌日水曜日は二度目の口頭試験。私は3番のカードを引き、トップバッターで呼ばれた。相手は日本人のYASUKO。彼女とは事前に練習をしていなかったが日本人同士だと発音が聞き取り易いし、同じ様な価値観だし、彼女は別のクラスでは私よりレベルの高いクラスに居るので安心出来た。今回は特にホラは吹かなかったが話題が歯医者になり、「歯医者が歯を磨くように言っていた」と言って片づけようとしてsayを使い、講評でtellを使わなければいけないと注意された。う〜ん、ムズカシイ。で、その翌日木曜日が各クラス成績発表である。先生も大変だ。つけた成績を生徒ひとりひとりに説明し、生徒自身のサインを取り付けなければならない。私の成績は何とか前回を上回り、筆記が92点、口頭試験は何と98点でその他の項目はすべて最高のoutstanding。後の2教科もすべてoutstandingだけだったがどうせ全員そうなのだろうと思った。よくある話である。ただ翌日の卒業式で皆勤賞があると聞き、それだけは取れそうだと確信した。

そうそう、なめらかに話す「FLUENCY」の授業で面白い歌を習った。言うなれば英語の自己紹介の歌である。担任のベスが卒業式で何か余興をやる人を探し回っていたし、みんなも結構この歌を気に入っていたようだったので「みんなが歌うならギターを弾くよ」と申し出た。ベスは大喜びした。クラスメイトでピアノが弾ける人を見つけ、指揮者まで仕立てて練習した。初めは恥ずかしがっていたみんなも結構真剣で楽しそうだ。何もやらないよりはやった方がずっと楽しい。ベスは音楽室外の廊下で立ったまま、歌を練習している人の中からひとりずつ呼んでの面接を強いられたがそれでも嬉しそうだった。

卒業式当日、ホストマザーのDianneが「ワイキキまで送るわよ」と言ってくれた。式は昼からで午前中マニキュアを塗ってもらうことになっていたのでSHIZUのホテルまで送ってもらうことにした。出掛ける前、Dianneは木の実と小さな貝、葉で編んだレイを冷蔵庫から取り出して首に掛けてくれ「おめでとう」と言って私を抱きしめた。さすがにこのレイはみんなに好評だった。

SHIZUは惜しげもなくプロの技を私に見せ、真っ赤なマニュキュアを塗った後の私の爪にダイヤモンド状の石を手際よく貼り付けてくれた。

丸テーブルにクラス毎に座り、卒業式が始まった。何某かの理由で舞台に立つ人にベスは生花のレイをくれた。私とSHIZUはお揃いのレイを首に掛けた。料理を楽しんでいる余裕はまったくない。あっちだこっちだと記念撮影し、私は首にレイをふたつもかけたまま舞台に上がって、降り、ギターのチューニングに走り、みんなで歌を歌った。結局余興は私達だけだったので大いに盛り上がった。スピーチの上手なベスは壇上で私達の話題を巧みに取り入れた挨拶をした。

卒業証書授与は先生が全員壇上に上がり、呼ばれた順に取りに行く。何の順番だか、なかなか呼ばれない。卒業出来ないことはなかろうと思うのだが結構気になった。呼ばれたのは最後だった。「Perfect Atendance」の金色のステッカーが貼られた卒業証書の他に証書が3枚あった。各教科の優秀賞なのだそうだ。全部で3教科しかないので最高だと言う。(私ってば、やれば出来るじゃん。(^_^;))一人ずつ先生に握手する。担任のベスは私を抱きしめ、ダニエル先生は「よくやった」と私の手を握りしめた。
クラスメイトが横で写真を撮ってくれているのに気づいた。

2002.03.31

―Foods―

食べ物の好き嫌いが無いというのは本当に有り難い。楽しみが倍増する。
ホストマザーのDianneからは「Poor man's stew」の他に地元、ロコの人達がよく食べるという「ショウユチキン」の作り方を教わった。だがしかし、もっと恐ろしいモノがあったのだ。
ある日、夕食後にDianneは「フルーツがないわねぇ」とあちこちを探り始めた。私が買ってきたパパイヤはまだ熟していなかった。彼女は西洋梨の缶詰を取り出して「美味しいデザートを教えてあげるわ」と器を2個並べる。私は缶詰のフルーツの中では梨が一番美味しいと思っているので初めは何が食べられるか楽しみだった。たかが梨の缶詰だ。変化のしようがない。それがDianneは冷蔵庫からとんでもないものを取り出したのだ。なんとチェダーチーズの塊と瓶入りのマヨネーズである。溶かしたチョコレートとアイスクリームなんて組み合わせなら解る。デザートだと言ったではないか。私は「缶詰の梨そのままで良い」と結構真剣になって止めた。だがDianneは引き下がらなかった。「まぁまぁ、本当に美味しいんだから。まずかったら私が食べてあげるわ。」Oh no!私はアメリカのマヨネーズよりも断然キューピーマヨネーズが美味しいと思っている。それがなんと彼女は梨の、種を取ったくぼみに瓶入りマヨネーズを詰め始めた。あー。そしてマヨネーズを詰めた梨を器に並べ、その上からオレンジ色のチェダーチーズを下ろし始めたのだ。

デザートはわずか2分で完成した。名前を「ペアサラダ」と言った。正真正銘デザートなのだそうだ。「レタスの上に置くときれいなのよ。」と彼女は言い、美味しそうに食べ始めた。さて、どうするか。まず記念に(何の記念じゃ。)写真を撮っておく。さて・・・。やはり、とりあえず食べてみることにする。食べてみなけりゃわからない。勇気を出して一口すくう。「あれっ、美味しい。」もう一口食べる。やはり美味しい。「でしょ。」とDianneは満足げである。彼女のふるさとニュージャージーでは誰もが知っているデザートなのだそうだ。チェダーチーズはハードタイプが良いとのこと。

後日彼女は、こちらでは「キャンタロープ」と呼ばれる、どう見てもマスクメロンをデザートに食べる際、何と胡椒をかけてスプーンですくい食べ始めた。メインランドの南側ではポピュラーなのだそうだ。こうなったら何でも試してみよう。マスクメロンなんてそう何度も食べたことがないので何とも言えないがこれも悪くなかった。

世の中には経験してみなくちゃわからないことがたくさんある。

2002.04.02

―After graduation party

みんなで写真を撮り合って卒業式は終わった。
友達はいったん着替えに帰り、カラオケや食事に行くと言う。私は参加できたら後で合流すると言い残し、トイレで着替え、Tシャツにふたつのレイを下げ、指先のマニキュアにはダイアモンド状のキラキラをつけたままバスでハワイヨットクラブに向かった。今度は走らなくても済んだ。3度目の「Friday night yacht race」である。

雲が多く、少し風が強かったからだろうか、今日はクルーが少なかった。その代わりレースらしいレースが楽しめた。ノースショアの近くに住む初対面の人に、どうして英語を勉強しているのか、日本のヨット事情はどうかと聞かれた。彼は2年以内にヨットを持ちたいのだそうだ。仕事でアジアに行く機会が多いのだと言った。私は一気に答えた。実はスピーチコンテストでの「インターナショナルコミュニケーション」と言う難しいトピックに、無理矢理ヨットを取り上げたのだ。幸い担任のベスもヨットが好きだと言うことでいろいろ話して添削してもらった。挙げ句、クラスで選ばれたのでなめらかにスピーチする為に半分ほど暗記した。それからまだ1週間ほどしか経っていない。私はヨットが好きだと言うこと、あちこちのヨットレースに出て英語がいかに必要かを痛感したこと、英語を話すことが出来ればヨットレースもそのパーティーも楽しみが倍増するだろうと思うこと、日本はヨットがポプュラーではなく「金持ちの遊びだ」と考えている日本人が多いこと、港の優先権は漁船に有ってプレジャーボートにないことなどを話した。彼は私の英語はよくわかると言ってくれた。だが、これ以外の話題だったらこうはうまくいかなかっただろう。言葉は紙と鉛筆を前に教科書を読んでいるだけでは上達しないと言うことを身をもって体験している。使わなければだめなのだ。使えばすぐに覚えられる。

ヨットレースが終わり、いつものようにヨットクラブでドリンクを片手に皆でおしゃべりした。楽しかった。誰かがおごってくれたロゼワインがきいた。お隣のHank夫妻が送ってくれると言うし、疲れたのでカラオケには合流せず帰ることにした。ホストマザーのDianneに卒業証書を見せた。我が事のようにとても喜んでくれた。

翌朝はどこかスワップミートでも覗こうかとSHIZUと約束していた。朝起きると、宿題が無いと言うだけでこれほどかと思うほどの開放感に浸れた。Dianneは珍しく朝からバタバタしている。ワイキキでプリンスクヒオのお誕生日パレードがあるのだそうだ。見に行かないかと誘われた。もちろん行く。慌ててSHIZUに電話し、予定を変更してカラカウア通りのデュークカハラモク像前で待ち合わせた。天気が良い。快晴である。陽射しは暑いが木陰は涼しすぎるくらいの、私の大好きなハワイだ。私達は思い思いに路上に腰掛け、のんびりとパレードを見物した。青い空と白い雲と、蒼い海と緑のヤシの前を、黄色や赤のクラシックカーや腰蓑を付けたフラダンサー達がゆっくりと通り過ぎる。のんびりお昼頃まで見学し、お昼を食べ、カハラモールまで送ってもらう。2人でバスに乗りハワイカイへショッピングに行く。SHIZUは何かが切れたように服を買いまくった。

2002.04.08

Aloha stadium

それからが結構忙しかった。まだまだやりたいことはたくさんあるのに日にちがないのだ。先生とホストマザーのDianneからは「何とか次期も継続出来ないのか」と説得された。私はDianneに「引っ越すんじゃなかったの?」と聞いたのだが、「あなたなら明日引っ越すわよって言えば出来るでしょ」と言い返された。ずいぶん気に入られたものである。前に居た女子高校生にずいぶん手を焼いたに違いない。だけどSHIZUとふたり「I hope so,but I have to go back to Japan.」と答え続けた。そんなに資金がもたない。

日曜日はアロハスタジアムへ行く。実はこのスワップミートを見るのは初めてなのだ。出来るなら曇りの日をオススメする。幸いこの日は曇りだったがそれでも一通り回ったらヘトヘトになった。太い針金を使ってヨット型に作り、灯をともすと壁にヨットが浮かび上がるというロウソク立てと3ドルと4ドルの銀製の楽しいペンダントトップを買った。椰子の木にフラダンサーのものととクジラのトップだ。帰り、一緒に行ったこちらで知り合ったアメリカ人の友達の案内で「フォー」を食べに行くことになった。場所はダウンタウンのチャイナタウン。運河沿いのその店にだけ長い列が出来ていた。それでも今日は人が少ない方なのだそうだ。私は「フォー」と言うのがベトナムの麺だという位の知識しかない。前に並んでいたサラリーマン風の日本人を見つけて聞いてみる。「ここはスープが美味しいんだよね。列が出来るのはこの店くらいなんだ。メニューはフォーしかないけど僕は軟骨のフォーが好きでね。」なるほど・・・。友達の話によると店は午後2時ごろまでで、売り切れることも多いという。楽しみだがちょっと心配になって来る。

幸い順番が来てテーブルについた。確かにフォーしかないのだが種類がたくさんあった。まず大きさがレギュラー、ラージ、エキストララージと3種類。フォーにのっている具にもいろいろあって迷う。私はレギュラーで軟骨と牛肉の具を選んだ。店員は牛肉を初めから入れるか別に持ってくるかと聞く。どうやらしゃぶしゃぶのような生の肉らしい。そして何と「これでもか」と言うほど山盛りの、生のモヤシとハーブが運ばれてきた。ハーブはシャンツァイとスウィートバジルだ。どこのテーブルにも運ばれているところを見るとこれを入れて食べるらしい。言われたとおりスープが美味しかった。さっぱりとしていて日本人好みだ。麺はお米で作った細い麺でこれも美味しい。辛い物が好きな人はコチジャンのような唐辛子と別に運ばれてくる緑色の生の唐辛子を入れて食べるのだ。ただ、モヤシとハーブの生はどうも気が引けるのでなるべく早めに入れてスープの熱で暖めるのが良いようだ。しゃぶしゃぶ用のような牛肉は初めから入れてもあとから入れても美味しかった。これで3ドルちょっと。う〜ん、安い。

ワイキキに戻り友達のSHIZUとふたりでウクレレを見に行く。彼女はこちらで知り合いになった日本の不動産屋さんにウクレレを習っており、私もギターと似ているのでやってみたいと思っていたのだ。何しろギターと違って小さいので持ち運びに便利なところが良い。だが、ハイアットホテル2階のウクレレショップに着く前にふたりは靴屋に吸い込まれてしまった。可愛くて日本にはちょっとないようなサンダルが多く並ぶ店だ。ヨーロッパからの輸入品でバックとのお揃いなども並んでおり、SHIZUはリュックを降ろして物色を始めた。結局この日、ウクレレはサンダルに化けた。

2002.04.10

Noth shore again

女性の買い物はほとんどビョーキと言って良い。たいていはブランドもののバックとか、服とか、時計など高価なものなのだが私はブランドものに興味はない。どうやら友人のSHIZUも免税店に並ぶブランドものに興味はなく、ビョーキは靴で、私の知っているだけで6足ほどのサンダルを買っている。服もすでに400ドル以上は買っているはずである。ブランドものではないのでもちろん1着の値段ではないから当然かさばる。私のビョーキは別の物だ。ブランドものではないビョーキの恐ろしいところは単価は安いがかさばると言う点にある。何年か前にアメリカの東海岸へ行ったときは枕だった。それもベッドの幅いっぱいの枕で値段は1000円もしなかったがかさばることこの上なかった。日本にはなかなかこのサイズの手頃な枕はないのだ。その時一緒に行った友達はペーパータオルだった。彼女はスーパーの12ロール入りトイレットペーパーのような巨大なペーパータオルを持ち帰り、税関で不審そうな顔をされた。彼女曰く「日本のペーパータオルは可愛くない上に質が悪い」とのこと。私が去年ハワイへ来た時はクーラーボックスだった。クーラーボックスの一流メーカーコールマンの製品で、日本でならどうみても1万円を超えるような大きなサイズが3000円ほどだった。リュックひとつで来た私は買った物をこのクーラーボックスとABCストアでタダでもらったダンボールに詰めて帰った。JALの手荷物預かりのお兄さんはクーラーボックスの蓋が開かないように、丁寧にガムテープで止めてくれた。なぜかどうしても私の欲しくなるのは「かさばるもの」と決まっている。

今回は鍋に心を惹かれている。それもフランス製の、鋳物と言うか上質のホーローの、一番小さいものでも3キロは有ろうかという重く欠けやすい鍋だ。欲しいサイズは片手で無理に持とうとすると手がぶるぶる震えて持てないほどの重さなのだ。赤、オレンジ、ブルーと色がきれいでハート型や楕円など形も楽しい。それがハワイへ来て「ピーマン型」など見てしまった物だから尚更である。だがしかし、ただでさえ教科書などが増えているのでどうやっても持てそうもない。日本でJAL勤務だったクラスメイトのEMIちゃんは、「お客様、お預けになる荷物はひとつ32キロまでで2個までと決まっています。」と教えてくれた。32キロと半端なのは70ポンドと言うことなのだろう。「ダンボール3、4個に入れて帰ればいいや」と考えていた私はちょっと焦った。とても鍋は持ち帰れそうにない。その代わりロウソクで暖める、小さく可愛い卓上チーズフォンデュ鍋でガマンすることにした。

そんなわけで買い物は自分の首を絞めるだけなので、アロハスタジアムへ行った翌日、EMIちゃんがこちらで知り合ったサーファーの案内で再びノースショアへ行くことにした。1時間ほど砂浜でおしゃべりしながらサーフィンをぼーっと見た後、ハレイワのノースショアマーケットプレイスへ行きウィンドショッピングとお昼。せいぜい買った物はまたまた子供用のサーフブランドのTシャツと銀製のアクセサリー程度。金銭感覚がすっかりハワイになってしまっているので日本ではTシャツ2500円というのは普通の値段なのかもしれないが20ドルと言われるととてもじゃないけど買う気になれない。せいぜい10ドルだ。海を見ながらサンドウィッチを食べ、海岸通りをドライブしながら帰った。去年の夏、クルージングしながら見た小島「チャイナマンズハット」がきれいだった。

2002.04.12

Ukulele

卒業式の4日後、つまりノースショアへ行った翌日は更に忙しかった。
ロイヤルハワイアンショッピングセンターで行われている無料ウクレレ教室に出たいと考えていたからだ。2月に行った時は、寒さを逃れて北米や日本から来た年輩のご夫婦で満員となり参加できなかったのだ。常連と思われる方に「30分以上前に行って名簿に記入し、椅子を確保しなくちゃだめよ。」と言われたものだ。だいぶ混雑も納まったようなのでEMIちゃんとふたり、名簿に名前を書いてウクレレを貸してもらい椅子に座る。コードを練習した後、「ハッピーバースディー」を歌いながら弾き、「ブルーハワイ」もやった。参加者はやはり年輩のご夫婦が多く、それがなぜか皆飲み込みが早い。初めての私達は落ちこぼれそうだった。どうやら皆しょっちゅう参加しているらしく、よく見ると楽譜を見ずにコードばかりか歌詞まで暗記しており、中には「マイウクレレ」を持っている人も多かった。先生はとても熱心で、Hulaの先生と同じく「仕事」ではなく、本当にウクレレが好きなようだった。そこで練習後、「あまり予算はないのですがウクレレが欲しいと思っています。どこで買えば良いですか?」と尋ねた。彼女は目の前のウクレレショップに背を向け、小声で「ワイキキは高いから」と別の店を教えてくれ、秘密だよとウィンクした。

ウクレレ教室の後はクラスメイト達と、授業でインターチェンジャーと呼ばれる私達の会話の相手をするハワイ大学生が食べたことのないお好み焼きを一緒に食べようと言うSHIZUの企画に参加した。総勢13名でカウンターを占拠した。日本の店なので事前に飲み物とサラダ込みで10ドルだと折衝しておいた。皆気に入ってくれたようだった。その後、フラの教室に参加した3名で先生を尋ねる。旅行代理店の傍ら、インディアンであるご主人と一緒にビーズ製品などを売っている店をやっていた。そこで私達はなかなか覚えられないHulaの踊りを店先でもう一度教わり、翌日CDを持って来ておくからまた来ていいよと言ってもらう。この6月にはフラの教室を開きたいのだそうだ。日本語は話せないが本当に良い先生なのでフラを体験したい方にはオススメである。言葉の心配をする彼女に私達は、「体験するからには英語も体験した方が楽しいんだから無理に日本語を覚える必要はないですよ。」と説明した。どのみち英語が解ったところで歌詞のハワイ語は解らない。先生の踊りを真似すれば良いのだ。

その足でHulaのスカート(パフスカートと言う)を作りたいと言う友達を生地屋まで案内した。「ファブリックマート」と言う生地屋だ。山ほどの生地を見るとどうも欲しくなる。それも1ヤード(約92センチ)2ドル99セントと安い。ハワイらしい柄が山ほどあって見ているだけでも楽しかった。そして最後に、朝ウクレレ教室の先生が教えてくれた楽器屋まで行ってみる。なんとそのウクレレは先生の教えてくれた通り29ドル99セントだった。ABCストアで売っているプラスチックのおもちゃウクレレの値段である。だけどちゃんと木で出来ており、先生の言ったとおり練習するには充分に思えたので購入する。この値段なら宴会に持ち込んでみんなで楽しめそうだ。メーカー名は「Hiro UKULELE」と言う。ワイキキは何でも高い。

2002.04.15

High light

その翌日、卒業式の5日後は、ハワイ大学の「ハワイ島ツアー」に参加するために大学に参加費を支払いに行く。午前中時間があったので大学構内のヘアーサロンへ行き、所々髪を染める「ハイライト」をやってもらった。「金色にする?」「と、とんでもない。目立たない色にして。」「目立つ色で染めるからハイライトって言うんだよ。」「いいの、いいの。」真っ黒な私の髪はよく見ないとわからないほど、所々ダークブラウンになった。陽射しに透かすと解る程度で時間が経つともう少し解るようになるらしいのでこれで充分だ。SHIZUと旅行参加費を支払い、慌ててお昼ご飯を食べ、今度は担任の先生に誘われていた大学内の「子供達にどうやって英語を教えるか」と言う日本人の奥さんを持つ講師の講演を聞く。まだまだ人に英語を教えるなんてとんでもないけど興味深かった。やはり発音が難しい。「発音はテープやCDを使えば出来るでしょう」と担任は言ったが、自分に出来ないことを人に教えるのはルール違反だと言う気がする。

そして約束通り再びフラの先生のところへ行く。やはり店先で裸足になり、手みやげのジュースを飲みながら練習した。最後にもう一度、Ipuを交代で叩きながら先生と踊ってもらって記念写真を撮り、抱き合って別れた。この、抱き合う挨拶をハグと言う。お辞儀か、せいぜい握手しかしない日本人には初めは馴染めないと言うよりびっくり仰天なのだが、慣れてくるとお辞儀では物足りなくなる。相手に触れないというのは何かよそよそしいと言うか、社交辞令と言うか、体温やぬくもりや気持ちが伝わらないと言う気分になるのだ。クラスメイト達も皆同じ様なことを言っていた。出来ればこのハグを日本でも流行らせたいのだがそううまくは行かないだろうなぁ。

翌日、卒業式の6日後、ワイケレのショッピングセンターへ買い物に行くと言う企画があったが、ホームステイ先を紹介してくれたお隣のHankの家でパーティーに呼ばれていたので断り、もう一度無料ウクレレ教室に参加した。先生は新しいウクレレのチューニングをしてくれた。その後、友達に頼まれていた「カイトサーフィン」の店を覗く。クヒオ通りの「P.R.T」と言う水着の店がつぶれてしまったと思っていたのだがこのカイトサーフィン屋が買い取ったとのことで水着も並んでいた。カイトサーフィンと言うのはパラセイリング状のカイトをつけたまま、つまり風の力で半分浮いたりしながらサーフィンをするという、結構恐ろしげな新しいスポーツである。どこにも好んで危なそうなことをするヨット乗りのような人達がたくさん居る。

2002.04.17

Dinner party

そもそも去年の夏に初めてヨットの上で知り会ったHankが、お隣の家に住むDianneを紹介すると言ってくれたことから今回のホームステイが始まったのだ。そのHank夫妻が私とDianneをディナーに招待してくれた。ちなみにDianneは「ホストマザー」と言うと機嫌が悪い。「ルームメイトと言ってよ」と言う。私を紹介するときも「ルームメイト」で、「私のところに置いている留学生だ」とは言わない。

パーティーは夕方6時からだった。シャワーを浴び、着替えてお隣へ行く。同じくHankの奥さんが「何かあった時、日本語の方が便利だろうから」と紹介してくれた、日本人の遺伝子を研究していらっしゃるパイナップル博士とそのアメリカ人のご主人がすでに到着しており、私は何のためらいもなくみんなと抱き合って挨拶した。パイナップル博士は生花のレイを「卒業おめでとう」と言ってかけてくれた。何とパーティーは私の卒業祝いらしかった。す、すごい。出来ないながらも日本人同士英語で話すことにも違和感がなくなっていることに気づく。ベランダの、花柄のクッションが置かれた白い籐の椅子に腰掛け、ワインを飲みながら歓談する。お隣なのでわずかに違う角度からのダイアモンドヘッドと夕陽を眺めながらチーズやペーストを頂く。この、透明な乾いた風は日本では味わえない。景色と風だけでも充分なごちそうだった。

「ボブが遅いわねぇ。道に迷っているのかしら。」とHankの奥さん。去年、私達がレースでチャーターしたヨットがボブのものなのだ。そのボブがHankを誘って私達と知り合えたはずなのにボブは今日初めてHankの家に来るらしい。

ボブ夫妻が到着した。Hankは私が始めて来た時と同じように家中を案内した。こちらでは誰の家に行っても寝室やバスルームまで案内し、見せてくれる。来客があると他の部屋や押し入れにものを詰め込み客間以外は締め切る、どこかの国とは大違いだ。しかも、たいていどこの家でもどの部屋のドアも開け放してあるので気持ちが良い。余計に広くも感じる。私も着替えるときと寝る時以外はたいてい部屋のドアを開けて置いた。「どうぞ入って良いですよ」と言う意味らしい。それでも部屋に入るときは2歩前から声を掛けてくれた。考えてみればいちいち家の中でドアを締める理由は何もない。当然寒くもなく、かえって風が通った方が快適なのだ。

吹き抜けのリビングの高い天井に、私の好きなフライファンが取り付けられた部屋へ席を移してディナーが始まった。またもや白いテーブルクロスに花とロウソク。日本の個人の家で食卓にロウソクを見かけることがないのはスペースのせいなのだろうか。こちらでは料理を一度に出さず、例えサラダとステーキだけのディナーでもサラダを食べ終わってからステーキを出すのだ。

ディナーはズッキーニの冷たいスープ、次にサラダ、メインはラムの塊を色とりどりのピーマンと一緒にオーブンで料理したものだった。バスケットに入った暖かいハーブ入りのフランスパンが回ってきた。どれも美味しい。私が着いた早々Dianneが開いてくれたHankの奥さんの誕生会でもラムを使った。その時は骨のところで切り分け、手で持って食べられるように塩胡椒とタラゴンで焼いた物を出した。もちろん私もサラダを作ったりして手伝った。楽しかった。パーティーの準備は日本で考えていたように「面倒でやっかいなもの」ではなく、招く方も招かれる方も楽しいものなのだと知った。誰も無理はしていない。みんな楽しんでいる。その時、塩胡椒で焼くラムの肉にはタラゴンが合うこと、それを食卓に出すときにはミントジェリーを添える物だと言うことも知った。ミントジェリーとは緑色で甘くミントの香りのするゼリーで、Dianneは使わなかったがその他の人は全員、ラムにミントジェリーを付けて食べていた。悪くはないが私には合うとは思えなかった。そう言えば日本ではラムの肉は見かけない。ホームステイは英語以外のことも学べて楽しい。

DianneはHankの奥さんと、歓談している私を見て嬉しそうに話している。どうやら、以前家で開いた誕生パーティーの時は私がみんなの会話についていけなかったのに今は平気で話している、と言っているらしかった。ヨット乗りが8人中6人も居るので話題がついヨットになる。ボブが夏にサンフランシスコからハワイまでのレースに、しかも乗員を2名に限るダブルハンドレースに出るのだと言った。Dianneは「どんなレースなの?」と聞いた。私は「とてもクレージーなレースだ」と答え、残り5人のセーラー達は、ボブ本人まで含めて、手を叩き大笑いで賛同してくれた。

2002.04.19

Big island tour

Hank夫妻がパーティーを開いてくれた翌日から、私は日本人のクラスメイト3人とハワイ島、Big Island2泊3日のツアーへ行った。ハワイ大学内レジャープログラムのツアーで、担任もDianneも是非行くように勧めてくれたのだ。参加者は12名だった。私達4名以外はハワイ大学の交換留学生などアメリカ人の他フランス人、インド人、フィリピン人、ポーランド人などさまざま。コミュニケーションの手段は当然英語しかない。エージェントのブライアンが添乗してくれる。彼は日本人の奥さんがいるくせに日本語が話せない。費用は往復の飛行機代、ヒロとコナ1泊ずつの宿泊代、レンタカー代などを含めて275ドル。高くはない。ハワイ大学に集合し、また大学まで送ってくれる。時間通り集まった私達はブライアンのボロボロのリムジンとタクシーに分乗し、ホノルル空港へ向かう。国内線だと言うのに検査が結構厳しく、IDカードかパスポートを見せなければならなかった。私のキーホルダーについている小型ナイフは見つからなかったが、帰りに友達は化粧ポーチに入っていた眉を手入れするハサミを没収された。持ち込む荷物ではだめなのでバックごと預け直したのだが、なぜかハサミだけがなくなっていたそうだ。ご注意。

参加人数にもよるのだそうだが全員で13名なので、ヒロ空港からは大きなレンタカーのバンを借りてみんなで移動した。もちろん運転はブライアンで、私達は何もせずただ乗っているだけの楽な観光を楽しんだ。彼はエージェントとして何度も来ているから観光名所やトイレの場所などを熟知しており何の不安もなかった。第一、ハワイ島と言うところは本当に大きくて、ヒロやコナ(島の右端と左端)の街以外は何もない、火山と溶岩と山と滝の島だった。日本やオアフ島ではちょっとお目にかかれない雄大な景色や滝を見学した。案内がなかったらあんなにあちこちは回れなかっただろう。

ホテルは2泊とも日本人観光客など皆無の、こじんまりしたこぎれいなホテルだった。部屋も広く文句はない。初日、ヒロのホテルで私達4人は生のハワイアンバンドの音楽とフラダンスを楽しみながら夕食を取った。一杯ずつカクテルを頼んだ後、4人で3皿の料理をシェアしたが充分だった。別のテーブルに運ばれる途中の、通りかかったデザートを見て呼び止め、食後に同じ物をひとつだけ注文した。「ボルケーノ」、つまり火山と言うネーミングのデザートだ。濃縮されたチョコレートケーキ(と私は勝手に呼んでいる)のブラウニーの山の上にアイスクリームがそびえ、溶岩に見立てたストロベリーソースがかかっているというすごいデザートだった。翌朝、再び4人で3人分の朝食を頼んだ私達に、「今朝はボルケーノは要らないの?」と陽気なテーブル係が聞いた。

翌日はヒロからコナへ島を海に沿って半周する。朝市で「ランブータン」と言うライチに似た果物を買ったブライアンはマイクロバスの中でみんなに回してくれた。ライチよりももっとジューシーで美味しい。個人的にはマスカットに近い気がする。パッションフルーツを絞り、手近なビンに詰めただけと言うジュースもごちそうになった。あのパッションフルーツをジュースにするには相当の量が必要だったに違いない。

本当に真っ黒な黒砂の海岸を見た後、ブライアンの案内でシュノーケルが楽しめるビーチへ行く。「ホナウナウ」と言う、一度では覚えられないビーチだ。Tシャツの下に水着を着ていた私は、他の人が着替えたり日焼け止めを塗ったりしている間にブライアンと岩場に立ち、「あそこから入るといいよ」と言う彼の指示通りの場所から飛び込んだ。どうせ日焼け止めなんて泳いだら取れちゃうのだ。ハワイ大学でシュノーケルだけ借りて来ていた。鮮やかな熱帯魚は思ったより大きめだった。だが熱帯魚なら沖縄にも奄美大島にも居る。感動したのはカメだ。両手を思い切り前に伸ばして円を描く、そのくらいの大きさのカメだった。そのカメの甲良に顔が付くか付かないかの状態で一緒に泳いだ。逃げているわけではないので早くはない。フィンをつけていなくても充分一緒に泳げた。ホントはいけないのだがちょっと甲良に触ってみる。こけが生えていてヌルヌルと滑る。浦島太郎はどうやって掴まったのだろうか。あーでもない、こーでもないとずっと一緒に泳いだ。滑らないためには甲良のフチに手を掛けるしかない。何か別のものが私の右の肩に触れた。やっと友達が来たのかと思ったら何と別のカメだった。あとで友達に話したら「仲間のカメを助けに来たのだ」と言われた。帰って話したら「刑務所に連れて行かれる」と言われた。その後私は「カメに掴まって」ではなく、「カメと一緒に」泳いだことにしている。

2002.04.22

To pack up my belongings

ハワイ島ツアーは金土日の3日間だったので、ホームステイ先に戻った私は滞在時間があと月火水の3日間しかないことに気づいて急に慌てた。まず「荷物」である。ボストンバック1つで来た私にとって持ち帰るべき荷物は投げ出したいほどの量に膨れ上がっていた。Dianneと、「そんなに大きくない、持ち上げられそうなダンボール」いくつかに分けようと相談していたのだが、一緒にハワイ島に行った元JAL勤務のEMIちゃんに預ける荷物は2個までだと聞いたため、早急に対策を立てる必要があった。

私がハワイ島から帰ったその日、Dianneは珍しく夕食を食べてから買い物に出掛けるという。Kマートでセールをやっているのだそうだ。「あなたも一緒に行って安くて大きなバックを探してみる?」「もちろん!」と言うことで早めに夕飯を済ませ、ダウンタウンの24時間営業のKマートに向かった。彼女は初めて「車のドアにロックして」と言った。私がフラの練習から夜8時頃に帰って来る時、20分も坂をひとりで上るのは「大丈夫、このあたりは安全よ」と言っていたのだが、やはりダウンタウンは危険なのだろう。

一足先に日本へ帰った友達は「アウトレットショップで一番大きなサムソナイトのソフトスーツケース」を69ドルで買ったと言っていた。Kマートで一番大きなソフトケースは50ドル程度だったがDianneは高いと言い、結局バックは買わなかった。その代わり荷物が多いと言いながらも二人でお揃いのミュールを9ドル99セント、アメリカ国旗柄のビーチサンダルを2ドル99セントの更に1ドル50セント引きで購入した。彼女の家のゲスト用のバスタオルを選び、タンクトップを物色して夜の買い物は最高に楽しかった。

翌月曜の朝は去年レースでチャーターした艇のオーナー、ボブの「ヨットに誘ってくれるかもしれない」電話を待っていた。やっとかかって来た電話は、「明日ヨットでSand barへ行こう」と言うものだった。Sand barと言うのは何か船がないと行かれない、沖にある砂州のことだ。それはヒザくらいの深さの真っ白く広大な、何というか夢のような場所で、資生堂の夏のコマーシャルと言えば想像出来そうなところなのである。去年の夏、レースが終わった後にも私は一度経験していた。船酔いをするほどの距離はない。「友達も誘って良い?」「どんな友達?」「日本人のクラスメイト。」「良いよ。君のホストマザーのDianneはどうかな。」電話をそのまま置いてDianneに聞きに行く。彼女はヨットに乗ったことはない。慌てて手帳を調べている。「夕方6時までならOK」「じゃ、電話替わって」結局行くことになったらしい。「水着とタオルが要るんですって。」なんて言って慌てている。「そうね。」と生返事をしていると「ダメよ。SHIZUも誘うんでしょう、教えてあげなきゃ。」と1本取られた。

とにかく今日中にどうしてもバッグの調達をしなければならない。仕方がないのでワイキキの「インターナショナルマーケットプレイス」へ行ってみることにした。「日本語を話しちゃダメよ。英語でまけさせるのよ」と忠告される。ナルホド。ワイキキに住んでいるSHIZUと待ち合わせる。私が持ってきたボストンの、3倍くらい収納出来そうな、布製で横長のボストンを見つけた。しかも片側に2個の車輪と収納式の持ち手がついている。もともと回った店の中では一番安かったが、言われた通り英語で30ドルまでまけさせた。これなら畳んで平たく出来るのでバスにも乗れるだろう。

SHIZUはどうせ明日一緒にヨットに行く訳だし、「一度家で夕飯でも」と言うことになっていたのでそのまま家に連れてくる。彼女は一人暮らしでロコの料理を知りたいと言っていたのでDianneはお得意の「ショウユチキン」を作ってくれた。私とは別のゲストルームに案内し、夜景を見ながら夕食を取り、3人でテレビを見た。

翌朝、SHIZUは「朝食を外で食べたい」と言うのでラナイ(ベランダ)へ出る。朝は少し肌寒いくらい。そう言えばここで朝食を取るのは初めてだ。眼下に見下ろすダイアモンドヘッドと町並みがきれいだ。トーストとサーモンクリームチーズと紅茶だけの朝食だったが妙に美味しかった。Dianneもシリアルボールを持って現れ、二人は今日の船酔い対策と日焼け止め対策について論じていた。どちらも私には関係なさそうだと言って二人から非難を浴びた。

2002.04.24

To go to the Sand Bar

朝食後、SHIZUと一緒にDianneの車に乗り、ボブのクルーと待ち合わせるためハワイカイのスーパー前まで行く。待ち合わせるべき人とは誰も会ったことがなく、Dianneは、「何とか言うカッコイイ俳優に似ていると言ってたけど、たぶん冗談よ。」と笑っている。こちらでは良く「私はマリリンモンローに似てるの。」なんて突拍子もない冗談を言って待ち合わせをするらしい。信じると大変な目に遭う。日本でも流行らせよう。そのマイクはスポーツカーに乗って来ると言うことと、現役のパイロットと言うことしかわかっていない。だがしかし、そのマイクと言うパイロットは逆にDianneのクラシックカーを見つけて横のスペースに滑り込んできた。オープンカーにこぼれそうなほどの荷物を積めたマイクはちょっとお腹の出た、典型的なアメリカ人のおじさんだった。2台でボブの自宅に向かう。

ボブはすでに朝早くからヨットに行っているそうで奥さんに家の中を案内してもらう。やはりここも眺めが良く、家の中の空間が広い。あちこちにヨットの趣味が伺える小物が置かれている素敵な家だ。Dianneは「あなたなら日焼けしても大丈夫でしょ」と、私をオープンのマイクの車へ移動させ、ボブの奥さんを自分の車に乗せた。私は風に負けないくらいの大声で話をしなければならなかった。

マリーナで再びボブと抱き合って再会する。最高の天気だった。舵を任された私を見て初めはちょっとびっくりしていたSHIZUも、同じく初めてのDianneも、不安を感じる間もなくSand barに着いた。去年とまったく変わらず、ブルーな海のまん中の広大な白い砂浜が、浅いエメラルドグリーンの海に透けていた。ヨットを着けたとたん、ボブとマイクは「カメだ、カメだ」などと言って子供のように飛び込んだ。ヨットの前半部から降りれば歩けるほどの深さで、後ろ半分は10メートル以上の深さと言う変わった場所なのだ。ボブの奥さんが作ってきてくれたサンドウィッチと、マイクのサルサとタコスチップと、私達の持って行ったワインとチーズを食べ、Sand barをバシャバシャ歩き、Sand barの周りを泳ぎ、ビールを飲んだ。

帰国を2日前にして最高の贅沢を味わった。ゴキゲンだった。帰り、舳先のバウパルピットの上に立ち、ブームに座った。翌日SHIZUは「動いていて揺れるヨットの上で猿飛びエッチャンのようだった」と私を評したが、いくら何でも「猿飛びエッチャン」は古くて他の子には解ってもらえない。しかも確かに「動いて」はいたが「揺れて」はいなかった。私はまた「日焼け止めを塗らないと大変なことになるわよ」とDianneに怒られた。彼女とSHIZUは何度もお互いに塗り合いをし、帽子を被り、SHIZUは水着の上にシャツまで着ていたが、赤く腫れなかったのは私だけだ。ヨットに乗る度、いちいちそんな面倒なことはしていられない。

2002.04.26

To leave for home

帰国前日、とにかく最後にダイアモンドヘッドに登ることにした。夏だと暑くてチャレンジする気になれなかったので初めての経験だった。バスパスは3月末で切れているので1ドル50セントを払ってカハラからバスに乗る。ほんの10分だ。SHIZU達は逆にワイキキから10分ほどバスに乗り、登山口で待ち合わせる。

山登りと言う感じではなかった。坂も余り急ではなく、見晴らしも良く、所々に写真を撮りたくなるような休憩所があり、トンネルも持っていた懐中電灯をリュックから出さずに終わってしまった。ただ、ハイヒールの人を見かけたがあれじゃちょっと苦しそうだ。売店や土産物屋はないので水もあった方が良い。ダラダラあちこち止まりながら歩いても30〜40分だろうか。もちろん天気も良い。頂上からのワイキキの眺めは一見の価値がある。特に真下の灯台からワイキキに続く海岸線がきれいだった。

さて、明日日本に帰らなくてはならない。ダイアモンドヘッドから降り、みんなでアラモアナS.Cへ行ってフードコートでヤミーコリアンバーベキューのミニプレートを食べた後、ウクレレのCDを1枚買い、観念して荷物作りにカハラへ戻る。「坂を上るバス」の時間を確認し、ドラッグストアでハワイアンホストのチョコレートを3箱だけ買う。荷物作りは夜までかかった。新しく30ドルで購入した大きい方のバックは70ポンド(32キロ)ギリギリ。持ってきた小型のボストンバックは教科書類だけでいっぱいだ。仕方がないのでその他はひとつにまとめて機内持ち込みとする。機内持ち込みは教科書のボストンバックとほぼ同じ大きさ。Oh,No!例え1ヶ月かかる船便であっても小型のダンボール1箱で50ドルほどの送料がかかるので、30ドルのバックを買ってでも持ち帰った方が安い。しかも30ドルのバックにはダンボール2箱分は入りそうだった。船便ではなく航空便だと1箱100ドルもするのだ。当然、郵便ではなく宅配業者を使った場合はさらに高い。

帰国の朝は良い天気で暑かった。何とか荷物を二人がかりでDianneの車に積み込み、空港まで送ってもらう。11:30のフライトなので2時間前にチェックインせねばならず、9時に家を出る。Dianneは高速道路を走らせながら、「楽しい時間が過ごせたわ」と言った。この言葉以外はどちらかというと「じゃ、来週ね」と言う感じで、私もぜひ見習いたいと思う。車を停める時、「荷物が多いから運んでもらえばいいわ。チップを用意して」と最後のアドバイス。二人がかりだった1個70ポンドの荷物と教科書入りのボストンは軽々と台車に乗せられ、JALのカウンターに運ばれた。Dianneはちょっと手を振って走り去った。荷物の検査はあっけなく済んだ。ゲートチェックが厳しいため長い列が出来ている横で、生のハワイアンバンドが演奏していて待たされた気はしなかった。巨大な手荷物も何のことはなく通過した。成田行JAL75便は正月明けの行きに比べてずいぶん混んではいたが「1人か」と念を押されたと思ったら3人席を独り占めさせてくれた。座席ごとにテレビがついているタイプの飛行機で、隣の座席の画像を機外の景色に設定したまま、私は3本も映画を楽しんだ。行く前にいろいろ調べたにもかかわらず、結局ハワイでは日本のテレビ番組も、新聞も、雑誌も、文庫本でさえ何も見なかった。和食も日本映画も何も懐かしくはなかったので、敢えて英語版の映画を見た。あんなにわからなかったはずなのに、日本に帰ったら見られなくなるのかと思うと妙に悲しい。

2002.04.28

-Return to my house-

とうとう成田に帰って来てしまった。
巨大な荷物はベルトコンベアーから降ろすのが難関だった。荷物はどれも開けられもせず、簡単に通関した。ヨット仲間が迎えに来てくれていた。「自由にペラペラと日本語を話すこと」に罪悪感を感じ、一瞬言葉に詰まった。どこかで担任かホストマザーが聞いているような気がした。東京は思ったよりずっと暖かかった。そのまま羽田に送ってもらう。「国内線にしては荷物が大きすぎるのではないか」と言う最後の不安もすぐに消えた。またまた巨大な手荷物を持ってゲートに向かう。荷物を持って歩いた辛い距離は1番が羽田で鹿児島空港が2番だった。3番は成田で、国際線を降り税関までの間にモノレール状の電車に乗らなければならなかった。ホノルル空港で車から降りた後は2ドルのチップで何も持たず、機内までは手荷物さえもカートに乗せた。日本の国内線にはカートがないのだ。

今年は桜も早く咲いたそうで思ったより日本は寒くなかった。だがしかし、ボケている。初めは時差ボケだと思い、次に疲れかと考え、ひょっとしたら風邪をひいたのではないかとも思ったが1週間以上直らない。食欲はあったが体重は落ちていた。外出もしなかった。日本に戻って1週間で、車を運転したのは1度だけ。ハワイでは運転しなかったのだがどうも道に出るとき左から見てしまう。歩いて道路を横断する時も同じだ。ハワイに到着してすぐ、あちらでは車が左側通行で、しかも赤信号でも右折可のため、いつものように「右を見て」から横断しようとするととっても危険だった。それが反対に身についてしまったらしい。たった3ヶ月なのに結構重症である。

日本に帰って来て一番ショックだったのは「空の色」だ。人に「晴れている」と言われても、天気予報がそう言っても、晴れている気がしない。日本の晴れた空はブルーじゃなくて限りなく白に近い水色だったのだ、と今頃気づいた。ハワイでホストマザーが、少し雲が多いだけの空を見上げて「陰気な天気ね」と言っていたのを思い出した。

行く前は、「どうせ3ヶ月じゃ英語なんてたいして覚えられないわけだし、どうやったらもっと長く、またはもう一度行くことができるか」とばかり考えていた。だがしかし、たった3ヶ月だって毎日使っていれば多少は覚えられるのだ。今は「どうやったらこのまま持続出来るか」ばかり考えている。今、また3ヶ月同じように授業を受けたら倒れてしまう。そんなに覚えられた訳じゃないのに、ほとんど守りの体制だ。何もやる気が起こらないのでハワイから持ち帰った映画のビデオばかり見ている。もちろん字幕スーパーなしの英語である。当然、全部わかるわけじゃないけどそれなりに面白い。反対に、全部は解らないので何度見ても飽きない。

今はホストマザーと毎週見ていたテレビ番組の続きが気になって仕方がない。「24」の人質はどうなったか、「ER」のドクターは本当に病気で死んでしまったのだろうか。私は日本ではほとんどテレビは見ない。映画に限らず、テレビ番組は断然アメリカの方が面白い。