| (第六段・留学までの道編) | |
2001.09.25 |
−英会話 T− 「またぁ、あなた何考えてるの、いきなり−。」 と、回りの友達からはきっと言われるに違いないことを、私は1年以上も前から考えている。 自分で言うのも何だが私は慎重派である。臆病と言っていい。たった1000円のものでも衝動買いすら出来ないタチなのである。だから何かしようと思った時には考えたり、調べたりする時間が長く、パソコンひとつ購入するのに1年もかかったりして「腐っちゃうよ」と言われるほどなのだ。だから「思いつき」ではない。 一般知識として「もっと英語を勉強しなくちゃね」とは結構多くの人が思っている。だけど私を含めた多くの人が実行出来ずにいる。何となく英会話教室へ通ったり、本屋で「すぐに役立つ英会話」なんて本を買ったりしている。だけど海外旅行へ行って「ハンバーガー」の一語が通じなかったりするのだ。中学3年、高校3年、それに大学と合計何年間も英語の授業を受けている。だがしかし、ハンバーガーひとつ買えない。 一般知識の枠を超えて必要に迫られたのは、いや今までの海外旅行より更に思い知ったのは、去年の夏だ。 「英語なんて出来なくても平気よ」と言われる、確か3回目かのハワイだった。アサヒスーパーカップヨットレースに出場した。 チャーターしたヨットにひとりのアメリカ人クルーが居た。彼は当然英語しか話せなかった。同じヨットで一緒に頑張った。良い成績を取りたいと思う気持ちは同じなので繰船についてはほぼ意志の疎通が測れた。だがレースが終わった後がいけなかった。乏しい私の英語の知識では自分の気持ちを表現することすらおぼつかない。ただ楽しいのではなく、どんな風に楽しいのか、Thank youだけではなく、どんなに感謝しているのか、伝えられないのはもどかしい。特に、人間大好き、おしゃべり大好き、の私には辛い。当然パーティーでは他の艇のクルー達も大勢居る。声もかけられる。ここで英語が話せないのは何だか間違っていると言うか、何か損をしていると言うか、とてももったいない気がしてしまったのだ。 |
2001.09.29 |
−英会話 U− 私は翌年も必ずヨットレースに参加しようと決意していたので、毎週NHKで放映される英会話番組なども見、以前から市の英会話教室にも通ってはみたものの、めざましい進歩?は見られなかった。ついでに、1年がかりで図書館に通い、普通のガイドブックから歴史、小説まで読みあさったものだからどんどんハワイに魅せられていった。 そして今年。去年とは比べものにならないくらい更に、英語が話せないことを痛感した。今年ヨットを貸してくれたのはノースウエストをリタイアしたBOBさん夫妻で、レースが終わってからもクルージングに連れていってくれたりと本当にお世話になった。初日の、「男性社会と言われる日本なのに、なぜ女性がチームキャプテンなのか」と言う問いに、最終日まで答えられなかった。一緒にいる時間が長ければ長いほどスムーズに会話が出来ないと言うのは「針のむしろ」状態だ。今更「ノアの箱船」を呪ったところで解決策にはならない。だがしかし、毎週テレビの英会話番組を見るより、たった2週間の滞在の方がずっとレベルアップしたと思えた。 1年前から考え続けていた思いが、自分でもどんどん形になっていくのを感じた。「留学」なんて大げさなもんじゃないけど、しばらく海外へ行きたい。英語圏の土地の中でもハワイへ行きたいと思っていた。ハワイが英語を勉強する場所にふさわしいかどうかは贔屓目に言っても賛否両論で、ともすれば賛成派は少数かもしれないけれど私はそれでも良かった。テレビやラジオからは英語しか流れず、ハムを半ポンド買うにも英語を話さなければならない状態に自分を置いてみたいだけだ。今回も免税店にも行かなかったように、どうせ日本人観光客の多い所へは行かない。私のような「おしゃべり大好き」は何とかして相手と話したいと思うだろう。高い受講料を払ってわずか週に数時間だけしか勉強しない日本の語学学校へ行くよりは幾分マシだと思う。起きているときは四六時中英語を勉強しなければならないハメにするのだ。 ロサンジェルス、サンフランシスコ、ワシントンへも行ったことがあったが、やはりハワイだ。「大がかりなので行かれない」よりも「行かれる」ことが私には大切なのだ。短パンとTシャツにビーチサンダルかデッキシューズで事足りるのは私の生活感覚にピッタリだった。あとはアロハが一枚あれば、コートなどかさばる荷物が要らない。荷物が少ないと言うのは必須条件だ。交通の便も良い。ロスのように隣の家へ行くにも車で走らなければならないところと違ってたいていは徒歩。あとは何処へ行くにも1.5ドルのバスが整備されているので知らない場所で車を運転しなくて済む。そしてこれが一番の理由かもしれない「風」。一度あの爽やかな風を感じてしまうと病みつきになるのだ。 |
2001.10.02 |
−英会話 V− すでにある程度の下調べは、大量の本を読んで書き留めておいたたことで自然に蓄積された。情報は多いほど有り難いので事前にあちこちつてをたどって、今回のハワイでは「知り合いの知り合い」などと言う人とも会うことが出来た。 まず、長期でアメリカへ行くにはビザが必要となる。いろいろな種類のビザがあるが、一番入手しやすいのは「F−1」と呼ばれている留学ビザだ。インターネットで調べたところ最初の難問が見つかった。ビザを取るための最難関は「日本へ戻って来なければならない理由」だった。休学、もしくは休職証明がこれにあたるが、今時私を休職させてまでアメリカに出してくれる企業そのものがあるとは思えない。まぁ、何をやるにも障害や困難があるのは当たり前なので、とりあえず「ビザは取れたらラッキー」と思うことにした。ビザなしでの滞在は最高3ヶ月とのことなので「まず3ヶ月」と言うプランを考える。今考えてみると、そもそも今年ハワイに行く前からここまでは心の中で決まっていたかもしれない。 次に、「どこで勉強するか」だ。日本にもたくさんあるような「NOVA」とか「ジオス」など、私立の語学学校はなぜか気が進まない。読みあさった本かホームページの中に、夜間使われてない高校などの校舎を利用して開催されるカルチャースクールのことが書かれていた。しかも安い。夜と言うのが気になるが調べておくに越したことはない。「知り合いの知り合い」にお願いしてとりあえず資料を入手してもらった。 もうひとつ、図書館の入り口のパソコンで「ハワイ」と検索して片っ端から読んだ大量の本の中に、定年退職間近の女性が執筆した「年金・月21万円の海外二人暮らし/ハワイ・バンコク・ペナン」という本があった。早期退職して海外で友人と年金暮らしにチャレンジする実話だ。その本のハワイ編に「ハワイ大学」のことがほんのわずかに書かれていた。州立のハワイ大学で外国人向けの英語の授業が年に4回開かれているのだそうだ。筆者はその「NICEプログラム」に参加したのだという。「10週間、それなら3ヶ月以内でちょうど良いなぁ」と思い出し、もう一度その本を借りた。授業は「とにかくきつい」と書かれていた。わからない言葉の授業なのだからきついことは容易に想像できた。だが、公立の大学という部分に惹かれた。 |
2001.10.06 |
−英会話 W− それで今年、ハワイから帰って来てからインターネットで「ハワイ大学」を検索してみた。やっと見つけたページを手当たり次第デスクトップに取り込み、10枚ほど印刷した。その紙を電子辞書と一緒に持ち歩き、何が書かれているか解析した。簡単にわかる位なら英語を勉強する必要などないのだと自分に言い聞かせた。 当然すべてわかったわけではなく、しかも間違って理解しているかもしれないが「何だか面白そうだぞ」と思った。10週間の授業の中には「見学」とか「遠足」の課外授業や、「ハワイ大学学生とのディスカッション」などが含まれているようだ。年4回の授業の開催時期と費用に関しては、いくら何でも数字だったので理解出来た。 まだまだわからないことがあった。と言うよりわかっていることの方が少なかった。 最初の疑問はラジオ番組を聞いていて半分解決した。 ビザがない、つまり観光として渡米する場合の「3ヶ月まで」と言う期限に回数の上限はないのだろうか、と言う疑問だった。つまり「3ヶ月未満であれば何度でも渡米出来るか」ということである。最悪、年間合計で3ヶ月がMAXなら、7月に2週間滞在している私はあとギリギリ10週間と言うことになる。ラジオ番組では「吉」と出た。一度に3ヶ月未満であればそれ以上の決まりはないと言う放送だった。 本屋で見つけた「ハワイゆったり滞在計画」(地球の歩き方)と言う本がそれを証明してくれた。入国管理官へのインタビューの記述だった。「90日以内であれば何度でも良い。ただし合計滞在日数が180日を超える場合は突っ込んだ質問やちゃんと滞在費を持っているかが確認される。」とのことだった。年間180日以上と言うことは日本に居ない時期の方が長くなるのでこれでは常識的に言っても「観光」にはならないのだろうと理解できた。 「留学」とは言わず、私の気に入った「ゆったり滞在計画」と言うその本には「授業開始の3〜4ヶ月前までに行動を起こせ」と書いてあった。一番近い開講日は来年の1月11日だったので、とりあえず9月11日までにはパンフレットの請求くらいしてみようと心に決めた。 |
2001.10.09 |
―英会話 X― 朝起きて、ご飯を食べながらメールや新聞を読み、会社から帰る途中で買い物をし、夕食を作って食べ終わると1日の大半が終わってしまう。仕事が忙しかったので疲れたとか、安売りの卵を買いに行かなきゃとか、そろそろトイレットペーパーが切れかかっているとか、メールの返事を書こうとか、読んでいる本の続きが気になるとか、一般的にも人はやることがたくさんある。休みの日は洗濯をするとか、身体を鍛えようとか、ヨットレースに行くとか、陶芸をやるとか、福祉施設のお祭りに参加しようとなるとますます残り時間が少ない。そこを断ち切って、普段とはまったく違う別のこと、しかも、苦手なこととか普段全くやったことのない、どうして良いかわからないようなことをするにはパワーが要る。 やっと何とか心に決めた通り、4ヶ月前の9月11日までに「ハワイ大学留学プログラム」の案内請求をした。ホームページの中に記入フォームが見つかった。やってしまえば簡単なのだが人間、やり方がわからないことは敬遠したくなる。 だがしかし、大変な事件が起こった。その案内請求をこの日までにしようとしていたその日、テレビのニュースを見ていた私は2機目の飛行機が貿易センタービルに突っ込んだ画像を、リアルタイムで見てしまったのだ。 当然直接被害に遭われた方も、知り合いが被害を受けた方も、近くで経営していた店や取引先の会社にまで、何と言って良いかわからないほどひどい事件だ。しかし被害はそれだけにとどまらず、本土とは離れたハワイやグァムに行っている人までが何日も帰国出来なかったり、旅行を計画していた人や旅行会社、観光業界にまで被害が及んだかと思ったら、ヨーロッパの老舗航空会社が不況に加え人々の飛行機離れからたちゆかず潰れてしまった。 多額の支払いを迫られている保険会社もまず船や飛行機での輸送貨物の保険を82%値上げした。普通は戦争などが起こった地域のみが値上げされるのだが「世界中が危ない」と言うことなのだろう。私が勤めている損害保険会社の社員は海外出張を見合わせ、アメリカ系などのホテルや建物に近づくなと言うおふれが出た。事件とは一見直接関係のない世界の一般市民までもが被害を受け始めている。ちなみに、今後仮に海外へ行ってテロの被害に遭っても、それがアフガニスタンなどという危険そうな地域ではなく、アメリカやヨーロッパだったとしても、「海外旅行傷害保険」では補償されない。「戦争危険担保」と言う、特約条項が必要となるのだ。 これはもう「何かしようとした時必ずつきまとう困難」の域を遙かに超え、個人の力ではどうしようもない。 |
2001.10.12 |
―英会話 Y― だがしかし、国際郵便事情の悪い中、ハワイ大学からエアメイルが届いた。もちろん、テロ事件に関することには触れられていなかった。ホームページを冊子にしたような案内だったが、嬉しいことに数枚挟み込んであるA4用紙のうち2枚に日本語が書かれていた。1枚は英語と半々の健康診断書、もう1枚は日本語の簡単な説明だった。 何日間かぐずぐずしてはいたが、私が「どこにそんなことする時間があるのだろう」と思えるほどパワフルな市の英会話教室の仲間達と先生は「勉強しに行く」ことに大賛成のようだった。案の定、皆どうして私が躊躇するのか理解出来ないと言う口振りだった。 どのみち、自分自身でもいつか行きたいことに変わりはなかったので準備だけはしようと思い直した。日本語の案内を読んで、私の解釈に違いがあることがわかった。「3ヶ月以内の滞在」で、尚かつ「1週間に18時間以内の授業」ならビザ不要に間違いはないが、それでもハワイ大学のプログラムを受講する為には留学ビザが必須とのことだった。どうせ「出来れば欲しい」ものだったし、受講に必要ならそれだけ取れる確率が高くなる、と良い方向に考えることにした。 ◆ 手続き関係 ◆ 英語の勉強 ◆ 体力増強 どれも非常にやっかいだった。「体力増強」は毎朝駅までの30分を歩くことで1日1万歩を達成するのでそれで良しとする。「英語の勉強」はバスを避けて電車通勤しているため当面は通勤時間と昼休みをあてる。更に問題なのは「手続き」だった。平日の昼間、自由になるのはその昼休みだけなのだ。 |
2001.10.15 |
―英会話 Z― その留学手続きの手順はまず、ハワイ大学に必要書類を送り入学申請する。入学が認められると「I−20」と言うビザ取得に必要な書類が送られてくる。今度はその書類と他の必要書類を併せて日本のアメリカ大使館へビザの申請に行く、と言う気の遠くなるような道のりだ。それでもビザがおりると言う保証はないのだ。 □冊子付属の申込書 □添付の健康診断書 □預金残高証明書 □入学費用 ハワイ大学への申請だけでもこの4つが必要だった。いちばんやっかいだと思われるのがペラペラした1枚の「健康診断書」。これが日本で世間一般に言う健康診断と違い「はしかの予防接種」と「ツベルクリン検査」の2項目しかない。大昔、記憶のどこかで受けたことがあると言う程度でいつどこで受けたかなんて知る由もない。はしかの予防接種は1957年以前生まれ、または受けた記録がある、このふたつ以外であればもう一度受けるように、と書かれていた。 電話では埒があかず、昼休みに会社の診療所へ走った。先生はその診断書をじっと読み、「はしかの予防接種ならねぇ、何とかなるんだけど、今時結核は流行らないからねぇ」と歯切れが悪い。そうか、ツベルクリンは結核の検査だったんだ。結局ツベルクリン検査が出来ないとのことで保健所に相談するようにと追い返されてしまった。 翌日の昼休み、今度は保健所に電話する。「毎週水曜日に行われている検診でツベルクリン検査は出来るけど、48時間後の検査結果が必要なので2日間来てもらわなければなりません。」とのこと。「はしかの予防接種に関しては「母子手帳」などに記載があれば先生が転記してくれることもあるのですが」と言われてしまった。「母子手帳」?!自分の母子手帳なんて見たこともなく、果たしてそんなものが存在するのかも怪しい。 更に翌日の昼休み。東京の実家に電話する。あいにく母は不在で父が「母子手帳?誰の?」と言う当然の反応が帰ってきた。携帯電話をかけている私の近くにいた同僚が思わず振り返り、「妊娠したんですか?」と聞かれる始末。夕方母からの電話では「母子手帳には当時義務づけられて居なかったはしかの予防接種記録は欄すらなく、日記になら記録してある」と言う完璧な答え。 そんなこんなで未だに書類ひとつ揃えられていない。 |
2001.10.19 |
―英会話 [― そうこうしているうちに、本当に戦争が始まってしまった。 仕返ししたい気持ちももっともだが、戦争をして良いことなどひとつもないと思う。悪いことをした人を裁くはずの法はどこに行っちゃったんだろう。だけど誰も私個人の意見など聞いちゃくれない。しかも炭そ病まで広がり始めた。これが本当にテロとか戦争ならば、人としてやってはいけないことを踏み越えてしまったと言うか、もってのほかだと思うのは、私だけなのだろうか。戦争するのなら時代劇みたいに「やぁやぁ我こそは」と名乗って、「これこれの理由であなたの首を取りに来た」と双方合意の上でやってはくれないものだろうか。 戦争をしている国に、しかもまた近いうちにテロが起こるという緊張の高まった時に、留学の話もないものだ。だけどハワイの州知事はわざわざ日本まで来て安全をアピールし、「どうか観光に来て下さい」と言っている。観光は相当な打撃を受けているのだろう。こんな状態で屈するのも何か腑に落ちないと言うか納得出来ないので、出来るところまでだけでも準備しようと思い直した。 そこで実家から、くだんの「母子手帳のコピー」なるものを送ってもらう。保健所に電話し、午前半休を取り、コピーを持ってツベルクリン反応注射をしてもらいに行く。費用はさすが公の機関だけあって検査料250円と診断書料500円だけだった。48時間後、つまり翌々日、検査結果を見てもらうためもう一度会社を早退する。別段どうってことのない検査なのだが「検査」と言う言葉の響きが何か憂鬱な気分になる。それが「注射」とか「健康診断」などと言うから尚更である。 実はツベルクリン反応検査はたいていの日本人なら「陽性」になるとわかっているのだそうだ。「陽性」と言うのは体の中にその菌が居ると言うことになるのだが、日本では法律で予防接種が義務づけられている以上、わざと体内に菌を入れているのだから「陰性」にはなりにくいとのこと。「陽性」だとレントゲン検査まで受けて「あなたは結核ではありません」と証明してもらわなければならないので更に憂鬱だった。 翌々日の今日、指定された夕方保健所に行った。わざわざ私のために開けているのかと言うくらい誰も居らず、名乗る前に名前を呼ばれた。医者はノギスで人の腕の腫れを測り、筋書き通り「レントゲンを取って下さい」と言った。レントゲン撮影と言うからには、今度は結果を聞くためだけにまた来なければならないかとゾッとしたが、レントゲン室でも私だけを待っていたようで、撮影後1300円の支払いをしている間にレントゲン室のおじさんがレントゲン写真をヒラヒラ持って現れた。その間わずか1〜2分である。これが大きな病院であれば「1週間後」と言われるところだ。みなさん、こういった検査は安くて早い保健所がオススメ。医者は母子手帳のコピーを写し、丁寧に指定の用紙に検査結果を書き込み、サインをしてひとつひとつ説明してくれた。 出来てしまえば大したことはないのだが、これで申込書類のひとつがやっと整った。 帰りのバスで、「千里の道も一歩から」と言う言葉を思い出した。 |
2001.10.28 |
−英会話\− 一歩目を踏み出した「千里への道」ではあるが、すでに急に自分が崖っぷちに立たされていることに気がついた。留学希望先であるハワイ大学の申込みは一番やっかいな「健康診断書」が揃ってしまうとあとは何のことはない、申込書の記入と銀行預金残高証明書、授業料だけなのだ。郵便局に勤める友人が英文の残高証明書の作成と外国為替を組んでくれることは約束してくれており、「都合の良い日に郵便局に足を運ぶ」だけで良いことになっている。 あとは一番苦手な「決断」のみ。 東京海上を始めとする損害保険会社は、「その国の国土で戦争をしていない」アメリカやヨーロッパなどで万一テロ事件に遭遇した場合にも海外旅行傷害保険で担保する、つまりカバー出来ることになったと発表した。だがしかし、現に戦争は行われており、炭そ病も広がっている。ハワイではバックパッカーに人気でワイキキで一番安いとされていた「バナナバンガロー」と言う宿や旅行会社が、テロの影響で潰れたらしい。 片や、相変わらず「1日1万歩」の体力作りは続いている。 本屋で、NHKテレビで有名な「携帯版 とっさのひとこと辞典」と言うsituation別の文庫大の本と、「英会話なんて中学英語−かんたんじゃん」と言う、イメージをイラストで解説している初級テキストを購入し、カンを取り戻し何とか勉強する方向に向かおうと赤鉛筆を片手に2度読んだ。図書館からはちょっと面白そうな幼児向けの「My Visit to the Aquarium」という絵本を借りてきた。だが、「来週はテストだ」とか、「どうしても今月中に」などと追いつめられないとどうもいけない。 10月も後半だと言うのに鹿児島ではまだ半袖でバスにはクーラーが入っている。昨夜は友達の家で今年初の鍋を食べたが汗をかいてしまった。だが休日の今日は曇りがちでこれ以上洗濯も出来ない。もう一度読み直したハワイ大学の申込書には「ビザ取得の手続きもあるので2ヶ月前には申し込むこと」とあった。さて、「申込書」を書いてみるとするか。 |
2001.11.03 |
−英会話 ]− ついに申込書も書き終わってしまった。 こういった類の、日本の申込書記入よりずっと簡単だった。住所、名前、国籍、出身校をローマ字で書いて希望クラスにチェックマークを入れ、お決まりのサインをするだけだった。難しかったのは出身校を「西暦でいつ卒業したか」数えること。面白かったのは授業料を誰が負担するか、と言う問いだった。自分自身、つまり「self」か、親、またはスポンサーかに印をつける。日本の学校だったらこんなことは聞かない。授業料なんてちゃんと支払ってくれさえすれば誰が払ってくれようとどうでも良いのだ。もちろん私は誰かが負担してくれるはずもなく「self」に印をつる。国籍と生まれた国の2カ所両方に「JAPAN」と記入するのも初めてだった。 とにかく、後は日付を入れて写真を貼るだけで申込書は完成する。写真はパスポートサイズなのでどこかに予備があったはずだ。前述した通り、一番やっかいな「健康診断書」はすでにある。あとは英文の預金残高証明書と授業料の為替だけだ。 預金残高は、10週間のクラスを受講する場合3,500ドル(約42万円)以上、4週間のプログラムで1,500ドル(約18万円)以上必要とのこと。現地での滞在費をちゃんと持っていて、生活に困って働いてしまったりしないようにと言うことなのだろう。「為替」と言うしくみも面白い。ハワイ大学ではクレジットカード払いとか銀行送金では受け付けてくれない。「為替」と言う小切手様のものを直接郵便で送るのだそうだ。郵便局の友達曰く、「為替を組むなら郵便局の方が手数料が安い」とのこと。何とそれをエアメールの書留?で送るのだそうだ。何から何まで初体験である。 授業料は10週間のクラスで手数料込み1,450ドル、4週間コースで700ドルとなっている。私のやろうとしていることに誰かがとことん邪魔をしているらしく、ここのところアメリカが戦争を始めたにもかかわらず円が安いので授業料は18万円くらいになる。まぁ10週間、土日を除いて毎日授業があるわけだし、東京あたりの語学学校と比べてもさほど高くはない。 1時間ほどの遅刻か早退をして郵便局に足を運びさえすれば申込手続きは完了する。 このところのハワイはガランとしており、夜のネオンも半減したそうだ。そう言えばまばゆいばかりの夜のホテルの灯りは宿泊客が居ればそこであり、当然客が居ない部屋に電気はつかない。 「みんなが行かないからやめる」か、「みんなが行かない時こそ勉強には最適だ」と考えるか、思案のしどころではある。 |
2001.11.14 |
―留学への道 1― 「外野から」と言う題の、一通のメールを頂いた。 「みんなは関係ない。テロも関係ない。あまりにも短い人生、ひとに迷惑をかけないのなら、断然決行。絶対愉しい。 ・・・と思います。」と言うだけの短いメールだった。「人ごとだと思って」とは全く思わなかった。嬉しかった。 読んだ本の中に書かれていた「ロングステイ財団」と言うところに電話してみた。 「ハワイは大丈夫です。今月開催される講演も予定参加者全員が参加するとのことです。」何がどう大丈夫なのかは不明だが彼女の言葉には熱意があった。 学生が、明日の学期末試験を目前にいきなり部屋の模様替えをしてみたくなるように、ちょっと逃げている。こう気温が下がってくると何となく余計に物寂しくなるものだ。だがしかし、よく考えてみると、逃れられない試験が翌日行われることがわかっているように、私は「留学」の方を向いていた。テロ事件は起こった。炭疸病もこの先どうなるかわからない。だけど先がどうなるかわからないのはいつだって同じ事で、その他のマイナス要因はあんまりないことに気づいた。当然、山ほどの不安要因はある。だけど私を取り巻く環境は「無理ではない」ことを示している。これはすごいことなのである。「頑張れば出来るかもしれない」ことはチャンスと呼ぶ。「出来るときにやらなければ次はない」と、小さい頃よく母に言われたのを思い出した。「やらない後悔」の方が恐ろしい。「やりたいことをやる為に」私は鹿児島に来、そして派遣会社で働いているのだ。特に「勉強」と名の付くことは早いほうが良いに決まっている。 と言うわけで行くことにした。 「案ずるより産むが安し」と言う気分ではなく、一か八かと言うか、清水の舞台から飛び降りてみようと言う感じだ。私が勝手に行くことにしても、留学先で受け付けられないかもしれないし、受け付けられたとしてもその許可証でビザが取れる保証はない。ビザが取れなければ受講できないのだ。だがしかし、とりあえず決めた。少ない日本語の説明書きに、「学生ビザ取得の期間を考慮し、学期の始まる2ヶ月前までには申し込まれることをお勧めします。」とお勧めされた、2ヶ月前を1日過ぎて、申込書類と授業料の為替を投函した。 |
2001.11.18 |
−留学への道 2− 持つべき物は友である。 郵便局へ行って、窓口の後ろに偉そうに座っている友を呼び出す。 接客用のカウンターに通される。通帳を渡して英文の残高証明書を書いてもらっている間、郵便為替の申込書に記入する。USドルの為替はなぜか1枚700ドルが限度だそうで1,450ドル必要な私は申込書の他に3枚の用紙に受取人と自分の名前を英文で記入しなければならなかった。郵便為替と言うのは、ちょうど航空機の搭乗券のような形状の物で、手数料1,000円を含め176,812円を支払う。レートは少し良くなって121.25円/1ドル。あらかじめ用意してきた普通の封筒に為替と残高証明を加え、国際書留で送る。送料は670円。定形外の封筒にしては思ったより高くない。申込みはこれで完了した。 投函した後、急に焦り始めた。学校から「I−20」と言う許可証が送られてくる間に最難関のビザの用意をしなければならないのだ。早く申請用紙を入手しなくちゃと、アメリカ大使館に電話する。だがしかし、この日アメリカは何とかと言う祭日だそうでお休み。しかも大使館の留守番テープは日本であるにもかかわらず、まず英語。先が思いやられる。 気を取り直して翌日の昼休み、再び電話する。休日ではないものの、パソコンのサポートセンターへの電話みたいにテープを聞きながら該当する番号を押していく、というやっかいなシステムだった。挙げ句、ビザ取得については別の電話番号にかけろ、とのこと。しかもその番号は私の携帯からも、会社の公衆電話からもつながらず、ダイヤルQ2と言う、一般回線専用の、料金の高いしくみだった。翌日、もう一度大使館に電話をし、すべての説明が終わるまでテープを聞き、やっとオペレータに繋いでもらって事情を説明する。オペレータは冷たく、「事情をFAXし、指示を聞いて下さい」とのこと。事情と申請書送付希望の旨を記載し、仕事場から内緒でFAXする。だが今度は先方のFAXが混み合っていて送信出来ない。 いたずらに時が流れているような気がする。 仕方なく夜、家からパソコン回線用の電話でダイヤルQ2とやらにかけてみる。7秒10円だかの情報料とやらと、26秒10円だかの通話料がかかると言う説明が流れた。しかも当然録音メッセージ。テープが必要なことをしゃべるまでじっとガマン。どうやら申請用紙を送ってもらうためにはこちらから切手を貼った、しかもA4版の封筒を送らなければならないらしい。 更に翌日の昼休み、私は奮発して定形外の送料に速達料金を加え、自分の住所を書いた封筒をアメリカ大使館へ送った。 |
2001.11.22 |
−留学への道 3− 「ビザを取得するのは難しい」「ビザはめったに取れない」「留学している友達はビザが降りないために3ヶ月ごとに日本へ帰国している」とあちこちから聞くが、私は未だその「ビザの取れなかった本人」に会ったことがないのだ。だから、何がどう難しくて、何に気をつければ取れるのか、皆目見当がつかない。 私は永年OLをやってきたし、書類を揃えたり文章を書いたりすることは苦にはならない。周りの人と比べれば得意と言って良い。だがしかし、こういうことが好きで得意な私にも確かにビザ取得はやっかいで手間のかかることのようだ。この「やっかいなこと」が嫌で、キチンと申請せずに「ビザが取れない」と言っている人たちが確かに居そうではある。だが、「ちゃんと申請したにもかかわらず取れない」人がどのくらい居るのだろう。だとしたらどうして取れないのだろう。 第一段階の、「学校への申込み」は終わった。この申し込みが受理されればビザ申請に必要な「I−20」と言うフォームが送られてくる。学校は授業料まで受け取って「入学を許可しますよ。どうぞ来て下さい。」と言っているのに、ビザが取れず受講出来ないと言うハメになるのは悔しい。そんなことがあるものだろうか。 まず、ビザ申請に必要なのは、 1.有効期限の充分に残っているパスポート(2008年まであるのでバッチリ) 2.I−20と言う、留学学校先が発行するフォーム(送付待ち) 3.ビザ申請用紙(返送待ち) 4.3.7センチ×3.7センチの写真を申請書に貼付(予備がなくなったので撮らなくちゃ!) 5.申請料45ドル。(振り込んで領収証を申請用紙に貼付) ここまでで不備があることは通常では考えられない。問題はここからだ。アメリカは留学ビザ(F−1)発行に際して、「その人が本当に勉学にいそしみ、不法な労働などせず、住み着いたりせずに帰国するか」と言うことを重要視しているようだ。それらを証明する書類で必要だと思われるものを適宜添付しなければならないのだ。しかも日本人にとって、書式が決まっていないと言うのは難関である。 そこで通常、 6.本人がなぜ英語を勉強したいと思い、英語を習得したらどう活かしたいと思っているかについての英文レポート。 7.渡米先で滞在費や生活費が不足し、働いたりしてしまわないと言う証明に、銀行の残高証明書。 8.身分を証明、または授業を受けられる学力の証明のために卒業校の成績証明書。 9.日本へちゃんと帰国するための証明として、休職証明または休学証明。 などを提出するらしい。当然すべて英文。確かにやっかいではある。 |
2001.11.25 |
−留学への道 4− 送られてくる書類を待つ間、そのやっかいな書類たちを揃えておかなければならない。大使館でのビザ申請の必要所要時間は休日を除く7〜10営業日だと言うが、本当にそんなに簡単に済むのならみんなが「取れない、取れない」と騒ぐとは考えにくい。しかも時期はこれから年末だし、ビザが取れなければ宿の手配など先に進めない。と言うことで、準備は早いに越したことはないのだ。ハワイからの入学許可証(I−20)や、アメリカ大使館からの申請書類が届く前に、出来るだけ準備しようと考えた。英文の残高証明だけは先日郵便局の友人に1部多く作成してもらっているのでOK。自分では写真を撮りに行き、英文のレポートを考えなければならない。 だが、自分ではなく、誰かに依頼しなければならない書類を先に何とかしたい。「卒業校の成績証明書」と「日本へ帰国するための証明」だ。 確かに遙か昔、東京の短大を卒業しては居る。しかし今更成績が残っていて、尚かつ英文の証明書など出してくれるものだろうか。万が一、発行してくれたとしても異常に期間がかかるとか、費用がかかるなんてことは充分に考えられる。とにかく昼休み、「104」で出身校の電話番号を調べた。NTTの番号案内は100円もかかるのだと初めて知った。 一連の準備の中で初めて、「案ずるより産むが安し」と言う場面に遭遇した。「あのー私、そちらの卒業生なのですが成績証明書と言うものを発行して頂けるでしょうか」と、恐る恐る尋ねたところ、「はい出来ます。庶務課におつなぎします。」それでも疑わしく、庶務課に、「だいぶ前に卒業した者で、しかも英文の成績証明なのですが−」と言うと、「ハイ。英文ですね。お名前のスペルをお願いします。」と言う心強いお答え。1週間で間に合うかと尋ねられ、しかも料金は500円+送料だとのこと。ただ、英文科の卒業生と間違われた。そうそう、私は国文科だったのだ。 |
2001.11.28 |
−留学への道 5− 誰かに依頼しなければならない資料のうちビザ取得最難関の、初めはこれが原因でビザ不要の学校を探そうとしたほどの、「日本へ戻ってくる証明」が残っている。 調べた本の記載には、「学生であれば休学証明、会社員であれば休職証明」とある。前にも書いた通り、この時代に私を休ませてまで留学をさせてくれる会社があるとは思えないので残念ながら該当する資料は揃えられない。その本の下の方には、「会社などを辞めて行く場合は親などに身分を証明してもらう手紙を書いてもらう。」とあった。ふーん、何でも良いんだ。・・・ 幸い両親は英語が出来る。父に頼んで英文の身分証明の手紙を書いてもらおう、と勝手に決めた。だがそれだけでは何か、証明としては弱い気がする。それで私が考えたのは、所属している派遣会社に「在籍証明」をしてもらうと言う案だ。別に今の仕事を辞めても派遣会社の登録が消えることはないのだからインチキの書類ではないはずだ。夕方、仕事が終わってからさっそく事務所へ立ち寄る。参考にした本の「在職証明」の見本のページをコピーし、赤エンピツでアレンジして持っていく。「全国に派遣社員は何人も居るので該当例があると思います。調べてみます。」とのことだった。 だがしかし、その日家に帰ってみると、何とポストにエアメール。何より先に大学からの入学許可証が届いていたのだ。だって郵便局で必要書類を送ったのは月曜日。今日も月曜日でまだちょうど1週間しか経っていない。出した郵便は速達でも何でもなく、私の感覚だとようやく送ったものが向こうに着いた頃だと思っていた。大阪の大使館からの返送より早い。 その書類はあんまり英語ばかりでいちいち辞書を引いていられず、何とかそのまま流し読みした。流し読みと言っても必要な箇所と言うよりはわかる単語を拾って読んだだけで、それでもA4版1枚の用紙に10分はかかった。あー。(この「あ」に濁点を打って「あ゛ー」と言う気分。ハハハ) 応募者各位 あなたは当大学、N.I.C.E.プログラムの122学期の入学が認められました。1月11日〜3月22日の授業を受けて下さい。同封のI−20フォームを使って速やかにアメリカ大使館にて学生ビザ(F−1)を入手して下さい。つきましては、ハワイに着いたらすぐ、遅くとも1月9日までには事務所におこし下さい。事務所は月曜〜金曜日の、8:00〜12:00または1:30〜4:00まで開いています。事務所においでになる際はパスポートと医療保険の証券をご持参下さい。医療保険の加入は必須です。あなたは授業の開始される1月11日、クラス分けのテストを受ける必要があります。キャンセルされる場合は・・・ などと書かれているような気がする。うわっ。 このA4版の用紙の他、大使館へ提出するI−20フォームに必要事項がタイプ打ちされ、こちらから送った預金残高証明のコピーがなんとホチキスで止めてあった。しかも、残高が転記されていたのだ。最低必要残高を鵜呑みにせず、郵便局の友人に、ありったけ、普通預金と定額預金のすべての残高を書いてもらっておいて良かった。他にはカラーのパンフレットが一部。大学の構内案内だった。構内すべての建物に番号が振られた地図。何と建物は144棟。 事務所までの道のりは遠い。 |
2001.12.01 |
−留学への道 6− 大学から許可証のエアメールが届いた翌日の火曜日、今度は大阪のアメリカ総領事館からビザの申請用紙が届いた。ビザ申請には担当区域があって、大ざっぱに言って日本地図の上半分が東京のアメリカ大使館、下半分が大阪の総領事館の扱いのようだ。 速達で申請用紙を依頼したのは紛れもなく自分自身なのだが、何だか急に私だけを取り残して、まわりの時間だけがSFの映画のように、筋を立ててどんどん進んでいるような気がする。書類も気持ちも追いつかない。ヨットを始めた頃と同じ。「あー、早くなんとかならないかなぁ」と思ういつもの気持ちが逆転し、一度波に乗ってしまうとこんな状態になるのだ。頑張って流れについていくしかない。だが、たまには「考える暇もなく」引きずられるのも心地良かったりする。私の場合、波に乗ることができるかどうかは体力にかかってる。 誰かにお願いする資料はそれとして、この辺で自分が用意すべき写真と英文レポートをどうにかしたい。だが困難は思わぬところで待ち受けていた。まぁ、こういった類のことは思い通りにはいかないのだ。 たかが証明写真を1枚撮るだけだ。東京に住んでいた頃は選り取りみどり、通勤途中の、どこか駅前の写真屋の、カーテンで区切った椅子に一瞬座りさえすれば良かった。だがしかし、そうは問屋が卸さなかった。 私の勤務する会社は鹿児島唯一の繁華街、天文館とJRの起点である西鹿児島駅の間にある。ほとんどの保険会社など大手企業が集まっている。会社の正面、大通りを挟んで反対側に大きな写真屋があった。鹿児島の写真屋としては珍しく、鉄筋の2階建の建物でネオンサインが瞬いていた。看板には「フジカラー」とか「証明写真」などと大きく描かれている。「まぁ、どこでも同じだ。大きな店だし、ここなら大丈夫だろう。」と思った私が浅はかだった。入り口のレジのお姉さんは、私に料金などを説明した後、「係の者」を呼んだ。撮影担当者らしかった。何と案内されたスペースはフィルムやカメラなどの陳列棚の脇。個室どころかカーテンの仕切さえない。フィルムを買いに来た人が通る通路なのだ。係のおじさんは壁に背景のスクリーンを広げ、その前に置いた椅子に私を座らせる。と、背景の後ろのドアが突然誰かが入ろうとしたらしく開き、背景がドサッと落っこちた。「こんなんで大丈夫なんだろうか。」 不安は的中した。今度はそのおじさん、私のメガネに天井の蛍光灯が当たり、光って撮れないとぬかした。試しに撮ったポラロイドのような写真を見るとメガネに大きく蛍光灯が写っている。メガネの中の目が写っていないほどだ。おじさんは他の客や店員に構わず、店内の電気を消したりしてみたがどうにもならない。「それでもプロなの?」と言う言葉をぐっと飲み込んで、「じゃあ、どうすれば良いんですか。めがねをかけた人は他にも居るでしょう?」と聞く。今度はおじさん、「あなたのメガネのレンズの角度が悪いんですよねぇ。もっと下を向くか、メガネのレンズを下に向くようにメガネかけてもらえると良いんですが。」と別のメガネを持ってきてかけ方の指導を始める。何というか、おじいちゃんやおばあちゃんがずり落ちかかったメガネの上から上目遣いでものを見ているようなマヌケな感じだ。挙げ句、「気になさらない方はこれでも良いのですが。」とポラロイドを指さした。 私はそのまま店を出た。 |
2001.12.04 |
−留学への道 7− すでにあたりはだいぶ暗くなっていた。 別の写真屋は駅とは反対側、天文館寄りにあった。店の前がバス停でなかったら私も絶対に気づかなかっただろう。間口はドア1枚分。派手な看板などなく、透き通ったガラスのドアに写真館の名前が縦書き、しかも金文字で描いてある超レトロな店だった。それが夜行くと更にわかりにくく、電気すらついていない。営業しているかどうかさえ怪しい。キイッとドアを押した。そこは玄関で、横には年代物のレジ。目の前にはかつては黄色だったのか、褪せたクリーム色のカーテンがぶら下がっており、奥はボーッと明るい。もちろん人影はなく、私が入るとどこかで「キンコーン」とベルが鳴った。そう言えば暗くてレトロな他に、フィルムなどは何ひとつ売っていなさそうだと気づいた。どうやら写真を撮ることだけが商売のようで、私はちょっと安心した。30秒ほど経った頃、奥から「写真一筋」と言うメガネをかけた初老の男性が「すみません」と出てきた。 スリッパに履き替え、カーテンをくぐってそのまま奥に通された。そこはコンクリート打ちっ放しの部屋で怪しげな電気や機械があちこちに取り付けられていた。しかも壁にかかっている鏡はまっぷたつに割れている。「肝試し」にちょうど良い雰囲気だった。そこで私は「写真一筋」に、「ビザを取る為に3.7×3.7センチの写真が欲しいのですが」と恐る恐る説明した。 「すちゅうでんとびざ、ですか。私が仕事を始めた頃は1ドル360円だったなぁ。」と、手際よくカメラを準備している彼の口から思わぬ英語が出てきた。やはり彼はプロだった。透明な下敷きをいかにも自分でくり抜いて作ったと思われるお手製の定規、被写体に反射光を当てるレフ版はケーキを買ったときに箱を入れてくれる簡易クーラーバックを使った手作り、被写体の位置を確認するのであろう発砲スチロールを使った大きな定規、それはどれも怪しかったが、大がかりな電動のライトを巧みに操り、どうすれば良く撮れるのかをいろいろ伝授してくれた。「女優さんは皆訓練するんですよ。特に松田聖子さんが巧いですね。」と言う。椅子に深く腰掛け、更にお尻を後ろに引くと背中が反る。こうすることで顎のラインがすっきりきれいに写るのだそうだ。そして口が緊張で一文字にならないようにすぼめた状態で力を抜く、最後に取る瞬間は目を大きく見開くと良いのだそうだ。 撮影はやっと無事に終了した。消費税も要らなかった。 |
2001.12.07 |
−留学への道 8− 週末はヨットにも行かず図書館へ行く。「学習室」とやらに入って、英文レポートの内容を考え、大使館宛ビザ申請書類を読む。エアメールで到着した許可証(I−20)と違って、嬉しいことに今度はすべて、英文の他に日本文で質問事項が記載されていた。 「ビザがおりなければ行かれないんだから、滞在先の住所まで書けなんてちょっとヒドイんじゃないの? 今から決まっているわけないじゃない。」と言ってみたところで始まらない。とりあえず「未定」と書くわけには行かないだろうから、どこか適当なところを書いておくしかない。とりあえず大学の構内にある寮にしておこう。次はアメリカへの入国日?!。これでは応募者全員にビザを出すのではないかと思ってしまうほど「行く」ことが決まっているような質問なのだ。う〜ん。とりあえずコピーを取って下書きを始める。該当しない項目には「N/A」と記入すると書いてある。一体何の略なんだろう・・・ブツブツ。YesかNoで答える他の質問は、「あなたはナチスドイツ政府の指示によって迫害に加わったことがあるか」とか、「破壊行為やテロを目的にアメリカへ行こうとしているか」、「麻薬を売ったり、売春または売春の斡旋行為をしたことがあるか」、「精神病患者または麻薬常習者か」など、普通真っ当な日本人市民ならあまり該当しようがないことばかりで簡単だった。 ひとつひとつ日本語の訳がついていなかったら永久に終わりそうもない質問事項にチェックし終わる。だが申請書は、「わかりにくい。字が小さい。」と常々言われている保険の申込書より更に小さな文字で、読みにくく記入しにくいことはこの上ない。読み直す度に記入漏れを発見し、ドキッとする。「出来ることならビザはあげたくない」と言われているような気がした。 更にこの、「非移民査証申請書」にはコピーしたA4半分の用紙がついており、こちらは何とすべて日本文。名前、学歴、出身校、簡単な留学理由と目的を書くようになっている。数年前の参考資料にはなかったので最近出来たらしい。英語版はとにかく銀行の残高証明などお金にこだわっているのに対し、やはり日本語になると学歴なのだろうか。 出身校からは、封をしたままの成績証明書と500円の為替を送るようにとの請求書が届いた。「写真一筋」の写真屋さんに撮ってもらった写真はさすが良く仕上がっており、セット料金2,000円でビザ申請に必要な大きさの他、パスポート用(紛失時のため)と小型の身分証明用写真の計3枚をもらった。Eメールで父に頼んだ身分証明文は、初めて話したのでびっくりして電話がかかってきたが翌々日には速達で届いた。初めは日本文の証明しかないと言っていた派遣会社も、私の渡した見本通り、英文で在籍証明を発行してくれた。 さて、あっという間に、最後は予想に反して自分のエッセイだけが残ってしまった。 |
2001.12.10 |
−留学への道 9− 自分がなぜ留学を希望し、どうして英語が勉強したいのか、習得したらどのように役立てたいのか、と言うエッセイを英文で書かなければならない。そんな文章を留学する前にスラスラ書けるくらいなら行く必要はないのだ、と書きたい気分だ。 だが味方を2人見つけた。ひとりは図書館で借りた本の中に、同じハワイ大学に留学を想定している会社員の山田太郎さんの見本エッセイで、もう一人は私の通っている市の英会話教室の、実在する森先生だ。英会話教室のみんなの意見として、山田太郎さんの「見本例文」そのままじゃあんまりなのでちょっと付け加えた方が良いだろうと言うことになる。 まず、見本の例文を名前や日付、留学期間などを変えてワープロする。そこに加えたいことを書いて先生に見てもらう、と言う段取りだ。 とにかく、先に残っている作業としてビザ申請料を振り込んでしまおうと大使館のテープ録音の番号に電話をかける。45ドルの申請手数料は現在5,940円とのこと。振込先の東京三菱銀行を「104」でを探してもらったが、なんと鹿児島にはなかった。仕方なく、申請用紙裏面の振込用紙に記入し、昼休み郵便局へ走る。だがしかし、「すべての金融機関で使える」と言う用紙は郵便局では使えないと言う。どうにも腑に落ちないながら鹿児島銀行まで足を伸ばし、送金する。 ところが、今度は友達からもらったFAXの調子が悪い。タダじゃ文句も言えないけど、こちらからも先方からも入らないのだ。市の英会話教室は月に2回。やっと先生に教室で手渡ししたエッセイを次回の授業まで持ち越したのでは遅い。あとはこのエッセイさえ出来れば提出出来るのだ。手数料を振り込んだその日の夕方、会社を出てしまってから「何度も自宅宛にFAXしているのですが入りません。」と言う電話が携帯に入った。先生は勤務先の中学校から帰宅するところだと言う。「どうにかしてすぐに入手したい。」と思った私は結構過激な手を思いついた。汗をかきながら3分ほど走り回って「ありそうな」電気屋さんへ飛び込む。「あのー、申し訳ありません。私宛の大切なFAXを受け取りたいのですが受信させて頂いてもよろしいでしょうか。」とレジ横のFAXを指さす。レジのお兄さんは「良いですよ」と即答。ヤッタ!!。先生に電気屋宛に送ってもらい無事入手。ベスト電気のお兄さん、本当にありがとう。 家に帰るや否や('as soon as'って感じかな)再びパソコンに向かい電子辞書と格闘し、レポートを印刷する。で、忘れずサイン、と。 何とか申請書類一式を速達にできそうな切手を見つけ出し、貼る。そう言えば「何とか」とか、「どうにか」の吊り橋状態が多い作業だ。翌日、会社へ行く前に投函した。金曜日の朝だった。ふーっ。 |
2001.12.18 |
ー留学への道 10ー ドキドキしている。 これでビザが取れないとなると、どうして取れないのか見当もつかない。初めから旅行社など業者を通さなければダメだとか、大使館が適当に「今月は10人でおしまい」だと決めているとか、積み上げられた申請書類を床に落として表側が上になったものだけ取るとかしていない限り、私には取得できない理由が迷宮入りとなる。仮に取れたとしても何が良かったかは不明なのだ。ビザは授業の始まる90日前からしか申請出来ない。で、あたふたと申請書類を掻き集め、申請して、取れなかったら取れないで嘆くしかないのだが、取れたら取れたでもっとあたふたして出発までに航空券を手配したり、宿泊する場所を決めて持ち物を用意しなければならないのだ。他の人はどうやって居るのだろうか。そんな訳で、どう見てもそんなに繊細には見えない私は実は結構ナイーブで神経質だったりするので、昼間は気にならないつもりなのだが夜、変な夢を見ちゃったり、明け方目が覚めるなんてことになっている。 結構、忙しい。 さすがにビザ申請中はパスポートがないので、タイのプーケットキングスカップヨットレースはお断りしたが、朝?3時に起きて日曜日帰りで福岡へヨットレースに行ったりしている。車の車検が切れるので安くて簡単に取れるところを探したり、ワイパーのゴムが劣化したので交換しなくちゃならない。ホームセンターの駐車場で手を真っ黒にしてワイパーを外す。昭和63年車って一体西暦何年なのか計算出来ない。あまりに古すぎて適応種がない。しかも外したワイパーは片方なんだけど、左右長さが違う物だとは知らなかった。何でも自分でやってみるべきである。知らないことが多すぎて楽しい。とにかく出来ることは今のうちにしておくに限る。 ビザが降りたら、と仮定で何かをするのは嫌なのだが好き嫌いは言っていられないので、3ヶ月有効でしかも安い航空券を探しておく。普通格安航空券と言われているものは、行ってから帰るまでが35日以内なのだそうだ。それ以上有効のものはPEXとか、オープンなどと言ってだいぶ高い。帰りのフライトを現地へ行ってから決めたり変更出来たりするオープンチケットの安い物は、韓国乗り換えの大韓航空しかないと言われた。もちろん鹿児島からハワイへの直行便はなく、いずれにしても国内のどこかで乗り換えなければならないのに、さらなる乗り換えは出来れば避けたい。今のところJALのPEX料金が最有力候補となった。PEXと言うのは行きも帰りも日にちを指定し、変更は出来ない。しかも席が取れたら3日以内に発券、つまり購入しなければならない。帰りの事なんてわからないので、出来れば現地で買いたい所だが帰りの航空券を持っていないと入国時に大変なことになるのだ。ヨットレースのため中国の上海へ片道の航空券で入国した時、「帰りはヨットだ」と何度説明してもなかなかわかってもらえなかった。そのJALのPEXチケットは1/5〜7に出発する場合、88,000だか89,000だかで買えるらしく、その後の3日間に出発すると1万円ほど高くなるとのことだった。 宿は食事付きのホームステイが一番安いらしいのだが、知り合いの知り合いなどという人の、ベジタリアンの家でカップラーメンばかり食べていたとか、毎日ベビーシッターをさせられたと言う話を聞くと恐ろしい。共同のお風呂やトイレ、キッチンを使う寮もまたしかりである。とりあえず、最初の1ヶ月は安いコンドミニアムが無難だろうか。荷物を持ってホノルル空港に着いてから探すなんて危ない橋は渡りたくないので、2ヶ月目以降は行ってからなんとかなるとしても最初の1ヶ月だけは決めておきたい。・・・そんなわけでE−mailで問い合わせのための英文原稿を考えている。 どうか徒労に終わりませんように。 |
2001.12.21 |
−留学への道 11− それがなんと、本当にビザが取れてしまったのである。 格安航空券で1週間ほど東京に帰ろうとアパートを出た時、それは届いた。郵送して12日後のことだった。読んだ本によると、ビザ申請の申込書を除いて郵送した書類は一式すべて返却されるとのことだった。だが、私が送った速達切手を貼った返信用封筒には、白い封筒を挟んだ私のパスポートがたった一冊入っていただけだった。しかもビザと言うのはパスポートの1ページにゴム印がポンと押されるだけだ、と、これも本か誰かが言ったかしたはずだったが、人の言うことなんてこれほどあてにならないものはない。ビザはステッカーだった。パスポート1ページとほぼ同じ大きさの、どこかの国の紙幣のように精密な地模様の描かれた、私が申請書に貼った写真のコピー入り「VISA」が、パスポートの1ページに貼られていた。対のページには長細く白い、パスポート2倍くらいの封筒がなんと邪魔なことにもホチキス止めしてあり、表書きの部分に「入国の際、米国移民官に提出すること」と和文、英文両方で書かれているだけだった。日本だったらこれにせめて「ビザをお送りします」と言う書類送付書くらいつけるだろうなぁと思われるほど素っ気ないものだった。 父の言うように父が書いた身分証明の手紙が効いたのか、預金残高証明が規定の額に達していたからか、レベルの高くない短大の成績が見かけ上良かったからか、英会話教室の先生に見ていただいたエッセイが認められたからか、在籍証明を出してくれた派遣会社へ電話したところたまたま係の人が即答してくれたからか、果てまたこの時期ビザ取得の予定人数内だったためか、やっぱりナゾではある。だけどとにかくビザは取得できたのだ。ビザを持ったまま東京行きの飛行機に乗った私は出発まで3週間ほどしかないことに気づき、焦り始めた。 幸い東京出発前にわかったので、東京でしか出来ないことをこなすことにした。まず、先立つものはお金である。 ガイドブックによるとハワイ最大手の「ハワイ銀行」は唯一日本に支店があるとのことで、あわよくば日本で口座を作り入金しておけば現地でおろすことが出来ると踏んだのだが、甘かった。ハワイ銀行赤坂支店は昨年閉鎖し、駐在事務所が残っているだけだとのことだった。じゃ、今度は日本の銀行でハワイに支店があると言う「東京三菱」に電話をする。今度はハワイ支店を閉鎖したとのこと。不況の波は恐ろしい。う〜ん。ハワイ観光協会へ電話し、ハワイと日本の両方にある銀行を尋ねたところ、どうやら「CITY BANK」だけらしい。鹿児島にはないCITY BANK新宿支店へ行ってみる。番号札を取るのではなく、受付の人に来店理由を話し係へ振り分けられる、海外へ行ったかのようなシステムだった。外貨預金は以前したことがあったがそれではなく、その場でカードを作ってくれる「ワールドキャッシュカード」を勧められ、申し込む。これは日本で口座を作り、そこへ日本円で入金しておくと、入金した分だけ旅行先で現地通貨で引き出せる、と言うものだった。郵便局からも入金出来、日本にいる家族や友人に入金してもらうことも出来るとのこと。だが手数料が1回の引き落としに200円かかるばかりでなく、為替レートの中値にプラス4円の割りの悪い換算とのことだった。いざという時に無いよりはマシと言う程度で、やはりクレジットカードの他は現金かトラベラーズチェックを持っていって現地で口座を開設するしかなさそうだ。 あとハワイには日本食や調味料も売っているし、暖かいから特に服も要らないし、何より荷物は少ない方が楽なので、買い物はヨドバシカメラでノートパソコン用のマウスをひとつ買い、腕時計の電池交換をして、東急ハンズの文房具売場を覗いたくらいだった。そうそう紀伊国屋書店でハワイのバスガイドと面白そうな英会話の本を買った。それとヨット仲間が開院している歯医者へ行き、診察してもらった。2週間くらいのハワイならデイパックひとつなので、今度はボストンバックひとつに納まればいいなぁと友達に話したら驚かれた。何と言われてもボストンバックにショルダーバックひとつくらいが私が持てる最大限なのだ。スーツケースなどに入れたら段差一段も登れず、乗り継ぎの福岡空港にさえたどり着けないではないか。 と言うわけで、あとは東京では遊ぶことにした。7月ハワイのヨットレースに出た仲間と新しくできたDISNEY SEAへ行き、13時間半ぶっ続けで遊んだ。カップル達はクリスマス連休か年末年始に行くと見えて、土曜だと言うのに空いていた。良い天気だった。 |
2001.12.24 |
−留学への道 12− 鹿児島へ戻り、がぜん忙しくなった。あんまりやることが多すぎて、優先順位がメチャクチャ。英語の勉強どころではない。(^_^;) ◆航空券の手配 ◆宿泊先の手配 ◆持ち物の準備 ◆不在の間の手配 「持ち物の準備」と言ったって衣類をカバンに詰めるだけではなく、持参するノートパソコンの中にソフトをインストールしたり、パソコンデータの整理やウィルスチェックにバックアップ、現地でのプロバイダ接続調べ、電子辞書やデジカメの使用方法確認(電子機器ばっかり)など時間を食いそうなことばかり。現地で病院にかかった場合の健康保険海外療養費制度の用紙を入手し、海外旅行傷害保険にも加入しなければならない。この円安の時期に両替と言う難問も残っている。もちろん、現地のこともいろいろ調べる必要がある。「不在の間の手配」は更に膨大で、健康保険料や住民税の引き落とし手続き、携帯電話のプラン変更、などなどなど。 これに加えて掃除、洗濯、年賀状書きと、サスガ「師も走る」12月である。 とりあえず洗濯機を回し、サンドウィッチ伯爵に敬意を表しつつ、サンドウィッチを頬張りながらため込んでいたメールの返事を書く。1日に3回も旅行会社と電話で話し、安い航空券を探してもらう。ヨットレースで知り合ったハワイの人や、知り合いの知り合いに宿探しのメールを打つ。日本語ならお手の物なのに、たった10行ほどの英文メールに四苦八苦。2時間もかかった。だけど、いつでもどこでもそうなのだが、日本の業者を通すといきなり金額が跳ね上がるのだから背に腹は代えられない。 まず航空券はやはり以前問い合わせていた様に、予約後3日以内に購入しなければならず変更不可のPEX料金が安いと言うことになった。ただし、鹿児島発の場合は福岡乗り換えが普通なのだが、「国内線のチケットが搭乗日2ヶ月前からでないと発売されない為、帰国の際の国内線が押さえられない」と言う理由で、どういう訳か成田乗り換えになった。どうして成田乗り換えだと3ヶ月以上前に国内線が購入できるのかはナゾのままである。しかも年始の帰省ラッシュと重なり、国内線の予約が最後まで取れず、臨時便になる。料金は鹿児島ー羽田と成田ーホノルル往復すべてJALで88,000円。鹿児島ー羽田の国内線だけでも定価だと往復6万円以上するので文句はない。これに今回から航空保険上乗せ料がかかる。テロ事件後、航空会社が加入する保険料が上がったためだ。1回飛行機に乗る毎に国内線なら500円、国際線なら5ドル支払わなければならないそうだ。そうそう、あとは羽田ー成田の交通費がかかる。福岡空港だと国内線から国際ターミナル行きの無料バスが出ているがそんなわけには行かないらしい。だが、福岡空港は閑散としていて係員もピッタリ離陸2時間前にならないと現れず入り口にはチェーンがぶら下がったまま入れない。国内線乗り継ぎのためどうしても3時間前には着いている私はいつも何もすることがないのだ。本当に何もない。ただシーンとした、新しくきれいなガラス張りの広いロビーにベンチがあるだけで、そのベンチに寝るのも憚られる。キオスクのような売店があるきりで30分も覗くと何がどこにあるか暗記できるほどなのだ。 やっとひとつ、航空券にめどが付いた。 そんな訳で喫茶店やおみやげ物屋、本屋まである久しぶりの成田はちょっと楽しみなのだ。 |
2001.12.27 |
−留学への道 13− 鹿児島だと言うのに、ものすごい雷雨と台風並の風、おまけに雹だか霰だかが降って目が覚めた。 ハワイでの滞在先が決まらない。 海外旅行傷害保険に加入した。長期だと健康保険代わりに使われることが多く、つい先日値上がりしたばかりなのだ。ケガで死亡したとき500万円、病気で死亡したとき500万円、ケガの治療費300万円、病気の治療費300万円、持ち物の損害15万円、それに旅行変更費用をつけただけで3ヶ月間20,120円だった。(東京海上火災保険)保険料の半額以上が病気の治療費だ。現地で言うところの「医療保険」はどこの国への留学にも必須となる。 ボストンバック(ヨットではセイルバックと言う)に荷物を作ってみる。 いくら現地で買えばよいと言っても、どこに滞在するかさえ決まっていない。今回はレンタカーを使わずバスと徒歩の予定なので近くにスーパーがあるとも限らない。それに一からすべて買っていたのではお金が保たない。サイズや気に入った物が見つからないことだってある。だが、3ヶ月と言う期間、仮に下着を5枚持っていくとすると、それが適当な数なのかとんでもなく少ないのか、見当もつかない。だったら10枚ではどうなのか、さっぱりだ。学校へ行くのだから、いつものように短パンとTシャツばかりと言うわけにもいくまい。 と言うわけで、何の根拠もなく間を取って1週間分7枚の下着、パジャマ兼用でTシャツと短パンを3、4枚ずつ、ハワイでは正装となるアハシャツ3枚、小さく畳めしわにならない紺色無地のロングワンピースと半袖カーデガンのセット、同じく小さくなる若草色のタンクトップと7分袖カーデガンのアンサンブル、ミニスカート、小さなパーティーバックとサンダルのセット、かさばらないガーゼのタオル、水着1着、靴下、いつも持参する携帯用洗濯ロープと洗剤数回分、石鹸、爪切り、風邪薬、湿布薬、参考書や文房具、機内持ち込み不可のハサミやナイフ、布の手提げと手作りリュック、海苔とお茶、簡単な日本からのお土産などを入れてみた。当然いっぱいである。朝晩気温が下がるとか、クーラーがきついと言った防寒対策は着て行くものとスカーフで調整しよう。そうそう、かぶせたり腰に巻いたりバスタオルの代わりにもなるパレオと言うただの布1枚もいつもの旅行アイテムだった。 機内持ち込み用の別のブリーフケースにノートパソコン一式、デジカメ、電子辞書、パスポートなどの必要書類、手帳、筆記用具、予備の時計、機内履き兼用のビーチサンダル、愛用の耳栓とウォータースプレー、歯ブラシ、その他身の回り品を入れてみる。 うっ、重い。充分だ。ひょっとしたら普通一般的に海外旅行へ行く人達より少ないかもしれないけど、これ以上持てない。空港でちょっとトイレに行くとか、乗り物のチケットを購入しようなんて場面に遭遇することを考えるとゾッとする。と言うわけで夏には持って行ったシュノーケルや水中メガネを諦め(何しに行くんだ?)、体験談などに持っていくと便利だと掲載されていた味噌や調味料の類いもやめた。食べ物の好き嫌いは無いからどうにかなるだろう。 国民健康保険や携帯電話の口座引き落とし続きをして、予備にと今流行の5,000円メガネを作った。クレジットカードのポイント引き替え手続きも済ませた。だがやはり、滞在先が決まらない。 |
2001.12.30 |
−留学への道14− 日本の中では南国の、ここ鹿児島でも気温が下がってきた。昨夜は満開のブーゲンビリアの鉢植えをお風呂場に避難させた。 今年の夏にヨットレースでお会いした方、知り合いの知り合い、友達の親戚など、ハワイに住む方からお返事のメールを頂いた。 部屋探しである。 ハワイには「Honolulu Advertiser」と言う、最大手の新聞がある。その新聞の「Homes」と言うコーナーを見るのが良いだろうと勧められる。この「Homes」は日曜版に挟み込まれた不動産や賃貸物件、またあちらでは一般的な「シェア」つまり誰かと割り勘して部屋を借りると言うコーナーなどで満載のページだ。実は試しに今年の夏行った時、面白そうだからと帰りの空港で余ったドルの小銭を使ってこの日曜版を買ってきたのである。 凄い。とにかく凄い。何が凄いかと言うと日曜版のボリュームである。日本でも週末になるとスーパーのチラシなどで膨れ、アパートのドアについているポストに入りきれず、無理に押し込まれた新聞を内側から取ろうと試みると綱引きをしているような状態になる。そんな生やさしいものではない。初めからそんなポストに押し込んでみようとは思わないほどの量なのである。その膨れ上がった日本の新聞の、そうだなぁ、朝刊4日分は優にあると思われる。買った人はスーパーのナイロン袋に入れてもらう。新聞1部だけでいっぱいになるのだ。1部を日本へ持ち帰った私も大変だったけど、配る人はどうやって配っているのかナゾなのだ。家庭の主婦は古新聞を処分するのも大変だろう。ドラッグストアやスーパーのチラシは割引券付きのクーポンになっており、店毎に1冊ずつ、冊子と言うより本である。 その、楽しそうだからチラシの1枚も捨てずに持ち帰った新聞の中から「Homes」を探し出す。8ページもあって、どこから見て良いかわからないまま放置あったが、知り合いからのメールの中に探すべきコーナーのタイトルが書かれていたのでもう一度見てみる。「う〜ん、なるほど。結構あるじゃない。」と思ったところであくまで練習で、私が見ているのは7月29日付けの新聞なのだ。しかも最新版が入手できたところで先方への連絡方法は電話。電子メールなら1通2時間かかって問い合わせの文章を書き、届いた返信を辞書を引きながら時間をかけて解読?することだって出来る。だけど、電話。電話だけは何とか避けたい。 ハワイに住む日本の方からのメールには、「この「Homes」に結構良さそうな物が載っているようだから、来てから探せば?」とある。来てから探せと言っても、探して決めるまで一体私にどこに居ろと言うのだろうか。そんなに簡単に決められるとも思えないし、いくら荷物が少ないと言ってもボストンバックを抱えたまま路頭に迷う訳には行かない。とりあえず最初の一ヶ月だけでも安いアパートかコンドミニアムくらい決めておきたい。 そこへ、夏に私達がレースでチャーターしたヨットのオーナーとその友人からメールが届く。 「Hi there, so glad you are coming back to Hawaii. Don't know much about housing near the University but will try and find out. Please keep in touch.」 Hi thereなんて挨拶からしてアメリカっぽい、などと感心している場合じゃない。 「My neighbor may have a room to rent. I haven't talked to her yet, so I don't know how much she would want to charge. It is about one kilometer walk to the nearest bus stop, and the walk home would be a up a pretty steep hill. My neighbor is on the mainland now, but if you are interested, let me know and I'll ask her when she gets home.」 こちらは一体その隣人がいつ本土から帰ってくるのか、家賃はいくらなのか、どんな部屋なのか、そもそも最寄りのバス停と言うのはどこのバス停なのか、さっぱりわからない。しかも急な坂道1キロ徒歩と言うのはとっても気になる。あちらは暑いはずだ。だけど初めての具体的なメールを頂いたのだ。英会話教室の過激な友人達は、「1キロ?ダイエットや運動に丁度良いじゃない」とそそのかす。先生も「こう書いてくるからにはそんなに通学できないほど離れた所ではないでしょう」と楽観的だ。とにかく家賃の予算を書いて、「それ以下であれば1ヶ月借りたい」と言うつもりの?返事を出した。 |
2002.01.05 |
−留学への道 15− 「人事を尽くして天命を待つ」とか、「果報は寝て待て」と言う諺はおよそ私には似つかわしくない。だが部屋に居てもろくなことを考えず眠れなくなるだけなので、年末年始はみんなで騒ぐことにした。本来私の、A型の性格では考えられないことに未だハワイでの滞在先が決まっていないのだ。面白いことに留学経験者だけは誰に聞いても滞在先未定にまったく驚かず「現地へ行って直接部屋を見てから決めるのが一番ですよ。」と、こともなげに言う。現地へ行って探すと言っても辞書を引く余裕のあるFAXや電子メールならいざ知らず、電話をかける勇気はない。そんな私に一体どうやって探せと言うのだろう。新聞広告の連絡先はすべて電話なのである。電話はいけない、電話だけは・・・。 仲間と初挑戦の銀細工をしたり、お雑煮を食べたり、鍋をつついたりしているうちに、果報が届いた。 その、知り合いが急な坂の上に貸し部屋を持っていると言う、唯一の具体案をくれたアメリカ人からだ。どうやら知り合いはメインランド、つまりアメリカ本土から帰って来て居ない為連絡が取れないらしいのだが、「見つかるまで数日間、私の家に居ても良いよ」と言うメールのようだ。日本語では大変便利な「どうぞよろしく」と言う言葉が見あたらないので、「とても嬉しい。あなたの家に泊めて下さい。出来るだけ早く部屋を探します。」と言うつもりの、返事を出した。 部屋に帰ると出発まで3日、しかも平日は今日だけだとジタバタ動き回った。慌ただしくしている方が気楽である。そうでないと何だか自分がとても大それた事をしでかしているのではないかと言う、恐ろしい気分になる。留学、しかも短期語学留学なんて今時猫も杓子も経験しており、あちこち転がっている話なのだと自分に言い聞かせる。とにかく新聞販売所へ行き、配達の中止と精算。家賃の振込み。郵便局へ行き貯金の保留手続きをする。そうそう、あちこち調べた結果、1回の引き落としに200円の手数料が引かれ、更に為替レートの中値プラス4円と言う悪い換算率のCITIBANK、World Cash Cardより、クレジットカードとキャッシュカードが一体となっている郵便局のカードを使って口座を「保留手続き」にした方が少しはマシだとわかった。保留手続きと言うのは、例えば口座に50万円あったとしてそのうち20万円に保留手続きを取る。すると通帳上、保留手続き分の20万円が引かれ、30万円だけが現在引き出したり口座振替となったりする「使えるお金」となる。後の20万円は海外で現地通貨で引き出せるのだ。手数料は1.6%。3万円引き出したとして480円。現金は更に円安が進むだろうと新聞にあったので年末に、しかも銀行よりは少し率の良かった郵便局で両替しておいた。やはりそのお金を持って行って現地で口座を開くしかなさそうだ。 年賀状の整理をし、荷物を確認する。バックを開ける度にやれ爪切りだとか耳掻きだとかが増えていく。救いは化粧品がまったくないことくらい。私の使う唯一の化粧品?であるアロエジェルはもともとワイキキアロエの製品なのだ。これ以上入らないので調味料やシュノーケルの他に、カセットテープやCDも持っていくのをやめた。この時期、結構雨が多く涼しいので長袖は必須だと、友達の従姉妹と言う人からメールを頂いた。「えっ雨?長袖?」これは薄手の長袖を重ね着して行けば良いだろうとタカをくくる。 天候ばかりは、勉強しに行くのだから雨のワイキキもまた良し、と言うことにしておこう。 |
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