Column-3
一口コラム集3
巻頭コラムとして過去に発表したものをまとめたものです

首里節
琉球王府で編纂されて、王の前で演奏された、いわゆる琉球古典音楽は、荘厳で洗練されている。王府では、地方に赴く役人に地方の民謡の採取を命じ、それを首里城に持ち帰りソフィスティケイトして、宮廷音楽の中に取り入れた。「安波節」や「夜雨節」「白保節」など多数ある。また宮廷内でもオリジナルの作曲が行われた。
しかし中には、王府にとって都合の悪いような歌詞も平気で歌われた。これは、王府の懐の深さなのだろうか。
「首里節」は湛水親方の工工四に納められた七曲の古典の一つ(現在では野村流工工四・中巻に納められている)。内容は首里城内の大奥に住む、恋することを禁じられている女官達と、係り役人との秘められた恋情を詠ったもの。タブーものの歌詞が作者不明となっているが、湛水親方その人の作ではないかと推察されているところが面白い。曲調は琉球の首都、首里の風格を持った曲。
2番の歌詞は後世の作とされている。尚徳王の王女と花園係りの下級役人との許されない恋が露見され、男は死刑。それを嘆き悲しんだ王女は、投身自殺をしたという悲恋物語から取材しているという説がある。



トゥングダとサンガイ・イソバ
絶海の孤島、与那国島。
渡りつくのは困難であることから与那国のことを渡難(どなん)ともいう。
まだ八重山諸島が統一される前、1490年ごろ、与那国は独自の行政があった。小さな島ゆえ人口が過剰に増えることは食糧危機につながる。ゆえに口減らしの悪政が生まれた。
1つはクブラバリ(久部良割)。久部良部落に、深さ7〜8m、巾2m、長さ30m位の自然の割れ目がある。懐妊した女性は、ある時、駆り集められ、この割れ目を飛び越えさせられた。飛び越えられず、奈落の底に落ちる者、無事飛び越えてもその衝撃で流産する者など、合法的殺人として人口増加を防いだ。
いま1つは、トゥングダ(人桝田)という約3反(30アール)の田んぼを島の中央に設置して、ある日ドラやホラ貝のなる音を合図に島民全員がこのトゥングダに集結させられる。トゥングダからあふれた者、時間に間に合わなかったものは一ヶ所に集められ処刑された。まさに悪政である。
この悪政に果敢に立ち向かい、トゥングダを指揮していた役人達におそいかかり、打ち倒した英雄がいた。
サンガイ・イソバ(サカイ・イソバ)という、女傑である。身の丈六尺、肩幅三尺、二対の乳房を持ち、怪力であったと言う。しかしイソバは力だけでなく、政治にもよく心を配り、与那国島の良き酋長であったと言う。
イソバが与那国を統一したそのころ、波照間島出身のオヤケ赤蜂が石垣島で勢力を誇っていた。赤蜂の話はいずれまたするとして、この時期は八重山各地で英雄が現れ中央政府とは切り離された独自の体制を取っていた時期である。


夜の風習

南国のおおらかさ故であろうか、沖縄で夜ばいの風習はかなり最近まであったようだ。夜ばいをかける男は、夜、目指す女のところに忍び込み、礼儀として、朝を告げる鶏のの鳴き声の前に人目に見つからず帰ったそうだ。
昭和の戦後において、沖縄の民謡調査に訪れたT芸大民族音樂セミナーも合宿所にしていた公民館に夜な夜な訪れる訪問者に苦労したという話がセミナーの研究発表資料に記録されている。苦情を村の代表に訴えても、そういう風習であるということで、取り扱ってもらえなかったそうだ。
民謡にも夜ばいに関する唄は数多くあるが、中でも最も美しい唄は、宮古民謡の「伊良部トーガニー」だろう。宮古島から伊良部島まで、サバニをくりだして夜這いを仕掛けに行く唄である。一番の歌詞では、女性が伊良部島までの間には休むところになる渡瀬があるから休み休み来てくださいと語り、二番では男性がへやの戸は板戸だと音がして家のものが気付いてしまうから、音のしないムシロ戸にしておくれと歌っているのだが、そのメロディーの美しいこと。とても夜ばいを歌ってるとは思えない、情感あふれた名曲だ。宮古民謡の大御所、国吉源次さんも、「ときに、この唄は誰にも歌わせたくなくなる、生涯を掛けて歌いたい唄だ」とTV番組のなかでおっしゃっていた。機会があったらぜひ聞いて欲しい1曲。

ウルトラマンの父
沖縄では頭のことをチブルという、ウルトラマン・シリーズの中にチブル星人という頭でっかちの宇宙人が登場する。次郎という意味のジルー星人もいる。発案者はウルトラマン・シリーズの脚本家の一人、金城哲夫。沖縄出身。
彼の書いた脚本の中で最も有名なのが「ノンマルトの使者」だ。
薩摩世、ヤマト世、アメリカ世と支配されつづけてきた沖縄の姿を写した作品。内容は、地球の先住民で現在は海底に追いやられた平和を愛するノンマルト族が、誤解から地球人に全滅させられてしまうというもの。ウルトラセブンが悪役として描かれている。
金城は沖縄の本土復帰をめぐる中、1969年沖縄へ帰える。
帰沖後、沖縄芝居を制作するがウチナーグチの問題で苦しむ。
薄幸の歌人、遊女チルーを描いた映画「吉屋チルー」を製作している。また復帰直後の海洋博の司会と演出を担当。海洋博終了後、1972年2月26日、泥酔して2階のベランダより転落、死亡。享年37歳の若い人生だった。「ナビィの恋」の監督、中江祐司監督は、「金城哲夫が存命していたら沖縄の映像界は、まちがいなく今と違ったものになっていただろう」と言い切っている。


ウティナン・スサナン謡法

ユンタ、ジラバ(八重山の労働歌)において、唱者が交互に歌いあい、その際、第1節の歌い方と第2節、第3節の歌い方の旋律に変化をつけて上から歌ったり、下から歌ったり(揚げ出し、下げ出し)して唄の流れに変化をつける技法。
長い作業のときに歌う歌に変化をつけて作業を飽きさせないように工夫したところから発生した技法。竹富島の世乞いで歌われる「根下りユンタ」は、下げ出し、上げ出しの交互で歌われる。
ウティナン・スサナン謡法でもっとも優れたものが「昔トゥバラーマ」だといわれている。戦前までは野良仕事の帰り、二里も三里もある道をよく声が枯れるまで歌って帰ったと聞く。
「昔、言ずだ、トゥバラーマ歌や、なまになり、座歌なりねーね」(昔は野でおおらかに歌ったトゥバラーマも、今では座敷唄になってしまった)とトゥバラーマ自身歌われるように、現在ではトゥバラーマも定型化されてしまったと、昔を知る人の嘆きも耳にする。その原因の1つに工工四とCDやカセットテープによる流布、一般化がある。
それが良い悪いは別にして、とまれ歌は生き物。工工四もひとつの歌のひな型ではあるが、それだけに拘泥されず、ウティナン・スサナンのような生きた歌を歌いたいものだ。



うりずん

4月、沖縄は寒さも和らぎ、程よく暖かく、もっとも過ごしやすい時期だ。でいごの花も咲き始め、日中はポカポカ、夜は涼しく、時によっては寒い日もあるが。
「うりずん」古い日本語が語源で「潤い初め(うるおいぞめ)」である。常緑の沖縄でも緑がされに濃くなる季節。
八重山民謡の大御所、仲宗根長一さんの作で「うりずんの詩」という曲がある。
「うりずんの風のように心やふぁやふぁと居れば、この浮世も穏やかに生きて行ける」と詠っている。
「メンソーレ」が観光用語で手垢がついてしまって、あまり使われなくなってしまった今、もっとも沖縄らしさをあらわす言葉の一つかもしれない。
ちなみに、メンソーレの語源は「面候(めんそうろう)」からきている。
わたしも、うりずんの風に1週間ほど吹かれてきて、心も体も、やふぁやふぁしてきたところ。



南波照間島

「うるま」とは沖縄をさす雅名、一説では、サンゴをあらわすという。そのうるまの果てにあるから、「はてうるまじま」が波照間島の語源であるという。
日本最南端の有人島。波照間島には古来よりさらに南に理想の島、南波照間(パイパティローマ)があると伝えられている。
ドゥナン(与那国島)にも同様に南与那国(ハイドゥナン)という理想郷の島があるという伝説がある。
八重山年代記によると、1648年波照間島で首里から年貢取り立てと役人交代でやってきた船を、波照間島平田村の男女4〜50名が乗っ取り「大波照間(南波照間)」目指して島を脱出したという記述がある。その後の彼らの消息は明らかではないが、台湾、紅頭省には波照間島方言や波照間島の民謡に良く似た唄が残っている。命がけで大海原に出帆するだけ、当時の人頭税は過酷であったのだろう。
明治になってから、日本国海軍は領土拡張のため、この伝説上の島、南波照間島を調査しているが結局は発見されなかった。



ナビカキ・マス

まず訂正です。前回の南波照間島の話で台湾・紅頭省とあったのは台湾・紅頭嶼のあやまりでした。
その南波照間伝説で、波照間島に「ナビカキ・マス」という地名(田んぼ)の由来説話がある。
先の波照間島脱出(1648年)のおり、主謀者は波照間島の航海術に長けた、屋久村のヤクアカマリという男であるといわれている。彼は人民を救おうと思って、事前に船を出し南波照間を発見し、波照間に戻って村人を説得したとある。その脱島の際、村民4〜50名が家財道具を持って船にのるわけだが、ある女が鍋を忘れたので村にとりに帰った、船で待っている人々は、待てども女は帰ってこない、明け方やむなく船は出帆する。女は鍋を持って急いでいたが出帆した船を見て、泣き叫び船を呼んだが船は行ってしまった。女はその場で持っていた鍋で足元の砂を掻き散らし嘆いた。その場所(田んぼ)を「ナビカキ・マス」(鍋を掻き乱した田)といっていまも荒地になりその名が残っていると言う。


唐船来1
「唐船来(とうしんどーい)」。いわずとしれた、カチャーシーの代表曲。唐から船が来たぞーといって大騒ぎしたという曲。
唐との貿易は進貢船の貢納の見返りに中国からもらう大量のみやげ物を各地に売って利益をあげる。「唐行倍(とーいちべー)」といって、10割の利益をあげたという。
2年1貢で中国に赴く。進貢船は大小2隻。大きい船に150名程度、小さい船に70名程度乗り込み、福州へ向かう。外に接貢船という1隻があり、合計して2年に3隻の船が那覇〜福州を往来した。
元和2年の現金利益は1万4千6百両であったという。
中国から帰りを待ちわびる首里王府のため、航路にあたる各島々では、唐船が見えたら、のろしを上げて伝達した。最初に久米島で唐船があらわれ、のろしを上げ、それを受けて渡名喜島→座間味→渡嘉敷島→前島→小禄→首里というように伝達された。のろしの数は唐船1隻で1炬、2隻で2炬、異国船だと3炬と決められていた。八重山諸村公事帖という古い記録にものろしの規定があり、琉唐船漂着の時立火二つ、大和御領内の船漂着の時立火三つ、異国船漂着の時立火四つとある。
とまれ民謡「漢那節(唐船どーい)」に唄われるほど、唐からの船の帰港は人々にとって待望のものであり、街は大騒ぎになったようだ。(つづく)



唐船来2
漢那節(唐船どーい)系の唄は、琉球弧に広く分布している。
沖の永良部島では奴踊り「畦越い」。宮古では「前ぬ山ぬアヤグ」。竹富島では種子取祭の「じっちゅ」など。
唐からの船を待ちわびる人の中でも、出張に赴いていた役人の夫人方は、強く待ちわびていた人たちであろう。
明清の動乱のとき、3年目に戻るはずの一行が、いくら待っても戻ってこなかった。動乱に巻き込まれたというウワサが流れ、葬式を行ったり、随行員の若い妻の中には再婚をする者も数多くいたと言う。その中で、幸喜里乃子陳初源という通事の妻は固く貞操を守り、夫の帰りを待ちわびた。やがて「唐船来(とうしんどーい)」という叫び声と共に、夫の乗る船が帰ってきた。便所掃除をしていた妻はあわてて、手にしていたホウキを振り上げて走った。その時、腰巻がホウキにひっかかってそれに気付かず振り上げてしまった。それが縁起の良いこととして、以降、唐船出帆の前日にホウキの先に黄色い布をつけて行進する行事になった。そしてくだんの妻はというと「早作田節」のツラネにこう読まれてしまった。<嘉例吉御船や、大口のすかて、何か妾や、今日の今日>(あの人の乗っているおめでたい船は、那覇港の入り口まで来ているというのに、どうしてまあ、今日の今日、月のモノがきてしまったのか!)。う〜ん間の悪い話でした。



ハジチ
針衝(ハジチ)いわゆる入れ墨。世界の民族の中で、入れ墨はいろいろな意味を持っている。部族としての証、婚姻のしるし、勇者のしるし、罪人のしるしなど。
沖縄においてハジチ・入れ墨は婚姻のしるしになる。手の甲に施す。その文様の意味は、指の甲に弓矢の矢を彫り、一度嫁いだら二度と戻らないことを表す。手の甲の円形は的。その他に角は桝を、矢車は織機具を、三角形が4つ合わさって船の破損を逃れることを表すとされている。
奄美から八重山に至るまで、ハジチの習俗は明治時代まで続いた。
その起源話として、400年あまり昔、尚円王時代。神事を司っていた聞得大君(王女)が久高島へ参詣の途中嵐に合い薩摩の海岸に漂着した。薩摩では、見目麗しい王女が流れ着いたとうわさになり、領主にまでとどき、領主が会ってみると実に美しかったので、求愛された。王女は丁重に断るが聞き入れられず、困惑していたところ、沖縄から来ていた国頭親方正格の知恵によって、王女の手に入れ墨を施した。そして薩摩領主に再びあい、酒を酌すると、領主は入れ墨に驚き、汚れた手だと言って沖縄に返した。入れ墨によって理不尽な難から逃れることができると言って入れ墨の習俗がはじまったという。
八重山では、昔島民が台湾に漂着したときそこの住民に危害を受けそうになったとき、入れ墨をした女に助けられたことより、その恩を慕って入れ墨が始まったとも伝えられている。


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