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チョンダラー 漢字で京太郎 明治の初めまで首里郊外の安仁屋村に在住し、万歳や鳥刺し舞(いづれも芸能)など演じて 門付けして歩いた人々 ヤマトの放浪芸の流れを汲むので京の名がついたと思われます 現在は沖縄市泡瀬と宜野座村に伝承
エイサーにおけるチョンダラーはその滑稽なしぐさから京太郎の名を借りたと思われます チョンダラーもしくはサンダー(三郎)ともいいます 道化をやりながらエイサーの隊列を整えたり、バチが落ちたらすかさず拾ってやったりと さしずめ舞台監督兼ADのような大事な役目をします ちょんだらーの指示でエイサーが動きます
八重山においては京太郎に使われた歌謡が伝来しアンガマ(お盆の行事)の歌謡として取り入れられています この際の京太郎は死者の葬礼を広めた念仏者(ニンブチャー)とも深くかかわりがあるようです
ワラビナー 新生児が誕生して、生後十日目の祝いを「十日シラ」といって、仏前に、酒、おにぎり、肴などを供え、新生児に祖先の霊位を拝ませる。そしてこの日より、名前が付けられる。男児は童名(ワラビナー)と本名があり、女児はワラビナーのまま家系図に記される。 長男長女は、父方の祖父母の、次男次女は母方の祖父母の、三男三女は父方の曽祖父母の、四男四女には母方の曽祖父母の童名が付けられる。したがって童名は法則性を持って永久に繰り返される。祖先を崇拝する気持ちを深くさせるためであるという。 八重山の「昼の子守唄」には、祖父から名をもらったことが、歌われ、「まんか節」では、生まれる前から祖父母の名前を付けることが歌われている。 祖先を敬い、目上の者を敬う心が、このように日常生活の中にあれば、昨今の成人式にみられるような、不貞のヤカラは、いなくなるであろうに。
とぅばらーま2 以前にもこの巻頭コラムで書いた八重山の名曲「とぅばらーま」ですが、今回は歌詞について。 とぅばらーまの歌詞は古典的なものから最近のものまで数多くあるけれど、古典的な歌詞を、いくつか紹介します。 「ぶがりしゃぬ 足んざん 寄つぁさるぬ 唄やんざん いじりどぅ 流し行かりらー」(疲れきって足が進むことができない、唄を歌うことによって、やっとあるいて帰れるのだ)。「野とぅばらーま」といって畑仕事の帰りに、歌い掛け合いながら帰ったのが、とぅばらーまの発生だという。 「若さーるぃけんどぅ 思う事ん叶さーり 年ゆ取りからあ 思う事ん 思ーだまでぃ」(若いうちこそ思う事も叶うもの 年をとってからは、思う事も思ったまで) 「あわりまま 休まりむぬやらば 苦りしゃまま 失しらりむぬやりば」(今のこの苦労のまま、これ以上苦労しないで、休まれるものならば、今の苦しさの中で、これ以上苦しまずに死ぬことができるものならば) 何とも切ない気持ちですが、とぅばらーまの歌詞は、歴史や人生が凝縮されていて、聴く人の心を打ちます。
人魚伝説
人魚伝説はヨーロッパのほか、日本本土にもあるが、日本の場合は、その肉を食すると不老不死もしくは不老長寿になるというもの。人魚の肉を食べて800歳まで生きた八百比丘尼が有名。 沖縄は人魚のモデル、ジュゴンの生息地の北限。琉球王は長寿を求めて、人魚が捕らえられたときは、必ず上納するように命令していた。 宮古諸島と八重山諸島には洪水と関係して、人魚伝説がある。宮古では人魚が捕らえられ、住民に食される危機から人魚が大声をあげて海の神に頼んで、洪水を起こしてもらって脱出するという話がある。 ところが八重山では、人魚が捕らえられ、その人魚が漁師に人魚は海の神の使いだから逃がしてくれと、懇願し逃がしてくれたお礼に、「何月何日に洪水が来るから避難するように」と教えてくれて、その漁師たちが助かる話になっている。 明和8年(1771年)旧暦3月10日、八重山を襲った明和の大津波は石垣島宮良村で最高85,4メートルまで津波が押し寄せ、八重山全人口の三分の一にあたる9913人が犠牲になった。人魚と漁師との関係は、そういった歴史とも関連があるのだろう。
コザ暴動 1970年12月19日23時すぎ、米軍統治下のコザ市(現、沖縄市)中之町で陸軍病院所属米兵が、道路横断中の日本人軍雇用員をひいて怪我を負わせた。事故処理にきたMP(米軍憲兵隊)に対して、以前より米軍による事故が、無罪になることに不満をもつ住民の感情が頂点に達し、MPを取り囲み険悪なムードになる。MPの威嚇発砲により住民の不満が爆発。外人車両をひっくりかえし、次々に火をつけた。これに約5000人の人々が集まり、暴動となる。たまたまその日、コザにいなかったある警察官は「いたら自分も暴動に参加していただろう」という。また人種差別を目の当たりに見ていた住民は黒人は仲間として、黒人には手を出さなかったという。 復帰後今だ日本の中の米軍キャンプの大多数が沖縄にある中、1995年、9万人を集めた、10・21県民総決起大会にまで発展した、米兵による少女暴行事件は記憶に新しい。私もそのときちょうど沖縄にいて、緊張感を感じていた。
浜降り 旧暦3月3日、沖縄では春の大潮で女性を中心に浜で遊ぶ。フーチバームーチ(よもぎもち)などのご馳走を用意し、潮水で身を清める。陰陽道的解釈として女の厄払いという説もあるが、本来は聖なる神の来臨を期した神祭り。 宮古ではサニツ、八重山ではサニジという。 伝承話として、ある娘のところに夜な夜な現れる男がいて、その正体がわからない。母から知恵を授かった娘はその男の髪に糸をつけた針をさし、その男の後を追うと、洞窟の中に住むヘビがノドにハリを刺し苦しんでいた。「人間の女に子供を宿らせ本望だ」というヘビに仲間のヘビが「3月3日に海に行ってさんご礁の割れ目を、越えれば堕胎できるさ」と言っているのを聞いた娘は、そのとうりにして、ヘビの子を堕胎することができた。これが浜降りの始まりだという。 現在では、浜についたら3回波を飛び越え、潮水に少しだけ浴びたりする、そして潮干狩りをする。
人頭税 1609年島津・薩摩藩は琉球に攻め入り奄美諸島を領土とし沖縄本島以南を支配下においた。1611年沖縄本島・宮古・八重山の主だった島々の検地を行い、薩摩への貢納高を定めた。 年貢米は8000石余、その他に芭蕉布3000反、上布6000反、下布10000反、牛皮200枚、むしろ3800枚e.t.c。 琉球王府は多額の出費の徴収先を宮古・八重山に求めた。15才〜50才までの男女一人一人に田畑の面積(収穫高)と関係なく頭割りに税を求めた。いわゆる人頭税である。1637年に制度化され、1639年には人口の変動に寄らず、毎年の税額を一定にする、定額人頭税となった。一人あたりの負担は、男子1石8升余、女子布5反余が正粗でその他に、上木税としてナマコ、貝柱、しゅろ、ヒハツ(ピパーシ)、苧麻など48種に、月に2〜3度の王府への労役、その他に地元役人のための労役があった。 そしてこの人頭税によって多くの悲劇が生まれた。(つづく)
人頭税(2) 人頭税が過酷であった理由としては、その税率より、支配層が百姓を不当に扱ったり、特権によって、地方税にあたる所遺米(ところつかいまい)を不当に多く徴収していたことにあるといわれている。 貢納物を徴収する際の升目を不当に大きくしたり、御用布の割り当てに、賄ろを持ってきた者には、簡単な模様の織りかたを与え、そうでない者には、むずかしい模様を与えたりしている。 さらに、百姓には互いに連帯責任を負う、「五人組」に編成され、百姓同志互いに監視しあった。また百姓に位階を与え、村役人としての役職を与え五人組としての連帯責任を負わせることにより、共同体内部の横のつながりを弱め、自らを苦しめている社会矛盾に対する不平不満を支配階層からそらし、共同体内部に向けさせることによって、百姓一揆をも起こさせなかったのである。 この時代の悲劇は民謡にも多くのこっている。 「道切り法」で黒島から石垣島野底に強制移住させられ、別れさせられた恋人を思って石になったマーペーを歌った「つぃんだら節」 上布を貢納するカナガマと役人との厳しい応酬を歌った「上布ぬ主ぬ布納みアーグ」貢納物にケチをつけ、権力を背景に娘を手篭めにしようとする役人も多かったという。 「島出のアーグ」は池間島から長間へ強制移住させられた新妻の悲しみを歌っている。(つづく)
人頭税(3) 人頭税時代、単身赴任してくる役人の世話をする、賄い女(まかないおんな)いわゆる、現地妻に対して、当事の民謡には、様々な住民の感情が表れている。 宮古民謡「池間の主」は、池間の主が、どんどん出世して立派になるだろう、ウヤンマ(現地妻)とも、太陽と月が同じ軌道を登るように、二人の思いも一つだと、最大に賞賛しておきながら、後半でウヤンマになったミガガマ(女性名)が、花のように美しかったのに、現地妻になってからは、灰をかぶった猫のようだとけなしている。農民たちの現地妻に対する憧れとねたみをストレートに表している。 現地妻になることは、税の免除や、土地・財産の付与など、経済的特権を得ることによって一つの憧れでもあった。 八重山民謡「まんがにすっざ」は○○村の○○さんは○○役人の賄い女になった、本当にうらやましい、と歌っている。 しかし反面悲劇もあった。「猫ゆんた」では、すでに子供もいる人妻が強制的に賄い女にされ、残してきた子供のことを思うとどんなに立派な食事でも、のどを通らないと歌っている。
一方、竹富島に伝わる「安里屋ゆんた」は、助役役人の申し入れを蹴って、頭職役人の求愛を受け入れた美女クヤマのことが歌われている。しかし、「安里屋ゆんた」は竹富以外の八重山ではクヤマが下級役人も上級役人も両方の求愛を蹴って島の男を夫に選んだという、役人への抵抗歌にすりかわっているところに、当事の農民のやりどころのない感情が大きく反映されているといえよう。(つづく)
人頭税(4)
明治維新・廃藩置県〜琉球処分により日本に組み込まれた沖縄。それでも旧慣温存策により、人頭税はまだ続いていた 真珠養殖を夢見て宮古島にやってきた新潟県出身の中村十作と沖縄本島から精糖業技師として赴任してきた、城間正安の二人は宮古島で士族層に奴隷のようにこきつかわれる農民を見て、人頭税廃止に立ち上がった。彼らは人頭税廃止の可能性を農民に説き、廃止運動が起きた。 1893(明治26)年、宮古島役所と着任したばかりの奈良原沖縄県知事に対して、人頭税廃止を請願した。知事は同情的であったが、旧支配層の勢力が強く、即時廃止には至らなかった。 しかし、農民運動は盛り上がり、中村らは農民代表を率いて東京に上京し、直接政府に直訴する策を練った。各村で会合を重ね、平良真牛と西里蒲が代表となった。 旧慣を維持し、利益を失うまいとする役人や士族たちの上京阻止で、命がけの宮古島漲水港出航となった。陳情団は那覇でも警察の厳しい妨害にあったが、1893年11月、ようやく東京につき、新聞社、知識階層、帝国議会議員らを訪ね陳情活動をはじめる。 1895(明治28)年、日清戦争の年、ようやく第八回帝国議会で取り上げられ通過。 1899(明治32)年に土地整理がはじめられ、1903(明治36)年、270年続いた人頭税は廃止された。 宮古島民の不屈の精神は「アララガマ(なにくそ!負けないぞ!!)精神」といわれ、宮古人の精神的背景になっている。 この人頭税廃止を喜び祝った歌が「漲水(ぱりみず)のクイチャー」である。
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