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島々を流れる唄
農作業を歌った唄に「稲すり節」がある。種子島から奄美・沖縄を通って八重山まで分布している。メロディーは各島によって変化しているが、お囃子の「稲スリスリ粟ユリユリ」は同じだ。琉球弧は確実に繋がっている証拠だ。
面白いのはメロディーの変化の仕方で、奄美はやはり奄美民謡の範疇に入るメロディーだし沖縄本島はやはり琉球音階に変化している。これを唄が訛るという。
カチャーシー曲に「アッチャメー小」があるがこれも沖永良部・徳之島・種子島まで分布し、変化している。
唄は流れる。そして流れ着いた地域や伝播者によってどんどん変化する.その流れを追っていくと見通しのよい、とらわれない融通性のあるものの見方が出来そうだ。
アマミキョ
沖縄の開闢神話に登場する沖縄を創生した神の名。沖縄人の祖先になる。「沖縄学の父」伊波普猷は、その考えの中で紀元3世紀頃九州東南部に在住していた海人部(あまべ)が、奄美大島を経て南下しアマミキョになったとしている。アマミキョのキョは子を表し人を意味する、そうするとアマミの人ということになる。
「日本書紀」にトカラの国の男女が海見(あまみ)島に漂着し筑紫に来たという記述がある。トカラは鹿児島県トカラ諸島という説もあるが、現在のタイ国のメコン川あたりの国という説が有力だ。柳田国男の南方から沖縄の島々を通って日本人がやってきたという「海上の道」説にもつうじる。南下にせよ北上にせよ壮大な旅が大昔にあり、その記憶としてアマミキョ神話があるのだろうか。
続・ラッパ節
この巻頭コラムでしばらく流れ行く唄の話を続けていますが今回は以前に書いた十九の春の原曲「与論ラッパ節」の続き。
与論ラッパ節は日露戦争の頃日本全国で流行ったヴァイオリン演歌「ラッパ節」が原曲。しかしそのラッパ節も「抜刀隊の唄」が原曲になっている。抜刀隊の唄は明治政府がフランスからよんだシャルル・ルルーが作曲したもの。ルルーは当事ヨーロッパで上演されていたオペラ「カルメン」のなかの「騎兵隊の唄」のメロディーにヒントを得てというか真似て作曲している。つまり「十九の春」の遠い祖先はカルメンだったということになる。奇しくも「十九の春」再ヒットの原因となった映画「ナビーの恋」でもカルメンの一節が歌われていた。
宮古・八重山の分島
明治政府によって1879年琉球藩を廃し沖縄県が設置された。宮古・八重山の先島では日本化にたいして反対が強かった。清国も沖縄県設置を認めたわけではなく日本との間に問題が生じた。アメリカ前大統領グラントの調整で両国から沖縄に対する扱い方の提案が出された。
日本側は「1、沖縄諸島以北を日本領とする。2、宮古・八重山は中国領とする。3、清国での日本商人の欧米人なみの有利化」
清国側は「1、奄美諸島以北を日本領とする。2、沖縄周辺諸島を琉球王国として独立させる。3、宮古・八重山を中国領とする」であった。
交渉は一時は日本案を清国が受け入れるところまでいったが、結局提携されず、日清戦争により、自然解決となった。全く住民を無視した政治家の態度である。しかし、もし日清戦争がなければ宮古・八重山民謡は今ごろは中国民族音楽の1つだったのかもしれない。
サツマイモ
琉球王朝時代、食糧難は台風、飢饉や旱魃などで常に起こる深刻な問題であった。救荒食物として当事は有毒食物のソテツがあった。手順良く根気強く毒素を抜くことによってなんとか食物としていた。そこに人民の飢えを救ったのがいわゆるサツマイモの伝来である。1605年、進貢船の役人、野国総管が中国から苗を持ち帰り、北谷間切の村々に広め、儀間真常が普及させた。この災害に強い画期的な食物はたちまち琉球全島で栽培され農民の主要食物になった。
原産地は中南米。コロンブスによってヨーロッパに渡り、スペイン人によって東洋に伝えられ、フィリピン→中国→琉球へと伝わった。琉球から薩摩へと伝わりやがて青木昆陽によって日本全国に広まる。
沖縄の知人はサツマイモではなくリュウキュウイモだと私によくもらす。
世乞い(ユークイ)
竹富島種子取祭の奉納芸能初日が終わると世持御嶽の神前でイバン(九年母の葉)をいただいて根原家を出発点に仲筋、玻座間東、玻座間西の3ルートに分かれてユークイが始まる。ユークイとは豊作を祈る行事、神司を先頭に各部落の家々を周る。家と家の間は道歌を歌いながら行き、家に着くと庭で、巻き歌、シキドーヨーを歌う。仲筋ではつづいて願礼(ガーリー)が行われる。そして座敷にあがって泡盛、タコ、ニンニクをいただき、稲が種子アヨー、根うりユンタを歌い次の家へと移動する。伴奏は太鼓とドラと手拍子で薄暗い街灯の中で歌われるアカペラのこれらの曲は島の人々の良く通る大きな声で、たくましく、神秘的で聴く者の心をゆさぶる。観光客も歌詞集をもらい一緒になって歌い、ガーリーや胴上げをし、泡盛をいただける。まるで自分の故郷のように島の人は受け入れてくれる。おおらかで神秘的な行事だ。
親子ラジオ
一昔前、メディアのあまり発達していない頃「親子ラジオ」というものがあった。各家ごとに20センチ四方ぐらいの木箱にスピーカーをいれそれを全部線でつないで親元から放送する有線放送。親元がラジオ放送を録音して流したり、レコードを独自の選曲で流したりしていた。わたぶーショーの照屋林助氏などは大人気で八重山では毎日のように繰り返し放送されていたそうだ。
大工門下コーニーズの吉川さんは鳩間島の生まれ、鳩間島では今でも親子ラジオが健在だという。子供の頃は八重山古典民謡「赤馬」で毎朝がはじまったそうだ。放送内容も八重山民謡が中心であったという。そんな原体験が八重山のすぐれた歌者を作り上げていっているのかもしれない。
競争心
今回、大工先生から聞いた話では、八重山の祭りが芸能合戦のようになるのは昔の役人が部落ごとに芸能を競わせることによって競争心を煽り、ひいてはその競争心を持って人頭税(上布、稲、粟など)の貢納を完遂させるためであったということです。
人心を煽るのに芸能を持ってくるところがいかにも沖縄らしい発想ですが、文字や数字や瓦屋根のような贅沢も禁止されてユンタなどの歌が唯一の慰めであった八重山では必然だったのかもしれません
いまでも小さな島での部落同士の競争心やライバル心やひいては仲が悪いといった話を良く耳にします。
弥勒(ミルク)
仏教では釈迦没後、56億7千万年後衆生を救済する未来仏を弥勒菩薩という。沖縄に仏教が伝来されニライカナイ信仰(次回のコラムで詳細)と結びついてニライカナイの国からやってくる、豊穣をもたらす神となった。性別は女性、子孫を引き連れ行列してくる。ミルクのもたらす五穀豊穣子孫繁栄の素晴らしい世の中を弥勒世果報(ミルクユガフー)と呼ぶ。八重山におけるミルク請来は、黒島首里大屋子職の大浜用倫が1791年に首里から八重山への帰途、現在のベトナムである安南に漂着し、そこで見た豊年祭の弥勒面と衣装を持ち帰ったのがはじまりとされている。そのときの随行員、新城筑登之にミルク面が託され現在も新城家に保管されている。「弥勒節」の作者はその大浜用倫と新城筑登之の両名になっている。1番の歌詞「大国のミルク・・・」の大国とは本来は安南泰国をさすが現在では大きな国と言い換えられている。
ニライカナイ
沖縄において代表的な異郷。はるか海のかなたにある豊穣の源で人間が生活するための貴重なものをもたらしてくれるところとされている。語源はニ(根)・ラ(地理的空間を表す接尾語)で「根所方」の意味と思われる。八重山では古くはニーラ(根になるところ)であったところに方位を表すイをつけて地理的空間を広げたと思われる。民俗学者外間守善氏の説では「死者の魂の行くところ」という観念や「生きている人に幸福をもたらすセヂ(霊力)の源泉地」という観念が統合され理想化されて「海のかなたの楽土」観がつくられたという。
ニラライカナイから豊穣の世を招き寄せる手立てとしてユークイ(世乞い)やユーンカイ(世迎え)などの祭りを行い、マユンガナシ、アカマタ、ミルクなどの有形の神やニーウスイなどの無形の神を迎える。豊穣をもたらす五穀の種子はニライカナイから神がやってきて人々に授けると考えられている。逆に災害をもたらす害虫もニライカナイからやってくると考えられている。
たのーる
八重山の言葉。
「唄にたのーるがある」という。
とうばらーま大会の審査基準にも「たのーる」の項目がある。八重山唄ではとても大切なもの。
では「たのーる」とは何か?
私自身は「歌心」のようなものかと思っていたが、違った。文献を探ってもハッキリしないので我が師匠に問うたところ、「もって生まれた先天的なもの」で「教科書にはない微妙な節回し」であり「オリジナリティ」であり「これがたのーるだ、と教えることができないもの」ということ。演歌で言えば天童よしみの唄だそうだ。じゃあ全く後天的に取得できないかというと、師匠に寝食を共にするほどついて唄を聞いていれば「これがたのーるだ」と感じ取れるということ。落語でも師匠の絶妙な話をずっとくっついていれば体感できるように。
なにもおしえなくても仕事のできる人を「仕事たのーる」、話の絶妙なひとを「話たのーる」という。「多慣れ」が語源という説がある。
で我が師匠との問答のとき先の「歌心」については「何十年も歌って、判るもの」という回答だった。
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