新潟県・新発田市
黒鳥兵衛の伝説には諸説ありますが、西宮内・八幡宮の社記によると、寛治七年、源氏の大将八幡太郎義家の弟、加茂次郎義綱が、奥羽阿部の残党黒鳥兵衛詮任が総大将となり黄鬼兵衛と勘藤兵衛を侍大将として越後越中界隈に陣を取り頑強に抵抗していた一味を赤沼谷地に追いつめ、ついに力つきたところを討ち取りました。
黒鳥兵衛はまことに容貌魁偉、体躯肥大で、身長は六尺余り腰の回り七尺四寸であったとか。とにかく一騎当千、勇猛無比の武将であったに違いありません。
その悪霊が悪さをしてはならないと云うことで体を分斬して、頭を家士五十嵐小次郎時直等に命じて当西宮内に埋め、弥彦附近に胴体を、緒立に四肢を埋めてそれぞれに八幡様を祀り供養したと申します。
この黒鳥塚は現在お宮の西方にあり、方八間あまり(地目原野として三畝十五歩)の大塚をなし、廻りは堀をめぐらし、中央に大きな桜の木が植えてあります。いつの頃からか「鬼塚」と呼び習わしていますが、明治維新頃までは天が正に雨を降らさんとして陰鬱にかき曇る時、塚の方から空砲の響きに似たものすごい音が一里四方にわたり聞こえたと云います。人々皆これを鬼塚の堂鳴りと唱え、各所に分散して埋められた体躯が互いに一緒になりたいと呼び交わす音だと畏れたとのことです。
しかし、現在ではまったく絶えて聞こえません。
昭和の初期頃、或る人がこの塚の発掘を申し出たことがあったそうですが、当時の人々は文化財保存の理由をもって断ったと聞いています。
戦前は子供達の兵隊ごっこの格好の陣地となったものです。
平成七年、新発田市から「コミュニティモデル地区」に指定された佐々木地区自治会が、県より自治活動賞を受賞したのを記念して鬼塚に「黒鳥兵衛鬼塚」の碑を建立しました。
<平成7年 西宮内八幡宮宮司 故佐々木浩郎氏談> ※佐々木浩郎氏は2008年5月30日にご逝去されました。
西宮内の八幡宮の西方に、方八間あまり、回りに堀をめぐらし、高く盛り上げて作った塚の中央に老桜が植えられている処がある。
これがいつの頃からか「鬼塚」と呼ばれてきた。
黒鳥兵衛の伝説には諸説あるが、ともかく一騎当千、勇猛無比の将であったとか。越後に入ってからは豊栄正尺谷内、五十公野に陣屋、小城を構え頑強に抵抗したが、最後は赤沼谷内(現西新発田駅周辺)で源義綱軍に退治され、その悪霊がわるさをしてはならないということで体を分斬して「頭」を西宮内に埋め、「胴体」を弥彦付近に、「四肢」を黒崎地区の緒立に埋め、それぞれ八幡様を祀り供養したといわれている。
<平成7年10月発行「佐々木地区郷土マップ」より>

鬼塚全景

平成7年に建立された「史跡 黒鳥兵衛鬼塚」の石碑
宮内八幡宮境内に鬼塚と呼ばれる直径四間位の塚があるが、ここには平安末期西蒲原の悪党、黒鳥兵衛の首を祭ってあると伝えられる。この墓の中から時々うめき声が聞こえるのは、はなればなれにされている弥彦大緒村の胴塚にまつられている胴体と一緒になりたいという黒鳥兵衛のうなり声なのだそうである。
黒鳥兵衛という人は、奥州の豪族(押領使)安部定任が奥州に前九年の役を(一〇五六〜一〇六四)起こした頃より加治庄を始め蒲原一帯に勢力を張り、船をとらえ、塩を奪い、荘園を荒らしまわり、さかんに京都の貴族を悩ましたという。前九年の役で貞任の反乱を平定した源義家は、京都に凱旋の途中、黒鳥兵衛一味を討つために、加茂次郎義綱以下家臣数百名を蒲原地方につかわした。
黒鳥一党は福島潟の入江であった赤沼谷地および正尺谷地をはさんで源氏の軍と応戦した。黒鳥兵衛一度は弓で射られたが倒れず、なお一族郎党の先頭に立って戦った。義綱は悪戦苦闘の末八幡宮、加茂大明神、伊夜日子大明神に願かけし黒鳥兵衛討伐を祈願した。義綱は部下を引きつれて、まず五十公野城をせめんと越の湖(福島潟)を通ったある日のこと小高い丘に部下を集め、義綱自ら馬に乗って五十公野城に行こうとしたけれども後ろは満々たる越の湖、前は腰を没する程の泥の湖、どうしてここを渡ろうと思案にくれていたところ、遥か弥彦の彼方から一羽の鳥が飛んできてこの泥の海に小枝を投げすててそこへとまった。それにヒントを得た義綱は早速かんじきを思い出しそれをはいて泥の湖を渡ったという。遂に戦い敗れた黒鳥一党は全滅しその血はこれらの沼や湖を真赤に染めたという。これが赤沼谷地の由来である。また、かんじきをぬいだ所が今でもかんじき坂として地名に残っている。(豊浦村中ノ目新田)加茂次郎義綱が馬をとめたと伝えられる所が馬立てという地名に残っている。(豊浦村乗廻)義綱が陣をとった小高い丘は今でも陣ケ山という地名に残っている。(鳥穴)この泥の海も現在土地改良や耕地整理によって立派な美田と化し黄金の波が漂っている。なおここにでてくる黒鳥兵衛の名を架空の人物とする人もあるが、ともかく鬼塚に祭られている人物はこの地方に強力な勢力をもち平安末期の貴族や特権階級を悩ました有力な人物であったに違いない。
<佐々木村郷土史より (昭和32年3月佐々木中学校歴史研究部) 新発田市立図書館蔵>
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