2度目の授業(1997/03/24)
今日は2度目の授業だ。小学1年生に英会話を教えるというのがどういうこと
なのか、やはりよくわからない。第一、英語なんて、ぼくだってかたことしかし
ゃべれないのだ。それでも、ものごとが順調な回り方をしてきたことだけは確か
なことだと思われる。
東海村で原子炉の設計をしている、英語力がその一流企業の中で10番以内で
あると言われている叔父がぼくに言ってくれたことがある。中2までの教科書を
しつこく音読すれば、日常会話くらいは何とかなるようになるよ。そう言えば、
叔父は大学院生だった頃、よくうちに晩ご飯を食べにきていた。大学院の原子物
理をやるコースに一番の成績で合格するほど秀才だった叔父は、我が家に来るな
りほとんど人の目を気にすることなく、ひたすら中学の英語の教科書を朗読して
いたっけ。父も母も本当は嫌がっていたのだけれど、そのあまりの集中力に注意
することもできなかった。
そのことを思い出したので、ぼくは中学英語を指導したとき、徹底的な文法的
解析を済ませた後、生徒に15回朗読させた。生徒にだけ読ませずに、ぼくが読
んだ後に続けさせた。こうすれば自動的に、ぼくが音読したことになってしまう。
そしたら自動的に、自分の意思くらいは英語で伝えられるくらいにはなった。授
業料をもらって、勝手に自分まで勉強してしまう。一石二鳥、便乗の酷いシステ
ムだが、まあ生徒の成績も順調にのびたのだから文句を言われる筋合いではない
だろう。
近所のインド料理店で、マサラ・ティのつくり方や、玉葱を炒める時間に関し
て、東京の有名なインディアン・レストランの話、カルダモンの薬効などの話題
をオーナーと英語で話していたら、何だ、普通に通じているなあと思ったものだ。
そのうちに、今回の話が来た。英会話、小学1年生。これまでの経験がなかっ
たら辞退していただろうなあ。派遣センターの担当者の前で、日常会話くらいな
ら何とかと大見得を切ったら、即決した。
お金をもらって勉強して、それをもとにもっとお金をもらい、そのことで勉強
する。さらにお金をもらう。これは順調な回転と見なしても構わないのではある
まいか? いいと思う。いいよね? だって、10年以上もまともな回転がなか
ったのだから。
エレベータを降りると、右斜め前にドアがある。呼び鈴。こんにちわ。はあい。
おかあさんではなく、生徒が出てきた。
子供は歌か、というシンプルな判断に従って伴奏用のギターを持ってきたのだ
が、彼はこれなあに、とはしゃぐ。後でね、後、とぼく。
おかあさん、先生がバイオリンを持ってきたよぉと、彼が嬉しそうに言うと、
彼女は、どう見てもギターでしょ、と呆れる。
授業をするよ、とりあえず座って、英語で挨拶をしてみるか、言ってごらん、
グッド・アフタヌーン。こんな授業には何の魅力もないなぁと自分でも思ったら、
やっぱり反応がない。「元気ぃ?」、これを「ハ・ワ・ユ?」って言うんだけれ
ど、言ってみてくれないかなあ、と言ったら、無理だよ、と、連れない。
このまま続けるのは辛いなあと思った途端に手品をしていた。とりあえず、彼
の目の前で、自分の親指を切断してみた。
「あれぇ!?」、うん、反応ありだ。「もう一回やってぇ」。
「もう一回だけだよ。ほら」
「あれぇ!? あれぇ!? もう一回やってぇ」
「ほら」
「あれぇ!? どうやるのぉ?」
「じゃあ、君の指でやってみようかなぁ? でも、失敗して戻らなくなったら、
どうしようか?」
「やだ、やだ。先生、ここから、切ってよ」
彼はぼくの手首を横切るように指差した。そういうネタは準備できてない。
「いいけど、それやって、つながらなくなったら困るからなあ。君の手でやる
んだったら、やってみるよ」
「えー、やだ。恐いよ。」
「ぼくだって、恐いよ」
「ねえ、先生、もう一回やってよ」
「近くで見ちゃ、だめだよ。ばれちゃう。ほら」
「あれぇ!?」
ふたたび彼は目を丸くする。
「先生、もう一回、もう一回」
「君の手で、やろうか?」
「いやだあ。恐いよ。ねえ、先生、本当に切れてるの?」
「切れてるよ。君の手で、やってみる?」
「だめ、だめ」
ぼくに接近してきて、彼は心の底から真剣な目つきをして言った。
「ここで見てるから、先生、もう一度、やってよ」
「だめだよ、ばれちゃうよ。ほら、切れた」
「あれぇ、本当に切れちゃった」
「君の手で、やろうか?」
「やだ、やだ」
きりがない。
アルファベットを教えようと、とりあえず、「きらきら星」を歌わせる。恥ず
かしがって、歌い出さない。これでは「ABCの歌」にはたどりつきそうもない。
ギターで伴奏をするのだが、彼は関心を示さない。いきなり席を立って、お絵か
き帳をを取り出す。何か一心腐乱に描いている。
「先生、これは迷路だよ。ちゃんと、できる?」
全然、迷路じゃない。くねくね曲がっているけれど、スタートとゴールがまっ
すぐつながっていて、分岐点がない。
「ここ、英語でなんていうか、知ってる?」
「え?」
「スタートだよ」
「ああ、知ってる」
「こう書くんだよ。START。書いてごらん」
S・T・A・R・T。楽しそうだ。
「ここは?」
彼は、戸惑う。
「ゴールでしょ?」
「違うよ、ここはゴールじゃあ、ない」
彼はぼくがゴールだと思っていた場所の延長を描きたす。全長が以前の1.5
倍程度になったところで、彼は満足する。
「ここがゴールだよ」
「ゴールって、どう書くか、知ってる? こうだよ。書いてごらん」
結構楽しそうに、彼はアルファベットを書く。ただし、全部大文字だ。
彼の自称迷路をやらされた。ルートがふさがっていて、進めない。いい加減に
書かれているのだ。
「ねえ、行けないよ」
「大丈夫だよ、ワープすればいいんだ」
「ねえ、ワープって、どう書くか知ってる? W・A・R・P」
「へえ、W・A・R・P」、楽しそう。
これは勉強というよりは、遊びだなあと思ったけれど、婚約者のおかあさん、
かつ小学校低学年専門のピアノ教師で、元幼稚園の先生であった女性がぼくにア
ドバイスしてくれたっけ。勉強を教える必要なんて、全然ないのよ。ならば、遊
びでいいのかなあ。一種の責任転嫁。
遊んでいたら休み時間が来たらしい。28歳の美人の茶髪のおかあさんが扉を
ノックして、ケーキとお茶が運ばれきた。
「どうも、休んで下さい」。
「今、先生と、遊びながら英語の勉強をしていたんだよ」、彼は嬉しそうに言
う。勉強はあまりしていなかったような気もしたのだが、こういう場合、ぼくは
いったい何と言ったらいのだろう?
ケーキは、甘ったるい人工的な安物のケーキではなく、かなり上品なケーキだ
った。子供はもっと駄菓子的なものが好きなのではないかと心配になってしまう
ほど、本物のケーキだった。
前回は和菓子だった。それも甘みを押さえた、本物の小豆を使った和菓子だ。
ただし、前回も今回も、飲みのものは明らかにどこかのコンビニエンス・ストア
で買ってきたペット・ボトルのものだった。ただし氷は大きく、形良く、透き通
っているオン・ザ・ロックス用の氷だった。確かに頑張っていて、しかも頑張り
が微妙に破綻している。
昔、高校生だったいとこの女の子が友達を連れて遊びに来たとき、ぼくは、か
なり頑張ってミネストローネやなすのグラタンなどをつくってやったことがある。
女の子たちは、男の子が手料理をつくってくれた珍しさもあったのだろう、美味
しい、美味しいと絶賛してくれた。そして、このアイス・ティも最高ですねと言
ってくれたが、それはペット・ボトルの紅茶をグラスに注ぎ、氷を入れ、レモン
の輪切りを浮かべたものだった。なに、わかりゃしないさ。ぼくはただ微笑んで
いた。
「君のおかあさんは、いいおかあさんだね」、ぼくは彼に笑いかけた。
「ぼくは毎週いろんな家に行って、毎回お菓子と飲み物を出されるんだよ。だ
から、どんなものが出てくるかで、そこのおかあさんがどんなおかあさんかすぐ
わかってしまうんだ。君にはわからないかもしれないけれど、こういうケーキと
か、こないだの和菓子とかを食べされてくれるおかあさんというのは、本当に君
のことを考えてくれている、本当にいいおかあさんだよ」
「いつも食べているから、ぼくにはわかんないなぁ」と彼は言った。「ところ
で先生、どっちのケーキがいい?」
君が好きな方を選べば、先生が決めてよ。君が好きな方を選べば、先生が決め
てよ、ぼくたちは譲り合い続けた。どうしようかと思ったら、彼が決定的な一言
を言った。「どっちのケーキを選ぶかで、先生の性格がわかるんだ」、そうか、
ぼくを試している。
ぼくはふたつのケーキを見比べた。大きさに微妙な差はあるが、どちらが大き
いと特定することはできない。大きさで譲る方法はだめだ。ホイップ・クリーム
の上にケーキの地の色と同系色の色彩が散らしてあり、明らかに片方の方がきれ
いな仕上がりだ。
こっち、ぼくは仕上げの雑な方のケーキを指差した。「先生はぼくがこれを欲
しがっていると思って、そっちをとったの?」、「当ってる?」、「当たりぃ!」。
「君は、人間関係ってわかる?」
「わかんない」
「うーん、ぼくと君とは、これから一緒に英語の勉強をしていくわけじゃない。
仲良くなれるかもしれないし、なれないかもしれない。でも、お互いのことを考
えてやっていったら、きっと仲良くなれるわけじゃない。ぼくは君のためになる
ことを考え、君もぼくのことを考える。
ぼくさぁ、洋服とかを買うの好きだし、美味しい食べ物を食べるのも好きなん
だ。それで、色々な店に行くんだけれど、この店がいい店だなぁと思ったら、そ
の店の人と友達になるんだよ。この人は好きになれる、そう思える人にしかお金
は払いたくない。
ぼくはお金を払うし、向こうは受け取る。でも、ぼくたちは仲がいいし、友達
なんだ。協力しあっているんだ。どうせお金を払うんだったら、友達になれた人
とやっていきたいよ。人間関係をよくするっていうのは、そういうことだ。
そして、頑張ればぼくたちも友達になれるんじゃないかなあ。君だって、友達
じゃない先生に英語を教わるよりも、友達になれた先生から英語を教わりたいと
は思わない?」
そしたら、彼は言った。
「うん、先生の言うことはわかるよ。先生の言う通りだと思う。でもねえ、先
生。ぼくにはお父さんがいないんだ」。そして、彼は少しもじもじした。「ねえ
先生、肩車してくれない? ぼくには肩車してくれる人がいなから」
ぼくは最大限のスマイルでにっこりして、「うん、お安い御用だ。肩と車を英
語でどういうか教えるから、それを覚えてくれればすぐするよ」と言った。彼も
微笑んだ。これで「ショルダー」と「カー」は覚えたかな。
ぼくは肩の上の彼に話しかけた。
「ぼくはさあ、小学生のときいつも落ち着きがない、集中力がないって言われ
ていたんだ。遠足のときなんか、面倒見切れないからおかあさん見張りにきて下
さいって、クラスでたった一人、ぼくのおかあさんが呼ばれたんだよ。ぼくのお
かあさんは、恥ずかしかった、いつまでも文句言ってた」
「ほんと? 先生、ぼくと一緒だね」
「一緒、一緒。だいたい、人のことを集中力がないなんて言う大人のことなん
て信用したらだめだよ。世界には集中力のない人間なんてひとりもいないからさ。
自分が本当にやりたいことをするときには、どんな人間だって、信じられないほ
ど集中するものなんだ。君が何かに集中できずにいるとしたら、君が自分の本当
にやりたいことをまだ見つけられていないということだよ。
本当は、大人は、自分が本当にやりたいことをまだ見つけられていない子供を
見たら、それが見つけられるために手助けをしてあげなければいけないと思うん
だ。でも、そういうのひどく面倒臭いから、大人は黙っていても自分の言うこと
を聞いてくれる子供が好きなんだ。楽だもの。誰もひとりひとりの成長なんて、
全然、願ってなんかいないよ。全部自分の都合なんだ。
だから、大人が自分の都合を守るように、君も自分を守らなければならないよ。
そういう大人のいうことを鵜呑みにしてはいけないし、そいう言葉の攻撃から身
を護らなければいけない」
被害妄想的世界観。こういうことを話していると、つい、熱してきてしまう。
小学生相手に、何を熱しているのだろう、我ながらコミカルだ。それに、この内
容が単にぼくの個人的コンプレックスの表明に過ぎなかったら、いったいどう責
任を取るのだ? まあ、いいけれど。だめかな?
「ぼくは世界で一番落ち着きがなくって、集中力に欠けている子供だったけれ
ど、好きなことだったらいくらでも集中できたし、そのやり方で、まともな大学
だって入れた。大丈夫、何も心配することはない。ふたりで君の本当に好きなこ
とを探そうよ。
ただ、ぼくも遊びに来ているんじゃないんだから、悪いけど、少しは英語もや
ってね。ぼくは、それでお金をもらっているんだから。
でも、ちょっとやってくれれば、後はいくらでも遊んであげる。これは、おか
あさんにも、内緒だよ。男同士の秘密だ」
「先生、優しいね」
「お金をもらっているからだよ」
それからぼくは、かまをかけた。高校生くらいが相手だと、この手の言い方が
結構効果的なのだ。その言葉は、「高校生も、大変だね」だ。すると、ほとんど
の高校生は、自分の抱え込んでいる大変さを愚痴り出す。聞けば確かにストレス
のある生活。何かを抱え込むのは大人の特権ではないらしい。
ぼくはたいがい、こう続ける。ぼくなんか気楽だよ。ラッシュもないし、たい
がい昼まで寝ている。こんなに楽をしてると神様にも申し訳なくなるし、かえっ
て不安になる。そういうとたいがいの高校生が苦笑する。多分複雑なことを考え
ているのだろう。
「それにしても、小学生も大変だね。やることがいっぱいあるでしょ?」
すると、小学1年生が見事に愚痴り出す。
「うん、国語もやらなければいけないし、算数もやらなければいけない。道徳
もやらなければいけなし、音楽もあるし、学校も好きじゃないし。でも、おかあ
さんはそういうことを全然わかっていないんだ」
この人間のミニチュアは、サイズがミニチュアであるだけで、きちんとミニチ
ュアのストレスを抱え込んでいる。
「君のおかあさん、本当にいいおかあさんなんだよ。優しくって、愛情に溢れ
ていて、まあ、怒ると恐いけれど、それだって多少のピントは外れているけれど、
君のためを思って厳しくしてるんだよ。まあ、君にはわからないだろうね」
彼は、納得はしていなかったが、反論もしなかった。
それからふたりでビートルズの「HELP!」のビデオを見た。
その名は、誰もを恐ろしがらせる女王、カイリ。カイリ。
「あれはいけにえの指輪なの。いけにえになる人間は、赤く塗られて、あの指
輪をしていなければいけないんだ。でも、あの女の人に指輪がなかったでしょ?」
東洋のカルト教団の役員が、ビートルズのモノクロ映像にダーツの矢を投げつ
けて怒っている。軽快なドラミングのリンゴの薬指には不自然に大きな指輪がは
められている。彼は怒鳴る、ショッキングだ。字幕は、「目眩がする」だった。
「すごいなあ。先生、一回見たんでしょ。あの人、全部で何本矢を投げるの?」
知るか、そんなこと。
「わあ、また投げた」
ほら、あの指輪がなければいけにえの儀式ができないんだよ、だから、あいつ
らはビートルズたちをつけねらうんだよ。ぼくは説明した。
「サンドイッチを取ろうとしたら、女がいただって。手を挟まれたって。はは。
ああ、みんな吸い込まれちゃう、すごいなあ、すごいなあ」
さすがは「マザー・グース」が育み、「アリス・イン・ワンダーランド」を生
み出し、ジョン・レノンの「アイ・アム・ウォルラス」に繋がった英国ナンセン
スの系譜。これじゃあ、「マザー・グース」のカセットを使う必要もないな。前
回持ってきた「セサミ・ストリート」のビデオにはほとんど何の関心も示さなか
った彼が、完全に吸い込まれてしまっている。ほら、この子のどこに集中力がな
いんだ。みんな、いい加減なことばっかり。ほんとに、ねえ。
そうしている間に、タイムリミットが近づいた。
「おかあさん、授業、あと何分?」
彼はいきなり立ち上がって、ドアを開け、母親のところに行く。
「20分よ」
「もう終わっちゃうの? もっとビデオ、見たい」
「続きは、今度。そんなこと言っちゃ、だめでしょ」
「つまんなぁい」と、彼。
授業の終了。
「楽しかったぁ。もう1時間、いや全部で4時間、毎日先生の授業を受けたい
なぁ」
あれは果たして授業だったのだろうか? いささかの不安はあったが、誉めら
れて悪い気持ちはしない。ぼくは無難な線を守ることにして、ただにこにこして
おかあさんのリアクションを待った。最近のぼくは、にこにこしてその場をやり
過ごすことがとても多い。きっと大人になったのだ。
「おかあさん、先生にいくら払っているか、知ってるの? そんなことしたら、
おかあさん、働きすぎで死んじゃうよ」
確かに、毎日2時間しか寝ないで、母ひとり子ひとりで子供を育てているおか
あさんにとっては、それはややきつめの冗談だったろう。想像するだけで、ぞっ
ともしただろう。無論、いささか荒唐無稽ではあるが。でも、こういうことを平
気で言うから、やはり子供は子供なのだ。
「ほら、先生に、お礼をいいなさい」
「ありがとうございましたぁっ」
「それ、英語でなんて言うんだっけ?」と、ぼく。
「えーと、えーと」
「思い出せないんだったら、もう楽しみの先生の授業は受けさせてあげないこ
とにするよ。せっかく教えてもらったのに覚えてないんじゃ、ねえ、先生?」
「思い出せない? サンキュウでしょ、サンキュ」と、ぼく。
「そうだ、先生。サンキュウ・ベリー・マッチ!!」
玄関で靴を履く。彼の小さな靴が、靴のミニチュアみたいな風情で並んでいる。
茶のタッセルだった。小学生に、革靴、しかも趣味が悪くないやつ。ねっ、やは
りいいおかあさんでしょ。君は、わかんないんだろうね。
「これ、いい靴だね。ぼくのと似ているね」
「ほんとだぁ」ぼくのは茶のバスのローファーだった。
それにしてもダッフル・コート、タッセル、グレイがかったコットンのニット・
カーディガン・エンブレムつき、やはり小学生にはトラッドなのだろうか。まあ、
好んで子供にストリート・カジュアルをさせる親もいないだろうけど。
「ほら、先生に気をつけてお帰りになって下さいは?」
「気をつけてね」
「それはねえ、英語ではテイク・ケア・オブ・ユアセルフって言うんだよ。テ
ーク・ケーッヤブ・ヤーセェーフッ! まあ、これは複雑だから覚えなくてもい
いんだけどね」
今度はおかあさんが吹き出した。よく見ると、靴箱に彼とおかあさんのプリン
ト・クラブのシールが3枚貼られている。はなやかなピンクのふちどり。幸せそ
うだったが、よく見ると表情が多少堅かった。幸福への健気な努力。不自然な感
じがしないでもない埋め合わせ。
「ぼく、先生を下まで送ってく」
「じゃあ、行ってらっしゃい。でも、すぐ帰って来なければだめだよ。公園と
か行っちゃだめだよ。もう暗いんだから」
エレベータまでも走ったが、エレベータを降りてからも彼はとことことこっと
走った。子供は走るものなのだ。そしてぼくらはマンションの入り口で別れた。
「先生、またね、さようならぁっ!」
「それ、英語でなんていうんだっけ?」
「ええと、グッバイだ。先生、グッバーイ」
「バーイ」
NHKの英会話講座の講師になったような気分がした。それでは次回、バーイ。
エンディングの無意味で明るい音楽。時報。
バーイ、ぼくは手を軽く振って坂道を下っていった。彼はまだ手を振っている
のかもしれない。でも、ぼくは振り返って確かめることはしなかった。