馬を放った朝(1997/03/19)
ベルが鳴ったので受話器を取ったら電話だった。一番普通の言い方では受話器
の向こう側ということになるのだろう、そこから彼女が言った。
「ねえ、もう結婚は中止するの」。
気がつけばひどい二日酔いで、胃の中は酸っぱく焼けつくようだ。こんなに飲
んだのは随分と久しぶりだ。
飲酒っていうのは、つまりは習慣でしょう、そう精神科医が言ったことを思い
出す。飲まなければ、飲まないですむものですよ。彼にとっては本当に、他人事
は他人事で、内容とか意味とかにコミットメントする気は全くなかったのだなあ
と改めて思う。
上手く説明はできないけれど、とにかくひどい精神状態のことがあった。誰か
に訴えなければ耐えられないほどであった。診察室に入るなりぼくは言った。今、
精神状態がひどいんです。医者は表情も変えずに言った。ああ、そうですか、と
ころで、毎日何時頃起きてますか?
毎日何時頃起きてますか? 何時頃寝ていますか? 薬を飲んでいて眠いとか
そういうことはありませんか? 診察室でそれ以外の質問を受けたことがないこ
とを思い出す。医者は薬の効き目と生活の規則正しさ以外には、ぼくに対する関
心を持たないらしい。毎日毎日患者と接し続けているうちに、対人関係のセンス
が磨滅してしまうのだろう。今まで複数の精神科医と接触したけれど、どの医者
も同じようなものだったので、ぼくの推論は多分間違っていないだろうとは思う。
まあ、毎度患者の内容につき合っていたならば、疲弊して、今度は医者が患者に
なってしまうのだろうけれど。
というわけで、診察室というのは自分の辛さを話題にする場所ではないし、そ
れを求めているならば、相談を持ち込む場所を間違えている。これはぼくの勝手
な推測ではなく、知人の、精神科医の父親を持つ女の子が、若干は父親をかばい
たいというニュアンスもあったのだろうけれど、ほぼ同じ意味のことを言ってい
た。心の問題は、保健の効く場所では無理なのだろう、多分。
酒を飲むのは、辛いからだ。全く普通の考え方じゃないか! こういう普通の
ことを一度も話題に乗せられないとはね!!
こんなことを思うのは、若干の誤差はあるだろうけれども、これで多分15,
003回目位だ。いつでも同じことに腹が立っているので、多分ぼくという人間
はほとんど進歩というもをしていないのだろうと、妙に感心する。腹は立つけれ
ども、こんな立腹が事態を3センチ5ミリでも改善させるわけではない。誰かが
言っていたけれども、スペインの諺にいわく、祈るより稼げ。神様がこの国の保
健制度を変えてくれる可能性に賭けることは、まあ無謀だろうから、やはり祈る
より稼げだ。
「もう、結婚式なんてやめるの。ねえ、お母さん、説明して」
彼女はいきなり受話器を彼女のママに渡してしまった。
「困っちゃったわねえ、突然渡されても……」と彼女のママは言った。「大し
たことでじゃあ、ないんですよ」。
大したことだよっ、ちゃんと説明してっ、と彼女の声が小さく割り込んで来る。
彼女のママはちょっと困る。「ただ、お姫様の御機嫌が、ちょっと麗しくないん
ですよ」とママ、「ちょっとじゃないっ!」と彼女。
なんかあの子を怒らせるようなことをしたっけなあ、と思い出そうとするが思
い当たることがないので、大丈夫ですよ、と、とりあえずいい加減なことを言っ
ておいた。
「大丈夫です、人生、機嫌が麗しくなくても十分やっていけます。アフリカで
飢えていた人たちは、食べ物がなかったので機嫌が麗しくなかったけれども、ア
メリカのポップスターたちが、ちゃんと、『ウィ・アー・ザ・ワールド』を歌っ
てくれました。神に類するものがどこかにいて、人生、とにかく、何とかなるも
のです」。理屈になってないと思いつつ、とりあえずいい加減なことを続けた。
「人生、御機嫌が麗しくなくても、十分やっていけるんですって」とママは彼
女に伝える。何だか、神の啓示みたいだな。無論、彼女は納得していない。
「それでも気になるときには、冷蔵庫に入れて、2、3日寝かしておいてくだ
さい。それで、まろやかになります」、大体これであっているだろうと思って言
ったら、彼女のママが爆笑した。
おうどんの種みたいに?
そうですね。
笑い。
「冷蔵庫にしまっておけばいいんですって。すっかり刺が取れるって」、ママ
が微笑みつつ彼女に報告したら、彼女も吹き出した。よし、OKだ。
「パパが、マリッジ・ブルーなのよ。酔っ払って、からんできてね。あんなや
つとの結婚に賛成した覚えはないだって。今さらよ」、彼女は真剣に腹を立てる。
OK、OK、原因はぼくじゃない。これなら大丈夫だ。
「それであなたの欠点についてしゃべり続けるんだけれど、その欠点というの
が3種類しかないの。パパはそのことについて気がついてなくって、次々欠点を
並べ立てているつもりらしいんだけれど、やっぱり3つなの。その3つを順番に
並べ続けるの。この酔っぱらいって思ったわ」
「その3つって、何なの?」
「俺の前で、2度と指を動かすなって。あなた、ピアノの練習で、いつも指の
練習をしているでしょう。指のつけ根の関節を広げるやつ。見ているだけで、神
経症になるって。パパ、こんな風に、こんな風にって、あなたの真似をして、踊
るのよ。しかも、全然似てないの」
「関節が完全に開いたら、やめるよ。それから?」
「あんなに収入のない、将来性のないやつに、娘はやれないって」
ぼくは自分の先月の収入を考えてみる。1月末に志望校に合格して、生徒がい
なくなって、確か10万円を切っていたよな。
「それ、あってるよ。正しいよ。この条件で結婚に賛成したならば、それは間
違ってるよ。まともな親だったらさ。
パパに言ってよ。その判断は正しいんだから。後ろめたさを抱え込んだまま、
弱々しく主張する必要はない。自信を持って、もっと堂々と主張した方がいいよ
って。自信を持つべきだって」
「あのねえ、開き直る人間に未来はないのよ。可愛くないよ。そういうのって、
何の言い訳にもならないよ」、そう彼女は切り込んで来る。切り込み方の角度は、
かなりに正確だ。そういう時はひたすら逃げた方がいいと思って、話を続ける。
「3つ目って、何?」
「忘れちゃった。なんだったっけ?」
突然、彼女のママが割り込んで来る。「すみません、今時間、大丈夫ですか?
おうどんの美味しいお汁の作り方って、どうしたらいいんですか? 今晩、うど
んにしたいんですが」。ママ、なんか今日は、おうどんだなぁ。
「基本は、分量です。1リットルの水に対して、30グラムから40グラムの
魚を使って下さい。ずいぶん多いと思うかもしれませんが、これくらいなければ、
まともな味にならないんです。ぼくも最初は、多すぎるような気がしました。
うどんならば、煮干しでも構いません。今から水に浸けておいてください。四
国では、煮干しが普通です。スーパーで売っている混合削りだしも、美味しいで
す」
「混合削り節? あの子は、そういうのは一口も飲まないんですよ。スーパー
で買ってきても。不自然だって」
「ええっ? あ、そうか。和風だしの素じゃないですよ。袋の入っているサバ
とかの削り節です。うどん屋さんで使っているやつ」
「ああ、そうですね。わかります」
電話の向こうで、そんなやり方を教えてくれるはずがないじゃないのと、彼女
がどなっている声が聞えて来る。
「なんか、普通の作り方ですねえ。魔法のように、一度に美味しくなる方法っ
てないんですか?」
「それは無理ですよ。ないです。とにかく分量です。それから、上品に仕上げ
たいならば、やっぱりかつお節を使って下さい。とにかく分量を守って下されば、
それだけで大丈夫ですから。
後、昆布も使った方がいいですね。魚たす昆布で、旨味が3倍以上になる『ら
しい』んですよ」
一応、自分のことを哲学の徒だと勝手に思っているので、直接的な体験と間接
的な情報体験を区別する「らしい」を加えておく。どの程度の変化があるのかな
んて、試したわけではないのだ。ただの知識。
「甘みが嫌いならば、味醂は入れないように。その代わり、調理酒をたくさん
入れてください。いい日本酒ならば、もっといいです」
実際は、昆布は何センチ位がいいのですか、などという問答が続いたのだが、
これはカット。あまりが関係ない。
彼女はパパと喧嘩をしたらしく、それならば結婚も何もかもやめてやると大見
得を切ったらしい。まだ、怒っているのだ。
「急に憂鬱になってきたらしいのよ。それで、酔ってからむの。
うちの優秀で、美人で、できのいい可愛いい娘を、なんであんなやつにやらな
ければいけないんだって気がしてきたらしいのよ。だいたい、あいつよりお前の
方がよほどしっかりしているじゃないかって。
前の会社で調査した女の子がいたんだけれど、結婚前のこの時期になると、ど
この父親も100パーセントそう思うらしいのね。うちの優秀で、美人で、可愛
い娘をどうしてって。男親って、ばかね。それでもう、徹底的にやっつけてやっ
たの」
「パパに手紙を書いたら? 私はもう、怒っていません、どこの父親もみんな
同じらしいですからって」
「それは、可哀想過ぎる」
「ぼくはパパの味方だな。世界で一番可哀想なのは、君のパパだ。
だいたい、君に完膚なきまでにやっつけられる人間の気持ちって、君にはわか
らないだろう。どうしてかわからないけれど、ぼくにはその気持ちがよくわかる
んだ。あれは辛いよ。体験したものでなければわからない辛さだ。
決めた。ぼくは君とは敵対する。絶対的に、パパの味方だ」
「どうしてよぉ」
彼女の機嫌が、大分直ってきた。
ぼくは、ひどい二日酔いで、胃がむかむかして、むかむかして仕方がなかった
のだけれど、まあいいやって気持ちもした。
昔は、無茶苦茶飲んだよなあ。毎日、毎日。もちろん単なる習慣とかじゃなく
って、うまく言えずにいる切実で、強烈な動機があった。わかりやすい言葉で言
えば辛かったのだけれど、雑過ぎる。
そして、生きているっていうのは馬に乗っているようなものだと、突然思った。
意識では完全には統御できない、自分という馬に乗っているのだ。
馬を乗りこなすことのできる騎手もいれば、馬を暴走させて、振り落とされた
りする人もいる。日記が3日しか続かないとか、禁煙できないだとかいうのは馬
の気持ちを把握していない例だ。馬に振り落とされている。自動車の運転だとか、
英会話などというのは、要するに馬の調教だ。できなければできないし、できれ
ばできてしまう。そして、できない人はなぜできないか説明できないし、できる
人も、なぜできるか説明できないのだ。
無意識が荒くれていたよな、と思った。巨大なエネルギーに促されてアルコー
ルに走っていたんだ。どうしようもできなかったんだ。ロデオみたいな人生。
あまり何度も振り落とされるんで、ぼくは馬を鎖で縛りつけてしまったんだ。
飲酒量も減ったし、他人に迷惑をかける量も減ったのは確かだ。でも、自分を縛
りつけたまま人生は進めない。馬から振り落とされることがなくなった代りに、
馬で走ることもできなくなってしまっていた。飼犬みたいな行動範囲。
身体と無意識のエネルギーをこの現実世界の文脈に流し込んでやる方法を身に
つけなければならないんだな、でも、そうできればなんとか生きていけるんだな、
うん、その通り。そういう当たり前のことを把握し直したら、何だか軽い気持ち
になった。昨日の夜の深酒は、馬を放つための実験だったんだ。
ふん、ふん、ふんと心の中で口笛を吹いたら、ふん、ふん、ふん、ふんとエコ
ーが響いてきた。ふん、ふん、ふん。いい感じ。
翌日、彼女が帰宅したら、これ見よがしに、新居のためのインターホン・ファ
ックスつき電話が玄関に置かれていた。それが彼女のパパのごめんなさいの印で
あるらしかったのだが、まあ、それはいいだろう。