回復日記(草稿・ダイジェスト版)
00/06/01(Thu)
朝から、むかむかしていた。
子供の世話をすべて独りでやっていて、気分的にも孤立していた。
あのまま声をかけなかったら、あぜさんは一緒に保育園にも行かずに、
寝たままだったかもしれない。
下手すると、落ち込んで寝てしまいそうな気分だった。
今までならきっとそうなっていただろう。
でも、今ではこの落ち込みそうな気分は
「怒り」の反転だとわかるようになったから、
ちゃんとその怒りを放出しなくては、と思った。
子供たちの保育園の送りから戻ってから、グリーフワークをした。
最初は、クッションを拳で殴ってみた。
この間ほど、ものすごい力は出てこなかった。
あぜさんの様子が眼に入ったりと、気が散ってなかなか集中出来なかった。
しかし、その後いろいろと昔の事を思い起こしているうちに、
感情が溢れだして泣き出してしまった。
思い出したのは、保育園を辞めた頃の前後。25歳の夏。
前夫は、家のことを全く何もしなかった。
私が体を壊す程の状態で働いている時でさえ。
私が仕事をやめてからも、
彼自身も当時は研修医で過労だったのは確かだけど、
全然、お互いを思いやったりといった気持ちの交流は無かった。
仕事をやめてから、私は自分の道を見失い、鬱状態だった。
当時住んでいた家は、1・2階式のメゾネットタイプのアパートで、
うちは一番奥だったので、家の前に二畳ほどの小さな地面があった。
保育園に勤めていた頃は、まめに草取りもしていたのだが、
仕事をやめてからは、もはや、そこに生えた草を刈る気も起きず、
荒れるに任せてしまっていた。
夏の光を浴びて、放置された雑草たちは、
気がつくと、2メートル四方の土地に、
いつの間にか人の背丈までに、びっしりと生え茂っていた。
・・・荒んだ私の心を表すかのように。
しかし、その頃、彼はただの一度も、
私の状態について心配してくれたことなど無かった。
ふさぎこんでいる様子に気づいてもいなかったと思う。
そう、全くネグレクト(放棄)されていたのだ。
孤独だった。
「本当に私は一人ぼっちだったのだ」ということを思い出したら、
悲しくて悲しくて涙が止まらなくなった。
心を許せる親友さえも、いなかった。
どこにも出口は無かった。
誰も、私の置かれている状況に気づいてくる人はいなかった。
腐った状態だった。
思春期にさえ、にきびのほとんど出来なかった私が、
おでこに吹き出物が沢山出来てしまった。
首にもかぶれたような皮膚炎が出ていた。
体重も4キロくらい増えてしまっていた。
バイトもしていなかったから、私の世界はヨーカドーやダイエー、
そして彼の実家と自分の実家しか、無かった。
それでも、なんとか自分の進む道を探していた。
通信教育で、社会保険労務士の勉強をしようかと思ったり、
簿記の講習に通って、試験を受けたり。
簿記の勉強は楽しかった。
すごく久しぶりに、頭を使う快感があった。
すみからすみまで、きちんと把握してマスターして。
頭をきりきり使って。
しかし、彼は私が何をやりたいか、
どんな道を進んだらよいか悩んでいるかなんて どうでもよかったらしく
「もう、みんなちゃんとやってる歳なんだから」と、
さっさとちゃんと働くことを要求していた。
彼は私がいつまでもちゃんと仕事にもつかないことに不満を持っていた。
「もう、ちゃんと仕事しててもいい歳なんだから」
自分の生きる道を探すことなど、彼にとっては全くどうでも良いことだった。
人生の見通しなどどうでもよく、ただ仕事をさせたがっていた。
きっと、実家にいても同じ事だっただろう。
彼は自分だけが社会の「奴隷」であることが不満だったのかもしれない。
その頃、彼に対して以前なら許せていたことが、ことごとく、許せなくなっていた。
おそらく、彼への気持ちが温かいうちは、多めに見てあげれたし、
我慢する事が出来ていたのだろう。
でも、もはや私の気持ちは冷め切っていた。
「箸のあげさげまで」全て嫌になっていた。
完全に私の気持ちは彼から離れてしまっていた。
でも、その頃の私には、まだ彼と別れられるほどの強さは無かった。
いつか、精神的にも経済的にも自立できたら、
その時に、改めて彼との関係を継続するかどうか結論を出そうと思っていた。
だから、子供を産むのはそれからにしようと思っていた。
子供が出来た時、「もうこれで彼とは別れられない」という絶望的な気持ちになった。
あの頃は、子供が出来た以上、もはや離婚など出来ないと思っていたから・・・。
もし実家が「安全な場所」だったら、彼と別れて戻ることも出来たかもしれない。
けれども、私にとっては、親こそが「一番危険な場所」だったのだ。
だったら、まだ彼といたほうがマシだった。
どこにも救いは無かった。
私の周りには、親や彼の存在が壁のように立ちはだかっていた。
出口を求めると、「おまえが悪い」という罪悪感で押さえつけて、
閉じ込めようとして来た。
外との通路は一切無かった。
本当に、天涯孤独の孤児のようだった。
どこにも、身をよせる場所など無かった。
・・・自分は、なんて酷い不幸な場所にそれまでいたのだろうか?
離婚前、私は「自分は恵まれている」人間だと思っていた。
ほんのささいなことを見つけては「私は恵まれている方だ」と
自分に思い込まそうとしてきたのだ。
そうでもしなければ、生きていけないほど過酷な状況だったのだろう。
彼との関係で、癒された部分は確かにあった。
けれども、酷い目にあった部分のほうがはるかに多かったかもしれない。
でも、昔の自分は彼のその酷さに気がついていなかった。
そう、少なくとも「意識」レベルでは。
25歳の時に、自分の人生はもう終わったと感じていた。
絶望的になっていた。第二の絶望期・・・。
振り返れば、たかが「25歳」で人生が終わるなんて馬鹿げていたけど…。
それにしても、25歳からの7年間で、こんなにもヘヴィなトラウマを
山ほど背負い込まなくてもいいじゃないか!
16からの鬱がヘヴィだったのは仕方がない。
死ぬ寸前になるほど重かったし、長い年月分積もっているし、
だけど、それに匹敵するほど重たいものを与えられなくてもいいと思うのに。
「孤独」
「不幸」
26歳の春から着物に通いだして、ようやく生きる道をみつけたばかりだった。
梅雨時の鬱の季節だって、一度も授業を休まなかった。
なのに、突然の妊娠。26歳の秋。
着物は私にとって、外とつながる命綱だった。
絶対、手を離すわけにはいかなかった。
子供が一人の時は、全然子育ても辛くなんてなかった。27歳の頃。
子育てが大変なのは当然だから、夜中に授乳するのも世話をするのも、
別になんとも思わなかった。
子供もとても可愛かった、愛しかった。
しかし、子供が二人になってから、だんだんしんどくなって行った。
28歳初冬。二人目の出産後、里帰りから戻ったばかりの頃、
彼に対してキレたことがあった。
子供が二人になれば、一人の時に比べて大変さは増しているのに、
彼の協力は、一人目の時と変わらないか、むしろ少ない位に感じられた。
それでも、私がキレた直後は、少しだけ気を使ってくれるようになったけど。
子供が一人だけの時は、実家に子供を預けるのも気安かったのに、
二人になってからは、親の私だって年子で世話をするのは大変なんだから、
ましてや親以外の人が預かる大変さを考えると、
心苦しくて、以前のように気楽に預けられなくなっていた。
しかも、下の子は人見知りが激しく、ばあばにさえ、
なかなか赤ん坊の頃は懐かなかった。
頑固だから一度泣き出すと、決して母親以外受け入れなかった。
いつも後ろめたくって、預けても早く戻らなければという罪悪感で、
気持ちが一時も解放されることが無かった。29そして30歳の頃。
子供が二人になると、周りからの「子育て」という役割に押し込めようとする
無意識の圧力もあったと思う。
二人目の妊娠時にまたしても切迫早産で休学していた着物にも、
下の子が1歳を過ぎるまで、結局ずっと復学できなかった。
子供が一人の時は、産後三ヶ月で復学し、週二日も授業に通っていたのに・・・。
次女の出産後、ようやく復学した時は、
もう上級クラスに進級していて、月二回だけの授業になっていたので、
なるべく他人に迷惑をかけまいと、日曜クラスを選んで、彼に子守りを頼んだ。
しかし週一で当直があり、しかも日曜しか休みのない彼に頼むのも罪悪感があった。
それでも、その先進級するまでの二・三ヶ月だけの間だったので、無理をお願いした。
実家に行ってる時も、私がちょっとでも離れると、不安がって下の子が泣くので、
食事の後片付けの手伝いも何も出来なかった。
年子相手に、本当に大変な状況だったのに、あるとき母にそれを愚痴られた。
・・・決して、労わってくれることなどないのだ。
むしろ、私にとっての真の「実家」は彼の家だった。
義母はいつも労わってくれた。
やさしくしてくれた。
そういえば、あぜさんの所にくるまで、疲れたり体調が悪かったりしても
「ダウン(寝込む)」したことなど一度も無かった。
誰も助けてくれなかったら、ダウンなど出来まい。
何の負い目も無く、安心して任せられる状況など無かったのだ。
そう、例え実家でも、出産前後の時期以外は。
どれだけ無理をして頑張ってきたのだろう。
そして、30歳の秋に離婚。
昔の事を思い出し、ひとしきり泣き終えたら、だいぶ気持ちがすっきりとした。
それまでは、むかむかしていて、あぜさんに対してもわだかまりがあったのに、
ようやく気持ちのこわばりが緩んだ。
その後、オペラ座のケーキバイキングに行った。
当初の予定では、夏希ちゃんとめいどさんも行くはずだったが、
相次いで、彼女たちもメンタルの状態が悪くなってキャンセル。
私も彼女達との約束が無かったら、もっとグリーフを続けていただろう。
彼女たちから連絡の来るまでに、既にもう行くつもりで、身支度もし始めてて、
気分も出来上がっていたので、あぜさんと二人だけで行くことにした。
ケーキバイキングのあと、ふと思い立って流山で住んでいた家を見に行った。
建物を取り囲む景色は、住んでいた頃と全く違ってしまっていた。
でも、私が引っ越す少し前に、家の前の地面に敷き詰めた
カラーブロックは そのまま残されていた。
あの頃のように、もう人の背丈まで草が生い茂る事はない・・・。
買い物があったので、ヨーカドーへ寄った。
駐車場で車をとめる時に、かすかに路面との摩擦でタイヤが鳴った。
その音を聞いた瞬間、昔よく来ていた頃のことがフラッシュバックしてきた。
着いた足ですぐにトイレに行くと、
一番の奥の子連れで入れる場所を選んで入った。
そこでも、小さかった子供達をつれて買い物に来ていた頃のことが蘇ってきた。
いつもカートに子供たちを乗せ、カートごと中に入ったものだった。
長女が生まれたばかりの時に、彼と一緒に来たことを思い出した。
まだ首の据わっていない赤ん坊を抱くのに慣れていなかった彼は、
腕が筋肉痛になってしまったっけ?(笑)
首がすわると、抱っこ紐で抱いて、昼間私だけで遊びに来ていた。
「小さいわねえ」とよく声をかけられたっけ。
生まれた直後のものすごく小さい時からに比べると、
親としてはかなり大きくなったと感じていたけど。
でも、生後2ヶ月くらいだと、他の人から見たらまだまだ極小赤ん坊よね。
ベビーカーにも乗れるようになると、
シートを水平に倒し赤ん坊を寝かせながら、
一日中お店中をぶらぶら一人で買い物をしていたっけ。
子供が一人の頃は、休日には時々彼と一緒に買い出しにも行ってたのに、
子供が二人になってからは、全く一緒に行くことなどなくなっていた。
いつも、たった独りで年子の子供らを連れて出かけていた。
下の子が小さいときには、長女をカートに、ウエスト抱っこポーチに次女を。
もっと大きくなってからは、カートの椅子の他に籠の中にもう一人を座らせて。
山ほどの買い物と、小さな子供たちを両腕に抱えて、
たった一人で家を維持していた。
ヨーカドーを出たあと、偶然、保育園時代の帰りに通っていた道に出た。
また当時の情景が蘇ってきた。
そのまま、あの頃勤めていた保育園まで行ってみた。
そして、毎日保育園に通っていた頃の気持ちを思い出していた。
毎朝車で保育園の建物を通り過ぎて、
その先の駐車場から歩いて園に出勤する時、
いつも「早く一年が経たないかな、早く経たないかな」と
“一日千秋”の思いで、毎日毎日、通っていた。
みゅう(猫)のことを思い出した。
みゅうが家に来たのは、私が保育園を療養休暇中だった。
写真を見て、一目惚れした子猫。
とってもとっても可愛がっていたのに、
子供が生まれてから、衛生上全くかまってやれなくなった。
あんなに甘えん坊だったのに。
みゅうが死んだ時、激しい罪悪感と後悔が私を襲った。
もっと早く病院に連れて行っていれば、助かったかも知れない。
後半は本当に不幸な人生だったのでは、と。
三郷に引っ越してからは、マンションの家の中にだけに閉じ込められ、
いつも出窓で隠居老人のように過ごしていた。
流山では、自然に囲まれて、木に登ったり、虫を捕まえたり、
近所の猫達と遊んだりしていたのにね。
確かに脊髄に障害を持っていたから、自分で排泄も出来なかったし、
そんなに長生きできる体ではなかった。
でも、あの時もっと早く医者に連れて行っていれば…。
毎日の排泄の世話だって、もっと面倒からずにやってやれば良かった。
・・・ごめんね、ごめんね。
以前も具合が悪くなった時、一晩入院したら元気になったから、
きっとまた一晩経ったら、持ち直して帰ってくるものと信じていた。
全く疑いもなしに…。
まさか、あのまま死んでしまうなんて!
あまりにも、突然の死だった。
いつもいつも一緒にいた。
みゅがいたから慰められた。
心底可愛がっていた。
子供なんていなくても良いと思っていた。
とびきり私好みの色柄で、性格だって良い子だった。
声も甘くて可愛かった。
ドン臭いところも。
なのに、赤ん坊が生まれたために、可愛がってやれなくなってしまった。
・・・ごめんね。ごめんね。
まだ生後半年の子猫の時に事故にあって、
脊髄損傷して障害猫になってしまった。
可哀相なみゅう。
本当に、あんたの半生不幸だったね。
ごめんね。
もう私は二度と猫は飼うまいと思った。
いつの日か、みゅうの生まれ変わりと偶然めぐり会う以外は。
愛してた。
とてもとても愛してた。
孤独な私を支えてくれていた。
いつも側にいてくれた。
みゅうへの愛が無かったら、私にはまったく闇しかなかっただろう。
ごめんね。
最後を幸せにしてあげれなくて、ごめんね。
車に乗って、一緒にいろんなところへ行ったね。
二人でいつも一緒だったね。
ドライブも買い物も、実家に遊びに行く時も。
みゅう、
みゅう…。
あの頃の孤独が染み出してくる。
みゅうが居たから、私は生きていられたんだ。
孤独から救われてたんだ。
みゅう、あんたほど、いい猫はいないよ。
本当にいい子だったね。
もしも、生まれ変わったら、もう一度絶対あたしのところに来るんだよ?
絶対だからね。
今度こそ、貫徹して幸せにするからね。
いつか、もう一度会えるのを待っているからね。
孤独だった。
孤独だった。
どこにも出口の無い、
狭い閉じられた世界で。
孤独だった。
孤独だった。
だけど、「電話線」というほんのわずかの小さな穴が、私をそこから救い出した。
パソコン通信での外界との繋がり。
そして、そこから新しい世界へと、抜け出すことが出来たのだった。