特異点サトゥルヌス 「我々は単に、未来からの遺構である時空転移ゲートを修復しているのではな い、この世界そのものと、人間自身の瓦解を食い止めているのだ。」              ヘンゼルとキューブ(グレーテル) 往復書簡より        紫紺の空に重く輝く三日月を見ながらカルロスは、崖下に飛び込む寸前、彼 が普段絶対にやらないことを、、そう、ある種の感慨をもって自分自身の歳を 数えるということをした。  明日が誕生日なのだ。32才になる。  後先を考えずに無茶が出来る歳でもない、かと言って総てを諦めきれるほど 枯れきってもいない、、。  このままで行けば、自分は一生うだつの上がらない街のゴロツキで終わるだ ろう。  自分自身に、暗黒街でのし上がる才覚がないとは思っていない。腕っ節も度 胸も、他のごろつきどもに遅れを取っているわけでもない。しかしそれでも目 がでない。  それが運と言われれば、運なのかも知れないが、かといって、その運に頼ら ず、どこかの組織に潜り込んで底辺から這い上がる辛抱が自分にないのも分か り切っていた。  だから俺はここにいるんだ。文字通り生か死か、最後の賭けだった。  切り立った崖下から突風が吹きあがってくる。  風の中に花の甘い匂いが潜んでいる。夜空にかかった三日月が、その風を己 の懐に呼び込んでいるように思えた。  なけなしの有り金と、幾つかの裏切りと暴力で手に入れたのが、ダイビング ポイントと呼ばれる、この「時刻」と「場所」だった。そして「特異点」で生 き延びるための幾つかの装備。  覚悟が決まった今、後は出来るだけ遠くに飛び込むだけの事だった。  特異点が自分を受け入れるのか、それとも、単なる投身自殺に終わるのか、 神のみぞ知る、、、「いや俺には神など生まれた時からいなかった」と男は思 い直した。  総ては、やはり運なのだ。         リペイヤー(修理者)の仕事  あまりに黒すぎて青味さえ放つ太いボルトが、その表面にマシンオイルをま とい、人の血と混じりながら肉の穴へ向かって螺旋に沈んだり浮かび上がった りしている。  男のはだけたワイシャツの胸板に、それと同様の穴とボルトが、あと2・3 個見える。 あろうことかこの男、胸に穿たれたボルトの螺旋の浮き沈みに同 調して、喘ぎ声を出していた。感じているのだ。  その証拠に、廊下にへたりこんだ男のズボンの中央がペニスの勃起によって 盛り上がっていた。  ・・どこの世界での「成れの果て」だ。こいつ、俺の同僚だったのか? 匠は、顔だけは知っているが一度も会話を交わしたことのない人間を含めて( 機構ではそういった人間の方が圧倒的多いのだが)この機関で出会った全ての 人間達の記憶を探ってみる。  該当者はいなかった。  だがボルト男は、酒臭い息をまき散らしながらリペイヤー達や実地研究班の 連中しか利用できない筈の構内バーの入り口に座り込んでいるのだ。  機構関係者である事には間違いないだろう。 それにこの男の肉体変化は、特異点のなんらかの影響を受けた結果に相違なか った。そうであるならやはりこの男、組織の人間の中でも直接、特異点に侵入 するリペイヤー関係者なのだろう。  リペイヤーの中には機構の最高責任者である「ヘンデル」の特命を受けて、 正に特異点そのものの修復を行う人間がいると聞いたことがあるが、この男は そういった1人なのかも知れない。  明日は我が身だ、と思いながら、匠は無関心を装ってバーに入るためにその 男をまたぎ越えた。  巨大な猿人が裸体の男の頭部を囓っている陰惨な油絵のレプリカが壁に掛か っている。  その絵に描かれている闇は特異点の闇そのものだった。 ようやくまわってきたアルコールの鈍い酔いと、先ほどまでいた特異点が精神 に及ぼす干渉力のせいで、壁の絵に魅入られてしまった匠は、暫くその絵から 逃れられないでいた。 「その絵の題名、我が子を食うサトゥルヌスっていうのよ。アタシ達の特異点 が、まだ公にされていなかった頃の特異点自体を指すコードネームでもあった のよね、、知ってた?サトゥルヌスはローマ神話に登場する神様なの。将来、 自分の子に殺されるという預言に恐れを抱いて、この神様は自分の5人の子を 次々に呑み込んでいったという伝承があるのよ。ゴヤはそれをモチーフにして 自分の子を頭からかじり食い殺すという凶行に及んだサトゥルヌスを描いたわ け。5人のウチ、1人が人類、、残りの4人は、まだ私たちの知らない特異点 ゲートに繋がっている何処かの時空に存在してる・・・って解釈なのかな。」 「俺達は特異点を作った神に、頭から貪り食われるのか、、」  匠は、己の内に残った微かな意思の力をかき集めて、ようやく絵から視線を 引き剥がすと、その眼を隣の女の横顔に向けた。  、、そうだった、俺はこの女に用があるんだった。  女は匠の先輩で同僚だった。  女の半端ではないボンデージファッションは、彼女のスレンダーな体形を強 調していて、隣のスツールに座っているだけでも彼女の強烈なフェロモンを感 じさせている。  噂では、この同僚、女ではなく男だという話もある。そういえば女の、大型 犬を繋ぐための頑丈な首輪を巻いた首は華奢で美しいが、首輪の影から少しだ けかいまみえるラインは喉仏の隆起を思わせなくもない。 「なに?あたしの顔に何かついてる?」  女はショットグラスをカウンターテーブルに静かに置きながら掠れた声で言 った。 「いや。」  匠にとって隣の女の、本当の性別など、どうでもいい事だった。  確かに彼女は、金を積んでお相手が願えるものなら、大枚をはたいてもいい と思わせる程の魅力を持っていて、ヘテロの人間にとってはその性別は重要な 問題だろう。  しかし匠にとっては、この女が同じ仕事上の悩みを相談できる同僚であると いう事実のみが一番重要だったのだ。  匠の仕事仲間は数少なく、その上、特異点内部での仕事が、修復よりも無断 侵入者達の排除へとウェイトが移る中で、彼らの関係はライバル意識を強く高 める傾向にあったのだ。  この同僚は、無断侵入者の排除という点では、匠と同レベルの成果を上げて いる。だからこそ対等者としての余裕を持って話せるのだ。 「・・又、奴が出てきた。へらへら笑いながらだ、、。」  匠はグラスの琥珀に視線を落として自覚のないまま告白口調で言った。 「、、よく判らない。死ぬ前は勇敢で無口な男だったんだ。あんなにやけた表 情を顕すような奴じゃなかった筈だ。」  それを聞いた同僚は、グロスのかかった唇の端をゆがませてかすかに笑った ように見えた。 「で、あなたは、あっちで付きまとって来るその男の正体を幽霊だと思ってい るわけね?」 「俺はあの男を最後の試合で殺しちまった。奴が幽霊じゃないというなら、俺 達は特異点という名の個人的な妄想世界で仕事をしてる事になる。」 「案外、そうかもね。特異点の内部はそういう性格を帯びていてもおかしくは ないわ。」  今度ははっきりと赤くぬめるような唇の端が、女悪魔ならそう笑うといった ふうに吊り上げた。 「あんたは、どうなんだ。俺みたいに、自分を悩ますものが向こうにいるのか ?」 「いると言えば、あなた、安心するわけ?」 「あそこが、個人的な意識を反映しやすいのは認めるさ。俺達が選ばれたのは 、特異点との親和姓をかわれたからなんだからな。だがあそこは俺達のインナ ースペースであるわけがない。どんな国家が、個人の妄想の為に巨額の金を出 すというんだ。あれが個人の妄想域で無い限り、あんたと俺との間には何か共 通項があるはずだ。」  匠は一気にまくしたてた。普段、無口な彼にしては珍しいことだった。 「特異点は私たちの知らない知性が残した遺構、とんでもないハイパーロード の壊れかけたジャンクションだって事を教えて貰わなかったの?それに、傾き かけたこの国が、なんとか国際社会で国家としての姿を止められるのは、特異 点がこの国に滞留したからじゃない。国が特異点に金をかけるのは当然。とに かく、特異点は尋常でない事が、あたりまえ、、。リペイヤー同士の共通体験 を知りたがるなんて、あんた相当重症ね。」  仲間内からはレズリー・ローと呼ばれている男だか女だか判らない人間が憂 鬱げに言った。  特異点がこの世界に顕在化したシーンで、一番有名かつセンセーショナルだ ったものは、某国でのプロバスケットのワールドリーグ戦の最中だった。  シュートを打とうと空中にジャンプした選手の頭が突然、アイスクリームを 丸く掻き取る器具を使ったみたいに、消えて無くなったのだ。  会場にいた全ての観客がその選手のシュートに注目していた。そして頭部が 異なった空間に掻き取られたあとの血飛沫の惨状が観衆の目の前で唐突に展開 されたのだ。  そしてその日を中心に、特異点は地球上のありとあらゆる場所、そして時間 に出現した。  特異点が極東の没落しかけたある島国に滞留し始めた頃には、特異点そのも のの意味がようやく人間に理解され初めていた。それは地球外知的生命体との 遭遇以上の意味を持っていた。  以降、特異点の発現跡は、各国の政府によって封殺され、その存在は全面的 なトップシークレットとなった。  しかし当の極東の島国では奇妙な噂が流れそれが耐えなかった。「ある時刻 、ある場所に、ある方法で人がそこに立つと、その人間は神隠しに合い、再び 戻ってきた時には人にあらざる存在として帰ってくる」と、、。  極東の島国への滞留と共に不活性化したと思われた特異点はこの地で地獄の 釜の煮えたぎった泡を沸々と涌き上げていたのだ。  レズリー・ローは、リペイヤーの中で夾雑物排除率トップを誇る後輩の同僚 に、あえて伝えなかった言葉を自分の中で反芻しながらグラスを唇に寄せた。 『・・共通点はあるよ。あなたはあそこで幽霊を自分の相棒にして、あたしは すべての人間をあたしの奴隷にした。あそこは間違いなく個人の妄想世界その ものなのよ。』  そのローの無言の返答に耐えきれぬように匠は、突然、思いついた事を喋っ た。  「あんた、左利きか?」  匠は艶のある黒に塗られた爪先を持つローの細い手首をみつめた。 「それが何か問題でも?」 「いや実は俺も小さい頃は左利きだった。両親が早い内にそれを矯正させたん だ。しかし右利き左利きってのは不思議なもんだよな。右利きの人間は、例え ばギターなんかを持つときは左手でネックの上を運指して右手で弦を鳴らす。 所が左手の方が遙かに動きが細かい、、。だから逆みたいな気がするんだけど 、それでうまく良く、、。」  ローは少し興味を引かれたように匠の顔を見る。 「でも利き手じゃない方の手の動きは、どこか他人の手を借りてるような感じ がしないか?神の領域に近い部分でタイムラグがある。そんな感じだ。無意識 のレベルでスムースにって訳にはいかない。」 「・・気のせいよ。」 「ああ、まったくだ、、。」  決勝戦の対戦相手である長谷川を殺したのは、匠のクロスカウンターで放っ た頭部への左の拳だった。  瞬間に勝利を確信するほどの威力と精度のある拳だったが、それは技の結晶 であり、決して暴威ではなかった。  長谷川程の相手であれば、それを相手の勝利の技として綺麗に受け止めてく れる筈だった。それこそが防具なしの試合における高度な暗黙のルールだった 。  それが実に嫌な手応えを持って返って来た。  長谷川の頭部が、匠の拳から逃げるのではなく自ら当たりに来ているように 思えた。そして次の瞬間、長谷川の首は匠の予想もしない角度にぐにゃりと曲 がったのだ。  その時、匠は相手を「殺した」と気づいた。 「でも神の領域に近いタイムラグがあるっていう表現は面白いね。」 「ああ、、いや、、あんたがさっき言ってくれたように、その正体は気のせい ってやつだよ。」              1: 切断と接合  匠は、他のリペイヤー達の「乗り物」をじっくりと見たことがない。特異点 内部に進入する為のプラットホームを個別に与えられているリペイヤーであれ ば、余程、親しくならない限りお互いの「乗り物」を見る機会がないからだ。  だがお互いの話を総合すると、それらは全て形状が違うもののようだった。  「乗り物」は、本部のプラットホームから特異点に向かって伸びていく「ト ンネル」を、高速で移動できるものならその形状はなんでもいいらしい。  さらに特異点への進入経路を「トンネル」と表現したのは、特異点に向かっ て自分を移送する「乗り物」を自動車とした匠だからであり、飛翔機械を使う リペイヤーは、それを「カタパルト」と呼んでいる。  匠の「乗り物」は、昆虫の様な黒い鎧を着たマーコス LM500だった。  精密に表現すると、マーコス LM500をイメージベースにしたカスタマイズカ ーもどきの水陸両用移動ディバイスである、空中もグライダー程度ながら滑空 する事も可能だった。中身は「自動車」ではない。  まあ言ってみれば子どもの玩具みたいなものだ。つまり「スーパーカー」、 、ただ恐ろしいことに全てが見せかけではなく、本当に、その目的通りに、動 く。  これらが、どういう経緯と技術で製造され、各リペイヤーの元に配備される のかは、機構の末端であるリペイヤー達には知らされない。  一説には特異点内部を支えるテクノロジーそのものを導入して製造している のだいう話もあるが、それも定かではない。  とにかく特異点から、その内部世界である「異界」に進入した時、その到着 位置が、地上であるのか、空中であるのか、はたまた水中であるのかはその度 に変化するので、こういった強力な移動ディバイスが必要になるのだ。  特異点内部に進入するだけなら、特異点との親和力に優れたリペイヤーは、 トンネルを徒歩で移動し進入を可能にするが、それにはなにぶん時間がかかり 過ぎた。  それではダイビングポイントとも呼ばれる特異点の綻びを狙って、決死の侵 入を試みる人間達に遅れを取ってしまう。  移動用ディバイスを使おうが、徒歩で移動しようが、比較的安定した進入な ら、リペイヤーが土中や水中に出現する事はほとんどない。  しかし、たまたま・・地中深いマグマの中に飛び出すというようなことが。 それも特異点内部ならあり得る事だ。  もしそうなったら?あとは神のみぞ知るだ。  マーコス LM500の右前方に、光をまぶしたデコレーションケーキのような形 状の巨大な建築物がある。特異点内部に進入した直後に襲われる、強烈な薬物 をやっている最中のような酩酊感に揺さぶられながら匠はそれを見た。  高空から俯瞰してこれなのだ。途方もない大きさだ。その大きさだけで神聖 さを感じさせる程のものだった、、。  不思議な事に、誰がどのルートから特異点内部に進入しても、これだけは、 ほぼこの様に見える。  その外観はリペイヤーによって若干の差があるようだが、個人の妄想世界が 具現化した世界なのではないかと思われている特異点内部にあって、万人の共 通項とも言える巨大遺跡が存在すること自体が驚異だった。  これを「バベルの塔」とリペイヤー達は呼んでいる。  匠は、その「バベルの塔」を眺めながらマーコス LM500のウィングをたたむ タイミングを考えていた。ウィングをたたんだ後、マーコス LM500は強力な揚 力を失ってしまう。  その後の数十秒はマーコス LM500後部に設置してあるジェット噴射による直 線的な推力しかない。地表に浅い角度で突っ込んで軟着陸するしかないのだ。    それなりの着地点、あるいは滑走路となりうる直線距離の長い道路を見つけ る必要があった。  もし見つけられずに地面に激突するような事があれば匠は、特異点の中で一 度、死んで「生き返ら」ねばならない。  特異点にダイビングポイントを利用して進入してくる犯罪者達は、力を得よ うとして意識的に「生き返ろう」とするが、彼らは知らないのだ。  あの力を得て生き返る事が出来る人間がごく少数である事を、多くの人間は 特異点内部に展開される、まさに言葉通りの「地獄」に墜ちる、、。  「お前には無理だな。」  まるで匠の心を見透かすような声が呟かれた。  匠はおそるおそる隣の薄暗い助手席を眺めた。そこには、彼が殺した筈のケ ン長谷川が座っていた。  長谷川は、あの試合の時、着用していた胴着を身につけていた。マーコス L M500内部の各種モニターの放つ光に浮かび上がる、陸軍の野戦服を着た匠と、 胴着を着たケン長谷川、、不思議な取り合わせだった。  幽霊という存在は不思議なものだ。体臭や体温、身体を動かした時に起こる 微妙な空気の流れ、そういったものが一切ない。ないのにそこに居る事だけは 強烈に判るのだ。  動転しては居られなかった。今、安全な着陸の為の集中力を乱せば、自分自 身が死んでしまうことになる。 「お前は、いつも俺を殺した事を後悔してるんだろう?どうして今更、己の死 を怖れるんだ。いっその事、しんじまえば楽になるぜ。」 「・・ああ俺もそう思う。だがつまらない事で死にたくはない。」  匠はそれだけ言って口を噤んだ。着陸の時だ。このままウィングを広げてい ると地上からのあおりを受けてしまう。  薄闇の中で、やっと見つけた道幅のある直線道路が真っ直ぐ闇の地平線に向 かって伸びている。  両脇には朽ち果てた高層ビルのシルエットや、うずくまった動物のように見 える巨大な木造建築の影がある。  ぐんぐんと近づいてくる地表を見つめながら匠は、突き上げてくるランディ ングのショックに耐えるために奥歯を噛みしめた。  今は幽霊どころではない。  一瞬、道ばたでドラム缶にこさえたたき火に当たっている浮浪者たちがこち らを見上げているのが見えた。勿論、そんな光景はすぐさま後ろに流れ去って いく。  シートベルトがちぎれ飛んでしまうかと思える衝撃がさった後、匠は無事に 特異点内部世界に着地できた事を知った。  助手席の幽霊はもういなかった。  いつもの事だった。幽霊の登場は、匠の必然や行動様式になんら左右されな いのだ。どんな時でも現れるが、同じようにどんな時にでも消え去ってしまう 。  匠は急いでダッシュボードに取り付けて在る通信機のマイクを口元に近づけ た。  直ぐにでも、現世の(つまり匠の現実世界の事だが)影響力は薄まり、最後 には無くなってしまう。  今を逃せば、帰還の為の特異点に入るまでは、現世との通信は一切絶たれて しまうのだ。 「ゲッコ。着いたぞ。そちらではまだ侵入者の補足は出来ているのか?」  特異点の属性を付与された人間は、その時から本部での追尾は不可能になる 。言い方を変えれば本部がターゲットを補足している限りは、その人間はまだ 「普通の状態」であり、特異点の安定を乱す要因となることはないのだ。  人が特異点内部で力を付与されると捉えるのは、人間側の解釈であって、特 異点はその度ごとに不安定になって行くらしい。勿論、匠はその理屈の本当の 意味を理解しているわけではなかったが。  ・・・わけではなかったが、リペイヤーの進入によって、その内部世界の様 相をカメレオンのように、がらっと変える特異点が、極めて人間の精神に強く 影響される事だけはいやというほど実感していた。 「タクミか。通信状態がもう一つなんだよ。良く聞け。ターゲットは城塞の方 向に移動しつつある。ダイビング直後からこんなに早く動き始めた奴は初めて だ。よほど良質なダイビングポイントの情報を手に入れたんだろうな。繰り返 すターゲットは城塞・・・」  唐突に無線が切れた。これでもまあまあの出来だろう。こちらが無事、特異 点に入れた事を報告できただけでも上出来と言えた。  これがないと現世側はいらぬ心配をしなければならない。通信は途絶えても マーコス LM500のようなディバイスや人間は、特異点内部では一種の夾雑物で あるから、特異点テクノロジーをそのまま拝借した通称「マップ」で、その存 在の追尾は可能だ。  場合によれば、マップに普通の人間が特異点内部に潜り込む事ができる唯一 の「綻び」、つまり、ダイビングポイントが示されることすらある。ただしそ のマップでも、夾雑物の生死までは判らない。  勿論、機構自体には、人の生死を気遣うようなウエットな部分はひとかけら もないのだが、リペイヤー達の現場は「あの世」であり、それに携わる人間は 常に緊張感を強いられていて、そこには他のどの職種にも見られない独自で奇 妙な連帯感が発生する。  特にリペイヤーと管制官の間には、命綱を握り合うような人間関係が熟成さ れるのだ。 「それにしてもこっちに着いた途端に城塞とはな、、。ツいてる野郎だ。」  特異点に侵入した人間は、ある特定の場所で「力」を得る場合が多い。  ゲッコは、匠が展開する特異点内部世界の場合、それが「バベルの塔」の東 南の方向に位置する「城塞」だと考えていた。  勿論、夾雑物の拿捕率8割を誇る匠であるから、城塞が力を得る場所である とは必ずしも断定は出来ない。多くの場合、匠は特異点内部に侵入した人間を 、人間のままの状態で「城塞」よりかなり手前で、確保してしまうからだ。 「お前さんもだよ。城塞なら派手な追走劇をする必要がない、、」 通信が再び回復しかけて、又切れた。  確かに、お互いに運がいい。  本当に城塞で生まれ変わりが起こるとするなら、侵入者もこちらも余計な手 間をとらなくて済むわけだ。  城塞というストライクゾーンで起こることは、ホームランか空振りしかない 。  すでに力を手に入れた人間を掴まえる事は困難を極めるし、逆に特異点内部 の只の人間はリペイヤーの敵ではない。どちらがホームランを打つことになる のか、後はタイミングの問題だけだ。  匠はマーコス LM500のヘッドを城塞に向けた。  エンジンが唸りを上げヘッドライトが闇を切り裂いていく。地の底には巨岩 を切り崩した石畳が延々と伸びている。  左右の遠景には荒廃しつくしたような巨大都市の遺構と、それに食い込むよ うに繁殖したジャングルが見える。  古代都市アスティカと未来において滅び去った近代都市の混合世界、、それ が匠の特異点世界の基本型だった。  匠とゲッコが「城塞」と名付けた遺構は、「バベルの塔」とよくにていた。 「バベルの塔」の場合はどのリペイヤーもほぼ同じ外見としてその姿を認識し ているが、「城塞」に該当するものは、リペイヤーによってその姿形はかなり 違ったようだ。  だが特異点の中にあって、「変化」が起こる重要な拠点として、何らかの巨 大な建築物が「バベルの塔」以外に存在するのは共通しているようだった。  匠の「城塞」は、巨大岩の石積み建築で、頂点を切り取られた円錐型の肌を 巻き上げる外壁の階段が目に付く遺構だった。  そして壁の所々には、内部空間の充実を感じさせる出窓があり、それがこの 建築物が、単なる高みだけを目指した塔でないこと意味していた。  マーコス LM500のドアをゆっくり閉める。音を立てない為だ。勿論、ここに 来るまでのエンジン音は誰からも丸聞こえなのだからそれに大した意味など無 い。いわば取り組み姿勢の問題だった。  匠はそういう事にこだわる男だったのだ。  陸軍仕様の野戦服のベルトに吊られた大型拳銃を点検してから、大型懐中電 灯で城壁を照らし上げる。感覚を研ぎ澄ます。そうすると匠はこの世界での異 質な存在・夾雑物を抽出する事が出来る。  城壁の西の相当高い位置にある出窓に、白いものが浮かび上がってすぐに消 えた。こちらを見下ろしている顔、、人間だ。  匠は城塞に巻き付く階段めがけて走り出した。大丈夫だ。奴はまだ力を手に 入れていない。  匠はこの時点で、対象を自分の感覚に完全に標的として捕捉する事が出来て いた。  恐ろしく長い石積みの階段が始まる辺りに、この城塞に入るための正式な出 入り口がある。匠はそれを横目に見ながら階段を駆け上がる。  城塞の内部にはあまり足を踏み入れることはなかった。  理由は簡単だ。城塞の内部では何が起こるか予想がつかず、しかも「何か」 が起こる可能性はきわめて高かったからだ。  リペイヤーの間では、「バベルの塔」と「城塞にあたる建築物」は、リペイ ヤーの想念によって左右されない、特異点そのものの「システムの可動部分」 だと思われている。  正に異界中の異界なのである。  見たこともない巨大機械の内部で、回転するギア群に手を差し入れる愚を犯 す必要はまったくなかった。  勿論、リペイヤーの内の何人かは、こういった特異点独自のシステム可動部 分の調査や、文字通り「修理」の任務に就いているのだが、現代、このように 人間界からの侵入者が増えてしまった今、彼らを排斥する仕事の方が急務にな ったのである。  階段の幅は不規則に変化する。 最小で人の歩幅ぐらい。最大だと車が通れる程の幅になるときもある。同じよ うに墜落防止の為にある石積みの柵もあったりなかったり、又、その高さもで たらめだ。そこにはなんの建築学も働いていないように思える。  それでもこの階段が城塞内部に通じ、その高低をカバーする為の移動通路で ある事は確かで、暫く上っていくと城塞各階に通じる出入り口に接続されてい るのが判る。  匠がそれに出くわしたのは、侵入者が潜んでいる階まであと少しという場所 だった。  女性の悲鳴が聞こえたような気がして、今まではのぞき込む事すら意識して 避けてきた城塞の出入り口に気を止めたのが、事の始まりだった。  特異点内部世界の異様さや、ケン長谷川と言う幽霊を見慣れている筈の匠だ ったが、目の前の城塞の一室で繰り広げられる光景には、たじろがざるを得な かった。反射的に匠は腰のホルスターから拳銃を抜いていた。  音も匂いも質量感も何もない癖に、その存在だけは感じ取れるという点で、 薄暗い石室の様な城塞で追走劇を展開する人間達は、ケン長谷川のような「幽 霊」に近かった。  違いがあるとすれば、ケン長谷川は匠を認知しているが、彼らは匠どころか 、こちらの世界自身の存在を理解していないように見える事だった。  匠に「のぞき見」という理解が一瞬にしてひらめいた。彼らは全く別の世界 の人間で、自分は何かの拍子でそれをのぞき込んでいるのだと。  全身を西洋鎧に身を包んだ若い女性の様に見えるそのモヤっとした存在は、 長剣を構えて、自分に追いすがって来る男達を牽制しているようだった。  しかしそれも長くは続かず、窓側に、つまり匠がいる場所へ追い詰められ始 めていた。 「ジャンヌダルク?俺は過去の時空を覗き込んでいるのか?」  匠は自分の持っている乏しい歴史知識からそんな事を考えたが、今目の前で 起こっていることは、レイプ現場を目撃しているような生々しさを持っていた 。  鎧姿の女性に対して、男達は緩やかなケープのようなものを身に纏っている ようだ。どの男も極度に興奮しているのが気配で判った。 「ジャンヌダルクじゃないな、サクリファイス王女なんてのはどうだ?生け贄 王女、いかにもって感じだろ。」  ケン長谷川の幽霊が匠の隣に突然、出現してそう囁く。匠はその出現のタイ ミングに飛び上がる程、驚いた。  そうしてる間にも男達に追いつめられた女の背中がどんどん匠に近づいて来 る。  匠は思わず目を閉じた。そうすれば半透明のそのビジュアルは、ケン長谷川 のように匠の身体をすり抜けて行くはずだった。  しかし思いも寄らぬ衝撃がやって来た。実体を持たぬ筈の女の身体が、匠に どしんとぶつかったのだ。  なんの構えも無かった匠はその女と共に、転落防止の石積み柵をもんどりう って落下した。  城塞の壁は垂直ではなく裾野に向かってなだらかに広がっている。  何とか落下から逃れようと匠の腕が無意識に手近なモノを掴もうとした。  空中を泳いでいたその手が巨岩の石積みの縦の割れ目に偶然はまりこむ。  左手からの恐ろしい程の激痛と共に、匠は落下から逃れる事が出来た。  岩の割れ目にはまりこんだ左手は、一瞬のうちに自分の落下する全体中を不 自然な角度で支えたのだ。左手首の骨は完全に骨折しているだろう。  匠は痛みに遠のきそうになる意識をなんとか集中させ、自分の置かれている 状況を確認した。  地面までには相当の距離があるが、その代わり城塞の壁の角度も緩やかさを ましている。  落下スピードがこうやって一旦殺された状況下なら、ここから再び墜ちたと しても、悪くて骨折程度で済みそうな気もした。  そして自分の右下側に見えている出窓のひさし、、左手を中心にして壁にぶ ら下がっているような匠が、その痛みを堪えて身体を左右に振って反動をつけ れば、右手の指先が辛うじて、そのひさしの縁に届くかもしれない。  どのみちここから滑り墜ちるしか脱出方法がないとするなら、一度あの出窓 に取り付くことを試みてみても、、そう考えた時、その出窓に一つの頭が突き 出され匠の方を見た。 「おまえが話に聞いてたリペイヤーか。自分ですっころんで、おまけに割れ目 にツッコンだ腕が抜けないとはな。ずいぶんな間抜け野郎だぜ。」  匠は反射的に腰の拳銃に手を伸ばしかける。勿論、そこに拳銃などない。構 えていた拳銃は転落の最中に失ったようだ。 「・・なんだよそれ、さっきチャカは自分で抜いて失ったじゃないか。もう惚 けちゃったのかい。」  男はうれしそうな顔をして、匠の見覚えのある拳銃を懐から取り出して見せ た。拳銃はあの階段の踊り場で落としたのだ。  つまり男は匠の転落を一部始終観察しており、しかも匠が身動きとれなくな ったのを見定めてからここに姿を現した事になる。 「特異点にダイブしてからの勝負は二つあると聞いていたんだぜ。一つは化け られるかどうか、、まあこれは仕方がないな。そいつの運命ってヤツだ。もう 一つはお前らリペイヤーの存在だ。化ける前に連行されるほど悔しい事はねぇ からな。所がだ、俺の場合は超まぬけなリペイヤーに出くわした訳だ。幸先が いいねぇ、、運があるんだ。本当の運ってのはギリギリの所で判るもんなんだ よ・・ついでだ、もう少し楽しませてもらうよ。おたくも自分の運を試してみ るといい、、。」  男は拳銃をしまうとベルトにくくりつけてある弾倉クリップのような固まり を一つ外しその表面を弄ったかと思うと、自分の足下に置いた。 「タイマー付き爆弾だ。逃げるとき、押し込みをするとき、結構役に立って来 た代物だ。まぬけににゃ使いこなせないがな。ここにダイブしてからの身の安 全の為にと持ってきたんだが、、、。」  男は言葉をきって、何がおかしいのか低く笑って立ち上がると、それを出窓 の奥に置き、今度は匠に最も近い出窓の位置に移動した。 「それにこいつだ。特異点の中にはジャングルやブッシュが多いと聞いてたん でな。良く切れるんだぜ。」  男は出窓の平坦な手すりの上に、いかにも凶暴そうな大鉈をグリップを匠の 方に向けて置いた。  匠は男の顔を訝しそうに見る。大鉈は匠が思い切り手を伸ばせば、もしかす ると届く距離にあった。 「ふん、勘だけは良いようだな。そうだよ。爆弾は4分後にセットしておいた 。相当な威力だぜ。あんたは勿論、吹き飛ぶ。逃げ道はあるさ。この大鉈で自 分の手首を切り離せばいい。爆弾が爆発する前に、下に落っこちる事が出来れ ば、なんとかなる。もっとも痛みで失神でもしたら、爆発からは逃れられても 出血多量とかでおっちぬかも知れないがな。いずれにしても根性勝負だよ。あ んたに出来るかな。、、じゃあな、先を急ぐんでな。」  男は笑ったのかも知れない。これ以上もなく顔を歪めるとその場を立ち去っ た。  匠は再びの激痛を覚悟して、隙間にはまりこんだ左腕を引き抜こうとした。  腕からはなんの感覚もかえって来ず、その位置も微動だにしなかった。  目の前の大鉈の刃が鈍く光っている。男の言った事が本当なら爆弾の破裂ま であと3分も残っていないだろう。  腕時計は左手首に巻いてある、実際の時間は確認できない。残り時間で出来 る事を考えて見た。男の言った事しか出来そうになかった。しかし男が言った ことがまったくのデタラメだったら、、。爆発もないままに匠は、男の嘘の為 に自分の手を切り落とした事になる。  しかし自ら自分の手首を切り落とす痛みと、自分の命、比べモノにはならな い筈だ。  それでも匠は躊躇し続けた。ためらっているウチにも時間は刻々と過ぎてい く。  自分で引き起こす壮絶な痛みと、不可避なる爆発による死。生き延びたいな らどちらを選ぶか、答えは決まっている。  「根性勝負だよ。」という男が残した言葉と共に、ケン長谷川の顔が浮かん だ。  匠は雄叫びをあげながら身体をめいっぱい開いて、右手で大鉈のグリップを 握り取った。  自分で切り落とした筈の手首が、灼熱の溶鉱炉の中で溶かされている。幻痛 とするなら度を超した痛みだった。痛みによって自分自身の存在が吹き飛んで しまうかと思えたほどだ。  匠は少しでもその痛みを中和しようと叫んだ。  そしてその自分の叫び声で目が覚めた。  汗まみれでベッドから跳ね起きて見ると、そこは本部の緊急医療室だった。 こちらを心配そうに見ているゲッコと、デスクに向かっていて今こちらを振り 返ったばかりという医療主任のカグニの浅黒い顔の半分が見えた。  匠に駆け寄ってきたのはゲッコだけだった。カグニはすぐにデスクワークに 戻っている。その背中からは匠に対する無関心しか伝わって来ない。  匠は、まさかと思いながら自分の失われた筈の左手首を触った。そこにはい つもと変わらぬように左手があった。  全ては「夢」か、、、、。 「気が付いたか、、。」 「俺はどうしてここにいる?」 「ローがあんたを回収してくれた。そのなんというか、、リペイヤーとすれば 異例の事だ。」 「回収、、、。レズリーが俺と同じ特異点内部に入った、、。」  匠には想像も付かない出来事だった。 「天地がひっくり返ったような顔をしてるな。不可能じゃないんだよ。現に侵 入者どもはお前の世界に入り込んでいるじゃないか、、リペイヤー達はそれを 今までだれもやらなかっただけの話だ。」 「それはそうだが・・レズリーがわざわざ救援の為に俺を追いかけて来てくれ たのか。」 「そうじゃない。お前さんが音信を絶って絶望視されかけはじめた頃に、別の 任務で特異点に入っていたローがお前さんを見つけたんだよ。」 「俺の特異点内部とレズリーの特異点内部は繋がっているってことなのか、、 まあいい、、、あっちで見つけた俺を様子をレズリーはなんて言ってた。」  ゲッコは不思議な事を聞くヤツだと言わんばかりに匠の顔を見つめていたが 、やがてあきらめたように言った。 「城塞の麓で血だらけになって倒れていたそうだ。左の筒袖が引きちぎられて なかったから、城塞の上で侵入者と取っ組み合いをして、転げ落ちたんじゃな いかと思ったそうだ、、。」 「、、、そうか。」 「なあタクミ、、身体が動くようになったんなら、俺なんかとグダグダ話をし てないで真っ先にローに礼を言いに行った方がいいな。こんなんで済んでいる のはローのおかげだ。」  匠はカグニの背中をもう一度見た。カグニは微動だにしない、診察は既に終 わっているという事だった。 「・・二階建ての階段から転げ落ちた程度だとさ。血塗れだったから派手に見 えたが、擦り傷と軽い打ち身と捻挫程度ということだ。」  カグニの代わりにゲッコが応える。 「・・・判った。頭の打ち所が悪くて悪い夢でも見てたんだろう。さっきは大 声を出して済まなかった。」  匠はベッドの中で起きあがった。節々が痛むものの確かに大した怪我ではな かった。  身体の痛みより混濁した時間感覚の方が不快だった。もっとも特異点内部で まともな時間の流れを期待する方がおかしいのだが、今の感覚は度が外れてい るように思えた。  手首を大鉈で自分で断ち切ったあの瞬間から、覚醒後のこの時までがショー トカットされているように感じられる。 「官給品のスーツを持ってきた、それに着替えるといい。」 「ああ、何もかもすまんね、、所で、ゲッコ、さっきからレズリー以外の件で 、何か言いたい事がありそうだな。」 「すまん、、ついさっきヘンデルとグレーテルからお前に対する出頭命令があ ったんだよ。」  特異点保護修復機構の最高責任者と現在、最も神に近い男からの呼び出しだ った。今回の事故とは、直接的な関係のないゲッコを怯えさせるには十分な存 在だった。 「、、、、いつだ。」 匠の声は乾いていた。 「明日の午後五時十五分から三十分間。」 「お忙しいお二人だからな、、俺の為に時間を割いてやったという事か、、ま あいい。俺はこれからレズリーに会いに行く。」 「おっと、それならそのマニキュア、取っていけよ。レズリー、お前のそれ見 て嫌な顔してたぜ。」 「マニキュア?」  匠はゲッコの視線が自分の左手に伸びているのに気付いた。  確かに匠の左手の指先には、宇宙に散らばる星座を図案化したマニキュアが 塗られていた。   なぜか匠は、ケン長谷川が言い残したサクリファイス王女という名前を思 い出していた。