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I saw a movie9 ケント。私は待ってる! |
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saw a movie.
監督:ブライアン・シンガー
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美少年で超優秀(Apt Pupil原題)トッドは、授業で学んだホロコーストに強烈な興味を憶える。図書館でナチスについて独学していたある日、身元を偽って地味な余生を送っていた元ナチス幹部・ドゥサンダーを偶然発見する。トッドはイスラエル政府に彼の正体を密告しない見返りに、ナチスの行った実際の残虐行為について話をさせる事にした。やがて、ドゥサンダーは過去の狂気を蘇らせ、トッドはホロコーストの悪夢に翻弄されながら自らを変質させていく。 スティーブン・キング原作、、、、だのに、まだ本の方は読んでいない。このままいくともうキングの方は読まないかも?それはきっと「ゴールデンボーイ」が映画化するとどうなるか?原作の方は?という興味がそそられるパターンをもつ作品じゃないからだろうと思う。キングの場合は日常的な場面の書き込みがもの凄い量で、表現方法なんかもなる程って思わされる部分が多い。それで読者を引っ張っていく。アイデア自体は、飛び抜けている訳じゃない。伝わるものの深みが違う、そういう作家だと思う。で、こういう映画を先に見てしまうと、もうキングを追いかける気力が私にはなくなってしまう。 この映画では元ナチス幹部・ドゥサンダーを演ずるイアン・マッケランっていう俳優さんを随分長い間みる事になる。この人は上手いのかも知れないけど、身体のフレームが完全に「貧相な爺さん」で最初はミスキャスト?と思ったけれどもう一人の主人公であるトッドにドイツ軍服を着せられて無理矢理行進練習をさせられるシーン辺りで、なるほどと思ってしまった。じりじりと時代と人間の悪魔みたいなものがその貧相な身体から浮かび上がってくるのね。 所でこの映画、人間の暗黒を描きながらゲイ・ムービー的な香りが強い。映画に出てくる教育カウンセラー、浮浪者、そして二人の主人公、彼らをゲイの感性で描写する。キングの「図書館警察」等にも表れる部分なのだが、映画ではその部分をより明確に提示している。トッド演じるブラッド・レンフロの肌が透き通るように白い。だが表現上においてもホロコーストと耽美は切り離して考えたい所だ。 |
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saw a movie.
監督:黒沢清
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体をX字に切り裂かれて殺されるという共通点(加害者が別にもかかわらず)を持った連続殺人事件。容疑達に問いつめても、殺害の事実は認めるものの、動機の部分がはっきりしない。刑事(役所 広司)は途方に暮れるが、ある日、容疑者達が事件を起こす前に、間宮(荻原 聖人)という男に会っていたことを知る。早速、間宮を逮捕して取り調べを行うが、間宮は記憶を失っているらしく、いまいち会話がかみ合わない。だが、ひたすら堂々巡りを繰り返す間宮のコトバは・・・。 「羊たちの沈黙」がずっと頭の中でリフレインされて、それがこの映画に没入できない抵抗感となる。でもやがてコレは日本人のどちらかというと土着的なサイコものなんだと気付き始めた辺りから、引っ張られていく。「リング」×「羊たちの沈黙」?後半、刑事がすでに間宮に取り込まれてしまっているのか?それとも最後まで精神的にはぐずぐずになりながらも間宮を追いつめているのか?これを明かさない仕掛けになっているのも、観る者を引っ張る原因だろう。見終わった後まで疑問を残すやり口の映画は幾つかあるがこれは成功例だと思う。ハハッ、、。きっと見終わった後に膨らむ個人的な妄想は「電波」に乗っかってどんどん増殖されていくんだろうな。どちらかと言うと私はそちらの方が怖い。 |
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監督:黒沢清
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映画人は思想家ではない。ただし、観客を思想家にしてしまう技を持つ表現者ではある。だが残念な事に私の場合、どうも黒沢監督の映画とはシンクロする部分が少なく、優れた思想家にはなれないのだ。 CUREの場合も「どこかが判らない」悩みに陥ったし、この「カリスマ」でもそうだった。ただ黒沢監督が提示する映像には、どこか神経を鷲掴みにされるような所があって目が離せないのである。 藪池(役所広司)が、カリスマを命がけで守ろうとする青年・桐山直人(池内博之)に魂を抜き取られる幻想的なシーンは、本当に胸の動悸が早くなった。 黒沢監督の映像は、私にとって、体調を崩して、非常に浅い眠りの中で見る不安に満ちた夢の味がする。そしてその映像は危うい夢のくせに、どこかに現実の無機質なハードな手触りを残している。それが怖いのだ。数人に押さえ込まれた人間が、大きな木槌のようなもので頭を叩き割られるシーンが奇妙にしずしずと進行したり、、。 この味わい、小説の世界なら安部公房がそれにあたるかもしれない。 さて「カリスマ論」である。命題としては「ただ一つのカリスマの為に全体が滅んでよいのか」という事である。さらに「全体」がカリスマの為に自らすすんで滅びを選ぼうとする「しくみ」の課題もあるだろう。近緒が最近、特に強く願っているのは、すべての一人一人が確固たる「自律した個人」を確立する世界である。ただ、こういう世界は恐ろしく加熱した世界となる筈なのだが、、。 映画の最後には、カリスマのあった森から、人間達が出ていく。あの森は非常に原始的な生命の実験場であったのかも知れない。そして森からでて人間の世界に帰還する藪池のラストシーンが示唆するものに私は意味もなく戦慄してしまったのである。 追記 この映画のラストシーンにはデジャブがあって「あれこの場面どこかで見たことがある」と思っていたら、私の愚作、フリークス・ウォーリアの飛行船から見える世界なのだった。 |
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saw a movie.
監督:デビッド・フィンチャー
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猟奇的殺人事件が発生し、プライドが高く転勤してきたばかりの若手刑事(ブラッド・ピット)と退職間近の老刑事(モーガン・フリーマン)が捜査を開始する。最初は反発しあう二人だが次第にうち解け、連続殺人事件が7つの大罪になぞられた殺人であることを突き止めるが・・・・ナンテ書き方をするとリーサル・ウェポンのシリアルサイコキラーものかって思ってしまう。実はこの映画を観たのは邦画キュアのコピーの中に「セブンを越えた。」というのがあって興味を惹かれたのだが。封切りのころはブラッド・ピットって名前を聞くだけでパスしてた。(完全な思いこみでミーハーっぽい出来上がりなんだろうと、実際はこの映画の主役はモーガン・フリーマン。)「羊たちの沈黙」が出てしまったら2匹目3匹目は辛いだろうな、邦画でも洋画でもテーマをどれだけずらして映画を撮っても比較が入るし。でもこれだけは言える、「キュア」「羊たち、、」「セブン」と並べて一番、後味が悪いのはこの映画。そして一番「現実」を言い当てているのは「セブン」、、まさにこの世は戦う値打ちがある、、。戦うべき相手はサイコさんじゃない。そしてそこからは誰も逃げられない。モーガン・フリーマンの抑えた最後のセリフの中にある諦観と決意が胸に染みる。 大食 (Gluttony)。 強欲 (Greed)。 怠惰 (Sloth)。 高慢 (Pride)。 肉欲 (Lust)。 嫉妬 (Envy)。 憤怒 (Wrath)。、、、、、。 |
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I
saw a movie.
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始め映画は、アンディ(ティム・ロビンス)がショーシャンクへ入獄しレッド(モーガン・フリーマン)の仲間に入るまでの日々を、何の衒いもなく淡々と描写して進んで行く。いかにも刑務所の日常とはこんな風に過ぎるというように、、、この辺りを飽きさせないで見せるのは「レッドの語り」というフィルターというか、一人の成熟した人間の考察を入れているからだろう。 やがてアンディの仲間の一人である終身刑のブルックス老の仮釈放。そして彼の娑婆での自殺。その知らせを聞いてレッドは「ここで死なせてやりたかった。」と独白する。そのレッドが何故、刑務所にあって一人異彩を放っているアンディを気に入ったのか? そして年月の経過は、リタ・ヘイワードからマリリン・モンロー、ラクエル・ウェルチへとアンディの牢獄の壁に貼られる銀幕のトップ女優達のポスター移り変わりで表される。その間、アンディは自らの特技と才能を生かし、刑務所の中の図書館を整備し若手の囚人に高校資格を取らせた。 一見刑務所の中でそれなりの成功を積み上げたように見えたアンディ。しかし「ここはお伽噺の世界じゃない。」と映画の冒頭にレッドが言ったように、アンディに突然訪れた無実の罪を明かせるチャンスは、見事に閉ざされる。 問題は「必死に生きるか、必死に死ぬか」なんだと苦悩に喘ぐアンディ。 で、いつ原作(刑務所のリタ・ヘイワース)のキング節が映画に出てくるのかというと、、。出てくるんですよね。 まだこの映画を見ていない人の為にここは書かない方がいいかな。(最近の映画にある吃驚するような大ドンデンではないが、私はこの映画がこういう物語展開をする事自体に驚いてしまった。前半の落ち着いた演出は、ここから以降の為のジャンピングボードなのかなぁ、、。) でも私はこの映画のポスターに使われるアンディが雨に打たれて天を仰ぐシーンより、ラストの青く澄み渡ったメキシコの海と、そこで再会を果たす二人の男達の方が好き。 レッドが仮釈放後、ブルックスの後をなぞるように生きる。そんなレッドを押しとどめているのは唯一、刑務所で交わしたアンディとの約束だけ、、。 映画の原則が、「観客は主人公に自分を投影する。」ならこの映画、主人公はある種の精神的超人であるアンディではなくレッドだよねぇ。 「希望はいいものだよ。そして最高のものだ。アンディ。」 みんなメキシコの海の青さに酔ってよ。 I hope I can make it across the border. 「国境を越えられるといいが」 I hope to see my friend and shake his hand. 「親友に会って握手ができるといいが」 I hope the pacific is as blue as it has been in my dreams. 「太平洋が夢で見たように青いといいが」 I hope. 「俺の希望だ」 |
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「器官切除」
白水社・山形浩生ー(訳)
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気になって仕方がないのに、何度手にとっても内容が頭に入ってこない本がある。作者のブラムラインはお医者さんだそうだ。医者に、医学用語が日常語であるレベルで物語を書かれては、素人には彼の作品は「難しい」かも知れない。これは単純に言葉だけを言っているのではなくて、感性の問題も大きい。たとえば同じ医学モノでも門外漢が徹底した取材をした上で書いた作品なら、言葉がいくら難しくとも「判りやすく読める」筈だ。勿論、医学が本業で同時に作家であって「判りやすく面白い」ものを書ける作家もいるに違いない。でもブラムラインはそうではない。だから気になって仕方がないのである。あえて表現するなら「冷ややかなスプラッタ小説」とでも言おうか、、。例えば解剖途中の人体を急速瞬間冷凍したものを我々が見て、どう感じるだろう。グロテスクの「質」が変わってしまう筈だ。本書は短編集であるが、ここに納めてある作品はいずれも人間の精神と肉体の倒錯をテーマとしている。私は特に「ウェットスーツ」を関心を持って読んだ(個人的な事だが身内にそういった人々がいる。)。これも又、他の作品同様、極めて後味が悪い作品だが、クールすぎる他のいくつかと比べてまだ「読める」ものであろう。肉体には妄想を抱かないけれど、精神に妄想を詰め込みすぎる人にはお買い得の作品集であはる。 |
「心のカガクを探検する・オムレット」
広英社
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漫画で解説書めいたものをかく形式が広く定着したのはいつ頃なんだろう。亡き石ノ森章太郎氏がこの形式で一頃、ヒットを飛ばしていたような記憶があるけれど、、、子ども向けの偉人伝などは随分昔からあるような気がする。今でも街の本屋さんの子ども向けの棚には置物みたいに、この手の本がひっそりと並んでいるような、、。でもあれって一体誰が読んでいるんだろう。やっぱりお母さんが我が子の為に買い与えているんだろうか。 そんな情景を考えると「難しい内容を持つものでも漫画で描くと判りやすくなるだろう」という思いこみが制作側にも読者側(?)にも前提としてあるんだろうなと思う。 でも実際に、その手の本を何冊か手にとってページを捲ってみると、ただ挿絵の分量が多いだけで「漫画」にさえなっていないものが非常に多いことがよくわかる。もっと酷いものになると漫画にする必然性をはじめから放棄して、吹き出しにそのまま原書のテキストを流し込んだものさえある。これだと書物の持つ、元来の力が、絵によって分断されて余計に「内容」が頭の中に入ってこない。 つまりこの形式の書物の出来不出来は、描き手が内容を完全に理解して漫画としてもう一度「再構成」できるかどうかに総てがかかっているのだと思う。 その点検軸で見ると本書「心のカガクを探検する・オムレット」は十分合格だと言える。まず描き手自身がテーマ自体とその内容を楽しんでいるのがありありと判る。その姿勢は読み手に、誰もが子どもの頃、真っ暗な押入の中で考えた「こころと存在」の不思議を、もう一度とらえ直す発見と愉快さを与えてくれる。 少なくとも、我々が知っている心理学は未だに「シグムント・フロイト」であり、本書でも触れられているデカルトの「心」モデルの呪縛から離れられない現状を考えると、本書を一読するだけでも、硬化した考えが「ゆるむ」のではないかと思う。 更に言えば本書は、読み手が個人と社会(個と世界)のかかわりについてもう一度考え直すよいきっかけになるかも知れない。この辺り、本書の主人公であるオムレットが未来から「心」を探しにやって来たバイオコンピュータであるという設定に、筆者の仕掛けとこだわりが隠れている。 だからこそ本書には「単なる漫画仕立ての解説書」には感じられない読後感があるのである。その読後感は「物語」を読み終えた後の「爽やかさ」とまったく同じである。まあこの辺りのハイブリッドぶりは本書をお読みになって味わって頂きたい。 「真の自由・・・責任から逃げる自由ではなくて責任をともなう自由というのは、大人がいだく幻想としての価値があるわ。」 ディーン・クーンツ著ドラゴン・ティアーズより PS 本書の特質は上に書いたが、もう一つの最大の美点は、なによりイラストが「可愛い」という事だろう。 「可愛い」を侮ってはいけない。ちなみに、、貴方は人から「可愛い」と評価されるものを、どんな形でもよいから一つでも生み出せますか? |
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saw a movie.
監督: 夢流ZOU
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意外に思われるかも知れないけれどアダルトビデオの類は殆ど見ない。(もう少し正確に表現すると「自分で入手しては」という注釈付き) けれどビザールファションにはとても興味があるから、愚弟からその手のビデオを借りる事は結構あるし、愚弟も心得たものでご機嫌取りにやって来る時には、ボンデージやSM系の作品を手みやげ代わりに持参してくる。 そんな作品の中でchikaがとても印象に残っているのが「アートビデオ」の「顔のない女 猟奇の檻 3」だ。主演女優は麻生ちなみって言う人、勿論誰もピンと来ないと思うけど、、。女優さんより男優の加藤鷹さんの方が有名だよね。それにこのビデオ加藤鷹さんの存在感の方がある意味重要なのかも知れない。AVなんて殆どストーリーなんて必要ないし、映画とは根本的に「使用言語」が違うんだけど、「顔のない女」は珍しく「語るべきテーマ」があるビデオで、その展開は殆ど加藤鷹さんの語りと麻生ちなみの「ヨガリ声」で構成されているのだ。 ある晩、加藤鷹が店主のボンデージショップにサングラスで顔を隠したオンナが訪れる。彼女の申し出はこうだった。「私をボンデージマネキンにして欲しい。どんな事をされても構わないけれど、ただし顔と名前は最後まで表に出さないという条件付きで、、。」 しばらく加藤鷹はこの女性をショップの檻付き倉庫に閉じこめ、彼女の本性を確かめる為に試行期間を設ける。彼女はその間中いつもレザーマスク・ラバーマスクなどを装着して顔を見せないのだが、そのマニアぶりM女ぶりは本物だった。加藤鷹は一度、サドプレイに高じて彼女のマスクを剥がしかけるのだが、彼女の「終わってしまう。」の言葉に心打たれて自らこの関係を「金を払ってでも」続けさせてくれと依頼する。 この二人の関係が加藤鷹のナレーションでこのように語られる。 「オレはボンデージをどんどんエスカレートしていった。このオンナを檻から出さない永遠に。その瞬間オレは、得も言われぬ快感に襲われた。オンナを無視することの快感を知った。オンナは苦痛を浮かべるようにさえなった。しかし、オンナは一言たりと文句を言わなかった。文句を言わないことの快楽、、、そしてついにオレは顔のないオンナの叫びを聞いたと思った。」・・・まあこんな感じ。 自分に付属する総ての人間の属性を捨てて「モノ」になる快感と「完全なる服従」をオンナは「自分の顔」を捨てマスクを付ける事で手に入れるわけだが、この蜜月もやがて加藤鷹と心変わりと、店の客人によって破綻してしまう。加藤鷹はいつものようにマスクを付けたままの麻生ちなみをバイブで責め立てるのだが、麻生の興奮はこのプレイに参加した客人の存在のせいもあって極度に高い。 何度もアクメを繰り返す麻生に「このバイブを抜いて欲しくなければマスクを取れ」と迫る加藤。そして苦悩と快楽の波に押し流される麻生をビデオで撮影続ける客人がついに麻生のマスクに指をかける。そして麻生のマスクはついにはがされるのだが、その瞬間麻生は最高のアクメに達するのだった。 (最後になってなぜ加藤鷹が客人と一緒になって麻生ちなみのマスクを剥ぎ取る行為に出たのか、このビデオではちゃんとした説明がない。というよりこの辺りが「普通の映画」との違いなんだけど。) エピローグでは、下校中の小学生に声をかける女性教師らしい足許が映し出されて、カメラが彼女の部屋までついて行く。そして「マスクを剥がされ快楽にのたうちまくるオンナ」のビデオを観ながらオナニーをする彼女の姿が映し出されるのだ。 「顔のない女」が小学校の女教師だとはいかにも通俗的だし、先にも書いたように加藤鷹の心変わりが上手く説明できていないのだけれど、このビデオ、それらを差し引いてでもボンデージやディシプリンの心理を極めて的確に描いていて名作だと思う。 エロでディープな気分に浸りたい時は是非どうぞ。 PS 夢流ZOU監督ってこの他、chikaの感性にぴったりのAVを沢山撮っています。 |
「亡国のイージス」
講談社文庫
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「亡国のイージス」。書かれたのが1999年8月、現在このレビューを書いているのが2003年6月。今、イラク戦争は終結しており、世界はアメリカの一国主義とどう渡り合うかを、そしてアラブ諸国は内にアメリカへの怨嗟の種を育んでいる。 日本では、小泉首相が2002年9月17日の日朝平壌宣言から、数ヶ月もたたぬ内に「右向け右」の様変わり振りを見せている。誰の号令かは言うまでもあるまい。その北朝鮮との関係は「弱腰外交」と世論から括られる事に敏感になってきた我が国のTOPが、アメリカのイラク戦争での一時的勝利に勢いを得て強硬路線に鞍替えをしつつある。 そんな激動の時期を経ながらも、本書で描かれた世界情勢の分析は、一概にフィクションとは言えない状況で現在を照射しているように思える。 特に「国防」という大きなテーマでは、イラク戦争に対する無力感を含めて、手応えのない焦燥感を味わった我が国では、混迷ばかりが深まっているようだ。 そう言った意味合いで、本書はベストセラーとなった発売当時とは違った角度で、日本への問題提起をしてくれる作品でもある。 (「ダイス」が使う秘密軍事衛星に当たるものがついこの間、打ち上げられたのにはタイミングが良すぎて笑ってしまったが) ただ、上のように書いてしまうと「亡国のイージス」を未読の方には、本書について詰まらぬ誤解を与えてしまうかも知れない。 本書の本質はあくまでも娯楽性にあるからだ。本書は、いわゆるシュミレーション戦記物と見なすことが出来るし、後半のテイストは映画のダイハードを筆頭にアクション映画のそれを思わせる面白さを味合わせてくれる。 その娯楽性が戦争・国防・組織論理・個人の生き様と言ったテーマに上手く重ねられて展開されている所が本書の最大の魅力だと思う。 逆に言えば「よく見ろ。日本人。これが戦争だ」と言った苛烈なテーマ性が本書の中で、最後まで語り尽くされる訳ではないのである。 その事は部下から「灯台のような人」と慕われながらもいそかぜの艦長・宮津が最後の最後まで「迷い人」として描かれている事によく現れている。 テーマ重視から娯楽性へのシフトは、本書では北朝鮮の女工作員の非現実的な描写が始まるあたりから、色濃くなっていくのだが、この展開は責められることではないだろうと思う。 むしろ重たいテーマを、個人の生き方に還元していきながら上手く処理して物語を括っているように思える。 これは、最後に手前勝手で明確な答えを出して終わるアメリカの「戦争娯楽映画」より、ずっと良心的なエンタメとしての引き際だと思うのだ。 PS ミスリードのさせ方が実に上手い作品である。「ボーンコレクター」のジェフリー・ディーヴァーの鮮やかさを思い出さされた。 こればかりは書いてしまうと完全なネタばれになってしまうので控えるが、この文章の構成力があるからこそ、長大な文章量を読者に一気に読ませる事が可能になるのだろう。 福井晴敏、実力派である。 |
I
saw a movie.
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時々、近緒はこのコーナーを読んでいてくれる筈の「あなた」の事を考えます。「あなた」はゲイ・ホモセクシュアルに対して偏見のない人だろうかと? 私の表現の対象のラインは、下限を「頭では理解できていても身体が拒否反応を起こす」程度に設定してある。そう、よくみかけるでしょう。サイトのオープニングページに「ここはこういう世界だから興味のない人はおかえんなさい」という奴。 だからこういったゲイムービーを紹介する時には、近緒はあなたが、「偏見を持たないマイノリティの立場に理解が示せる人」である事を前提として感想をかいているんです。 やけに「前置きが長い」って?そう、この映画はこの「前置き」を日常的な視点で考えさせてくれる映画なんです。 自分がゲイであることを秘密にしたまま46歳になってしまったロー(ジョージ・ラム)と、明るくゲイであることを隠そうとしない美容師のサニー(陳小春)の二人の恋人達を軸に、彼らの周辺で起こる「結婚・葬式・卒業式」と言った人生のエポックを映画は描き込んでいきます。 映画の冒頭でサニーは、ローと自分との世界観の違いをこう独白します。 「ローは自分がゲイである事を悩んでいるみたいだけど、私からいわせば何の問題もないのよね。男を愛するか女を愛するかは、スポーツでホッケーかゴルフのどちらかを選ぶのかと一緒。どちらが少数派かってことだけ。」 このサニーの生き方のアンチテーゼみたいな形で、映画は「旦那の浮気相手が男と知って、どうどう敵地に乗り込んだものの、当の浮気相手の男と顔を会わせてショックのあまりゲロを吐く女房のシーン」を描いてみたり、様々な状況を我々に見せてくる訳です。 サニーとローが喧嘩別れをしてしまう原因となった、ゲイの著名人カップルの死別のエピソードは、恐ろしく現実味のある話で、このカップルの周囲の人間達が「承知と対処では別だ。」と漏らした言葉は、現在の日本でもそこら中で囁かれている言葉ではないかと思います。 映画では、葬儀に参列するなと親族に釘をさされたK.K(呉鎮宇)がサングラスを掛けキムの葬儀場の前で佇む姿が秀逸でしたが、、これが現実なら「秀逸」等とはいっておれないでしょう。 この映画『BE MY BOY』は同じ香港映画という事もあって「ブエノスアイレス」とよく比較されるそうですが、映画として志向する所が違いすぎるので難しい所です。 しかし問題提起力というか、ジェンダーの課題に関する我々への訴求力は『BE MY BOY』が遙かに上です。 『BE MY BOY』には「肉弾戦」が描かれていない(暗示するものがあるけれど)だからそちらの部分がライトになって「言葉」や「意味」の部分が強くなるんでしょうね。 賢明な方法だと思うけれど、生のSEXの部分も、もう少し織り交ぜておいて欲しかったと思います。ジェンダーの問題は、決して社会や政治だけの事ではなく「肉欲」の側面もあるんだから、、。(でも肉欲ってちょっと引いて見ると、滑稽な行為なんだよね。ハマっているときは宇宙も見えたりするけど、) あと、サニーの「アーロン・クォック。あのひと生白くって嫌い」」という台詞には笑いました。それに全編リアル香港の生活がよくでてるし(国内ロケしてるのに「ここは何処」ってロケーションを必死になって探している映画もあるよね。)映画としてのおまけも沢山あります。 『BE MY BOY』は、見終わった人に「言いたいことが一杯ある」って気分にさせてくれる映画だけど、私の場合一番心に残ったのは、ローをゲイではないかと思いながらも彼を想い続ける幼馴染みの女性チュン(クリスティーヌ・ン)が、ローとの結婚を破棄してくれるシーン。 二人の最後のキスシーンは思わず泣きそうになりました。頼りない子どもみたいなローの「感謝」のキスと、成熟した大人の女性としてのチュンの「哀惜」のキス。 このキスの切なさは、ローが自分の父親にカミングアウトした後、一旦は決別したかのように別れた彼の父親が再び彼の元に引き返して来るシーンと同じ感情を抱かせてくれます。 結局はすべての事柄が、これらの「人が人に寄せる情」に戻ってくるのではないのかと思うんです。、、私って甘ちゃんかなぁ。 |
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「二百回忌」
新潮文庫
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正直に告白しよう。私は最初、この作者の姓が読めなかった。正直に告白しよう。私はこの作品の冒頭「私の父方の家では二百回忌の時、死んだ身内もゆかりの人々も皆蘇ってきて法事に出る。それががどうも他の家と違うところらしいが、よその家でも皆そうなのだと、子供の頃はずっと思い込んでいた。」にぶっ飛んだ。それに後半のジョージ・チャキリス爺さんが回転花火みたいに(今の人には飛行ガメラみたいにと言った方が判りやすい?)天空の彼方に飛んでいく場面とかもう降参です。 この女筒井康隆め、でもこの作家、言っちゃ悪いが「潰し」が利かないだろうな。それにオデブさんの心情がたくさん出てくるのもスタイリッシュじゃない。こんな私小説の部分を読まされても面白くも、役にも、「無駄」にさえもならない。も、少しだけフィルターをかけて欲しかった。(と書きながら、今、中上健次を未明の頃にじりじりと読んでいる。こっちは許せるのに現金なものだ。)でもでも、何よりもましてこの想像力、全てを許しちゃう。想像力だけが私たちを遙か彼岸の彼方に運んでくれる唯一の力なのだから。ああそれから「大地の黴」って短編はどーしても一連の宮崎駿作品(特にもののけ姫)を思い出す。私って想像力が貧困。でも貯金なしの想像力はあり得ないから、もっと良いものを見たり感じたりするように頑張らなくちゃね。 |
「蛇を踏む」
文芸春秋文庫
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「この作家のこの本を読みたい。」と思ってリストアップまでするのに、なかなか出会えない人たちがいる。川上弘美もその一人で、彼女の「溺レる」は、かなり前から読もうと思っていたのだけれど、結局、私が出会えたのは、文庫で短編集として出版された「蛇を踏む」なのである。 ・・で彼女の作品の第一印象なのだけれど、とにかく、出だしの一行で「言い切ってしまう」ところ、世界の扉をいきなり開いてしまう所が強烈である。 「物語」に隠された意味を考えないなら、ただただ恐ろしいほど視覚的にシュールな世界が、延々と展開されていくのが川上ワールドなのである。 しかし、この作品を読むと、どうしても「何かを考えてしまう」のは、作者にとって不幸なのか幸いなのか、、、、って感じだね。 「意味」でこの小説を読みとっていくと『凄く難解そうな作品みたいな外面らをしてるけど実は内容がない』とかね、そんな感じの批評をされそうだし、、。実際、、内容なんてあるのかなぁ、、近緒には、これってただ感覚的なだけの作品みたいな感じがするんだけど。 それは川上弘美を批判しているのではなくて、、、人間の感覚・感情の中には、凄く重層的になっていて、しかも屈折したものだってあるんだと思う、、それはかなり沢山の言葉を重ねないと表現できない筈でね。そこをやってるのが川上弘美だと思うんだけど。 それと際だっているのが、この作品に溢れているメタモルフォーゼ感。普通、身体的な変身・変化のテーマを扱うと、変わっていく事の、ゴツゴツとした抵抗感が中心になっていく場合が多いと思うんだけど、川上の場合は、果てしなくシームレスというのか、ただ流転していく快感という感じが大きいのね。これって凄く重要な事だと思う。 この短編集に納められている「消える」は、目眩がする程のメタモルホーゼ話だけど、ちょっと気の利いた解釈をし出すと「群衆の中の孤独」というのか、家族の中であってさえその関係性が希薄になっていく本質的な人間存在について書いているっていう言い方になる筈だけど、、これも二次的なことなんだろうな。 だって川上弘美が喚起するイメージは演劇的なものは一切なく、どちらかと言うと視覚表現の中でもミロなどの絵画から広がっていく種類のものだと思うから、、。 どうも、筒井康隆<笙野頼子<川上弘美という順番で、映画のアルタードステーツとかハリウッド映画によくあるアニメ・実写の合成映画のティストに近くなっていくみたい。 近緒は「想念の中に閉じこめられた光景」を書くのが、数多の表現の中で、小説に残された最後の独自領域だと思っているから、そう言う意味で、川上は一押しの筈なんだけど、、今一乗り切れないのよね。 そうならないのは、余りにも散文詩的な感じがするからかな。・・「水」を飲んでるみたいなんだよね。でもやっぱり「溺レる」を読んでみるべしかな。 |
「溺レる」
文芸春秋文庫
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最近急に、川上弘美の文庫本が書店に現れているような、、。大型書店で、あれ程探しても見つけられなかった「溺レる」が、町の小さなお店で平積みされているのを発見して吃驚した。 (勿論今までだって、大型書店なんかは検索システムがしっかりしてるし、店員さんに聞けば直ぐに手に入れる事が出来たんだろうけど、、、大きな本屋さんで圧倒的な書籍量に埋もれ彷徨う楽しみははずせないのね。 川上弘美の「溺レる」を探す、、探しながら他の本を見て、、あれもこれも面白そうっていうのが楽しいわけ。) 近緒が初めて川上弘美の名前を知ったのは、確か新聞紙上の新書紹介記事だったと思う。「SM嬢とトラック運転手の道行きの話で奇妙にゆがんだその物語世界が刺激的」と紹介されていた記憶がある。 それなら是非とも読みたいと思ったのが数年前の事だ。ただその当時は、レアな性描写を含む作風を持った若手女性作家が台頭し始めた頃で、川上弘美も流行のその一人だと思っていたから、「読みたい」度の頭には「なにがなんでも」が付かなかったのも確かだ。 実際の川上弘美作品は本人自身が言う所の「ウソバナシ」に特質のある確固たる「物書き」、、、近緒の失礼な予断は見事に外れていたのだけれど。 さて件の新聞の紹介文なのだが、もう記憶が混濁していて上に書いたような事が実際に新聞に書かれていたのか自信がない。近緒自身がねつ造している可能性だってあるのだ。けれど「溺レる」には「可哀想」というSMめいた話が一話収録されている。 前に村上龍のSMを題材とした小説のレビューに彼自身が体験しなければ書けない描写があると紹介したのだが、この「可哀想」もそうだ。 村上龍はそういう場所や世界に分析的な客として参加している感じだが、川上弘美の場合は、普通の性的営みをやっていて、ある時ある弾みでSMチックなバリエーションに入っていってしまうという感じだ。 村上龍の場合は「客」であるから、SMの個人の内面を描く時、どのように幻想的にデコレートしてもその文体は常に分析的である。それに対して川上弘美の場合は、あくまで内側からの観察、、そう自分自身を観察する時でも内側だから、時として自分自身もまともに見えないという描写になる。 しかし考えて見れば「内側の内側から見るから、自分自身もまともに見えない」その事を当たり前の前提として文章が構築出来るというのも凄いことだなと思う。確かに「ウソバナシ」の由縁であるなーと。 あと、本書の種村氏の解説にもあったけれど、「食べ物」というか「食べる」が必ず出てくるというのも川上弘美作品の特徴。ただこう感じるのは近緒だけかも知れないけれど、あまり川上弘美の「食べる」シーンを読んでも「私も食べたい」とは思わないのね。 グルメというより「咀嚼」行為が先にある感じ、、「さやさや」のしゃこなんかは、近緒の中で、あの触感ばかりがクローズアップされるし、、結局そんな風にこちらを共振させるのは、、川上弘美の中では「食べる」も生理感覚の一部じゃないかと。 PS 「無明」を読んでいると、何故か漫画家の高橋留美子の描くものを連想してしまった。それに「神虫」も判りやすい。言っちゃなんだが、前者は「同人」乗りだし、後者はズバリお昼のよろめきドラマ(古い)構成でしょう。 でも川上弘美が、こういうものを書いているという事を知ると、何故かほっとする。やっぱり弘美ちゃんも普通のオンナのヒトだったんだ〜。って感じかな.。 |
「椰子・椰子」
新潮文庫
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本書『椰子・椰子』は、「私」が綴る1年間の日記の体裁をとっている。 巧い構成と言おうか、これでしか成り立たないと言っていいのか、まあ川上ワールドを楽しむのにはピッタリだ。 山口マオさんの挿し絵(?、今流行のコラボレーションって言葉は好きじゃない。文庫本のカバー一枚で作品の内容を左右するものだってあるし、コラボになっていないコラボも多い。)は、どうなのかなって思っていたけれどマオさんの「縄文人街」のイラストでノックダウンと言う感じ。 確かに川上さん自らが、山口マオさんに挿し絵をお願いしたというのがうなずける。 (もっともこれも一見、童話・絵本風の「椰子・椰子」だからで、他の川上さんのライト・ドロドロ系の小説に似合うとは思えないけれど) 近緒の場合、川上さんの書くメタモルホーゼ効きまくりの「うそばなし」系と、不倫・駆け落ち・逃避行有りのドロドロ系とどちらが好きと言われると難しいのだけれど、ベッドサイドに置いて合って時々思い出したように読み直せるのは「うそばなし」系だろうと思う。 その中でも本書は、日頃アクセサリーに持ってあるけそうな出来具合だ。近緒が、もう少し若ければきっとこの本をバッグに忍ばせておいて「不思議ちゃん」系を演出していたに違いない。 でも、やっぱり読んでいて引き込まれるのは本書の中でも「ぺたぺたさん」や「夜遊び」「オランダ水牛」だから、川上さんの書く恋愛モノ(?)も捨てがたいのかも知れない。 えーっとこのレビューはここまで、だってこれ以上、説明出来ないんだもの。川上さんの「うそばなし」は読まないとホントに判らないから。でもお勧めだよ。 |
「コンセント」
幻冬舎文庫
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金融雑誌ライターのユキが発情期的な情事の直後にノートパソコンを立ち上げ、そのハードディスクの起動する様が好きだと内述する。こういった出だしから、一つの小説がどんな「物語」を展開出来るのか不思議だったが、この作品、コンセントをキーワードとして(共時性を武器に)実に見事に精神世界に染み込んでいく。 実を言うと私はこの作品を旅先で、少なからずのアルコールに浸りながら読んでいる。 精神世界と縁が切れないもの、ドラッグ、アルコール、セックス、、、トランスを引き出すか、自らと世界を隔絶し遮断するもの、、。 少なくとも酔いは鋭敏にささくれ立った感覚を麻痺させ鈍磨させ、心に一時の偽りの平静をもたらしてくれる。これを逃避と捉えるなら、今の状況は依存症の入り口になるんだろうか、、。 人が世界の真実を知ろうと思った時に、どんな手だてがあるのだろう、おそらくそれは、その人間の持ち得る感覚の中でもっとも振幅の幅が大きい部分が利用されるのだろうと思う。 それはある者にとっては「痛み」だったり「言語」だったり「音」だったり「視覚」だったりする。もっと別な角度で言うと、最も「快楽」を得れるものか、最も「苦痛を伴う」ものかという分類であっていいかも知れない。 田口ランディの「コンセント」の中に「気持ちよいセックス」が何度も登場するのは、主人公も作者自身も、セックスをかなり高い部位においているからだろう。 まあ、この作品の「進化した現代のシャーマンが違法風俗まがい」であるという結末は、ちょっとした「提起」だとは思うが、、。 ユキが沖縄のユタに会いに行き、兄を成仏させてやった時点でピリオドを打っても、この物語は十分に成立した筈なのだが、そうしなかった事が、良かったのか悪かったのか、、(すでに「コンセント」が私の中に移植されてしまった物語であると言う意味でだが、、)私にはちょっと判断がつかない。 結局、この結末だとこの物語はもう一度振り出しに戻って行くような、不思議な揺るぎを覚えさせられるのである。それは後味の悪い無限地獄の姿を提示された感覚によく似ている。 この結末を含めて、コンセントの物語構成を、辛辣に見ると、物語の中核をなす展開部分と、前半の肉付きと後半の肉付きという三つの部分は、かろうじて接ぎ木されているようにしか見えない事が判る。 しかし実の所、この作品の本当のおもしろさは、この接ぎ木の部分ではないかと思えるのである。 例えばユキの男性や同性にたいする人間観察は、とてもベタで、ほとんど日記レベルだと言っていいのだけれども、それをずーっと斜め上の方向に平行移動させて、「違うモノ」にしてしまう田口ランディの「技」がいいのかも知れない。 コンセントが映画化されるらしいが、主役の女の子の顔を見てると、やまだないとの漫画に出てきそうな顔で「それふう」なのが近緒にはしんどい。やっぱり「コンセント」は、こういう流行モノの中に吸収されるあざといテクニック部分で多くを成立させている底の浅い作品なのか、、(このあたりのマスコミの人々の嗅覚は凄いからね。) それとも現代だからこそ生み出された作品なのか、、今暫く様子を見ていきたいと思っている。 |
「7days
in BALI」
筑摩書房
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田口ランディが「コンセント」等で追いかけて来たテーマを、彼女が得意とする紀行文めいた構成で上手く納めたという印象が強い作品。一部、田口作品の中でも「傑作」という話があるが、物語の配置が理にかないすぎ、エンディングも計算尽くが見え見え。 ある意味、後半になると迷走気味だった「コンセント」の方が重みというか食べ応えがあったような、、気もする。 余りの構成のスムースさに「そうなんだ、これって小説じゃなくて映画の組立だな、、」と思ってみたり、その他、テーマ展開のドライブ感は「W村上の影響モロじゃん」とか、、。 ランディの文章が「巧い」と言われるのは、おそらく、昨今の読者が「本から読んで味わいたいフィーリング」の端切れを、いろんな場所から掻き集めてつなぎ合わせるのが上手だからだろうと思う。 今回のベースは「愛してるよヴェトナム」と中島らもの「水に似た感情」を足して、隠し味に春樹の○○と龍の△△と、てな感じで。 だって、どこのエッセンスをとってみても「ああこれって何処かで読んだことある」って感じなんだから、、言い方を変えるとそれぞれの出所から、良いものを引っ張って来て再構成出来る感性が、ランディにあるってことなんだよね。 まあ、そんな感じで色々あるんだけど、それでも田口ランディは面白いと思う。その面白さは、ランディが自分の作品の中で扱っているテーマそのものを、彼女自身が実践してる事にあるんだと思う。 つまり人間ってのは「確固たる存在」ではなくて、「世界」という情報に対して、それを受信する「器」としてあるんだというとらえ方ね。 脳神経の働きに対する世界観にみたいになってしまうけれど、情報伝達時の「位相のズレ」みたいなものや「遮断」「停滞」そのものが、意識や心に繋がっていくニュアンスを、ランディは物語って来たわけで、彼女自身の「小説という仕事」もそう言った性格を持っているという事かな。 例えばヒットする曲のエレメントは、過去にヒットした曲の「継ぎ接ぎ」と「変調」、、そして微々たる独創性でなりたっている訳で、どうも私達の属する文化構造の増殖の仕組みもそれと同じく、個々を隔てる「独創性」はそれほど重要ではないように思う。 要はどれだけ情報(世界)にシンクロし、いかにそれを増幅・変調して世界にもう一度送り出せるかという事が重要になって来ている感じがある。 そういう意味で田口ランディ自身が、かなり感度の高い「器」なんだろうと思っている。田口ランディの作家としての面白さはそこにあるのだろう。 本書を読んで常に感じてしまったのは「この本に描かれるマホとミツコは同一人物なのだろうか?」ということである。 勿論、本書ではそんな設定には、なっていない。マホはバリで消失してしまった友人のミツコを探し出すためにバリに出かけるのだから、これは近緒の妄想である。(というか近緒には、この話、ミツコなんて関係なくて、マホのみの自己回復の物語としか読めないのだ。) 少しこの物語を女性週刊誌風に読み替えて見よう。 マホは煮詰まってしまった都会での生活から逃れるように、ふと思い立ってバリに出かけた。そこで展開される恋のアバンチュール、、ちょっとやばい不良外人との接触も「でもこいつはやつけちゃったから、まっいいかぁ」のりでクリア。それにドラッグも体験しちゃったりして、随分リフレッシュしたから、又、東京での生活もがんばれるかな、、。それに東京に帰ったらこの体験利用してなんだか小説書いてみたくなっちゃったし、、。 という感じの、一見暗そうだが実は軽薄尻軽女の一人旅日記になる。でもこれを角度を変えて見ると、本書のように「二人に乖離してしまった人格の統合、あるいは自己完結のプロセス」を「バリでの神秘体験記で」という事になるのだ。 PS 読んだ後「バリに行きたいよー。」って思った。これが本書の一番の「肝」だったりして。 |

ロバート・R・マキャモン
文春文庫 訳:二宮 磬
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私は子どもの頃「美味しいものは後に残しておく」タイプだったようで、この冬の休暇の間にため込んだ文庫本の類で「遙か南へ」がそれに相当するものでした。作者がマキャモンときて、ヴェトナム帰りの殺人犯と顔半分痣に覆われた美女の逃避行、追うは三本腕の男とエルビスそっくりの肥満男コンビのバウンティハンター。 このロード・ノベルが面白くないはずがない。それに今、私がアップロードしてるフリークス・ウォーリアとシンクロする部分も多く、考えさせられる場面が沢山ありました。勿論、エンターティメントとしても十分に面白い。場面つながりの早さというか、主人公のクタクタ度は大沢氏の「走らなあかん夜明けまで」レベルですね。、、、異形の長く暗い夜が続いて、やがてようやく空が白み始める。 読み終わって涙が出ました。感情の涙腺を刺激すべく用意された筋立てというより、「そうだよね」という共感です。読む人間も、作中の人物の暗い逃避行と追跡の旅をともにする中で、どこか「癒される」部分がある。「南へいっちまった」主人公が、その「遙か南へ」南下する、、。この物語のエンディングをゆるいと思う人は、思えばいい。でも私にはこの結末しかあり得ないと思う。さあ「遙か南へ」、、。 |

「溺れる魚」
新潮社 新潮文庫
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陸上の短距離は、スタートからトップスピードに至るまでが勝負。「溺れる魚」はそんな事を想起させる作品である。全ページの半分以上を過ぎてから、一癖も二癖もある登場人物が現れてきて、「作者はどうやって話を納める気でいるのか」他人事ながらハラハラさせられる。前半の人物描写のペースでやっていたら絶対に物語が収まらないのは目に見えている。前半では人物のリアリティ(くだらなさと言い換えていいが)を付加するために結構な分量を文字数に割り当てているからである。(しかもその他、罵倒語がかなりの文字数をしめ、これが又、最後まで減りそうにもない。) しかし、実はこの助走部分の「貯め」が、一気に後半のトップスピードに繋がっていくのだ。 と近緒は、思っているのだが、実は作者の計算ミスなのかも知れない。例えば問題の後半、革滅派・奥住の奇行がしつこく描写されるが、それはそれだけの事で、その事が物語の中で意味を付加されるという事がないのだ。(実は他の登場人物も全てそうなのだが、それでも何人かの人物描写が、作品全体の中で「意味落ち」する部分がないわけではない) でも、どう見ても作者がこの奥住に何かを仕掛けたかったようにしか思えないのだ。他に暴力団組長・沢木も奥住程ではないがそんな印象を持たせるし、、。勿論、沢木の配下のやくざたちに至ってはこれはもうネーミングからして悪ふざけレベルで、これはこれで、最後のドタバタアクションによく似合っていて納得出来たのだが。 でも本当のことをいうと、後半のこの構成が作者のミスでも、作為でもどちらでもいいのだ。後半のトップスピードで展開されるドタバタスプラッタアクションは小気味よくてとても「面白い」のだから。このティスト、タランティーノの映画に良く似ているというか、彼の映画のもう一つの特徴である目眩のするような洒落た会話を抜いた小説版そのモノだといっていいと思う。 まるで「背後の価値なんかない、現象という狂態がある、それが全てなんだ。」と言わんばかりの作者の意志さえ感じられて、とっても面白かったよ。 PS 私のIsawに取り上げる映画や本の選考基準は、勿論、「私の趣味」なんだけど、それ以外にジェンダーがらみのものは無理矢理でも、読んだり観たりする場合がある。この「溺れる魚」は半々って所かな、、。万引きで捕まった女装癖の警察官とかね、ゲイの写真家や、これまた女装趣味の舞踊家とか作品の中で沢山登場するんですよ。(でもそのものを期待してるんなら、読まない方がいいかも、、これは完全にハイパードタバタ警察小説なんだから)それに映画化される方じゃあのIZAM君もでるそうで、、。 |
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「原作」と「映画」の関係はこれぐらいがちょうどいいかなと思う。近緒は両方を知っている訳だけど、この作品の場合は、小説・映画どちらを見ていなくても残念だとも思わないし、逆に片方を見たからと言って一方に失望するわけじゃない。かといって映画と小説が全然別物という訳でもない関係ね。 「映画」制作サイドは、原作小説の何かに惹かれてそれを映像化しようとするのであって、それは原作の文章を一つ一つ映像で置き換える必要には繋がらない。もっと言えば「惹かれた」部分でさえ、必ずしもダイレクトに映像で表す必要はないのだと思う。勿論、それはその「映画」が成功しているから言える事だけど、、。 実は近緒、堤幸彦という監督をこの作品で初めて意識した。「ケイゾク」は知ってたけど、私にはこういう「今ぽい」手触りの映画の作り手さんは「かんべんして」というところがあって、、。でも「溺れる魚」は、この監督さんの美味しいところが実にすんなり味わえてとってもお気に入りの一本になった。 映像が綺麗ですよ。とにかく映画は「ダーク」でも「さわやか」でも「純ブンガク」でも、なんでもいいから綺麗にとれなくちゃ。 IZAMと窪塚洋介のからみシーンは「高級化粧品のCM」って感じ、、いいよ、、この二人で実際にそれが出来るって事がね。(でも窪塚洋介とIZAMの目の形は凄く対照的だね。猫の目対鹿の目みたいな。IZAMがエロな女装なのに、窪塚洋介は違和感のない女装のくせして、その実態にエロが全然ないのと共通してるな。) それにしても窪塚洋介、不思議なキャラだ、、第一、走り方が奇妙だし、(ケムール人走りと呼ぼう)、、これも監督の演出?「フェチが高じて女のげっぷのにおいをかぐ男」の登場のさせ方なんかは、確かにこの監督のセンスだと思うんだけどね。センスといえば人物より空白が多いカメラアングルなんかもね。こういうこと、やる人は結構いるんだろうけどそれを「成立」させる人は少ないよね。それが堤幸彦という監督の魅力なのかな。あとは椎名キッペイ、彼のカッコよさはまた今度、映画をあらためて。 |
I
saw a movie.
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阪本順治監督のKTを見た。男の世界を描く事にかけては、評価の高い監督だから結構期待していたのだが、つまらなかった。本来、この「Isaw」からは選外作品なのだが自分自身の気持ちの整理の為に、記載することにした。
映画としてはこの作品、いくらセミ・ドキュメントの形式をとったとしても、KCIAに自ら協力していく自衛官富田・佐藤浩市の内的動機が台詞で空しく語られるだけで、観客に何も伝わって来ない事が致命的だったと思う。 最近、ある地方都市がどういうつもりか市のフィルムフォーラムで「シュリ」を上映した。「シュリ」は韓国の北に対して取っていた太陽政策がまだ評価を得ていた頃に作られた映画である。 |
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I
saw a movie.
監督:ヘクトール・バベンコ
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南米のある国で刑務所に入れられた政治犯バレンティンは、ホモセクシュアルのモリーナと同房になる。接点のない二人の心が、モリーナの語る映画を媒介に近づいていくが、同時に同房の二人の関係は拷問に口を割らないバレンティンから情報を引き出す策略にも用いられ、、。 遅ればせながら「蜘蛛女のキス」です。ホモセクシュアルを描いたというより、人間を描いた映画ですね。それにしてもバレンティンとモリーナの「初夜」の切なさ優しさ、、。「愛してしまってご免なさい。」これほど肉欲から離れた言葉が私たちに吐けるかしら、、。そしてあくる朝の映像、特に満たされた顔つきのバレンティンが壁際にもたれかかった辺りに陽光が射し込み、モリーナがその横に寄り添う場面は「美しい」とも言えるシーンでした。ラストシーンはもう幽玄の世界ですね。死んでゆく時はあのような夢の中でフェードアウトしたいものです。生きている間は、さんざん苦しんできたのだから、、。 |
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I
saw a movie.
監督:王家衛(ウォン・カーウァイ)
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「苛烈な夏の暑さの下、愛されない乾きをもってブエノスアイレスを見た。」な〜んてね。 大滝の俯瞰があってタンゴが流れた時点で参りました。やっぱり映画は「才能」です。(「才気走っている」という関連フレーズも世の中には有りますが、、。) オッ、白黒ですか、デビットリンチを思わず思い出しちゃいました。色が付き始めると現実味が増す仕掛けなのかなぁ。光・色、ちょっとこだわり過ぎかな(気持ちが離れている時に画面を見ると目がチカチカしちゃうよ。観る者の心を鷲掴みにして絶対にそれを離さないという映画じゃないんだから。)特に血の赤と、人口灯の青と橙が好きなんだね。これは撮影監督クリストファー・ドイルって人の得意技なの?ウィン達がサッカーかなんかの賭け試合してる時の撮影なんて一コマ一コマ前衛写真みたいな感じだけど映画でそこまでする必要あるのかな?でも「香港が俺の脚の下にある」とレスリー・チャンに言わせて、本当に香港を上下逆に撮る稚気にはニンマりさせられたけど。 で物語の方へ、、。ウィンとファイ、この二人きっと頭悪いんだろうな、、。ウィン(レスリー・チャン)、男の「悪女」かぁ、、。(ありそうでなさそで、、、結論、現実にはいないね。でもこの映画じゃ一応成立してるかな。でもなんでホモセクシャルの二人にする必然性があるんだろうね。お洒落だから、、?) で、困ったちゃんは情けが深過ぎるファイ(トニー・レオン)の方だったりして、、。でも彼が南米最南端の岬に向かう青年チャンの為に声を録音するシーンは、とてもとても可愛く抱きしめてあげたかった。なんだか今回、ため息ばかりだね。 でも、ブエノスアイレスがヘテロの物語だったら成立するかな。無理だろうね、やっぱり、、。男女の愛の葛藤に、ホモセクシャルの人間の孤独を接ぎ木して見せる映画か、、。これがこれで、見る人間にとって意味のある物語として成立する事自体が凄く悲しいね。(わたしゃ、そんな高尚な部分じゃなくそのマンマの興味で見てたんだけど、、トニー・レオンがレスリー・チャンとやる時に手に唾をつける場面なんかはフムフムなかなかって感じで、、でもメジャー映画じゃこれがギリギリかな。) イグアスの滝かぁ、、結局、ファイは一人で見に行って、チャン(チャン・チェン)は南端の灯台でフェイの録音されなかったテープを聴くわけだ。この映画「恋する惑星」から遠く離れているっていう評価があるみたいだけど、ファイがチェンの故郷の台北に帰ってからは、まったく同じモードになるじゃない。 結局 ウォン・カーウァイはここに戻ってくるんじゃないかな。 「チャンの写真を一枚盗んだ。会おうと思えば又あえる。」ってね。 追記 ザッパの音ってこんなに聞き易かったけ。信じられないね、、。 |
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映画の「映像美」は、何処に宿るのだろう。完璧な構図と色彩を持つ静止画像が連続したからと言ってそれが美しいシーンになるとは限らない。 絶世の美女を映し続ければ美しいシーンになるとも言えない。逆に美しい映画の一シーンを切り取ったからと言って一枚の優れた絵画になるわけでもない。 音・動き・視点の移動、、。ライティング、、肉声。それら全てが相まって美しい映画が生まれるのだ。 それ故、映画を「総合芸術」と呼ぶ考え方もあるのだろうが、それも又ちょっと違うのではないかと思う。先の例のように、それぞれの分野の優れた芸術が寄り集まっても「良い映画」になる訳ではないのだ。第一、そのような言い回しは個々の芸術の深みを知らなさすぎて失礼だ。 では「映画」や「映像美」を成り立たせているものは何か、それは一個人が抱く、「世界」「物語」を捏造しそれをこの世に送り出したいという妄執であろう。その妄執が「美」を吸い寄せて行くのである。 クリストファー・ドイルとリー・ピンビンが切り出した映像の美しい事、、。チャウ(トニー・レオン)と、チャン(マギー・チャン)が乗るタクシーですら絵画的である。そして白いワイシャツとネクタイの美しさや黒髪の美しさ。絵画的に計算され尽くしたチャイナドレスの柄と背景の色彩の組み合わせ、、。 あるいはパーツフェチ、、女性美を感じさせるフェテッシュシーンの映像としての切り取りの旨さ。そしてそれを成立させるマギー・チャンのほそく長い首、熟成から爛熟に至る一歩手前の腰のラインが、チャイナドレスのエロチシズムと融合する、、。 この映像美がくどすぎると感じられる方には、その美の濃厚さゆえに嫌悪感さえ感じられるのではないかと思う。確かにあまりに「持って回った」表現は、気取りとして鼻につく部分もある筈だ。 特にこの映画で多用される煙草の紫煙などは、映像的には使い古されたモチーフである筈で、これほど頻繁に映し出されるとうんざり感を感じても宜なるかなである。まあ、そこがウォン・カーワイ監督らしいと言えばらしいのだが。 さて、ストーリーの方だが古典的と言えば古典的なラブストーリーである。 この映画では、お互いの伴侶の不倫という裏切り行為にあった男と女が、それでも一線を超えられないという縛りの中で、より強い恋心で惹かれあっていく姿を描いていく。しかしウォン・カーワイ監督は、それぞれの配偶者を決してスクリーン上に映し出さないという上手い切り口を設定している。 更に主人公達が、浮気中のお互いの夫や妻の役割を仮想的に演じてみたり、別れ話の切り出し方の練習をする中で、真実と虚偽がない交ぜになり、その仕掛けが、この二人の「恋」をより濃厚に描き出して行く。 近緒の中ではこの映画、ブエノスアイレスと肩を並べるウォン・カーワイ監督の代表作になっている。あなたもウォン・カーワイ監督の「気取り」に我慢ができるなら、この映画で映像の美しさ、、そして映画の官能を十分に堪能出来るだろう。 PS 私がこの映画で、違った意味で好きなのが、チャウが廃墟の寺院の建材に開いた穴に「秘密」を封じ込めるシーン。この姿を僧侶が眺めおろすカットは、ウォン・カーワイ監督の即興演奏みたいな感じもするけれど、それが出来るこの監督の感覚が好き。この感覚があるから音楽に「キサス・キサス・キサス」を選んでこれるんだと思う。 小道具係からアーピン役に抜擢されたというスー・ピンランの起用理由が「表情が60年代的である」という事らしいけど、これもこの監督にしてこの映画ありという意味で、大いに納得です。 |
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I
saw a movie.
監督:チェン・カイコウ
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「ブエノスアイレス」のレスリー・チャンより「さらばわが愛 覇王別姫」の彼の方が綺麗。という噂を聞きつけてビデオを借りて観た。そんな不純な動機だから、見終わってから結構「重たい」ものがあったこの作品。第一、わたしゃ〜、京劇のピィヒャラ〜ドンチャンカンが余り好きではないというか、甲高い音や声を聞いていると頭が痛くなってくる質なのだ。でもこんな事、書いちゃ失礼なんだろうな。だって人間描写・社会批判、映像美どんな角度で観てもこの作品は「立派」なんだもの。 でも書くぞ。ノーマルタイプのレビューや頭寒足熱ならぬ股間寒頭熱評論は近緒にゃ関係ないのだ。まず9歳の小豆子がとっても「エロス」だったゾ。京劇の養成所に投げ込まれて「イジメ」に合いそうな小豆子を庇ってやる兄貴・小石頭と小豆子の関係は、とても「温く・ぬるく」ていいんだ。罰を受けた小石頭が凍えそうな外庭から帰って来た時に小豆子が上着を掛けてやるシーンや、二人が半裸のまま抱き合って眠るシーンなんかは、、下手な大人のラブシーンより余程、情感が溢れてて「オンナ・オトコ」してるのだ。 で、小豆子の3段階変身の2番目の少年時代。これは、彼が精神的にも肉体的にも「女形」を強制的に自覚(何という倒錯した表現)させられる重要な部分なのだけれど、私は観ていてちょっとしんどかった。(痩せぎすの坊主頭の子役の少年が、私に引き起こすイメージがちょっと辛かったのだ ) でも、小豆子が養成所を脱走した先で、その時代の京劇のトップスターの技を目の前にして「涙」を流すシーンは、このだらけきった時代に生きている私には吃驚する程、新鮮だった。小豆子と一緒に抜け出した子どもが「あの人はここまでなるのに何回叩かれたのだろう。何回叩かれてもいい。僕もあんなふうになりたい。」と呟いたシーン、そしてそんな彼が折角、舞い戻った養成所で外で買ったサンザシを無理矢理食べてから首を吊るシーン、この二つは強く印象に残った。 このエピソードは、映画の中でも成長した小豆子が京劇の花形女形・程蝶衣(レスリー・チャン)となった後も重要な要素として繰り返し登場してくるんだよ。 そして同時にその要素こそが、第二次世界大戦、文化大革命の大きな時代のうねりの中で京劇俳優の彼らが、時代に翻弄されていく姿と密接に関わっていくのだ。でも、これはこの映画を観られた貴方が感じられれば良いことで(私には特に文化大革命あたりの捉え方が勧善懲悪じみて少し単純すぎるような気がして馴染めない、、)ここでは触れる必要はないだろう。 問題はレスリー・チャンだよね。確かに美しい。彼の虞姫の京劇メイク姿も美しいし、程蝶衣の時の男性としての彼も美しい。しかし、この美しさは、精神的に訓練され制御された「程蝶衣」を演じたからこそ出せる「美しさ」なのだろうと思った。「ブエノスアイレス」との決定的な差はそこにあるんだよね。 もっとも、日本軍に捉えられた兄弟子の段小樓(チャン・フォンイー)を救出に出かける前の娼婦・菊仙(コン・リー)と恋の鞘当てを演じるレスリー・チャンは、オンナの「いけず」を見事に演じてニヤリとさせられる俳優振りだったけど、、、。彼ってやっぱり地力のある俳優さんなんだろうな、、。 PS 人間の本性が次々と露見していく設定になっているこの映画の文化革命時を中心にしたラスト近くの展開は、好き嫌いが別れるみたい。近緒には、この映画が、ある意味で段小樓を巡って菊仙と程蝶衣が愛憎を越えて人間的な関係を構築していくプロセスを大切にした映画だと思いたい部分があるのね。それがこのような展開にされると「しんどく」なるのだ。そしてその悲劇的な展開から十数年経って、再び段小樓と程蝶衣に覇王別姫を演じさせて「時の流れが全てを解決してくれる」と思わせておきながら、、あれはちょっとないよなぁ、、。 |
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I
saw a movie.
監督:リドリー・スコット
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野戦シーンも又、進化する。投石機や火矢等といった原始的な武器が、近代兵器に勝るとも劣らない迫力で、映画の中で描かれるようになったのは最近のCG技術のお陰であろう。この映画の冒頭などスターウォーズ等の戦闘シーンにひけを取らない。又、『グラディエーター』は、殺戮行為が叙事詩となりうる「仕組み」をよく理解し展開した映画でもある。 リドリー・スコットは、私の大好きな映画「ブレードランナー」を作ってくれた監督であり、彼の作品は「異境・闘い・孤独」の3点セットで人間が描かれる場合が多い。『グラディエーター』もやはりこの3点セットを保持しながら、突き抜けたダンディズムを私たちに提示してくる。(ダンディズム?エイリアンのリプリーだって、実はそうなのだ。) キシマス将軍(ラッセル・クロウ)が、とにかく渋くて堅実でカッコイイ。ラッセル・クロウは大男でもないし、筋肉隆々というタイプでもない。そんな彼が「周囲の人間達を惹きつける将軍」役をこなせるのは、その抑えた演技と、「内から放つ人間の精神力」を表せる彼の風貌のお陰だろう。『LAコンフィデンシャル』の時のバド・ホワイト刑事の危ういキュートさを残しつつも、ラッセル・クロウは確かに渋みを増している。 それが、リドリー・スコット監督の提示する人間の姿に実に旨く填っているのだ。 「戦い・孤独」はラッセル・クロウと、マキシマスを養成する元剣闘士プロキシモを演じるオリバー・リードで完璧だとすると、残るは「異境」の部分。1982『エイリアン』『ブレードランナー』はいわずもがな、1985『ブラック・レイン』の東京でさえあれだけの異世界を作った監督なのである。『グラディエーター』の場合は古代ギリシャ・ローマ世界そのもの(特にコロシアム)が、異世界として充分成立している。これ程のリアリティのある古代を復元しながら、その実、ハイパーリアリズムに共通するような透明なゆがみを演出しており、観客をどこか夢見心地の気分にさせてくれるのだ。(SFXが充実した時代に映画を見れてホントによかったと思う。) 「剣とサンダル」ジャンルだという事で、この映画をパスしてしまった人(実をいうと近緒がそうなのだが、、。)絶対、見て損はないですよ。とにかくカッコいい映画なんだから! |
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I
saw a movie.
総監督、脚本:庵野秀明
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へそ曲がり近緒、今更「エヴァ」で御座います。今コラムを書くと、、「エヴァ」は時代とシンクロしたアニメだそうだから、当時の時代考証になるのかしら(といっても数年前の事に過ぎないのだけれどねぇ、今は全てがドッグイヤーのご時世だから、もう古ぼけて見える?)。実は近緒、「エヴァ」がTV放送されている時、リアルタイムで一度だけコレを見たことがあるのよね〜。黙って見過ごして、それからブームに火がついてあれよあれよいう間に、一時代を席巻するまでになっちゃったんだけど。 今となってはアレはやっぱり熱病。「コミュニケーション不全」をテーマに扱った表現は大昔からあるし、それは「万人の病」なの。 で、偉そうな前置きはさておき、このコラムで扱うのは二本の劇場版エヴァです。この映画を語る時、所謂「オタク」の考察は切り離せないのだけれど、Isawでも取り上げた「ブリスター!」などを見ていると、オタク論もまた時代と共に変化している見たい。でも共通しているのは結局「人と人、人と世界のコミュニケーション」の問題なのよねぇ。ただそれを表現としてぶち上げる時には、監督の手法というか人間に対する「まなざし」の違いが作品に出てくるのだろうと思う。エヴァ関連の考察は、それこそ膨大な数に登るのに違いないし、他のどのアニメ映画よりも哲学的な考察が大いに違いないと思う。(不思議な事に、いや必然かな?エロ系も莫大な数だろうし、、。)そう言った映画に今更、コラムを付けても仕方がないんだけどね。 それでも「エヴァ」は、旬を過ぎても見て損はしないアニメで、一種の「カルト」の地位は既に確約された存在だろうと思う。まあ、映画の全般についてはそういう括りで充分かな、、。 後は、近緒が面白く見た所だけを書いておくね。 まずは「エヴァ」という造形と設定について。エヴァを見て、「一瞬、巨大ロボットのように見えたのに、ホントはこれって、いかがわしくって禍々しいモノではないか?」という初印象は誰もが感じたと思う。もうその時点で、エヴァは、独自の「世界観」を作り上げていたんだね。「アニメは形、形が世界を造る。」これは全てのAnimeの第一原則です。 次に暴走したエヴァの使徒を喰らうシーンを見た多くの人間が、エヴァ世界が、私たちが共有するインナーワールドにどんどんくい込んでいく事を予測してしまった筈だ。インナーワールドは不思議な吸引力を持っていて、その世界に取り込まれた人は、そこに見えるモノに対して必ず「それは何か」という「意味」を探そうとする。例えば「家族幻想」とか「性幻想」とか、でも、そこには明確な答えなどないのだ。表現する側の人間はその事を良く知っていて、実は「意味」よりも、その中に居ること自体に重要性を見いだしているものだ。 ただこの監督が強力だったのは、インナーワールドの仕組みを熟知しながら、その世界のエッジ(刃)を立てようとした事だろう。「Air」のアスカが9体のエヴァシリーズを相手に戦うシーンは、アスカの表情を含めて相当に突き抜けていたし、彼らに陵辱される弐号機と中でシンクロしているアスカは、そのまんま「レイプ」されている少女の描写と同義語だ。その後の弐号機の内蔵や脳漿がはみ出した残骸もシュールだったし、飛び立っていく9体のエヴァシリーズにさしのべて届かない弐号機の手の描写もやるなぁ、、。と感心するばかり。それら全てが胸が苦しくなるようなアニメならでは表現だった。 で、こんな有効な手法を持つ人が、なぜあんなお手軽な実写挿入や「オタク」批判を露骨に劇場映画に導入するような事に手を出したんだろうね?まあ、観客の気を持たせるような思い切り長い「静止シーン」を映画の中にわざと挿入する人だから、性格が「意地悪」なのは判るけど、(ちなみに近緒は「意地悪な人」は嫌いじゃない。ただしその人が頭悪い場合は×だけど)。お陰で「まごころを、君に」では、シンジの内宇宙の描写が長くて長くて(巨大綾波なんかも、あんなに長時間露出するのは、前後の描写が素晴らしいだけにアニメ映画の演出としては×だね。しつこい。)。 映画の中でシンジの心の逡巡をあれだけとろくてねちこく描いて見せて、それで最後にアスカに「気持ち悪い」って言わせるんだから、気持ち悪いのは、「監督あんたも同じだろう」って思っちゃうのね。 でも近緒は「突き抜けオタク」を目指しているから、こんな監督や、表現があり得る事を受け入れるけれど。あれで傷ついたオタクも多かったんじゃないかな〜?そんな事、アニメ映画を作る一監督がやらなくったって、遅かれ早かれ彼らも現実の中でもまれちゃって気がつく所は気がつくんだから。(それまで周囲の人間が気分悪いだろうけど、人間みな迷惑かけあってるから相殺だよ。)映画は木戸銭ナンボの世界だよ。エロ映画作って、エロな映画を見たがる観客を軽蔑するのかい? ああそうか、、。この監督が「共生虫」「希望の国のエクソダス」の予感のあった村上龍と映画「ラブ&ポップ」で合流したのが今となっては何となく判るな、、。でも作り上げたものを見てる限りには、監督は「オタク」を客体化、出来ない人だと思うんだけどなぁ。 PS 「オタク」って言葉、近緒は大嫌い。昔「ネアカ」「ネクラ」って言葉もあったけど、そんな言葉を平気で使う奴は「頭ワリー」って思ってるのよ。でもね。言葉は「時代の気分」を映しているんだよ。それが解体されるまではね。 |
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I
saw a movie.
監督:三池崇史
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三池崇史監督と馳星周の組み合わせなのだ。見ないわけにはいかない。私のレビューに取り上げないのは嘘だ、、。だが、、、失敗なら許せる、、でもこの番狂わせぶりは一体なんなのだ。日本のトーキョー。マーリオ(TEAH)を中心に肩寄せ合ったラテンな人々の嘘寒いノリの路上パーティシーンで、三池監督の作りだしたカオスのすべての薄っぺさが露呈する。 映画「漂流街」には、三池の良さも、勿論、馳の「暗黒」も反映されていない。只の「身内観客」だけに通じるおふざけ映画である。三池崇史の敬愛すべき「バカ乗り」が、「DOA」で最高峰だったなんて悲しいぞ。 まあ、ちょっと見られるのは帰ってきたアンパンマンこと吉川晃司の凶暴ぶりかな、、己のへまを問いつめられて逆切れし、自分の組事務所で拳銃の乱射、台詞がいいよな「ま、成り行きだよな。」ご名答!! 及川光博だって悪くはないんだ。あの切れ長の三白眼を目一杯使ってたし、、。はまり役というより「填め役」ですよあれは。 結局問題は、TEAH(テア)とミッシェル・リーのあまりの下手ぶりにある。だっていくら無国籍映画ちゅうたって、日本映画である限りには例の「国籍不明の日本人ゴルゴ13」なんだから、こんなに随所で映画のリズムをかき乱してちゃ、ただでさえ「荒唐無稽ぶりが命」の三池演出の「変ぶり」が空中に浮いてしまうじゃないか。 三池監督、「DOA2」あたりから、悪のりしすぎのCGを多用しはじめて、危ない玩具を手に入れちゃったなぁ、、この人は、、とは思ってたんだけど、、。 近緒は、柄本明のなんだか遊びぶった演技って気障りで仕方ないんだけど、三池の遊びもちょうどその臨界点に差し掛かりつつある見たい。「あんたホントは何にもないんとちゃうん。」そこんところで見透かされて石投げられるかどうかのギリギリ所まで来てる感じだよ。 まあ最後の山崎(野村祐人)とリク(テレンス・イン)のラブラブシーンだけは、馳のテイストも三池の乗りも良く出たシーンだったけどね。 ああ、口直しに三池監督の「不動」なんかを借り出してもう一度見てみようかなぁ、、。 |
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I
saw a movie.
監督:三池崇史
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ミーハーな近緒は、かっこ良すぎる椎名桔平(あの口ひげは評価が別れる所だろうけど)が主役のこの一本が大好き。三池作品の中でも「テーマ・ファッション・アクション」のブレンドが比較的ノーマルで万人受けするのがこの時期の作品じゃないかなぁ。 ああそうだ。このレビューは三本セットだっけ、「新宿」だけを誉めたらあかんねんなぁ。セットだとすると、なんと言っても触れとかないといけないのが田口トモロヲ、、 彼って「切れた・壊れた人間」を演じる時ちょっと「作り過ぎ」な人だと思うけど、三池作品の中核をなす人物である事には間違いないものね。トモロヲ演じる台湾のチンピラ成り上がりボスも、一回でもこの映画を見てしまったなら、彼以外にはどんな俳優さんも絵になって浮かんでこないという濃さ。特に彼が殺した自分の父親の幻の返り血を執拗に洗うシーンは本当に「痛そう」。 あと三池映画に共通するのは硬派の男色ね。三池監督、特にこの「ソース」が好きみたい。それにプラス、映画の中でいろんな「変態」を味付けに使うのも好きみたいね。「新宿」でも「男色」シーン以外にも「シーメールもどき」が出てくるの。 この人物、設定上はこの人物「女装した男性」みたく感じる筈なんだけど、腰の細さから考えてもどう考えても「女装者を演じる女」か、「おかまより完成度の高いシーメール」に見えるんだよね。アメコミの世界にしか出てこないシーメールイメージってのかなぁ、、タイトなホットパンツの股間に浮かびあがてるオチンチンのシルエットの立派なこと。 それを桔平が後ろから撫で上げるシーンなんかを妄想して、近緒思わず赤面してしまいましたわよ。ゴックン、、えっと、映画のほうはね、、、「新宿」は破綻なく面白いのよね。近緒は桔平が台湾に潜り込んで違法捜査する下りと、ぐれた弟を叩き直すエピソードが一番好きなんだけど。何処をとってもみんな美味しい、三部作一のお勧めです。 『極道黒社会 RAINY DOG 』(1997) これは「三部作」に限らず三池作品の中では、変奏曲バージョンですね。なんだかヴィム・ヴェンダースの作品を思いだしちゃったりして、。それに撮影監督は台湾の方(李以須)だとか。色使いとか視点が日本のそれとは微妙に違うのよね。なんだか懐かしくて奇妙に清潔な感じがフイルムから感じられるのよね。駅に降り立つ殺し屋とその息子のシーンなんて、同じロケーションで日本人が撮っても全然違う物にみえると思うよ。 それに哀川 翔、、うーんこの人は、未だにどう言ったらいいのか判らない人なんですが、、「極道」ではこの人のいい一面がでてますよね。それとか現地でのキャストのみなさんも、ヒロイン役を除いて皆いいですよね。 個人的には、殺された兄の復讐に燃えるエリート役のあちらの俳優さんが、精神のバランスを崩していってやさぐれてしまうのを、短い時間で演じきってすごく好感を持っちゃった。、、でこの映画にもう一人だけ登場する日本人が田口トモロヲなわけ、この人、前回「新宿」の役所とは全くちがう人を演じるんだけど、やっぱり「田口」なのね。完全に演じ分けているのに、彼自身の「底」が同じでそれが濃すぎる為に違った風にみえないのね。可哀想というのか凄いというのか、、。 『日本黒社会 LEY LINES』(1999) はじめ「裸足のゲン」が始まったのかと思っちゃいました。「日本」は三池監督が青春映画もやってみましたって感じ、、。実は近緒、若き主人公達の対抗人物としてあの「無能の人」がスクリーンに登場した時点で、この映画半分あきらめてしまったのです。 この人は三池の世界に、似合っているようで実は全然別の世界の人だと思うんですけどね、、、、。たとえば三池作品には飯を実に美味そうに食べるシーンが凄くパワフルな感じで描写されるのね(何故か和食はほとんどでてこない)。この「無能の人」もラーメンをいやという程たべるんだけど、それだけなのね。この人の場合、器の中はたぶんソバでもうどんでも一緒でね。(言っちゃなんだけど哀川翔はちゃんとパワフルにラーメン食べるんだよ。もっと後には竹内力といわくありげな「きつねうどん」も食べるんだけど、、) それにこの映画の裏の軸になるべき田口トモロヲさんも(あの設定であっても)年齢制限でちょっと無理が出過ぎ。ホントこの「日本」、三部作の締めとしてはどうなのかなぁ、、。でも三池監督、片一方ではDOAなんかで「悪ふざけ大将」やりはじめているし。この監督の変わって行く過程がねぇ、、近緒にはわかんないのよねぇ。 でも三池監督が拘るいくつかの軸は最後まで変わらないみたい。たとえば多国籍というより無国籍状態という世界観が、いつも変わらず映画の中ににあるという事ね。 「アメリカは人種の坩堝じゃなくてサラダボールだ。」というしゃれた表現があったりするけど、やっぱ現実はアメリカに限らず何処の国でも「溶けない坩堝」だろうと思う、、。食うか食われるか出ていくか居残るか、、その中での「暴力」であったり「痛み」であったりするわけでね。自分の居場所を苛烈すぎる程に求めるエネルギーの描写?これが今の所の三池作品に対する近緒の「見立て」なわけ。でももっともっと凄い三池作品が観たいよ〜。 PS こうやって見ていくと三池監督が馳星周と出会わないわけがないのがよくわかるんだけど、二人が映画で出会おうとした時には、もうすでに三池は「変な遊び」を覚えすぎていたみたいね。せめて「新宿」の肌触りで「漂流街」を取ってくれていたらと思う人間は少なくないんじゃないかな。 |
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I
saw a movie.
監督:三池崇史
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あの格言おじさん(シーザー武志)が渋い兄貴を!!三池監督ってどこか世の中を面白がって見ている視線があるのよね。それでもって拗ねているわけでもない、大人になったやんちゃ坊主ぽい所が大好き。「フルメタル極道」の描くやくざの世界、のっけからなんてお馬鹿なんだろう。これぐらいの(馬鹿さ加減)で飛ばしている時の三池作品は、安心して見ていられるし、とにかく楽しめる。近緒、三池作品のデッドラインは「ここなんだ」って、この作品を見て発見したよ。 主人公であるへたれやくざのうじきつよしが後半サイボーグ化して組織になぐり込みをかけるんだけど、この監督の事だから必ず遊びを入れるのね。たとえばメタル装甲が完全じゃないから拳銃に対する防御姿勢が「アラ、イヤーン」ポーズになるわけ。それを見て、今まで変身した先輩の戦いぶりに感動してた後輩が「はぁ?」って表情をつくるのね。 このシーンで判るように、この時点では三池監督、映画の中で観客に自分の悪ふざけを「説明」しようという意志がまだあるわけなのね。 最近の三池監督はもうこの説明をしなくなってる。だからはまる時には余計な説明がないから、すごく映像的にドライブするんだけど、「勝手にしてよ、もうわかんない。一人で遊んでなさい。」状態になると、映画自体がとんでもないの。 「フルメタル極道」は、ちょうどこの「悪ふざけ」の塩梅が多いか少ないかの分岐点になる作品なんじゃないかな。 まあ三池監督については、これだけにしておいて後は「フルメタル極道」の見所をランダムにご紹介。 もしもグラムな矢沢栄吉がいたとしたらこんなファッションするんじゃないかというマッドサイエンティスト平賀玄白(田口トモロヲ、キャ、あなたという人はもう)がすてき。この平賀がうじきに与えたサイボーグ体のチープな造形がこれまた、気持ちいい。 その他、うじきの正統派極道・土左さんのちんちんへの憧れ、あるいは憧れの彫り物、変じてメタル装甲への彫金。(田口トモロヲが諸肌脱いだうじきの背中に馬乗りになって電気ドリルで入れ墨ならぬ彫金をするシーン、本来コミカルな場面の筈なんだけれど妙にエロチック) うじきが復讐を果たして長ドスではねたボスの生首が、サッカーボールよろしくドキューンと盛り場のネオン瞬く夜空を飛んでいくシーンは下手な劇画作家だって描かないって。このチープさ加減が大好き!!(こういうビジュアルは三池作品に良く出てくるよ。) 映画後半は、土左さん一家の墓がある海岸で、うじきの修行僧のごときルンペン暮らしが延々と、、。一体この展開はなんなんだよ〜。と思っていると、土左さんの女(中原翔子)がやってきてうじきの純情話に展開。でこの女が土左のかたきを討とうと、ゴルフのキャディさんに化けて突っ込んでいくんだけど、あえなく捕まえられるわけ。(この女優さん、ほんとに色っぽい。) そんでもってSM調教されちゃうのね。ボンデージ衣装を着せられボールギャグをかまされ、、うーむ、、すっごくいいのね、このシーンが。なんてのかなぁ、、本物のやくざが、アダルトショップで買ってきた小道具で、拉致してきた女をいたぶっているっていう感じのリアル感がすごくあるのよね。(三池監督の作品はこんなシーンがおまけみたいに一つは必ずあるよ。どれも凄く感じる。たぶん女優さんの起用が巧いのと、男色への理解の深さが、女性への加虐のリアルさを生むんだろうなぁ。) この土左の女、最後に自分で舌を噛みきって自害しちゃうんだけど、これ又、三池監督は真正面からこのシーンを撮ろうとするのね。絶対、トリックというか不自然さが映像的には出るんだけど、この監督がこんなシーンを撮ると何故か成立しちゃう訳。力業というのかエネルギーというのか、、(近緒がこの監督に惚れるのはこの部分なんだけど)凄い。 そして衝撃のラスト。(人によっては意味不明とも、、、。近緒も、「こんな感じにして終わっときゃまあいいか。」くらいのエンドシーンだと思うけど。) PS この映画、うじきが実に「いい人」で、無茶苦茶はまり役でいう事なし、でも個人的に注目なのは、胴体上下まっぷたつにされながらも最後まで極道してた北村一輝。日本黒社会でも主役はってたけど、こっちの方がいいかも、黒社会の主人公を演じるのは、若い人にとっては素に近いぶん、誰がやっても難しいんじゃないかな。 この「フルメタル極道」では典型的な「若き極道」っていう空想的なモデルが先にあるから、彼はそれをターゲットに好きにやってたみたい。でその分、彼の魅力が十分に味わたように思う。たとえば「本当は優しいっていう顔をしながら、結局自分の事しか考えていない冷血漢」なんてのは、なかなか今若い人には演じられないのよね。北村一輝、近緒注目の人です。 |
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saw a movie.
監督:三池崇史
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映画を見て「元気」になるのは久しぶり。しかもそれがあの三池監督なんやから、むちゃむちゃ嬉しいねん。(読者の皆様方へ、近緒は時々おーさか弁でモノを書きます。おんなじおーさかに住んでるもんはわかりはるとおもうけど、おーさかべんいうても地域色があって微妙にちゃうんやねぇ。例えて言うたら河内弁ちゅうても河北と河南は、又ちゃうしな。所でこの映画のロケーションの「岸和田」ちゅうたらなんやろ、、。市内に住んどるもんからみたら田舎・ヤンキー・喧嘩・怖い・タマネギ・阪和線・南海線・だんじりいう感じか、岸和田から市内の「キタ・ミナミ」みたら、柄悪い・やくざのおっさん・ふりょー、、なんや「田舎」抜いて一緒やん、、、。) 前々から鈴木紗理奈は、ただ者やないと思ってたど、やっぱりただ者とちゃうかってんね。演技しても「素」に見える。「素」に見える時はやっぱり素。見てるもんに下手とか上手いとか思わせないすごさ。これ本気で誉めてんねんで。 それに三池監督、「新宿」以外に「岸和田」撮れるやん。(後で調べたんやけど監督おおさかの出身らしい。)「男」以外に「女」撮れるやん。監督、「青春もん」も、撮ったらうまいでって聞いてたけどホンマに巧いやん。 でもやっぱ意味不明の「フラメンコシーン」が入る所は三池監督やんねぇ、、、こんなに計算した商業映画が撮れるのに、やっぱり「崩したくなる」のは、もう病気としかいわれへんわ。最後辺りのユウジの「脱糞と落雷死」なんかの設定とか撮り方に怒ってるまじめな観客もいはるんやないかなぁ? でも映画ってこんなにリアルでええんか。リイチが自分の家で寝っころがって見てるテレビからはオカハチローにハナキキョウの声。どの画面とってもちょっと前のおおさかの空気があるんやもん。ほんまに三池監督、達者に映画が撮れるンや。達者すぎて映画の中で遊ばんと心が落ち着けへんってゆうてる見たい。 車のクラッシュシーンなんか見てると「俺は日本映画伝統の小喜劇も撮れるんやで」という三池監督の声が聞こえてきそう。車の激突の余りのショックに脱糞し仲間にからかわれたユウジの「ちゃんとションベンもしとるわ。」のなさけな系の切り返しは、完全におおさかのヤングメン達の実態ギャグやしね。 近緒、三池監督の「バイオレンス」も好きやけど「センチメンタル」も好きや、、、。この映画の「分度器」と「写真」の小道具の使い方、、上手い伏線はりはる、、「分度器にも幸せあるん?」中島ひろ子のこの台詞、泣いたやんほんまに、、。岸和田少年愚連隊 血煙り純情篇、、ホンマにおおさかのやるせない青春のあがきやん、ぼーはつやん。 ほんで鈴木紗理奈以外の出演者達もエエ味出してるんよ。千原兄弟、この映画見るまで「なんやのんこの子ら」って思ってたけど、ええ、ええわ。小鉄の「やべきょうすけ」おる、こんなゴン太おるでぇ。シーザー武志、三池映画の中では今の所、この映画のキャラが一番、Chikaのお気に入りやねん。北村一輝あんた好き、そやけどあんた「定」の役で遊んでるやろ。 中場利一、、なんぼ原作者やからいうてこんなんださんといて夢醒める、、ハッキリゆうてほんまもんのゴン太なんか近緒は大キライや、殴られたり脅されたりする方の身になってみ。 そやけどこの夏の終わりにホンマにええもんみせてもろた。みんなリイチ・リョーコ、ユウジ・マサエみたいに甘酸っぱくて切ない想い胸の内に抱えて大きいなってきたんや。 そんな感情はみんな醒める、そやけどそれは形を変えて胸の奥底に残っていくもんなんや。最後のラストなんてもう最高やねん。走るんやリイチ。 |
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I
saw a movie.
監督:井筒和幸
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井筒和幸と三池崇史、同じく「岸和田少年愚連隊」を撮っている。両者の間に、比較論は成立しないのだろうが、世界を切り取った時に生まれる「物語」を巡っての考察という面では両者の比較も有効かもしれない。 まずは「暴力」についての両者の違い。勿論三池監督のライフワークは「暴力」に生の迸りを見ることだから、井筒監督との暴力描写の密度は格段に違う。・・の筈だが、、、井筒監督の暴力描写も結構痛そうに見える(というか我々の日常感覚からそれほどかけ離れてはいないので、その痛さが想像出来る。)。 かたや三池監督は勿論、ばっくりと傷跡が見えそうな暴力描写なのだが、観客の想像域を違う方法論で飛び越えているので、気絶するほど痛そうに見えるけれど、どこか快楽のニュアンスを感じる映像描写なのである。 勿論、チュンバ(三池版ではリイチ)と小鉄を演じるアクターが、ナイナイと千原兄弟の差があり、彼ら自体の持ち味も大きく影響しているだろう。 矢部君はチュンバの「性」に近いほどの喧嘩への獰猛性を持ち合わせていない。喧嘩は体力ではなく「捨てられる量」で成り立つぐらいまでは、観客に納得させてはくれるのだが。 まあ、このあたりから両者の「青春グラフティ」の方向性が変わっていくのだろう。意外に思われるかも知れないが、思い入れたっぷりでセンチメンタルなのは三池監督の方だ。井筒監督の方は、闇の部分がなくいつも明るい、、。その明るさが、営々と積み上げられて行き、見る者に不思議な幸福感を味あわせてくれるのだ。一言で言えば「駆け抜けていく青春」と「永遠に続く事を夢見る青春」という切り取り方の差なのだろうか。 そして街としての岸和田、、両方とも十分に「岸和田」だ。長い旅行から帰ってみると自分がいつも住んでいる街が違った顔を見せてくれる時がある。 井筒監督の描く岸和田は現実からさほど遠くは離れないまでも、少しだけ明るい目のフィルターが入った岸和田である。三池監督の岸和田は、いやになるほど現実的だけど、ちょっと胸が騒ぐ岸和田だ。例えば夏の寝苦しい夜、、若者達に、街の何処かで何かがありそうなという予感を孕ませた「岸和田」。そして側にいて汗の臭いまで感じさせてくれそうな「リョーコ:鈴木紗理奈」がいるのが三池監督版岸和田だろう。 井筒の「岸和田」は昼の顔という所だろうか、特に阪和線の電車と踏切は余りにも見慣れた「岸和田」である。「おばちゃん、おれイカ玉な。」お好み焼きの注文のあまりにリアルな事よ。チュンバの叔父である笑福亭松之助のあまりにリアルな事よ。 そして「女」になるまえの少女である「リョーコ:大河内奈々子」がいる井筒版。 どちらもいい、、素敵だ、。もう「あの頃」を忘れてしまった、あなた。あの頃、何が大切だったかを思い出させてくれる2編です。 PS 岡村君、、この人は、、本当にお笑いの天然プロですね。ひょとしたら「お笑い」の歴史に残る人物なのかも、、。 |
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I
saw a movie.
監督:三池崇史
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これだから三池作品は見るのを止められない。三池ファンを自認する近緒も、最近立て続けに発表された三池映画の「困ったちゃん」ぶりに嫌気というか、飽きが来てたのが正直な所だったのだが、、。 「新・仁義の墓場」は今までとうって変わったようなような静かな一本。 結局、観客は、三池監督の「俺はこんなのも撮れるぜ」に付き合わされているような気もするけれど、、。 しかしこれほど「押さえに押さえた」三池監督も初めて。実在の狂犬やくざ・石川力夫を中心に話を構成していくのだから、三池監督、いくらでもはじけようがあったように思うが、主人公を殊更に貶めることも美化することもなく驚くほど等距離に、この人物の破滅ぶりを描き続けるのだ。 勿論、映画の最後の最後には「飛び降り自殺」という三池監督らしい一シーンが登場するのだが、このワンカットここに至るまでの押さえた演出がタメになって、本当にドキッとさせられるシーンに仕上がっている。 今までの三池監督の作品ならこの「ドキッとシーン」がほぼ映画の全体を埋め尽くしそれが悪ふざけのように感じられていた事から考えると、この監督、やはり全て判った上で映画作りをして来たのがよく判る。 年間4本も映画を撮るのは、自分自身が映画で「やれる」あるいは「やりたい」事を全部一通り形にしてみる為だったりして、、。 主人公・石松陸夫を演じる岸谷五朗。パンチパーマをかけて減量し、眉と額にそり込みを入れての鬼気迫る大熱演は、色々な場所で賞賛を得ているから、ここではこれ以上触れる事はあるまい。 PS 主人公の「大笑い、三十年のバカ騒ぎ」という辞世の句、怖いねー。 |
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I
saw a movie.
監督:三池崇史
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それなりの予算とビッグネームが揃えば、いかな三池監督でも無茶はしないという事なのだろうか、、。「荒ぶる魂たち」は、三池監督の黒社会シリーズが持っていたニュアンスに近い作品で、久しぶりに優しい気分で監督の映画を見ることが出来た。 加藤雅也扮する行動隊長の剣崎がしきりと小さな万華鏡を覗き込んで、冒頭で顕した世界との接点を持ち続ける構成にしているみたいだけど、これだけははっきり言って成功していない。
普通の何の取り柄もない男、輝きたいけれど輝く可能性のない男、誰かに目覚めさせて貰わなければ内に秘めたるものを一生開花させずに生きる男。それは私達そのものだ。(否定してるわけじゃないよ、念の為)そんな均が最後まで剣崎と一緒にいるという事。これが「荒ぶる魂たち」の唯一のメッセージなのだろう。 |
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I
saw a movie.
監督: ティムール・ベクマンベトフ
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1992年。主人公の青年アントンは、妊娠中の妻に他の男と逃げられる。絶望したアントンは妻を取り戻すために、アザーズ(異種と呼ばれる裏人類)である呪術使いの婦人に呪いの儀式を依頼する。呪術使いは、妻は戻ってくるが赤ん坊を堕胎させることになるとアントンに念を押すのだが、、。 12年後、2004年。予知能力に目覚めたアントンは、アザーズの「光の勢力」側であるナイト・ウォッチのメンバーとして活動していた。地下鉄で対抗する勢力である「闇の勢力」を監視中、バンパイアのカップルがある少年を付け狙っていたため、戦うことになる。そこでアントンは地下鉄車内で、頭上に空気の渦が巻いている女を目撃する。 「ナイト・ウォッチ」のリーダー、ゲッサーはその女を伝説の“災いを招く乙女”だと予想する。その伝説とは、彼女が世界に現れた時、光と闇はバランスを崩し、“偉大なる異種”が出現するというものだった。 ・・「ナイト・ウォッチ」を見る。DVDのパッケージを手に取った時には、この映画がロシア産だって事に気が付いていなかったので、家に帰ってから「何か変」って感じで暫く見てたわけ。
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