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I saw a movie8 ケント。私は待ってる! |
映画「マトリックス」と村上春樹
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
村上春樹 新潮文庫
「マトリックス」
監督・脚本
ラリー&アンディー・ウォシャウスキー
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「マトリックス」は現在のSFXがどんな形で映像にアレンジされているのかを知るためにどうしても映画館で見たかった映画です。でも駄目ですよね。テレビで美味しい部分を細切れで先に垂れ流しすると、その分のイメージが先に増殖してしまって、実物を見ても映像的なショックが薄くなる。で、このマトリックスを観た前後に村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでいたんです。一人称で書かれる「世界の」主人公とキアヌ・リーブスがダブってダブって、この二つの作品、ある意味で二つの世界が2重構造になっている部分似ていなくもないし、、。キアヌ・リーブスの洗練されたどこか儚げな顔は村上春樹のリリカルな世界に似合っていると思いませんか? さて本題。現実と虚構の違いはどこにあるか?昔「洞窟の影」から「邯鄲の夢」、で「箱の中の可愛そうな猫ちゃん」、そして本物のヴァーチャルワールドに手が届くまであともう少しの時代ですよね。 苦痛も快楽も野望も失望も虚無も、全てが脳内の電気信号のありようだとしたら、、現実と虚構の違いはどこにあるのか?昔、世界は巨大な丸い盆に満たされた海水に浮かぶ島宇宙だった。冒険者達はその果てでは海水が巨大な瀑布となって無に落ち込む事を信じていた。でも世界は球体だった。その発見のお陰で「世界」は、幸か不幸か広がっていった。でも現代の「現実と虚構」の命題は、次のステップを得ることが出来るのだろうか?私たちは間違いなく、世界の果ての手前までたどり着いているのだと思う。しかし今度ばかりは、世界は途絶えているのかも知れない、、。 救いは「世界」は自分のいる位置などおかまいましに「乱痴気騒ぎ」をしてるって事。村上春樹はどん欲なまでに主人公に「世界に今、生きてある愉しみ」を味わい尽くさせようとする。私も賛成。私は村上春樹ほどスタイリッシュでも淡泊でもないから「変態・ねじれ」でこの世界を味わい尽くそうと思うけれど。 |
「羊をめぐる冒険」
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夜が白みかけた朝方に彼の作品を読むのもいいし、疲れ果てて服を着たままベッドに横たわって読むのもいい。 私は、村上村上春樹を「疲れた」時に読む。こんな読み方は変なのだろうか、、。 「癒し」という言葉は、あまり頻繁には使いたくない言葉だけれど、確かに私は「癒し」を求めて村上春樹を読むのだ。彼には多くの読者がいるだろうから、彼の作品が「表面的に優しい」ものではない事をここで書き連ねる必要も、私が彼の作品を癒しに使う事の弁明を行う必要もないだろうが、、。 彼の作品には、私にとって凝り固まった頭を解きほぐすアルコールのような作用があるのだ。それが、彼の超絶技巧の表現力のせいなのか文章のリズムにあるのかは判らないが、私は確かに彼に「助けて」もらっているのだろうと思う。ただだからと言って頻繁に読めるものではない。そういった種類の「癒し」なのだろう。 村上春樹は幻想領域と現実領域の行き来が本当に上手い。それは幻想域の描写能力というよりも、どちらかというと現実の「食」や服・物・行為のマテリアルを実に旨く・心地よく描き出す能力が在るからだろう。例えば「肩が彼女の息で温かく湿った。」そういった描写が書けるかどうかの問題だろうと思う。それは村上春樹がある意味「上手な生活者」だという事の現れであるかも知れない。それが、どうやら私への「癒し効果」に何処かでつながっているのだろう。 所で、私は世間様で評判になっているものからは遠ざかっていくという日根媚びた性格なもので、村上春樹もその法則から長い間、逃れられなかった作家でもある。又、作品年譜なども気にしないで読むので、時々一人の作家の作品を、時間軸を遡るようにして読む場合も多いのだ。冒頭から挙げて来たような読後感は、時代の変化や個人の成熟(消耗)に関わらず村上春樹作品には共通するものだろうが、「羊をめぐる冒険」に限って言えば、それ以外に「若さ」のようなものを感じた。 「羊をめぐる冒険」には、奇をてらった表現なのか、それとも現在の氏の評価の定説である「分かりやすい言葉でもっとも難しいものを表現」したのものかが、判別できないフレーズが混在してある事にもそれが伺える。だが、それにも増して作品全体が「面白い」のだ。しかも通俗的に! 彼の作品の面白さは独自のものであり既に確立しているように思うが、個人的には「羊をめぐる冒険」のやや通俗的な色味が、村上の独自の世界と折半してあるバランスが好きだ。「いわし」の銘々のやりとり以降、数十ページの会話のテンポなどは、まるで外国ミステリーのハードボイルド小説で見かけるようなリズムだ。それに最後の「感傷」の引きずり方が、(こう申し上げては語弊があるが)いかにも瑞々しい、、。この「感傷」あるいは「喪失感」が、年代を経るに従ってどんどん透明になっていくのだが、、。 I saw で映画評、書評のまねごとを始めてから一年は経過した。その間、私は厚顔無恥である事にも慣れ、「赤面」という感情を忘れる修行を積んだ事になる。 その修行で見えて来た事とは、村上春樹氏を初め、この時代に同時に生き、豊かな感性とその人なりの誠実さで生きておられる多くの素晴らしい表現者が、確実に存在しているという事実である。その事実に共感出来る事、自体が自分にとって幸いな事なのである。 |
「ダンス・ダンス・ダンス」
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「ダンス・ダンス・ダンス」を読み終わる。暫く呆然としている。村上春樹作品が「こんなに面白くて(エンタメ的に)にいいのか?」とまず思った。こんな感想は、的外れもいいとこなんだろうが、今更「埋めようがない現代人の心の喪失感がなんたら」って書いたところで仕方がない。嫌な言い方をするけど、私たちは「精神的痛風」にみんなが多かれ少なかれ罹っているんだから、、。 村上春樹の「世界の終わりと〜」をさして「あれは立派なSF小説だ。」という人がいて、かってSFファンだった私もその意見には大賛成してる。「立派」とは言うつもりはないけれど、ちょっと毛色の変わったSFとして非常に中身の濃い作品である事には間違いない。で「世界の終わりと〜」がSFなら、「ダンス〜」はかなりエンタメ色の強いミステリィ小説だろうと思う。(村上春樹って純文学なのかなぁ、、?) 特にユキを中心にしてアメや行動的作家なんかは大サービスキャラじゃん。ユキと「僕」の「あしながおじさん」デートを密かに楽しんだ読者は一杯いるんじゃないかなぁ?(ユキって、ほとんど大沢氏の「新宿鮫」のショウの位置づけに近い。)みんな「強欲」だよ。春樹の作品読んで、あれこれ綺麗な理屈考える前に、ユキに釣られちゃう己の「強欲」さを見つめた方がいいよ。 で、そんなこんなも含めて春樹氏は巧い作家なんだと思う。気がついたら、ちゃんと読者を羊男のいる「その場所」の入り口までつれていってしまうんだから。しかもそのドアを開けていてくれる。(その中に入るかどうかは別問題だけど) この作品の前作にあたる「羊をめぐる冒険」のエンドは、あんな方法しかないはずで、(村上作品については結末の持って行き方を、あれやこれやといわれるらしんだけど、どの作品も村上氏が書いたエンドしかあり得ないと私は思う)それはデッドエンドではないにしても気軽に続編を予想させるようなものではなかった筈だ。 それがキキを探す旅だって?オイオイ一体どうしたっていうんだよ、、と思いつつ、あれよあれよという間に物語は走り始める。しかもそれが充分にオモシロイ。 ユキは美味しいキャラクターだけど、数多の小説世界では驚くほどユニークな存在でもない、やはり出色は五反田君じゃないのかなぁ。 こういう人物造形は、現実にも小説にもいそういないと思う。その為か春樹氏はこの五反田君と「僕」の出会いでかなりの力業を見せている。いくら中学校の同級生だって、普通は一級の映画俳優と一般市民がコンタクトを成立させる事はないはずだ。さらにその上に、この二人の間に友情を成立させる展開に持ち込んでいくのにはかなりの不自然さをクリアする必要があった筈だ。 これを春樹氏は、最後あたりのユキ証言で、五反田君が始め「僕」に近づいた理由が、わかるようなわからないような、、仕掛けを作る事と、氏独自のテーマ追求で旨くはぐらかせている。 つまり、読者がこれはミステリィなんだって意図しながら読めば、比較的早期の段階で五反田君がキキ殺しの犯人だと予想出来る仕組みも片一方で仕掛けてある訳だ。 でもやはり「ダンス〜」の本質はミステリィではないから読者の思考の流れは犯人探しにはいかないのだ。読者の心は「僕」とシンクロして、ただ「次」が顕在化することを待つか、あるいは「巧くダンスを踊る」だけだ。 挙げ句の果ては、「僕」同様、しっかり犯人が「自白」した後でも、果たして五反田君という人物が実在したのかどうかさえ怪しく思えてくるのだ。 つまりそれ程に「二つの世界の移動」が、本当に巧くかけているのだ。最後には二つの世界の質量がほぼ等質になるほどで、「僕」が抱き留めたユミヨシさんが本物かどうかもわからないのである。 最近の春樹氏はこういった人物が、本当に「こちらに帰ってきた」結末を望んでいるように見える。そこから推し量るわけではないがこの時代の「僕」は、彼が言う「あまりにも酷すぎる」結末をすべて受け入れている筈だと思うのである。 つまり最後に「僕」が抱き留めたユミヨシさんは、決して彼が繋ぎ止めようと「ここに一緒にいようとした」ユミヨシさんではない筈なのだ。この時代の村上春樹氏は、まだ「羊たちの〜」の空虚から初めて「ダンス〜」の空虚に戻らざるを得なかった筈だ。その理由なんてもちろんない。空虚から空虚への軌跡が村上作品そのものだからだ。(うまく踊り続けるしかない。) だが2001年現在の村上春樹は「人々が本当にこころの底から読みたいものを書きたい」という地点に立ったらしい。一人の「書き手」と呼ばれる人間が、そんな変遷を経ることは、誰がなんと言ってもしごくまっとうなことだと私は思う。ただそれが文章としてどれだけのものを作り上げるのか、それだけは読んでみなければ判らない事なのだが、、、。 PS 私は出来るだけ小説を読んでいる時には、具体的な人物像(特に容姿)をイメージしないようにしている。キャラクター像を結んでおく方が読みやすいといえば読みやすいのだけれど、それでかえって作中人物の動きが制限されることになるのが嫌だからだ。(外国小説の中には、登場人物の容姿を実際の映画俳優名をあげてまで指定してくる作品がある、あれはあれで潔い方法だと思うけれど) しかし「ダンス・ダンス・ダンス」ではどうしてもそれが出来ないキャラクターが一人いた。前出の五反田君である、勿論設定自体が映画俳優だからだろうけれど、私の中では、その像が半ば強迫観念じみて実像化するのである。それは俳優の阿部寛である。それにもう一人、ユキの父親の「行動的作家」に北方謙三。よく吟味すれば二人とも適役とはいえないのはすぐに判るのであるが、とにかくこの二人が、村上春樹のあの台詞を喋ってしまうのだから仕方がない。特に阿部君などは、なかなか名演技なのである。 女性陣の方は幸いにも像があがってこないですんでいる。これは、はっきり言って村上春樹氏が描くような女性が現実にはいないからだ。特にユキなどは13歳という年齢の重力を春樹氏はまったく無視しているように思える。まあ仕方ないかな、、本質的に村上作品の登場人物はたった一人しかいないのだから、、全ては「僕」の「影」にすぎないのだから。 |
「楽園の知恵
-あるいはヒステリーの歴史」
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牧野節が炸裂した数本の短編を、ヒステリーの治療過程に見立てて並べた作品集である。 そして、改めて筒井康隆氏の偉大さを思い知らされた一冊でもある。chikaの頭の中では、筒井氏から牧野修も笙野頼子も枝分かれしていき、その分岐の先には川上弘美がいたりする。 ちょっと乱暴だけれど、筒井にフェチを混ぜれば牧野、アウトドアを混ぜれば椎名誠。という感じでもある。 確か牧野修が『MOUSE』か何かでSF界に根を張り始めた頃、あの特異な文体のせいで攻撃されたのを庇ったのも筒井康隆氏だったような記憶がある。 そういった意味でも、(chikaはフェチな牧野修の大ファンなので)筒井康隆氏には感謝しているのだが、ただ当時の批判が満更見当外れだとも思っていないのだ。 特に本書なんかを読むと、思わず「その批判、賛成!!」とか言ってしまいそうになる。 意味不明の短編集である本書を有り難がって読む人の気が知れない。他人の言語実験につき合うほど暇ではないし、牧野文体の仕掛けである、「読めば視覚的イメージが奔流」しだすほど文章を読み込んでいく気力もない。 ちなみにchikaは本書の中では(インキュバス言語)と(踊るバビロン)が面白かった。でもどちらも筒井氏か椎名誠氏の作品に似てるんだよね。 |
I
saw a movie.
監 督: フィリップ・カウフマン
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どうも最近、映画レビューの「近緒のり」が悪い。映画レビューなんてWebの世界じゃ星の数ほどあるんだから、、もっと独自性をださなくっちゃ。でもねー。「蝶の舌」で淫乱変態レビューは書けないでしょう、、。 で、やって来ました「クイルズ」です。この映画の主人公は、かのマルキ・ド・サドで期待度、大。所がハリウッド映画の宿命というのかなんというのか、背徳の世界を鋭く描き込む筈の作品が、最後には「攻守を変えた善と悪の戦い」に描き変わってしまうのですね、、。しくしく。 まあこの辺りの構成上の腰砕け問題は無視しておきましょう。 映画の冒頭では、、、SMショウに登場しそうなレザーマスクのマッチョマンが、貴婦人の顔を撫であげドレスをむしり取り始め、彼女はその被虐に高まった己の官能を、、と見せて置きながら実はこれが断頭台のシーンという懲りよう。 それを見守る群衆の興奮の中には性的な匂いが漂い、絶望の中でついに首を項垂れて下を見た貴婦人の視線には、つい今し方、ギロチンによって切り落とされたばかりの生首がゴロゴロと転がっている。 そしてこんな一部始終を窓に隠れるようにして見下している一人の男の姿があった。彼こそはこの物語の主人公マルキ(ジェフリー・ラッシュ)である。なんて、ここまでは絶妙の滑り出しなんですよね。いけるぞ監督あんたは「変態」心を知っている、とわくわくドキドキさせてくれます。 所が、精神科医ロワイエ・コラール博士(マイケル・ケイン)が、マルキの逃避場所でもあるクルミエ神父統治のシャラントン精神病院に、院長として送り込まれるあたりから、物語は「偽善と偽悪の戦い」「表現の自由」テーマめいたものにずれ初めていくわけです。 映画の最後あたりでは、マルキが表現の自由を貫き通した勇士のように見えてしまうから質が悪い。なまじっか、どの俳優も上手なだけにこの変化はとても痛いのよね。人間の中にある闇や狂気を肯定しあくまでそれをマルキを通して描ききる積もりの映画であったのなら尚更の事に残念。 このテーマの外れ方は、「スターリングラード」でも同じ、、初めは戦争という重厚な重いテーマに向かって、映画的に実にうまく切り込んでいくので、これは凄いことになるかも知れないと思わせてくれるんだけれど、中盤になると、あれもこれもと欲張った展開で散漫になり、最後には実に単純な勧善懲悪的テーマに物語が結束して「終劇」というパターン。 「あなたは悪ぶっているが、本当はマドレーヌの事を愛していたんだ。」とド・クルミエ神父。 「馬鹿を言え。やりまくってやったんだぞ。ばっこんばっこんだい。」 「嘘を言ってはいけないな。僕は彼女の死体を調べたんだ。彼女は処女だったよ。」ここで大泣きするマルキ。 馬鹿やロー、、こんなマルキなんてなんで映画で映し出す必要があるんだよ。いい人マルキなんてお呼びじゃない。 所でこの進歩的で理想主義者のド・クルミエ神父を演じるのがホアキン・フェニックス。「グラディエーター」の時は、彼の新皇帝の「狂気」ぶりがちょっと空回りしてるかなっていう感じだったけれど、今回、信仰に総てを捧げた美貌の神父という役所が旨くはまったのかこの映画では彼の演技、「絶品」と言う感じです。 一言で言って「可愛い」。ほんと蹂躙したくなっちゃう可愛さです。あれじゃマルキが精神病院内でわざと騒動を起こすのは、皇帝が送り込んできたコラール博士への対抗意識じゃなくて、ホアキン神父を虐めて喜ぶ為としか思えない程。 ホアキン神父、最初の頃はマドレーヌが示した自分への愛を退けていたんだけれど、彼女が殺されてから夢想の中で彼女を死姦してみたり、マルキの舌を切り取らせてみたりと、最後には完全に壊れてしまうのね。 この辺りの壊れようを、彼の甘ーくて神秘的な目元の表情の変化で、実に巧く表しているわけです。存在感のマイケル・ケイン、熱演のジェフリー・ラッシュに加えてホアキン・フェニックスの演技、なかなかの見所なのです。 PS マルキが、物語る為の総ての手段を封じられて、最後に、牢獄から牢獄へと狂人達を使って、伝言ゲームのように己の物語を小間使いのマドレーヌに口述筆記させるシーンは、文章を書く身としてはとてもエキサイティングだった。 マルキの紬出す物語の「熱」がそれを中継する狂人達に感染し、彼らはどんどんヒートアップしていく。ある者は放火癖を再燃させ、ある者はマドレーヌの舌を切り取ってしまう。 最近でも何か猟奇的な事件が起きると「ビデオ」であるとか「インターネット」であるとか「テレビゲーム」の有害性に、視線がいく傾向があるけれど、その時代においてもっとも人間に対する影響力を持つ媒体が、やり玉に上げられるのは昔からの事なのだ。マルキの時代では、それが書物であり「言葉」であり得たのだ。モノではなく、「人」が力を持つ時代があり得たんだなぁ、、、。 |
I
saw a movie.
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ペドロ・アルモドバル監督の映画って、こんなに映像がきれいだっけ?というのが第一印象。看護士ベニグノのアリシアに対するケアのシーン(元の頃のやつね、後になると不気味さがボリュームアップ)だとか、女闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)の闘牛シーンや彼女がコスチュームを着るシーンなんかが実に綺麗でエロチック。 その他でも、表面的なストーリー展開に欠かせない会話シーン以外では、抽象性と色彩豊かな映像美を両立させたシーンがてんこ盛りでとてもデリシャス。 勿論、この映像の背景としてバレーだとか闘牛だとかスペイン独自の文化の豊穣さがあるわけなんだけどね。 ククルクク・パロマを聞き入る聴衆シーンも、歌そのものが凄くて会場から離れざるを得ない二人目の主人公であるマルコ(ダリオ・グランディネッティ)の心理描写も、こう言った場面設定があるからこそ、全体の流れを壊さずに描けるのだと思う。 マルコの事を二人目の主人公と書いたけれど、個人的にはこの映画の主人公はハビエル・カマラが演じるベニグノだって思ってる。 ペドロ・アルモドバル監督の場合、いつもだったら、この映画に登場する二人の眠り姫(アリシアとリディア)の「オンナ」にテーマが終結しそうに見えるけれど、実際にはベニグノの内面にある「孤独な愛」に対置されるようにして「男と女」が語れれる仕組みになっているからだ。 そういう意味では、ベニグノという存在を照射するために置かれたマルコの存在感に若干の無理があるような気がして残念だった。 二人の女性との恋に破れたマルコが、ベニグノのアリシア(レオノール・ワトリング)に対する一人芝居の愛を見つめながら、やがて「ベニグノ、俺はお前なんだ」と呟くシーンがちょっとべたつくのだ。だってマルコはなんだかんだ言ってもモテる男なんだから。そんなマルコがキモ男君のベニグノに共感する筈ないわけで、、。(まっいいかぁ映画なんだから。) この映画、アカデミーのオリジナル脚本賞受賞に輝いたらしいけれど、確かに良くできていると思う。映画を見た感想の中で、「植物人間になった女性を追いかける為に専属の看護士にまでなった変態ストーカー野郎」であるベニグノを神聖視してるみたいで納得行かないというものがあるけれど、これも計算尽くだろうと思う。 おそらく監督は男女差を超越した部分で、男と女の果てしない時には無常さえ感じさせる閉じられた円環を示したかったに違いないと思うのよね。果たしてマルコとアリシアはベニグノが死んだ後、ちゃっかり恋人同士として巡り会うんだから。 PS アリシア役を演じるレオノール・ワトリングが目覚めた状態で演技する場面はちょっぴりなんだけど、ベニグノに看護されるシーンでさらされる彼女の美しすぎる裸体で十分、、。その辺りも監督きっと意識してる思います、、さすがペドロ・アルモドバル。 |
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I
saw a movie.
ギター弾きの恋
監督・脚本:ウディ・アレン
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ウディ・アレンという映画監督の名前を、過去にどれだけ聞いて、どれだけ無視してきた事か、、。近緒は人間的にかなり幼稚だから、この監督の「知的で都会的な映画作りについていけない」=「見ても面白くない」という図式というか、思いこみがあったのが事実なんだけど、、、。 この映画だって最初はそうだったんだよね。で、見終わってから小粒で達者な映画だけど、どこがウディ・アレンやねん(勿論思いこみ像のウディ・アレンに対して)と思った次第。 確かにショーン・ペンや、サマンサ・モートンの演技はとってもいい。でも映画自体は、どちらかというと「小品」で大きな盛り上がりにかけたまま終わってるし、見てる間中だって「小難しい」とか思わなかったしね。 でもこの映画、見終わってから吃驚したのは、主人公である伝説のジャズ・ギタリスト、エメット・レイが架空の人物だと知った時だった。 同時にこれで近緒のこの映画に対する評価が180度回転する事になっただよん。 第一、エメット・レイ、縁の人間達の回想シーンが、映画の中に挿入されている事自体がいやだったのだが、このシーンまで演出・構成の仕掛けの一部だと聞かされて、「やるなぁ。」のひと言に尽きるシーンに早変わりしたんだから、、、。 でも、どうして気づかなかったんだろう。回想シーンに出てくる人物の中には年齢が合わない人も出てくるし、、、売春の元締めでギタリストってあり得るのかなぁ、、と引っかかる部分が沢山あったのに、、。 「うーんやられた」って感じ。実名のギタリストを持ってきて、世界で2番目の実力を持つジプシーギタリストだもんなぁ、、ショーン・ペンもこの人物のギター演奏をそれらしく見せるために随分練習したんだろうなぁとかね。本気で思ってましたよ、、もう。 で、ここまでくると、いつも何かを美味しそうにあどけなく食べているハッティ像がね、急に意味深になってくる訳。口が利けなかったり、それに黙って自分だけを見つめてくれる女性像。って一種の男性が持ってる女性に対するファンタジーじゃないかな。それに加えてダメ男のエメット・レイ像もホントはかなり多くの男性が彼に納得したり共鳴たりするように設定してあるんだよね。 それで最後にエメット・レイがギターを叩き割って泣き崩れてしまうシーンね。 なんだか種明かしをされてから、ぐぐっと来ましたよ。 そうだこれって「演歌」じゃん!!どっから見てもジャズ風味なのに、実は、実は演歌の世界なのだ。「俺に惚れちゃ不幸になるぜ」って野郎が、実は自分の本当に求めていたものが判った時に、手元に残ったモノは己の愚かさだけちゅー、、「泣き」なんだよね。 ウディ・アレンが成熟してこんなのを撮ったんだとするなら、歳をとるって事も満更悪くないって思ったよ。デヴィッド・リンチのストレイト・ストーリーみたいだ、、。 |
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「ストレンジ・デイズ」
村上 龍 講談社文庫
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自分自身の中で成長していく作家が居る。それは、今、私が最も注目している作家、村上龍である。「限りなく透明に近いブルー」は先見の明を持たぬ私にとって、新しいがそれ以上ではない私小説だった。次に「コインロッカーベィビーズ」でかなりの衝撃を受けたが、やがて彼のマスコミ媒体への露出が鼻につきはじめ、「映画に手を出した作家」にろくな奴はいないという思いこみがあり、、。そして数年の後、再び私は村上龍に合流し始めたのである。今、過去において拡散していた村上龍の行動が、私の中で一つの形を形成しつつある。良くも悪くも彼は時代と一緒にこの国を走っているのだ。私にとって彼はこの時代に生きている事へのいらだちを、正当に、共有出来る作家なのだ。 深夜のコンビニ、ファミレス、窓に伝う水滴、夜を疾走する巨大トラック。「限りなく、、」の油絵の具を腹に貯め込んだゴキブリの登場から、何故か私が、映画的な映像と文章が混成した村上龍の手法に強く引かれるのを知ってはいたが、これほどとは、、。(それに小説中の女性に強く惹かれるという体験も私にしては珍しい。2次元の女性しか愛せないオタクという表現があるらしいが、対象が小説の登場人物となるとこれはかなり不毛の自己愛なのかなぁ。) だけどストレンジ・デイズの結末はよくわからない。この結末、小説としては「落とした」ものでも「まとめた」のでも「壊した」のでもない。 |
「イビサ」
村上 龍 角川文庫
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村上龍は女性か?否。ならば私は「イビサ」を精神的トランス小説と呼ぼう。 男性で、女性の視点による一人称小説を書く作家は少なくない。中には女性の立場からみてもいわゆる「女の心理」を舌を巻くほど巧く書ける作家も存在する。 勿論、村上龍はそういった技巧を前面に押し出して評価しなければならない作家ではないし、彼の作家としての特質はそこにはない。 けれど「イビサ」に限っては、その作品性を語る時「精神的トランス小説」の側面を切り離せないのではないかと思える。 「イビサ」の後半部分でこそ、主人公マチコの顔の下に「村上龍の語り」が露出しすぎるきらいがあるものの、「イビサ」は全般を通じて「マチコ」という日本人女性でないと成立しない物語だと思う。現在の日本的社会への憎悪や否定、そこからの個人の確立のストーリーは、もう標準的日本人男性の主人公では組み立てられないのかも知れない。 自分が今いる場所の社会的価値観から離脱しやすく、人間の関係性・衣・食・住のみで、「自分の行き先」を嗅ぎ当てる能力が高いのは圧倒的に女性だからだ。 (勿論これは社会的価値観と己の精神の在りようが分離できると仮定しての話。) まあ以上が、村上龍の「イビサ」で」とったスタイルの表向きの正式なアリバイ。 「イビサ」は十分にエロチックな小説であり、かなり濃厚で変態じみた性描写が頻繁に出てくるが、それらが総てマチコの一人称で語られる。しかしこの視点は「男」である村上龍の視線がいったん女性のそれへとコンバートされて書かれたものである。(近緒は村上龍の文章で「薬」関係と、性関係の描写は体験で書かれている筈だと勝手に決めつけてる) そして明らかに村上龍は、その倒錯感を味わい、糧としながら物語を展開している筈だ。そう。村上龍は明らかにSM(変態)小説作家の作法を知っている。 ただその作法を使って己の小説を「世界」のどの部分に繋げるかが、並の官能小説作家とは違っているのである。 私は村上龍という作家が好きだ。彼の分析はどうあれ、少なくとも彼が「時代」と同じ速度で走り、向き合っている姿勢が好きだ。そしてとても「人間」に対してHな所も。 「イビサ」を読んでください。官能小説の新しい方向性がきっと見えてくる筈だし、それはひょっとしたら、この時代を漂うあなたの「ガイド」をつとめられるかも知れないから。 PS 物語として面白いなと思ったのは「先生」の幽霊の存在だ。この「先生」、、とっても情けない幽霊、オカルトでいうなら低級霊なんだけど、これって多くの日本人男性の軽薄さの「記号」なのかも知れない。この「先生」がマチコに退治される夜の浜辺のシーンが甘美で美しくしかもパワフルなのは、さすがに村上龍らしい。 |
「ライブガールズ」
レイ・ガートン 文春文庫
風間賢二 訳
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トビー・フーパー監督作品の「スペースバンパイア」って映画覚えてるかなぁ、、あの衝撃的な「エイリアン」が登場して暫くたってからの作品だから、二番煎じ的な取り扱いされてたけれど、凄く官能的かつホラーな作品で、結構水準高かったのよね。 映画の中に登場した女性型エイリアンにグロテスク美を感じたのはこれより後のスピーシーズだけだけど、造形美ではなく作品の持つ世界観の中でその「グロ美」を感じさせたのはスペースバンパイアの方なのね。 この映画のノベライズを任されたのが、本編の作者であるレイ・ガートン。近緒、ノベライズの方は読んでいないけど、まさにレイ・ガートンの作風にピッタリという感じ、、。 さて本編の方だけど、風俗営業(?)の店がバンパイアの巣窟になっているという設定がクール。とは言うものの、設定だけなら誰でも考え付きそうだけどレイが書くとちゃんとそれらしい血肉が付加されるわけ。 話と言うと、派手好きを絵に描いたような同棲相手から、三行半をつきつけられた雑誌編集者の「いい人」デイヴィーが、勤め先でのトラブルも重なってタイムズスクエアにひっそりと建つ<ライヴ・ガールズ>という覗き部屋に吸い込まれてしまう所から始まるの。 「壁穴」の中にツッコンで「吸って」もらうというサービスを受けたデイヴィーは、尋常ならざる快楽を得たものの帰宅後身体の不調を感じ始めるわけね。 一方、姉と姪を殺害された記者のウォルターっていう男がいて、彼の方は容疑者の義兄が通っていた<ライヴ・ガールズ>を監視中…そんな話がきっちり組み上がっていく中でエロスがウズウズなのです。 近緒が一番好きなのはディヴィーの新しい恋人が、バンパイアにされてライブガールに上がらざるを得なくなってしまい男のアレから血を吸うところ、、彼女は理知的で正義感が強く、、こういう商売をするなら死んだ方がましって感じの女なんだけれど、彼女が己の内なる肉欲と新たに植え付けれたバンパイアの性で「チュバチュバ」しちゃうシーン、これは一種変形のマゾですね。 PS 直接的に興奮したいという方、このレビューを読んでライブ・ガールをチェックするのは間違いだよ。それなら最近じゃ日本の女性作家のでもっと凄いのがいっぱいあるからね。しかもこぎれいな文庫本で、、この作品の本領は「いかがわしさ」テイストの満喫にあるんだから。その辺くれぐれもお間違いのないように、、。 |
I
saw a movie.
監督・脚本・制作・撮影・照明・編集・美術・出演
石橋義正
山本リンダ的!ジェットコースター不条理劇
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S・M・Fお勧め!!でも何も期待しないでね。ただニヤついて見るのが吉。内容?名付けて山本リンダ的!ジェットコースタームービーじゃなくってジェットコースター不条理劇。不条理たってそんなに肩は凝らないよ。私は居酒屋女のブロックでちょっとドキドキ・ワクワクしたけど。なんと言っても山本リンダだよ。 ビデオででてるよ。一応成人指定みたい。 |
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「極大射程」
新潮文庫・佐藤和彦(訳)
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いっておく、最後まで面白い。 とにかく面白いものを読みたいならコレ。映画好きならコレ。でもアメリカの映画は「馬鹿」だから嫌いとおっしゃる方にはくどいかも?それにアメリカの「銃社会が生み出した様々な悲劇」に強い関心を持たれている方なら、違う意味で、思わず作者であるスティーブン・ハンターと論争をしたくなるかも知れない。ストーリーの概略は紹介しないほうが絶対にいい。ストーリーの展開自体が本当にスリリング(原文のまま、そのまま映画化しても中ヒットぐらいにはなると思う。)で面白いから。でも、この小説のもう一つのテーマである、射撃の瞬間に「違う世界」が覗けるというのはなんとなく理解できる。物事を極めるという事は、きっと、そういう「違う世界」を覗くということなんだろうな。 |
扶桑社ミステリー・公手成幸(訳)
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左右の拳に FUCK YOU。 ダーティホワイトボーイズ、つまり「ごろつき白人ども」の物語である。それにしてもスティーブン・ハンターの面白さはどうかしてる。至近距離の銃撃戦のシーンなどを読み終わったら、自分自身の鼻孔に硝煙の匂いを感じてしまう程だ。「だれもがことを放棄して、逃げ出すからだ。あらゆる犯罪はそれがもとで起きる。」そんなセリフに窮屈な男の生き様を見、「強力な男ふたりが体臭と恐怖のにおいを発散させてとっくみあう闘いは、すさまじいホモのセックスを思わせる様相を呈した。」で肉弾の色気を嗅ぎ取らせる。もう一人の主人公であるラマーに惹かれていく自分が怖い。おそらく多くの読者もそうに違いない。スティーブン・ハンターはそんな読者の免罪符の為に巡査部長ピューティの言動と、ラマーがなんの躊躇いもなく人を殺すシーンを用意している。ラマー、こいつは無惨に死んでも当たり前なのだと。だが、しかし、、、。 |
「THE
MASK CLUB」
村上 龍 幻冬舎文庫
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7月のヴェトナム旅行に持参したものの結局読めなかった本がある。それが本書だ。結論から言えば「読まずに済んで良かった」という気がする。社会主義国でありながらドイモイ政策で貪欲なまでに「金」にエネルギッシュな人々を見ながら、日本の腐臭漂う社会の一側面を描いた小説を読むという行為は、あまりにも相性が悪いというものだろう。
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「三月は深き紅の淵を」
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恩田陸は暫く前から気になっていた人である。と同時に書店で本をぱらぱらとめくって「読みやすそう(馴染めそう)」と思いながら、結局読むのを先延ばしにしてきた人でもある。見渡せば「本」に限らずそんな出会いは結構あるものだと思う。 例えば京都に住んでいながらも、ちょっとした手間を惜しんで地元の高名な寺を知らなかったり、、。まあこれには結構現実的な理由がある。「いつでもいけるから」という在り来たりの理由以外に、自分にとっての訪れる為の必然性というか、そのものの自体の吸引力・輝きがネックになってくるのだ。 例えば自分がどうしてもみたい映画やコンサートがあるとき人は万難を排してでもそれを見に行く。 えっ?違うって。私が言いたいのはその先の事だ。今、吸引力を持たなくても、輝きを持たなくても「良いもの」はずっと昔からそこにあり、その「良さ」は変わらないのだ。いやむしろ「良いもの」はひっそりと潜んでいる場合の方が多いのかも知れない。そしてそれを「見つけられる人」に、見つけられるのを待っている。 ・・・これが恩田陸を読んだ第一感想である、、。回りくどいけれどこれが一番、私自身の気持ちを言い当てている筈だ。 4部構成の内、一番好きなのは第1章の「待っている人々」。一人の作家はいくつかの空間と時間を持った独自の世界を作り出せるが、私が、恩田陸の独自の世界として認知したのは、この第1章である。 第2章は、後半とってつけたような展開でミステリーとしては熟味を感じないけれど、夜行列車の中の描写や女性感覚はとても共感を覚えた。作者自身も半分は旅や紀行文に近い感覚でこの文章を楽しんでいるのではないかと思う。 まあ正直に言って第3章は「ちょっとかんべん」って感じ、私はこういう世界についていけないのだ、。それが第4章になると、実に見事に第3章風味のジュヴナイルとエッセイ風味の文章が対極的に、しかも「接続」されて展開されるのには吃驚した。これぐらいの落差があるなら電力でも起こせるのではないかと思った程だ。 この恩田陸という人は、位相の違ったかなり沢山の「世界」を作り出せる人なのかも知れない。 全体を通してこの人の感性に共感する部分が多かったし、何よりも「本好き」の人には嬉しい作品ではなかったかと思う。 映画の「ナインスゲート」もそういう意味で私は大好きだったのだが、、、。 |
I
saw a movie.
監督:ヴィム・ヴェンダース
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「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」が、そのまんまの音楽ドキュメンタリー映画だと気づかず「この材料で映画が一本とれる。すごいもんだな。ヴィム・ヴェンダース。」と最初からとぼけた勘違いをしてた私。 でもコンパイ・セグンドの「恋心を胸に抱き、東部の街からハバナへ向かう若者の想いを歌った曲チャン・チャンがバックで流れる冒頭では、まだロードムービーが始まるのではないのかというお馬鹿な期待を捨てない私でもあった。 ハバナの海岸縁を走る道路に波頭が砕け散り、そこを古いアメ車が通り抜けていったり、、、。キューバの路上の犬は、なんだか勢いを感じさせる風格があるなぁとか、いたる所でヴィム・ヴェンダースの映像的意志を嗅ぎ取ろうとしたり。 して、本当のこの映画の実体は「ハバナで二枚目のアルバムを録音していたライから、一度来てみないか、と電話があって、ほとんど事前準備もなく少数のスタッフと現地に行った」とヴェンダース監督が振り返るような制作体制だったようだ。 後半、老音楽家達の奔放で魅力あふれるアムステルダムのコンサートや、ニューヨーク・カーネギーホールでの歴史的なステージの模様も描いているが、これも撮影開始時には予定されていなかったことだという。 確かに、部分的には平凡な音楽ドキュメンタリーに過ぎない映像カットも多いのだけれど、全体を見ればやはりヴィム・ヴェンダース映画になっているという不思議な完成度を持つ映画だ。 この感覚が見る側に生まれる原因は「撮影に際して唯一の基本としたのは、音楽それ自体に語らせること。私の考えを示すのではなく、彼ら自身の姿を追い、語ってもらった。素晴らしいミュージシャンたちをより多くの人に紹介したかった」というヴィム・ヴェンダースの眼差しと、何にもまして、この老音楽家達自身の存在感にあるのだと思う。 「チャン・チャン」を始め「恋」の歌が数多く登場するが、それらをこの老人達が歌い奏でても、違和感もなんのいやらしさも感じさせない。むしろ若者や熟年の世代が歌うより純粋で熱っぽく、なにか恋を超えて違うものを歌っているような気にさせさせてくれるのである。 (私は老人が「老人」であるが故に自動的に「人生の達人」であったり「高尚な存在」であるなどとは思っていない。老人はそういうチャンスを多く得た存在ではあるが、、念のため。) イブライム・フェレールが、インタビューの中で彼自身の信仰を語る場面があって、それが弱者の立場の可能性を開く「ものもらいの神・聖ラサロ」だという部分で、彼の素朴さを強く感じた。 又、映画の後半に「歌では何も救われないと思えたときがあって暫く歌から遠ざかった」という彼の独白に、彼の「歌」の練度を感じさせられもした。 「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」ではミュージシャン9名のインタビューが織り込まれるが、(この辺りの演出や撮影はライ・クーダーそのもの)彼らがいかに音楽と共に生きたのかがよくわかる。この映画はそんな彼らと「音」が主人公なのである。 ビートルズが一時インド音楽に傾倒したのは有名だけど、ライ・クーダはキューバミュージックに身を寄せた訳だ。ブルースから始まって彼のボトルネック奏法(ラウーって楽器は面白いね。ブルージーなハープシコードギターかな。)って感じを考えると、キューバミュージックに合流して行く事はすごく自然なことだろうなと思う。でも本編のライ・クーダが老音楽家達に見せる気遣い、やさしさ・共感は半端じゃないね。 繊細で地味だがパワーに満ちているキューバミュージックの音・音。そしてヴィム・ヴェンダースの渋くて綺麗な映像。ビデオで鑑賞ならヘッドホンとグラスをお忘れ無く、、、。 |
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古びた何の変哲もないビルを、四季の表情豊かな山河の様に撮れるのは、ヴェンダースだけだろうと思う。風雪に晒された壁の美しさ、一つ一つの窓から見える人々の生活の営みの愛おしさ、、。それらをヴィム監督は部屋一杯のキャンドルの光の中で管楽器の練習する男の影で捉えてみせたり、主人公トムトムの指先すれすれにある、錆の浮いたドアノブや、差し込む日の光で生まれる壁の陰影に写し込める。そして、それら一つ一つが優しい。 だから、メル・ギブソンという明らかなミスキャストに表される消化不良気味の話運びだって帳消しなのだ。 それに何と言ってもこの映画、「ミリオンダラーホテル」という主役以上に素晴らしくチャーミングなヒロイン、エロイーズことミラ・ジョヴォヴィッチがいる。 同じくホテル側の住人である、知能障害の青年を演じるジェレミー・ディヴィスの五月蠅い演技と、共鳴したような部分が、ありはするが、彼女は彼女未らのありようだけで「エロイーズ」として十分に成立するように思う。そんなエロイーズがいるからこそトムトムの自殺から始まるこの映画が、ある種の潔い透明感を持って見る者に受け入れられるのだろう。 「自殺者の回想で綴られる物語」がショッキングでなく、むしろ淡々とした印象で受け入れられ、映画そのものを見終わってからじんわりと、その意味が効いてくる、、、これって結構、凄いことなのかも知れない。 PS 劇中の「5人目のビートルズ」ことピーター・ストーメアが、酒を飲みながら友人にピアノの弾き語りを聞かせるシーンが、お気に入りになっちゃって、、。あのシーン前作の『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』がすっごく生かされてる部分だと思うなぁ。 |
I
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男が女にアプローチする。男(きめてやる)「何処に住んでいるように見える?」女(うっとりし興奮した口調で)「どこか美しいところの人。」 確かにそうなんだ。彼(ブランドン・ティーナ)は「どこか美しい場所に住む人」だった。 一人の女性が、自分を「男」だと思い「女」に惚れる。だが「レズだ」とは認めない。生物学上「女性」と分類される人間が「女性」を愛したならばそれはレズビアンと呼ばれる。だがその女性は自分が「女性の身体」に間違ってはいってしまった「男」だと思っているからレズビアンではないのだ。 結局の所、性の境目は何処にあるのだろう。それは宇宙船みたいに内部が発光するアメ車の中でのカーセックスにあるのかも知れない。あるいは、闇の中で追跡してくるパトカーがもうもうと立ち上る埃の中で幻想的に見えるほどの道の上にあり、しかもそれは、極度の緊張と興奮の中でライトを消して疾走し真っ暗な破滅へむかっていく男や女達のイメージと融合してしまうものなのかも知れない。 しかし、この映画幾つかの象徴的なシーンを除いては、「性の問題」は寒々しく無軌道な現実の積み重ねの中で語られ、最後にはお定まりの悲劇が待ち受けている。「彼らが望むそうあるべき姿を伝えるのよ。」そしてブランドンの存在は受け入れられず、否定される。最後までブランドンの肯定者であったラナさえ、ブランドンの些細なヘヤースタイルの差でブランドンの性別を認知してしまうシーンが痛々しい。 だがこの映画、性同一性障害(体の性別とこころの性別との間に相違が生じ、何らかの 「障害」 を感じ、自分が別の性に属していると確信している状態)のテーマに真正面から切り込んだものではないのだ。題材的にはそうできたのだろうが、実際には色々な見方・感じ方が出来る映画だ。 それともう一つ、この映画が単なる告発映画に成らずに、違う側面を持ち得たのはヒラリー・スワンク(ブランドン・ティーナ)という女優を得た事が大きいだろうと思う。違うキャステングなら一言一句同じものを撮り上げたとしても又、違った印象を持つ映画になったに違いない。それはこれを撮ったのが一映画監督であり、一運動家ではなかったという査証でもあろう。 この映画、よく見ていると、ヒラリー・スワンクとクロエ・セヴィニー(ラナ)が並んでいるシーンが随分スタイリッシュだったり、ピーター・サースガード(ジョン)、ブレンダン・セクストン三世(トム)らの描写も彼らの狂気や暴力を端的に描きこそするけれども、過剰なリアリティを目指さず、実は「汚い部分」が一つもないことに気づく。 私にはこの監督が、性同一性障害という題材を扱いながら、映画を上に上げた感覚を織り交ぜて描き出す事につて、批判的に見てしまう時と、そうでない時があるのだ。私のその揺らぎは、明らかにキンバリー・ピアース監督がブランドン・ティーナを「男装の女性」として我々に提示した上でこの映画を撮っているという事から起こっている。その構造の上で性同一性障害という課題がどう咀嚼されているのだろうかという疑問を感じるのだ。 映画の中では、ブランドンの正体が、ジョン達にまだばれていない時点でも、彼らを中心にして、男性と女性の性的な緊張関係を思わせる多分にエロチックな描写がよく登場する。例えば「埃のない高速道路」でブランドンの背後から彼を焚きつけるジョン、その時の二人の表情などがそうだ。 こんな場面を見ていると監督自体がブランドン・ティーナの性のファンタジーを楽しみ、それを密かに我々に提示しているようにさえ見えるのだ。 つまりブランドン以外の全ての人間は(私たち観客も含めて)彼の「性」を自分の都合のよいものとして見ている事になる。初めジョンは男としてのブランドンの裏側に「女」を読みとっていたに違いないし、ラナに至ってはブランドンの正体を知った後でも己のファンタジーに固執し続けるのである。 しかし、周囲の人間の欲望や生活のゆがみを吸い付ける事で、魅力的であったブランドンの「両性」も、ある臨界点を越えると一気に「現実」に引き落とされてしまう。この映画の場合では「レイプ」シーンでそれが露になるのだが、、。でもこのシーンは本当に性同一性障害の「社会的・外的障害」の一端を描いているのだろうか。 先にも書いたようにこの映画は、そういった問題を扱うための告発映画ではないし、単独で充分魅力的な映画である。いや十分に「魅力的」だからこそ私は混乱してしまうのである。皆さんはアダルトビデオシリーズに「レイプ物」といった分野があるのをご存じだろうか、、。私は、「現実と想像領域の差」といった内容や、モラルについて言及したい訳ではない。 私は、私たちはすべて「内なるファンタジー」に突き動かされて現実を生きているのではないかという気がしている。そういう立場からみるとこの映画は酷く混乱していて、その混乱自体が「魅力」的に見えるのである。 |
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ネット巡礼の楽しみの一つは、色々な感性に出会える事。例えば映画レビューにしたって十人十色。既成媒体なら職業評論家さんたちの書いたモノしか選択の余地がないけれど、ネットならそれこそ星の数ほどレビューがある。中でもその人の「映画への思い入れ」と共に、豊かな独自の視点で書かれたレビューぐらい刺激的で参考になるものはない。 そんなネット巡礼の中で発見させていただいたのがこの1本。 「チャカ2」。隠れた名作とまではいかないけれど、私の好きな三池崇史監督が、もし女性で、もう少し若ければこんな作品を撮ったのでは、、と思わせてくれる一本です。 (渡辺武監督ごめんなさい。それほどにあなたが本調有香脚本と女優遠山景織子の持ち味を上手く引き出したという事です。) ・・では本文へ 竹内力は、本当にバタ臭い(西洋人のようなの意)顔をしている。そんな顔の造作のせいだろう「抽象的な意味での怖いやくざ顔」なんか、彼が目に力を入れると一発で出来上がる。それに目鼻立ちがくっきりしていてまつげが長いから、若き日のマーロンブランドやプレスリーみたいな滴るような色気を発散する時もある。彼がにやりと笑うと、屈折や敗北を知らないままに悪ガキが大人になったなら、こんな不敵な笑い顔をするんだろうと想像させてくれる。 竹内力の顔と体躯があれば演技力なんていらないし、今後も彼は今回ってくる役所からそんなに遠い所で演技をしなければいけない状況には追い込まれないだろう。だから時々、竹内力を見てると「うんざり」してしまうのだ。 でも今回の竹内力は肩の力を抜いている。抜いたからって彼は「竹内力」からは逃れられないんだけど、、「チャカ2」ではそれが丁度いい塩梅だった。 (お正月に食べる数の子だって塩抜きを上手くしないと辛すぎて食べられない。) ハンバーガーショップに勤める若者貴志と常連客のヤクザ島。二人の間には何の接点もないはずだったのだが、ある日ショップの中で起こった激しい銃撃戦の後、二人は過去の因縁によって深く結ばれていく。 “チャカ”と呼ばれる孤独なヒットマン島と、寂しげな若者・貴志。更に貴志の同窓生である透子は、それぞれがお互いに微妙な関係を結び合うことになる。 貴志(益子和浩)と島(竹内力)が、透子(遠山景織子)を自転車の後ろに乗せて楽しげに田舎道を競争するシーンなど、「えらく甘い」映画なんだなって一瞬思わせるような部分を真ん中に挟んであるのが「チャカ2」という映画なのだ。 所がこの「チャカ2」、青春グラフティばりに感傷たっぷりのトーンで全編が貫かれるのかと思わせておいて、実は主人公達がきっちり淡々と予定調和のごとく死んでいくのだ。 言い方を変えれば、この物語、透子が愛した男達の遠景といって良いのかも知れない。、、だからいつもより「油を少し落とした」竹内力が丁度いいのである。 勘のいい人なら気づくかもしれないが、この映画「男の暴力世界」を描いてはいるが、それにどっぷり填っている訳ではない。どこか一枚フィルターが入っている、、それは透子という女の視線に表されるものだ。 透子は男達を愛してはいるが、彼女の未熟さ故かその愛は「薄い」。その薄さの向こうに男達のある種気ままな生き様が揺れて見える。 てっきり島を腐敗刑事(隆大介)に売るだろうと思われた親友のやくざ(菅田俊)は最後まで島に「操」を立てるし、島を破滅させようと仕組んだ筈の銃の誤調整を暗殺の土壇場で島に教えてやる貴志もいる。 貴志を殺したチンピラ(やべきょうすけ)に「みんなお前が悪いんだ」と指摘されて「判っているんだよ、そんなこたぁ。」と吐き捨てて、彼の命を救ってやる島もいる。 だがそれらの男達の生き様は、映画のラストシーンで透子が抱きかかえる壊れたラジオのように女の記憶の中に収まってしまうのだ。 そしてその姿と対を成すように、駅の構内で貴志の幻を見ながら息絶えていく竹内力の笑顔があまに子どもっぽくって、永遠の回帰を思わせてくれるのである。 PS この作品に引き合わせてくれたのは「eiga-fan Y's HOMEPAGE」の山下絵里さんです。山下さんの文章を読んでいると近緒と合い通じる部分がたくさんあって、思わずその文章に引き込まれました。今後、暫くは山下さんの映画レビューに引きずられて、未見のビデオ三昧の日々になりそうです。 |
I
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風に吹かれたタンブルウィードが、砂漠を越え都会に入って、やがて海に去って行く。その枯れ草ボールのイメージが、ロサンゼルスのボウリング場の玉と重なって来る。全てはイーズィに「転がって」いくのだといわんばかりに。これが『ビッグ・リボウスキ』のファーストシーンである。「ファーストシーンが秀逸な作品に駄作はない。」というのが近緒の法則なんだけれど、『ビッグ・リボウスキ』もズバリ当たり、である。 でも、この映画も日本じゃ撮れないだろうなぁ。主人公を含むボーリングチーム三人の好き勝手で、まったく噛み合わない会話というものがまず日本にはないし、「面白さ」の質が違うもの、、。 『日本人は本当は洋画なんか判らない。』といった映画評を何処かで見たことがあるんだけど、本当にそうだと思う。私が「面白い」って思っている事でも当事者の文化圏の人間から見ればかなり「日常的な空気や間」なのかも知れなくて、それを日本人である私が「有り難がって」いるだけかも知れないし、、。でも、感情の起伏の先の先まで読めちゃう日本映画が、そんな部分にコアを置いて映画作りをしている限り、なんにも面白くないのも事実。(特に日本の「お洒落」ぽい映画は、その辺りを弄くっているくせに、逆に底が浅くてげんなりさせられる事が多い。) 例えばリアクションが遅くていつも仲間に罵倒される情けないドニーを演じる怪優スティーヴ・ブシェーミは、絶対日本にいないタイプでしょう?『コン・エアー』でのハンニバル博士のパロディみたいなスカしをやらせるとこの人、絶品ですよね。この映画でも「何でなんでなの」っていう退場の仕方をするんだけど、それが又、ハマってる。 日本じゃ、こういう最後まで「添え物」の癖に絶対に「おまけ」じゃない俳優もいなければ、そういった俳優を配しても映画が充分に成り立つ「面白さ」を持つ映画も少ないんじゃないかなぁ、、。 ブシェーミの事ばっかりみたいだけど主人公のリボウスキを演じるジェフ・ブリッジズもいい。ホント、こんなだらしなくて情けない男っているよね。でも、最後の最後になると意外とまともな面があったりする部分はジェフ・ブリッジズだから出来るような気もするし。 何と言っても近緒のお気に入りはヴェトナム戦争の思い出に生きるウォルター演じるジョン・グッドマン。ウォルターがこの映画のエンジンだよね。決めつけ、激しすぎる思いこみ、、ウーン他人とは思えないよ〜この性格。リボウスキとウォルター、この二人がドニーの骨の灰を風葬にした後、抱き合うシーンは「泣き笑い」の妙。 そして見終わった後、「これってイージーライダーの文脈だ!」と思ってしまった私は変?「熊を喰う時もあれば、熊に喰われる時もある。」基本的にはケセラセラなんだけど、なんせ彼らは「アメ車」だからパワーがあり過ぎるんだよね。 PS デュードが何時も手にして飲み続けているホワイト・ロシアンのレシピは「ウォッカ40ml、カルア20ml、生クリーム20mlを氷とシェイクし、グラスにそそぐ」のだそうである。ちなみに近緒は子どもみたいだけどソルティドッグがいいな。 |
ファーゴ
ファーゴ
監督/脚本 ジョエル・コーエン イーサン・コーエン
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主人公が女性警察署長で妊婦(フランシス・マクドーマンド)、、小説なら大いにあり得そうだが、過去のシリアス映画では絶対に登場してこなかった人物造形である。この主人公の登場場面が秀逸。早朝に警察からの電話が掛かって来て、ベッドで眠りこける夫婦の内、賢妻が夫の代わりに電話を取ってやるように見せながら実は、でニヤリ。 そして一旦出かけた筈の女性警察署長が戻って来て「どうしよう、バッテリーあがってるわ。」で、大体の夫婦関係が判る、、、脚本が凄いですね。映画の脚本の見本みたいな出来です。そしてドッキリするようなカットが投げ込まれるように、突如挿入される。(そんなカットの中でも特にブレイナードの町に立っている人形のグロテスクさは、この映画のテーマと重ね合わせて考えて見ると特に印象深い)そして幾何学形ような切り取られたカットの数々。 淡々と日常が進み(映画の中では警部マージを軸にして実に日常的なエピソードが丹念に積み重ねられる。)それと同時に淡々とトラブルが積み上がって行き殺人があっさりと実行されていく。 この辺りは本当に「怖い」。夫の狂言誘拐が本当になってしまって、拉致され椅子に縛り付けられた妻。彼女を目隠しする為に覆われたマスクから白い息が立ちのぼり、それを不思議な物体のように眺めている犯人の口元からも、白い息が上がる。そんな、寒冷地なら自然に起こるなんでもない光景をカメラはじっくりと捉えていく。 「どうしてそんなはした金で人を殺すの。人生にはお金よりもっといいものが在るわ。見渡せばね。」これはラスト近くに犯人を逮捕したマージが呟く言葉だが、この映画の中では「感動」や「まとめ」の言葉としては位置付いていない。彼女の言葉も淡々としておりやはり何かが「ずれて」いるような感覚が残っていくのだ。見ようによってはこれは本当に「怖い」映画なのかも知れない。 PS 犯人役のスティーブ・ブシュミは面白いねぇ、、ホント。映画の中でも彼は「変な顔」と何度も何度も言われてるけど、ホントに「変な顔」なんだよ。 |
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映画の前半は、冒頭の「奇妙すぎる偶然の一致」のすり込みが強すぎて、あれや、これやと推理を働かせながら映画を観ていた。(マグノリアってミステリーなの?) で、あのシーン。ホントに吃驚したんだからもう!下手なホラーよりずっと怖いよあれは、、。大きなカエルが空から降ってくる。どんどん降ってくる。爆弾みたいだね。こぶし大の雹なんかは結構あんな感じで降ってくるんだろうし、昔、どこかの港町でも竜巻に巻き上げられた魚介の類が降って来た事があるらしいから、なんとなく想像できなくはないけど、、。カエル・オンリーっていうのはねぇ、それに監督はやけにあの場面を執拗にリアルに撮ってるみたいだし。(宗教的な意味があるらしいんだけど、私には、この監督、これで楽しんでるな。って感じしかしなかった。) これが、ハリウッド映画の「THE NEW NEW WAVE」だって。確かに、映画見てて「ここまで来ちゃったんだね。」っという気はしたわね。途中で登場人物は「歌」を唄っちゃうし、殺しの犯人は捕まらないし、警官の銃は盗まれたままだし、自殺者は空から降ってきたカエルに脳天、ブッ叩かれるし、、そうだよね、、まるで「現実」だよね。とりとめないし「収まるべきものは、収まるべき所へちっとも収まらない」しね。 その癖、三つほど用意された親子間の対立ケースっていうか、拗れみたいなのは、実にオーソドックスなのね。性的虐待やら親権放棄やらあまりにオーソドックスで、ここでそのことについて、あれやこれやと取り上げる必要もないくらいなのね。ただ、それらに関わっての映画作りの「視点」が従来のものとは違っている感じがする。声高かに騒ぎ立てるわけでもなく、淡々と描写するわけでもなく、ひょっとしてこの監督「許し」を描こうとしているのかしらん。で、映画の視点が奇妙な味わいになるのかなぁ、、。 オゾン監督も面白いけど、、この人の場合は「なにをちょこざいな子わっぱめ」級の変わり加減って言ったらいいのかしら。でも、これぐらいが丁度いいのかも。日本文学の中には「この線」を狙って「もういいんじゃない?」って感じさせる作品が結構あるんだから、、。なんたって映画は娯楽なんだし。いくら新しくたって「感じ」なきゃ一緒だもんね。 |
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萩原一至の漫画「バスタード!!」は近緒のお気に入りである。ただ、この作品、まとめ読みをしていないので、ストーリー展開が全然判らず、いつどんな漫画雑誌で読んでも堕天使と天使・悪魔・魔人が哲学的及びビジュアル的(とてもビザール)に戦っている場面しか頭に入って来ないのは残念だが。この「ドグマ」を見て「バスタード!!」を思い出すのは私だけかな。登場人物はみな面白く愛着を感じさせる。主演のマット・デイモン(死の天使:ロキ)とベン・アフレック(見張る天使:バートルビー)コンビは映像的な見栄えも勿論だが、この天使コンビと対を成すような人間コンビのジェイ(ジェイソン・ミューズ)としゃべれない髭男サイレント・ボブ(ケヴィン・スミス!)もいい。中でも近緒は、神と直に接触する大天使メタトロンを演ずるアラン・リックマンが好み。「ダイ・ハード」に出演してた時は、そうでも無かったケド、役どころが洒落者天使の天使のせいなのか、その物腰もファッションセンスも甘くて渋いんだ。 近緒は時々、惚けたようにセパレートドレッシングのボトルを振っては眺め、その分離と混濁を楽しむ。シリアスとコメディ、ケヴィン・スミスだって天使達による大殺戮シーンを撮って撮れない事はなかっただろう。それをしなかったのは、この作品にあくまでコメディタッチの衣が欲しかったせいか。日本人の私にはわからないけれど真摯に立ち向かうには深刻なテーマなのかも知れない。いい人(天使)・バートルビーが、人間に絶望し、神が天使より人間を愛していることに絶望して、世界の破壊を企てるのだから。彼の天界帰還の思いは強すぎる。最後に彼の思いは違う意味で報いられるのだけれど。バートルビーがジェイのサブマシンガンの弾幕を浴びせられ掛けて羽根をもがれていくシーンや、もげた後の羽根の軸から血が滴り堕ちるシーンは、この映画の唯一の「映像的表現」かなぁ。ロキなんかは羽根をもがれて自らの神性の喪失を惜しんでいないのに対して、バートルビーは羽根をもがれるのは計画的なくせに、何故か「悲痛さ」を感じさせるのね。 |
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「作り手側の加齢と創作活動の関係」も近緒が映画を楽しむ時の一つの要素だ。 日本で言えば「御法度」の大島渚監督とかね、「どら平太」の市川崑監督とか、表現者としての感性が年齢と共にどんなふうになっていくか、、。 75歳を過ぎたロバート・アルトマン監督の作品、「クッキー・フォーチュン」。この映画も悪い意味ではなく「目の高さ」が随分高い。まだ脂気の抜けていない年齢だと、こんな風にゆったりと包むこむペースでは、世界を描けないないだろうなぁと思う。(中には「ビッグ・リボウスキ」みたいな映画もあるが、あれはあのだらしなさ自体がテーマだから。) 例えばエマ(リヴ・タイラー)に対する視線は、もう完全に孫娘をみる視線だ。、、それでもエマと彼女の恋人である新米保安官(クリス・オドネル)のやりたいさかりのSEXシーンとか、事が終わった後のエマの体臭をウィリス(チャールズ・S・ダットン)に嗅がせるあたりは、映画人のしゃれっけというかサービス精神をちゃんと維持してるのが良く判る。でもやっぱりアルトマン監督が、共鳴しつつ撮っているのはこのウィリスやその周辺にいる年代層の人間なのではないかと思う。 それと「毒」の織り込み方も、もう「慣れちゃって」という感じ、、。題名からしてからが、にやりっていう感じでしょ。「クッキー・フォーチュン」、クッキーの中からおみくじが出てくる「おみくじお菓子」の事なんだって。近緒も一度食べたことがあるようなないような、、、。 こういう映画が好きな人はとことん好きだろうなぁ、、ただ近緒はロバート・アルトマンという監督の作品は、今後もあまり見ないだろうという気がする。私にとってアルトマンは「監督で映画を見る」タイプの人ではないのだろう。日本で言えば三池監督、外国でいえばクローネンバーグ、デヴィッド・リンチ、リドリー・スコットなんかが私のタイプなんだけれどね、これは完全に趣味の問題なのかな、、。 PS この映画のリヴ・タイラー、可愛いね。近緒は98年『アルマゲドン』の彼女より、このショートカットのエマが大好き。この映画、リヴとウィリスの楽しげな歩き方をみるだけでも値打ちがあるかな。 |
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8歳のアメリ(フローラ・ギエ)か、かっ可愛い!!小さな頃の独り遊びをこんなに沢山、そしてこんなに身近な視線で見せられたのは初めて、、、。もうこれだけで充分満足、、。 これって日本の女の子達、女達にドキューンの要素を余す所無く備えた映画だね。映画マニアじゃない女の子だってDVDで揃えたい一本になるんじゃないかしら。 でもジャン=ピエール・ジュネ監督は日本の女の子のツボをリサーチしてこの映画を作った訳じゃないと思うよ。だってあのエイリアン4とかデリカテッセンを思い出して見てよ。 対人障害の女の子の恋愛物語だよ。おまけに内向的で空想癖があるなんて、、日本でオタク女は顔がイケてないと、どんなに迫害されるやら、、で迫害する方のフツーの女の子達がアメリみて夢見るのは何故? でも、あれだよなぁ、美味いケーキはどうやったって、誰が喰ってもうめーモンな。畜生ー。フランス野郎のセンスには負けるわ。なんにもいう事ねぇっす。「不当な干渉だ! ヒトは人生に失敗する権利がある」だとー、、思わず賛成!!と叫んじまったぜぃ。 というわけで近緒の中では二つの人格が分裂しております。 第一の人格は、「アメリ(オドレイ・トトゥ)の足首と靴と靴下がとても可愛い」「あんなヘヤースタイルが私も似合ったらいいのに」「今日から私の好物はクレーム・ブリュレよ」と言っております。 第二の人格はアメリ(オドレイ・トトゥ)なんてミスター・ビーンと同じじゃないと呻いております。 だけどこの二人がこぞって認めるのがジャン=ピエール・ジュネ監督の、征露丸を砂糖でくるんじゃう征露丸糖衣の技法です。それぞれの個人に付随する好きなものと嫌いなものを並べながら紹介されちゃうと、「あるあるそれ」って誰しも思うわけで、もうこの時点で、よく見るとかなり危ない人たちが十年の知己のように思え、彼らに対する愛着が瞬間的に湧いちゃうわけですね。するとアメリが小細工をしまくって彼らを幸せにしようとする努力がこれまた効いてくるわけで、、。 結局、冒頭に書いたけれどジャン=ピエール・ジュネ監督の映画を編んでゆく感覚のリーチが、狂気もやさしさも全て含んで肌に息のかかる距離にあるって事でしょうね。 それに勿論、あのアニメ感覚。 あまり他の映画評論ではこの事に触れられていないように思うんだけど、ジャン=ピエール・ジュネ監督のエイリアン4が一番「エイリアン」自体を綺麗な生き物として表現していたと思うの。 (逆に言えばギーガーのエイリアンからは最も遠い存在だったけれど、ギーガーのグロテスク美とジャン=ピエール・ジュネのそれとは質が少し違うみたい。) アメリの中でも置物や人形が喋るシーンがなんどもでて来るんだけれど、これらのキャラ、一見ファンタジックで可愛く見えるようでルーツはエイリアンの「美」と共通するものがあるよね。 可愛い癖に何処か切れる様な怖さがある。こういう感覚って一旦バランスが崩れてしまうとどうしようもなくグロになるか屑になっちゃうのよね。 その辺は香水と凄くよくにてるかも知れない。 ジャン=ピエール・ジュネ監督のアメリはよく調合された「香水」である。 そのあたりが二つの分裂した人格を統合する私の意見なのだ。「アメリ」これはよく見ると凄い映画なのかも知れない、、、。 PS お化け屋敷で髑髏の仮面を被ったニノ・カンカンポワ(マチュー・カソヴィッツ)が背後からアメリを脅すシーン、すっごくエロチックだったねぇ、、。あの時はアメリと一緒にチカの腰も萌えちゃったよ。やっぱフランス映画だわ。 |
飛蝗の農場
ジェレミー・ドロンフィールド 創元推理文庫
越前 敏弥 訳
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ここの所、近緒の周辺では映画にしてもテキストにしても、「現状を読み解いていくために過去に遡っていく」というリバース(逆回転)仕立ての創作がやけに目立っている。ひょっとしてこれは最近の世相を反映した暗示的流行なのではないかと思うぐらいである。
個人的には創作活動の中の、リバース手法は「狡い」やり方だと思う。特にミステリー系で、これをやられると読者はひとたまりもなく文章を半ば強制的に「読まされて」しまう。 一言で言ってこの全編を覆う「奇妙さ」は、存在の残像が残す「ぶれ」を眺める感覚なのだと思う。忍者が使う「分身の術」を漫画などでは、忍者の高速移動による残像効果で説明しているが、それに近い。最も「飛蝗の農場」のそれは相当に暗くて根深いものだが、、。 「存在の残像」?どういう意味か判らないって?それは本書を読んでのお楽しみ、、。 |
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スカートの下にパンティを付ける事も禁じて電動ヴァイブを挿入させたまま街を歩かせる。やがて女は自ら「恥辱」を反転させながら今までにない快楽の波に飲み込まれていく・・その女は貞淑な人妻であり、、。 これなんかはSM小説の世界では、古典的とさえ言えるシチュエーションで、AVでも、素人さんのご夫婦でもこれをなぞったりする事は珍しくない。塚本監督がこの映画の脚本を書く時だって、そう苦労はしていない筈だ。 第一、携帯電話で主人公りん子に送られる言葉の中身は「八百屋で(オナニー用の)キュウリとなすびを一本ずつ買って来い。」だの「電動こけし」だのスポーツ新聞連載のエロ小説レベルでしかないのだから。 要するに脚本の骨子となるものは、日本男性なら誰でも考えつく俗っぽい性的ファンタジーであり、映画を作る上でもAV制作の困難さを上回るものがあったとも思えない。 それでも「6月の蛇」は、映画として良質なのである。 ・・こんなに身を硬くしながら映画を見続けたのは久しぶりの事だ。 「6月の蛇」は、主人公りん子に猥褻行為を強要するストーカー男にのみに焦点をあてるのなら、エロチックサスペンスドラマという事になるのだろうが、この映画を見ることで感じる緊張感は、一般的なサスペンスドラマから得られるような意識の表面を走るだけの軽いものではない。もっと生理的で、根元的な部分に迫ってくるものなのだ。 もっともこのバイブレーションは「6月の蛇」に限らず、「鉄男」をはじめとする塚本作品のすべてに(妖怪ハンターは除外)通底するものなのだが、「6月の蛇」ではそれが際だっているのである。 このパワーの増大は、「6月の蛇」の心理的SM行為そのものと言った筋立てにも助けられていると思うが、なによりも塚本監督の書く「絵」の変化が大きい。 塚本作品から縁遠いものは「お洒落」である・・それが「6月の蛇」では黒沢あすかの起用と、スクリーンを覆う青黒い画面と雨の都市を描いて思いがけずスタイリッシュに仕上がっている。 今までのドロドロとしたエネルギーに溢れた泥絵のような作風の見栄えがほんの少し、しかも洗練という逆のベクトルに変わっただけで、より塚本監督の情念が息づいて見えるとは不思議なものだ。 ただしこのステップアップは、黒沢あすかという女優の起用があってこその話だろうと思う。 塚本監督が「妻の役は下品なことをしてもらうので、上品な女優でないと無残なことになると思って黒沢さんにお願いした。」と言ったこと、いやそれ以上の効果を黒沢あすかはこの映画に与えている筈だ。 「ボーイッシュなヘヤースタイルに黒縁眼鏡。ホントは綺麗なくせにださく見せる演出がわざとらしくて嫌。」とか思うのは最初のうちだけ。後はぐいぐいと黒沢あすかが演じるりん子のオンナの普通さ、業のありように魅せられてしまう。 ラスト近く、りん子が夫と夕食を採る場面の愛らしさと、降りしきる雨の中でカメラフラッシュに晒されながらの吠えるようなオナニー姿の対比は、圧倒的で感動さえ覚える。 この黒沢あすかがあってこそ、最終的にりん子と夫は新しいお互いの関係を再構築出来たのかそれとも、、?、と言った感じのあの微妙にずれていくエンディングの感覚が得られるのだろう。 まあいずれにしてもこの映画の勝者はスクリーンの中ではりん子であり、スクリーンの外では黒沢あすかと言えるだろう。 勿論、それは、このキャストと絵作りで「6月の蛇」を撮り終えた塚本監督の才能があってこその話だが。 ただ後半に差し込まれる殺人クラブ等の妙なエピソードや、イメージ画像は蛇足だったかなと思う。(・・この人の今までの映画って、この蛇足部分で全部出来てるんだけど) PS 最後まで疑問なのはコラムニストの神足裕司を、過剰なまでの潔癖性の夫に配したこと。どちらかというと容貌魁偉な神足裕司のイメージからは潔癖性の夫は連想できないし、神足裕司の夫とストーカー役である塚本晋也の「うんこの消臭薬飲んでるのがわたしらの共通点ですよね。」といった会話もまるで二人に似合っていない。 |
「クチュクチュバーン」
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こんなの書評書けねぇや。て感じで放置してた作品なんだけど今度の9月11日解散総選挙騒ぎを見てて、おーこれじゃん!ていうインスピレーションが湧いた。 「クチュクチュバーン」は人間が「意味のない」強制的なトランスホームに巻き込まれていく姿を淡々と記録した(のように見える)作品で、執拗に「変化する意味」を知りたがる人間(読者)を、これまた執拗に「意味など無い」と否定し続ける世界そのものが描かれている。まあそれが肝の作品だ。「肝の」と書いたが、それしかない作品かも知れない。 「奇想に次ぐ奇想」という評価もあるようだが、休日にはビデオ鑑賞が趣味と言う人なら、この程度の小説が展開する世界を「奇想」とは呼ばないだろう。テイストだってバーホーベン監督の「スターシップ・トゥルーパーズ」に似てるし、、。 やはり「無意味に変化していく世界を徹底して書き貫くこと」これがこの小説の総てなのだ。 しかし、硬くてごろんと鉄のようにただそこに転がっているだけの作品は読んでしまえばそれっきりなのだが、現実の世界と重ねて読むとそれなりにスリリングな部分もあるのだ。マックとマックポテトみたいなものか。 例えばこんどの参院選なんてまさに「クチュクチュバーン」の世界だ。断っておくけれど小泉某の「自民党をぶっこわす」だとか岡田某の「政権を変える」という人間の意識がもたらす変化の話ではない。 例えば劇場型犯罪の次に劇場型選挙がいとも容易く登場した事実だとか、少し前なら政界のドンと言われた人々が影も形もないなど、人為以上の「時の流れ」がもたらす変化の猛威と、それが加速されている状況を言っているのである。 恐らく時の流れを加速しているのは間違いなくネットなどの情報網の進化だろうと思うのだが、それに加えて、多くのバグを生みながらも過剰情報に対応していく人間の意識の方が、化け物じみているのかも知れない。 クチュクチュバーンという変化が二つに分けられるなら、クチュクチュが人為にあたる部分なのだろう。そう日本中のあちこちでこうしている間にもクチュクチュはすでに始まっているのである。 |
I
saw a movie.
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何を今さら江戸川乱歩、、、、ちょっとでも本読みを気取る人なら、乱歩作品の映画化なんてもううんざりって感じでしょ。 だからこの映画「乱歩地獄」に納められた4本の短編が初めての映画化だと聞いたらちょっと吃驚するんじゃないかしら。 まあ確かに、冒頭の「火星の運河」(竹内スグル監督)なんて、映画化しようとは考えないでしょうね。 他の三本だって映画化するには小味だし、、でchikaもこの映画、見たには見たんだけど、レビューなんか書かずに、そのままうっちゃっとこうかって思ってたんですけど、結構この映画、後からなんだかじわっと来る部分があるんですよね。 「乱歩地獄」は短篇オムニバス形式で、四人の監督が原作をそれぞれの解釈で映像化してるんだけど、4本共に浅野忠信がメインで出てて、彼の鬱陶しい長髪がいつも見られるって寸法(笑)。 三本目の短編は『芋虫』。これが未だに映画化されていなかったとゆーのはちょっと不思議。 締めくくりの短編『蟲』は、どこかすっとぼけた浅野君の魅力が一番良く出てる作品。 この映画、江戸川乱歩の作品を扱っていながら、その猟奇ぶりが、現代の世相と完全調和している所が、後を引く味わいになってます。こんな感じでこれからも江戸川乱歩作品って映画化され続けるのかなぁ、、。
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