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I saw a movie7 ケント。私は待ってる! |
「鉄鼠の檻」
京極夏彦 講談社文庫
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昔のラジオの事を思い出した。チャンネルを合わしていても「音」が流れる時が多かったものだ。そして暫くすると「音」が又戻ってくる。そういうものに耐えられない人は、チャンネルを調整し始める。そのうちその事自体が目的になったりして。まあそんな具合にノイズの中を儚げなる指先でトリップする訳。 それにしても分厚い、、。この圧倒的ボリューム故に京極の作品を愛好する読者も多いのだという。「その世界」に浸っていたければ、書物に限って方法は一つしかない。読み続ける事だ。そして「浸っていたい世界」とは麻薬的な性質を持つか、果てしなくその読者の個別の感性に近いか、という事になる。 京極の場合、麻薬的効果を醸し出す一つのトリックは、坊主の読経の如きありがたき催眠効果を有す知識開示に割盛れたページにあるのだろう。 私はその魔術の為に、割り当てられた文章の半分以上は理解していない。場合によっては読み飛ばしてさえもいる。それでも筋は判るし、面白いだからあれは「技」なのだと思う。 それと感性の問題。私はこの辺りの事を親しく人と情報交換をした事もないし、その為の言葉を持ち合わせないのだが、、人が世界を意識するのはちょうどラジオのチューニングに似ている部分があるように思う。「ノイズ」から正確な音が流れ始める微妙な部分までを京極は増幅するのが旨いのでないかと思う。そうでなければ京極作品は一部受けのマニヤックなものになっている筈だ。 鉄鼠の檻。十分に楽しませて貰いました。妖怪の出番が少ないのがちょっと寂しいけれど。 |
I
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(フランス / オリヴィエ・アサヤス監督作品)
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マギー・チャンが主演。ストーリーはサイレントの『吸血ギャング団(LES VAMPIRES)』のリメイク映画に出演するためパリにやってきた香港の女優マギー。ところが、中国人が主役のイルマ・ヴェップを演じることに疑問を持つスタッフがいたりして、親身になってくれるのはレズビアンの衣装係ゾエだけ。このゾエが、マギーのコスチュームであるラバースーツを媒介にして、マギーに秋波を送るあたりが何とも、隠微な官能を醸し出す。そのうちにマギーがイルマを演じることを熱望していた監督のルネはノイローゼ気味に。で、トラブル続きの挙句にできあがったラッシュフィルムを観て、関係者は誰もが失敗作だと肩を落とし、ルネ監督は「こんなのは俺の映画じゃない。」とか、自分の映画作りのフェチな動機を忘れて雲隠れしちゃう訳。ところが、監督を交代して撮影再開となるはずの日、密かにフィルムを編集しなおしていたルネがスタッフを集めちゃう所がお茶目。この映画は、最後に、実際にルネ監督が再編集したフィルムが流れて終わるんだけど、このフィルム、昔実験映画でやってたようなフィルムにスクラッチを入れるやつなのね。イルマの目からスクラッチの怪光線がでたり、まるで一昔前の大学生の映研ののり。でも実に良いリズムなのよね、これが。続いて畳み込むようにして(ゆっくりしたビートだけど)エンドロールに被さる音楽は、気怠いフランス語の「ボニーとクライド」で、、これが実に気持ちよくて、なんだかこの余韻に浸るために映像の数十分があるような、、、。でも、この映画、劇中の監督が「中国人・ラバースーツ」この二つのアイテムだけで事を起こしちゃったように、マギー・チャンのラバースーツ姿がなければ成立しなかったんじゃないかな。でも、こんな映画大好き。新食感って奴かな。 |
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玩具修理者 人獣細工
角川ホラー文庫 小林泰三
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何時かは読もうと思っているけれど、タイミングが合わずに、その本自体を手に取らない。そんな巡りが私にはあります。玩具修理者もそんな作品の一つでした。小林泰三の人獣細工も同様です。読後感。「お見事、」の一言です。素晴らしいぐらい構成のしっかりした短編ホラーですね。ただ、読後にそれが納得されるのであって、読み進めているときには常に読者は「不安感」につきまとわされる。それが巧さなのでしょう。書評ではレイ・ブラッドベリを彷彿とさせるというものがあったらしいですが、私は血と肉と粘液という事で和製クライブ・パーカーですかね。しかし、猫の瞳のイメージは美しく結晶化しますね。 |
角川ホラー文庫 小林泰三
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文庫には表題作である「人獣細工」と「吸血狩り」「本」の合計、三作品が収録されている。「人獣細工」は「玩具修理者」と良く似た味わいのある作品、ストーリーの紹介はご法度だろうが、「これでもか」という闇の味わいが、最後の展開で変質し、読み手によれば、不思議な事に、それが返って救いになった人がいるかも知れない。(実をいうと私がそうです。)個人的には「本」に惹かれる。「名付けることが禁じられた土地、ゲリル」や「親方様」の幻視は私の肌に合うし、作品を貫くハードウェアとソフトウェアの関係を巡ってのアイデアや考察は、今後、21世紀における多くの作家の課題となるに違いない。勿論、「本」は私がこだわる小説におけるヴィジアル性にも富んでおり、主人公の女性がゴム手袋をつけて「本」を読む場面などは思わずゾクッとさせられたものです。 |
I
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私はこの手の映画に対してミーハーな部分が強いらしく、そんなところが軽率に見えるのか、ジェンダー問題に詳しい肉親の一人から嫌われている。それでも私は、ジェンダーを扱う「映画」は「主人公が可愛いか、それとも練り上げたテーマ追求で見せるか。」そのどちらかに拘らないと、出来のいいものは作れないし、見る方もつらいと思うんだけど、、。 「蜘蛛女のキス」はテーマの展開でOKでしょう?それがあるからあの配役で喝采が送られる。映画はやはり綺麗であるか「面白く」ないと駄目。 で、この作品の場合、私の「面食い基準」でいうと、キム(スティーブン・マッキントッシュ)はちょっとずれるのよねぇ。でもWebでデータ集めると彼が「可愛い」ばっかりで、、。(確かにキムがプレンティとオートバイの練習してる時なんかはグッドだとも思うけどね。) キムの若い頃の役者さんは凄く可愛いし、彼を守ってやるプレンティス役も不良ぽい色気があってgood。この配役でそのままやってくれるとビジュアル的には凄くいいんだけど、そうはいかないのよね。(年齢や演技力の問題をクリアしても、二人とも色っぽ過ぎるから映画自体が違うものになっちゃうんだろうね。) 本編のプレンティ(ルパート・グレイブス)は34歳の不潔ぽい未成熟な悪ガキで、主人公キムは、やせぎすの肩幅広い体格(こんな所に目がいく私はホントにミーハー)である。特にプレンティ役のルパート・グレイブスが私には馴染めない。これは映画の人物設定上から来る印象なのかなぁ、確かにああいう感じでヘルメット脱がないで何処へでも入っちゃう人いるし、職業柄という設定上有効な姿だし、、でもなぁ、、彼の所作を見てるとまんざら役作りだけの、、、という事で私の場合、この映画のビジュアル面では「ブーッ」です。 でも映画の冒頭、キムにキスされかかったプレンティが「俺はストレートだ」って避けたのを「私もよ」という台詞でキムに反撃させた時点でこの映画にノックアウト。ああ、この映画は「生き方」映画なんだって妙に納得してしまった。 そう考えると“性同一障害”に悩み性転換をしたキムを演じるスティーブン・マッキントッシュの配役の妙や演技の自然さが良く理解出来ちゃう。 そしてプレンティ君の「君のゲーム(性転換)にはめられた」から始まるトラブル・トラブルのストーリーとキムの苦悩。でも、冒頭に戻って彼らの回想シーンから考えるとプレンティ君は決して純粋なストレートじゃないはずなのね。だってキムと再会してから部屋に帰って、キムと自分が写っている昔の写真を見て一人にやけてる彼は、きっとなにかを期待してる筈なんだから。 それにしても法廷で再会する彼らのシーンは「走れメロス的友情劇」のタッチで撮影されていて不思議な感じがした。勿論、プレンティとキムがお互いを見つめ合っているまなざしは微妙に違うんだけれど。「靴下片一方」の表現が出来るキムと「やったぜ、来てくれたのか」って感じのプレンティとは世界の認識力において凄い格差があるんだけど、全体としては「ともに戦う男友達」って印象なのね。 裁判中二人の関係をもう少し説明してと言われて「彼は、まあ、、私の尊敬する人で、彼からは人生における色々な事を学びました。」と答えるキム。どう考えてもプレンティがそんな事をキムに教えられる筈が無い。おそらくオカマとののしられながらキムは様々な事を、自分とは人生を共有出来ない男達との関わりを通して自力で学んで来たに違いない。プレンティはそんな男達の一人だったに違いない。まあ、そんな彼らがそのあとベッドインしちゃうわけだからそれでいいんだけど、、。でも彼らが結ばれて良かったと思わせて呉れるのは、やっぱりこの映画、「映画」として出来がいいのかなぁと思うのである。 それと最後の性転換ゴシップネタ売買のどんでん返しは、ちょっと余計な感じがするけど、「強さ」をああ表現しなければいけない現状っだてことの裏返しかなぁ、、。 ps 乳房が上を向いても下をむいても、つぶれない垂れない。特殊メイクがちょっとバレバレだぞー。 |
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I
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監督:脚本 ジュゼッペ・トルナトーレ
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「海の上のピアニスト」、タイトルだけでぐっと来ます。「船の上で一生を過ごした天才ピアニストの生涯。」これだけでもう「物語」ですよ。 T.Dレモンの箱の中に入れられ、大西洋を果てしなく往復する豪華客船ヴァージニアン号のピアノの上に捨てられた子。 彼の名はナインティーン・ハンドレッド=1900。時が世紀の変わり目を告げる1900年に、この船で拾われた彼は船員達にそう名付けられた。「くそったれ20世紀」。 揺れる船内のピアノ演奏シーンや、1900(ティム・ロス)が普通に歩けるのに、マックス(プルート・テイラー・ヴィンス )の方が揺れてる場面撮りとか見せ場もなかなか、。 噂に聞く「見所であるピアノ演奏対決シーン」は音楽に疎い私には、よく判らなかったのは正直な所(終盤技巧に走り始めた対戦相手にムカついて1900の闘争心に火がついたのかな?だってそれまで1900は相手の音楽に涙してたもの)だけど、でも小道具の煙草の取り扱いはニヤリとさせられた。やっぱりあの辺のお洒落感覚は日本人はかなわないね。それとか1900のピアノ演奏にシンクロした人物描写とか、彼を取り囲んで音楽を楽しんでいる移民のシーンとかジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画撮り自体が旨いし存分に楽しめた。 「夏になれば夏を嫌がり冬を憧れ、冬になれば冬を嫌がり、、それで人は旅をする。でも僕はそんなのは嫌だ。」1900はそう語り同時に、夢見る通りに音楽を奏でる事が出来る男だ。そして彼は、「人生は無限だ」だという海の声を聞きたがるくせに、「僕の音楽は僕と一緒でないと駄目だ」と言い、無限の選択肢に恐れをなして「船」を降りる事が出来なかった男でもある。「天才」が船に閉じこめられたのか、船に生まれたからこそ「天才」だったのか。 、、、でも肝心なことは、人々がそんな彼の伝説を聞きたがり、そして彼の伝説に癒されるって事だろうね、「くそったれ20世紀」。 マックス(プルート・テイラー・ヴィンス )がいいですね。俺りゃ人生の達人だって顔しながら、時々目が神経質に動く場面があるじゃないですか、それに対してティム・ロスの瞳は病めるときも健康なときも何時も澄み切っているんですよね。マックスが充実した人生を送っている時と、しょぼくれちゃって1900の思い出話をする時の落差が、実は1900(ティム・ロス)の存在感を高めているんだろうって、そういえば映画の中のティム・ロスはいつもバリッとした格好をしてたね。 音楽はエンニオ・モリコーネ、やっぱこういう映画には彼がいいわ、とてもいい、、。 追伸 私の好きなデニス・レヘイン作品の邦題「スコッチに涙を託して」は悪評らしい。私はウェットでチープな人間だから、このタイトルと作品内容との間に違和感がないんだけれど。でもこの作品がそういった形で少しでもケチがつくのは悲しい事だと思う。映画「海の上のピアニスト」の原題はTHE LEGEND OF 1900。原作であるアレッサンドロ・バロッコの小説の方は「海の上のピアニスト」で紹介されている。この場合は邦題の勝ち。 写真は1900が一目惚れした移民の少女 メラニー・ティエリー、私は1900がこの少女に一目惚れしたシーンで、彼が「純粋な少年の心を残したままの青年、27歳」の設定であることを思い出した。 |
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I
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監督: 塩田明彦
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いい酒のように快い余韻がある映画。淡々と進む透明な変態映画なのである。「変態」さんにはある種の免罪符的な酔いをもたらす筈だよ。この世界に余り関係のない人(そんな人いるのかなぁ〜。)変化球の青春純愛映画に見える筈。大林宣彦監督の映画か、ツルゲーネフの「初恋」を思わせるような北原紗月(つぐみ)と日高拓也(水橋研二)の恋が始まって、やがてほろ苦い破局で終わる映画なのかと思いきや、、。 夕暮れの誰もいない教室で冗談半分で差し込んだ日高の鍵が紗月のロッカーを開けた。中から北原のブルマーを取り出し、顔に押しあて「紗月」を吸い込み恍惚に震える拓也、、、。そしてあこがれにしか過ぎなかった紗月と相思相愛だった事を知る拓也。風邪で休んだ拓也の家に高校を休んで訪れる紗月「風邪が移る。」「かまへん。」紗月自ら望んだSEX、女やの〜。 その紗月と結ばれた拓也は「その夜紗月の分身(フェテッシュ)達を燃やした。」。でもそれで収まらないのが「変態」の業である。後半、拓也に「神様が僕をこう生んだ」と言わせるシーンがあるが正にその通り、「変態」は決して治らない。 そんな拓也を知って正常側にいる紗月は拓也に「変態」の一言を投げつける。「誰にも言えない俺の姿を知ってくれている紗月」あるいは紗月いう名の「女」のフェテッシュを追い求める拓也。それに対して、拓也の「試せない愛」を試そうとする紗月はやがて「普通の女子高校生」の性意識から逸脱し始める。 この逸脱をサディズムの発露と見るのか、その他のものとして受け取るのかはこの映画を見るものの自由だろう。 でもこの映画どうしてここまで透明でリリカルなんだろう。水橋研二の眼が綺麗だから?つぐみのキャラクター?足フェチの場面だって相当にエロだけどAVのそれとは対局の位置にある(なにアップで撮るかどうかの違いだって?)。で、ふと思ったのは、これで年齢設定が上ならどうなるのかしらという事、、。すべての事に、おずおずとそして純粋に余裕もなく手探りで生きていた時代。その中に恋だって、勿論、変えられない「変態」だって含まれているんだ。ラストに流れるスピッツの「運命の人」は、この物語が永遠のファンタジーである事を感じさせる。 これからスピッツの「運命の人」を買いに行こう。 |
I
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のっけから「表面おしゃれコーテング・中身超どろどろ」の出だしです。こういうのが好きな人には「たまらない」映画でしょうね。近緒的にはこの映画「大好き」の部類にはいります。 「ペルディータ」はあんまり有名じゃないだろうから先ずはストーリー紹介から、、。 「メキシコ国境に近い町で、ペルディータ(ロージー・ペレス)はメキシコ人のロメオ・ドロローサ(ハビエル・バルデム)と出会った。彼と意気投合した彼女は、ロメオの車でメキシコに入ろうとするが、その後部座席にはシートにくるまった死体と札束が無造作に積んである。ロメオはたった今、銀行強盗の仕事から家に戻る途中なのだ。 ロメオは国境のアメリカ側で銀行強盗をし、国境のメキシコ側では、観光客相手にサンテリアという異教の儀式を見せて金を稼いでいる男だった。 墓地で新鮮な死体を盗み出してきては、観光客の前でそれを切り刻んでみせるのだ。その現場を見たペルディータは(どうせなら生きた人間を切り刻んだ方がいい)と提案する。そして二人は再び国境を越えて、若いアメリカ人カップルを何の躊躇いもなく誘拐してくるのだった。同じ頃、マフィアのボスであるサントスから、ロメオにトラック輸送の依頼が来る。中身は化粧品の材料にするトラック一杯の胎児だった、、。」 ヒスパニックの被差別待遇に理解のある所を示して命乞いをする「金髪の若者」に笑い転げる二人。同じくこの青年にやがて殺される事になる運命を教えながら「学校教育の穴を埋めてた」とのたまうロメオのユーモア。誘拐された娘を捜し当てた父親が実にあっけなく交通事故にあうシーン。そしてその側の家でその娘がなにも知らずにSEXするシーン。 そんな感じで、時々どきっとするようなシーンが「映像的」にも「テーマ的」にも何度もでて来るんですよね。ドロローサとペルディータがやりまくっている頭上から急降下してくるジェット機のシーンなんか「バッファロー66」の最後の銃撃シーンみたいに思わず「目から鱗」状態。 最近のSFX映像やプロモーションビデオまがいの映像テンポになれた目から見ると、この映画の本編のベース部分はそれほど刺激的ではないんですよね。どちらかと言えばオーソドックスな表現なんです。ここに異質な映像や価値観が突っ込まれてくるので、それらが目や意識に焼き付く仕掛けなんですね。 「人間は変わっているほどおもしろいのよ。」とペルディータ、おっしゃる通りの世界が映画の中に展開されています。私もおおぼらをふく男は頭が良くて大好き(映画の中だけでだけど)、そしてパワフルな悪女も好き。 小悪魔的な悪女は、結構「映画の十八番」なんだけど、この映画に登場する「ペルディータ的」は凄く斬新で魅力的ですよ。 ただ、やっぱり映画だから、時間が経つとどんなヒロインであっても人間の陰影を書き込まざるを得ないのよね。結局、「何をしでかすか判らないのが魅力」のペルディータにも、一定の感情の法則とかウエットな部分が見えて来るわけ。ペルディータは最後にカップルの行方さえも気に掛けながら彼らを逃がしてやるんだけど、元はと言えば彼らを浚ってきたのは彼女の気儘が原因。この変化の過程が、ペルディータの性格づけからして彼女の「成長であったり覚醒」であったりするわけがないのだけれど、それでも最後は「良いおんな」としてペルディータはエンディングを迎えるんです。 これを「残念」と評価するのか「正統」とみるのかは見る人次第なんだけど(後者を取る人はエンディングでベガスを彷徨うペルディータに共感するだろうし、そうでない人は、なんだペルディータって結局はただのいい女じゃないかと思うだろうね。) 監督がいう『決して融合することのない二つの異なる人生観の衝突』はこの映画の中でかなり成功してるし、見ていてとてもスリリングなだけに、ペルディータの変化だけはもう少し整理あったらと思う。でも この映画、前半は ペルディータで後半は、ロメオなのかな、、、。 |
「神は銃弾」
ボストン・テラン 文春文庫
田口俊樹訳
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随分、前に購入した本だが体調が思わしくない日が続き「つんどく」にしておた小説である。(正確には始めの数ページとのかみ合いが悪くて読む気力がわかなかった
のだが、、。)最近は本を読むのだって体力が必要なのである。 自分自身を、無力ではあるが倫理観に優れた人間だと信じるボブ・ハイタワーがケイス・ハーディンを「傷つけ傷付けられ」ながら、彼女に導かれシープから虚無を腹には抱えはするが少なくとも、物事が「見える」コヨーテに変化していく様がとても興味深く描かれている。その部分の描写で、この作品は極めて純文学的なニュアンスを色濃く発揮するのだが、一方でケイス・ハーディンの魅力的でスーパーウーマンめいた活躍や、彼女とボブ・ハイタワーとの微妙な恋愛感情も娯楽的要素として楽しめるのである。 ケイス・ハーディンは本当の意味での自己回復の為には「殺人」を厭わない。物語の中で彼女は実際に「殺し」をするが、作品の意図する「殺人」とはもっと突き抜けた所にあるようだ。だが「男」をこのテーマに据えたときに、これほどの説得力があり得たか疑問である。極めて不謹慎な言い方だがケイスが度重なるレイプや残虐行為を受けた女性としてあるからこそこのテーマに耐え得る人物造形になったのだと思う。 |
I
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「人の事、アホ言うもんがアホなんじゃ。」「なに言うてんねん。人の事アホ言うもんがアホなんじゃって言う奴がアホじゃ。」「なにー。人の事、、、。」と延々と続く悪口合戦があるが、あれはあれで奇妙なカタルシスがあるのだ。ばかばかしいと判ってはいても、このループに嵌ると自分の感情の浪費に快感を覚えるようになる。PARTY7の面白さはひと言でいってこの「感情の浪費」だ。 映画としての「PARTY7」には例によって相反する評価があるみたいだが、近緒はどちらかというと前作の「鮫肌男と桃尻女」よりこちらを推したい。 あまり人がレビューで書かないので、もしかしたら映画通の人には重要な事ではないのかも知れないが、近緒はこの映画のスタイリッシュなオープニングと、どちらかというと絞ったホノボノ感さえ漂うラストの落差が凄く気に入っている。 だって「スペース・トラベラーズ」紛いの、(アニメとの合成で一番かっこいいのは「ドーベルマン」だろうけど)アニメを使った無茶かっこいいオープニングから、あの田舎道をちゃりんこ漕ぎ漕ぎするラストを誰が予想できるだろう。 映画全編を覆う「変な人々」が交わす会話は、おかしみのツボをよく考えてあるし、それなりにオモシロイ(抱腹絶倒なんて評があったけど、そこまではちと疑問)。正直いって浅野忠信の口調が一番あってるのは、こののぞき癖のあるオキタ君の配役じゃないかと思った。ただキャプテンバナナこと原田芳雄との間合いはちゃっとなぁ、、(原田芳雄がダメという事では決してありません。)。 掛け合いの間と言えば、三木(永瀬正敏)とトドヒラ(岡田義徳)はスピード感が完全にシンクロしていて抜群でしょう。 まあ兄貴分のソノダをやってる堀部圭亮から来るイメージからかも知れないが、映画を見てまでウッチャン・ナンチャンコントは見たくねぇ〜って思わなくはないけれど、、やっぱりオモシロイのはオモシロイ。 この映画で次に「時代」のセンスがあるなぁって思うのはファッション。特にオキタのオタクルック(一世代前だけど)。ものすごくマタガミの深いシオシオのジーンズに、シャツとベストの裾を入れて着てて、靴がこれ又、、でも勘違いしてこれを見た若者が又、これを最先端のファッションにしたりして。 確かに石井克人監督にはそういうムードを誘発する何かがある見たい。この辺りは口で説明できるものじゃないからねぇ、、。 でもちょっと残念だったのは組の若頭(我修院達也)ね。彼の場合は完全に「鮫肌男と桃尻女」の方が良かった。ルックスにしても行動パターンにしても、今回の方がパワーダウン、、。我修院達也の怪演が観れると思ってこの映画に足を運んだ人も多かっただろうに、、。今回自分で書いていてもとりとめのないレビューやなぁって思うけど、、。そんな映画なんよ、実際。でもオモシロイよ。 PS 三木の元彼女カナ(小林明美)が良かった。ナニがって、そりゃ彼女の濡れたようなリップグロスの光沢が、、私もあんなクチビルになりたい(オイオイ。)じゃなくて今風で、ホントにいそうな「彼女」だから、、。上手い起用だと思うよ、。 |
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監督: ペドロ・アルモドバル
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小説でも映画でもそうなんだけれど、私にはどうしてもコメントが付けられない作品がある。その主な理由は、私自身がその作品との「距離」を保てないという事にあるのだけれど。例えば花村満月の作品がそうだし、この映画もそうだ。要するに「身につまされる」からと言ってしまえば身も蓋もないのだが、、。 でも、書ける部分だけでも書いておこうと思う。こういったWeb上の個人映画評コラムにとって一番大切な事は、その内容より「どんな人間が・何を・見たか」という事だと思っているからだ。(コメントの内容なんてプロにまかせておけばいい。正確な情報にはお金を投資すべきだ。Webにはそれを求めないで!あなたは、ただあなたを許容する世界を見つけて、それにつながる事だけを求めるべきだ。) 近緒は、この映画のマヌエラという女性に強いあこがれを抱いている。勿論、私は悲劇の主人公になりたいと言っているのではない、あこがれているのは彼女の聡明さと強さと「女性」にだ。勿論、マヌエラを演じているセシリア・ロスの風貌や演技力に感化されている部分も沢山あるけれど。 自らに訪れる「不幸・不運」に嘆き悲しむだけでなく、それを「受け止める」心のしなやかさは、「男」の性に最も欠けている要素だと思う。 マヌエラ、アグラード、ローサ、ウマがマヌエラの慎ましやかなアパートで打ち興ずる場面が秀逸。アグラードがいつもの調子であけすけにフェラチオのジョークをとばす、その時トイレから帰って来たウマが澄ました顔で「あら私なんて随分ご無沙汰よ。」と切り返して一同大爆笑のシーンだ。 アグラードは竿付きシーメール、ウマ・ロッホは心に虚無を抱えたレズビアンの大女優、ローサはHIVに感染した赤ちゃんを身ごもった修道女。 彼女達の虚偽性のない温かな連帯感、この場面で一緒に笑い転げている自分自身も心が緩んでいるのが判る。 彼女達が乗り越えて行かなければならない社会や仕組みに、もし「性別」があるとするなら、それは間違いなく「男性」だろう。 そして彼女たちが育てはぐくむ「我が子」の性は、「女性」と「男性」なのだ。母性で繋ぎ止められた果てしのない循環、、。 |
監督: ペドロ・アルモドバル
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すんごい母娘密着心理ドラマです。「オール・アバウト・マイ・マザー」よりその密着というか拘束力は数倍強くて、なんだかこれ心理的ボンデージプレィって感じです。娘レベーカ(ビクトリア・アブリル)がボンデージされる拘束衣は、母でもある高名な歌手ベッキー(マリサ・パラデス)。逃れようとしているのか、その拘束に愛を感じているのか、要するにもうこの関係は、二人の中で絶対的な必然で「ただただそうある」訳で、この関係が解かれる時はどちらかの「死」しかないのですね、、。 ストーリー展開だけ取り出して見ると変装マニアで女装趣味の「遠山の金さん」ドミンゲス判事(ミゲル・ボセ)が出てきて、この人が名推理をやったり誤魔化されたりでドラマの道化役をやるんだけど、おいおいそりゃご都合主義すぎるんでないかいと思える部分がママあるんですよね。 でもこの映画、母と娘の心理の絡みがメインな訳で「そんな事はたいした問題じゃないよね。」って感じです。 映像の方は、色々好みがあるんだろうけど、アルモドバル調に波長があう人はかなり心地よい気分になれるのでは?(映画のオープニングで、ナニ〜コレ〜って感じる人はだめだろうけど、ちなみに近緒はこの感覚かなり受け入れられます。「サイケ」よ「サイケ」!!。「シャネル」vs「アルマーニ」よ!) 所でアルモドバル監督、ホントにゲイというかドラァッグクィーンというか男娼というか女装というか(そうするにその一連の人々)が好きなのね。女装してクラブでパフォーマンスやってるレタルと、レベーカの夫マヌエルのとの会話、あるいはベッキーとの会話なんてその世界に詳しい人じゃないとちょっと演出できないと思うし、、。これは「オール・アバウト〜」でも引き継がれているけどね。例えば、偽乳房をベッキーにプレゼントする事になったレタルが「二つあるけどどちらがご所望?」って振ると「貴方のハート(心臓)に近い方を下さらない。」って感じでベッキーがやりとりするとかね。 でもなんだなぁ、、近緒、レタルとレベーカの楽屋でのエッチシーンは本当に感じちゃった。それにこのシーンで「レタルってバイなんだ」と思いながら、でもこのバイぶりはひたすらストレートに近い???っていう気がしてたら、案の定それが伏線でね。 「伏線」たってそんな「伏線」を使ってまでドミンゲス判事みたいな人物を登場させる必然性ってこのストーリーには何処にもないのよね。 それとか性転換女優のビビ・アンデルセンもレベーカが収容所に入れられてから登場するし、ご丁寧に彼女のダンスのシーンだとかもあるわけ。これも何の意味もないエピソード。要するにペドロ・アルモドバル監督の趣味って事。でも近緒はこの「おまけ」があるからペドロ・アルモドバル監督がとっても好きなんだけど、、。 PS 母ベッキー役のマリサ・パレデス、「オール・アバウト〜」でもそうだったけど凄いね! 特に背中が大きく開いたドレスを着て、ステージでひれ伏すシーンがあるんだけど、あれは鳥肌ものの名シーンだね。そしてあの背中に刻まれた無数のシミや皺・・・。見てて魂直撃って感じですね、圧倒です。 |
I
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監督 : チャン・イーモウ
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これはとっても良い映画なんです。そう年に数回しかきないけれどン十万円もして和箪笥に大事にしまい込んである綺麗な着物みたいに。 ps 今では常識になってしまったカンフーワイヤーアクション。これ見てふと思い出したのがバリ島のケチャという踊り、今じゃバロンダンスのような宮廷ダンスよりバリらしい土着の踊りみたいに思われてるけど、歴史はケチャの方がずっと浅い。と言うか、ケチャの踊り自体、「悪魔の島」っていう文化映画の撮影の為にドイツ人のスピースがそれらしく作り上げた踊りで、自然発生したものじゃないわけ。 |
I
saw a movie.
監督:阪本順治
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「顔」の阪本順治監督の作品である。私は本家である「仁義なき戦い」を知らない。多分見ていればそれなりに面白さを感じていた筈だが、恐らくその面白さは「疲労」を残す類のものではないかと「予測」してそれを遠ざけて来たのだと思う。「見ない内から予測だって?」そう、それぐらい「仁義なき戦い」には映画そのものにエネルギーがあったのだ。 それに、誰が何をどう描こうが私は「やくざ」が(映画であっても)生理的に嫌いなのだ。ずいぶん前振りが長くなったけれど、要するに私は、この阪本順治監督の映画を「仁義なき戦い」から離れた部分で鑑賞できたという点を初めに言っておきたかったのだ。 ファーストシーンの主役二人の少年時代のエピソードが、この映画の骨格ではないかと思っている。豊川悦司扮するヤクザの幹部・甲子男(カネオ)と布袋寅泰扮する在日韓国人実業家の昌龍。二人は小さい頃、西大阪の貧民街で一緒に遊んだ仲だ。イニシアティブをとっていたのは大柄な昌龍。昌龍は一匹狼タイプ(布袋寅泰は役得っていうか実にこの役に等身大ではまっている。個人的にサムライ・フィクションの彼よりずっといいと思っている。)でどこにも属したがらない。そんな彼に影のようにくっついていたカネオ。彼ら二人の関係は未分化な恋愛感情に近いように思えるし、監督もなかばそれを意識して撮影してる筈だ。勿論このイメージは、成人してからのカネオつまり豊川の中性的な不思議な魅力に繋がっていく。 小さい頃、昌龍はカネオを救うためヤクザを一人殺している。カネオは昌龍に負い目を感じたまま成人する。それから30年という歳月を経て二人は再会するのだが。 この辺りの二人の間の歪んだ空気も、昔、愛し合って別れた男女が再会を果たした感覚に満ちている。女の方は不幸な独身暮らしで、方や男は何とか表面上だけでも幸せな暮らしを維持している、そんな感じ。通りを親子3人で歩く昌龍の姿を車の中から見続けるカネオ。見守るだけで声を掛ける勇気もない。カネオには昌龍が眩しく映った筈だ。 私は原作や脚本を読んでないので、在日韓国朝鮮人の2世3世が、裏の世界で実業家として羽振りを利かせられる現実があるのか、あるいは彼らの行動倫理が日本人が既に無くしてしまった「血縁」や「友人」への濃い関係性にあるのかは判断しょうがない。ただ私の数少ない知人達を見ていると、それはとても説得力のある話なのだ。金なら、いくらでもくれてやるが、決して自らの独立性は崩さないという姿勢と、身内のためには全てを投げ出してしまう資質。そういった気質は、後天的に身に付くものではなく、ほぼ民族性に近いように思えるからだ。それらの気質の象徴がこの映画の場合、昌龍に現れている様にも見える。 「なぜやくざになった。」と叱る昌龍に「そんな理由が判るやくざはいねえ。」と拗ねるカネオ。、、そうなのかも知れないが、誰もが不信感を抱く組織の粟野(岸部一徳)に暴走するような信義を捧げ通そうとするカネオの姿勢は、幼い頃の「全てを二つに分けた」昌龍との関係性への憧れなのだと思う。 ラストの中平(佐藤浩市)射殺シーン前、中平が「実は俺もあんたと同じ立場の人間なんだよ」と握手を求められた時に、昌龍には一瞬の混乱が走ったように見えた。その後「冗談だよ、そんなわけがあるかよ」と中平があざ笑った時、昌龍は彼を突き飛ばす。 そして遅れて中平を殺しに来たカネオの登場。彼らが二人が店の中ですれ違うシーンで昌龍がさり気なく、カネオの胸を触ってやるシーン。 結局、この二人は「あの日の同じ所」に戻って来たのである。「DOA2」の、哀川&竹内力の二人の関係に似ているが、こちらの二人の方が、静かな分だけ遙かに表情が豊かである。 PS 映画の中で、含蓄のある言葉が二つほど印象に残っている。「俺は生き様、あいつは死に様や。」「お言葉を返すようですが、それは紙一重です。」勿論トヨエツの「どうせ、うんこの世の中じゃ。」もね。 私はこの映画を観た夜、豊川が布袋のそそり立った男根の麓の茂みに顔を埋めて心地よく眠っている夢を見た。昌龍の精は決して放たれる事はないから、その勃起は決して衰えず、カネオは勃起する男根の賛美者であるから決してそれを口に含もうとはしないのである。画して彼らの「男の物語」は完結する。 PSのPSだってば、、梶原治(大阪府警刑事)って誰?泉谷しげる?でもないし、、後でクレジットを見て吃驚すると共になっとく、佐川満男なんだ。 |
I
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監督: ジュゼッペ・トルナトーレ
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ジュゼッペ・トルナトーレ作品だからって期待しすぎちゃだめ、誰でも肩の力を抜いて、自分の一番心地良い作品を軽〜く作りたい時だってあるんだから。そういう優しい目でこの作品に接する事が出来るなら、綺麗でささやかな美しい「映画の時間」を楽しめる筈。 全編、この映画はマレーナの美しさとシチリアの光と、少年達の生の輝きに満ちていて、それは監督自身の「生への享受」の現れなんだよね。 ps 「愛する(amoroso)」という名のレナートと、「マグダラのマリア(Maria Maddalena:マレーナはマッダレーナの通称)」と同じ名前のマレーナ。登場人物の名前にこんな象徴的なものを付けるという事自体が、「これは私の小品なんですよ、お気に召したらどうぞ。」っていう監督の意志の現れなんだと思うけどね。 |
I
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監督: 行定勲
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GOを見る気になったのは主演の窪塚洋介君が堤幸彦監督の「溺れる魚」に女装好き刑事役で出ていたからである。彼の奇妙に透明な感じが好きだったし、、。 そして何故見るのを躊躇っていたかと言うと映画の内容が在日に関わるものだったからだ。オーサカに何十年も住んでいる人なら在日の問題については、みんなそれなりの関わりやらスタンスを持っていると思う。 色々な意味でどちら側にいるにしてもだ。近緒にだってそんな立場の女友達がいる(高校生の頃、性的なニュアンスありの状態で、彼女に少し憧れていた。)。世代がどんどん更新されていって「民族」が持つ意味もどんどん変わっていく事も知っている。でも「差別の問題にひっかからない」なんて絶対ウソだと思う。 ・・・というような事を映画を見てまで考えたくないという事なのである。 映画は、はっきり言ってどんなシリアスなテーマを持つものであっても「現実逃避の為の娯楽」なのである。その辺りの兼ね合いを、時々錯覚するとんでもない脚本や監督が日本人には多い。そんなのに当たるとその日一日が薄暗くなる。で見るのを躊躇っていた。 でもこれは間違いなく傑作の部類に入る痛快青春エンタテインメントである。ホント久しぶりに「良い日本映画」に出逢ったという感じだ。 窪塚洋介演ずる杉原が人気のない寄席で、死んでしまった友人が貸してくれたシェークスピアを読んで涙する場面では、ホントに素直に共感して泣いてしまった。(その内容はあなたの目で確認して欲しい。) 映画は何度も何度も「これは僕の恋愛に関する物語だ」とベクトルを修正しながら走っていく。その修正の幅が広くなるほど胸が切なくなっていくのだ。主人公の恋人になる桜井を演じる柴咲コウのややきつめの顔やキャラクター作りが「何故こんなのだろう?」って映画の前半では不思議で仕方がなかったけれど、二人が月光を浴びながらベッドを共にするシーンでその意味が判った。 結局、桜井は自分の立場を告白した杉原を拒絶しちゃうんだけど、その時の表情とか、女の子としての普通さ加減とか、柴咲コウが実に巧いんだよね。あれが他のアイドル系の女優だとあんなシーンは撮れないだろうなぁ。柴咲コウはとてもいい女優なのかも知れない。 そして窪塚洋介。いいなぁ〜。(この「いいなぁ〜」はクルパーこと杉原という主人公に対する思い入れがかなり混じっているけどね。こんな子なら確かに惚れちゃうよ。もう歳だから可愛がっちゃうよ、か。) 窪塚洋介の「静と動」というか「お惚けとマジ」というかこのあたりの落差が生み出すリズムや心地よさはなかなか。 近緒は杉原が吠えまくるシーンもシャイに惚けまくるシーンも大好き。 特に杉原が、彼の親友だった正一の敵をとりにいこうと誘う民族学校時代の悪友元秀の胸ぐらを掴んで吠え上げるシーン。思わず「杉原君に賛成!!」なんて言って挙手しそう。 でこんな調子で別れた桜井と夜の小学校の校庭で再会するときも杉原はガンガン荒れまくるんだけど、桜井の告白を聞いて一気にクゥーンってなっちゃうのね、、。 このラストシーンで観客が「いいジャン、セイシュンって。」とホッと胸をなで下ろして終わり。巧いな〜、行定勲監督。 確かに「これは僕の恋愛に関する物語だ」だよね。 PS 脇を固める山崎 努とか大竹しのぶも良かった。大体これぐらいのキャリアになると演技派なんていって出しゃばった演技をしちゃうもんだけど、存在感はそのままにちゃんと杉原のママ・パパしてたのが立派。 |
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監督: ピーター・W・ツェルニヒト
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この作品は随分前からレビューにするかどうか迷っていた一本である。勿論、モラル面で「アダルトだから」迷っていた訳ではない。 「だから」という言葉でつなぐなら、迷ってきた本当の理由は「アダルトだから」レビューで取り上げるだけの「物語」がないという事になる。 近緒はこの手のフェチ・ビザールビデオを、愚弟のコネクションを通じて結構多く見る機会があるのだが、今回取り上げたフェティッシュ・アカデミー・2が、かろうじてストーリーに近いものを身に纏った作品なのではないかと思う。 ビジュアル面ではピーター・W・ツェルニヒトが率いるマーキスの送り出す作品は総て、並の映画を凌いでいると思う。これほど観客が何を見たいかを知り尽くしていて、その視点その視角で、映像を切り取れる事自体が才能なのだから。 で今回フェティッシュ・アカデミー・2をレビューに取り上げようと思ったきっかけになったのが、皮肉な事に「ラッシュアワー2」なのである。「グリーン・デスティニー」のチャン・ツィイーが出演という事だけでも近緒の中では、この作品、前評判が高かったのだが、、見終わってから感じたのは「衰え」だった。 ああ、あのジョン・ローン様がジャッキーが、、、寄る年波を隠せないでいる、、。ついでにこの映画ではチャン・ツィイーの魅力が少しも発揮されていないし、、クリス・タッカーは大嫌いだし・・。 「魅せられる」という言葉がある。魂を吸い寄せられてしまう状態、、その元になるのはやはり美しさなのではないかと思う。「老い」の美しさはありうるけれど「衰え」は、それを意図しない限り、映像作品に感じさせた時点で失敗なのではないかと思う。 そしてその「魅せる」をプロフェッショナルな意識で撮りきろうとしているのがピーター・W・ツェルニヒ監督なのである。(もっともこの映像の需要者は限られているのだけれど。) 男が自分の恋人を、他の誰かに依頼して自分好みの「女」に調教させる。あるいはその行為自体を倒錯的に楽しんでいる。結構、こういったシチュエーションは文学の世界でも映画の世界でも多くあるものだ。 日本のAVでも何回かこの設定が使われているのを見たことがある。しかし海外のAVではこのあたりの割り切りがはっきりしているのか、設定が濃密に描かれる事はまずない。そういう意味ではフェティッシュ・アカデミー・2はやや例外の範疇に入る一本なのかも知れない。 深夜、ある男がラバーウェアーを着せた自分の恋人をとある屋敷に、車で送り届けるシーンからこのAVは始まる。車の中での軽いペッティングシーンを見ると、この時点で女はラバーを身につけてのセックスに忌避感を持っていない事がわかるのだが、男は自分の恋人をもっとゴム漬けにしたいのだろう。 そして彼女を出迎えに出た屋敷の女達の姿は、ファッションではない本物のラバーウェアでその身を覆っていた。 と、まあこんな具合なのである。勿論、AVの大半はラバーボンデージやエロチックシーンが延々と続く。ここでその描写をしていってもいいのだがきりがないし、それにそれこそが「映像領域」なので割愛する。 ただこの一本には他のAVには見られない物語としてのハイライトシーンがあるのでそれだけは紹介しておこう。 黒のラバーマスクを付けられた女が全身をラバーウェアで覆われ、車の行き来がある深夜の橋の欄干に手錠で繋がれ放置されている。その姿を男は隠れるようにして車の中でずっと監視している。 通行人のカップルがやってくる。男は好色な目で「繋がれた女」を見るが、連れ合いの女はそんな男の態度を非難し、「繋がれた女」を侮蔑の目で見る。 羞恥の余り「繋がれた女」は、腰回りがコルセット状になった豹柄のPVCジャケットをくねらせて手錠を外そうとするのだがそこからは逃れられない。やがてレザーコートを着た男が橋の向こうから歩いて来る。 この男は露骨に「繋がれた女」に興味を示し、そのラバーで覆われた女の身体を弄り始める。ラバーパンツの股間に男の手が持って行かれる頃には「繋がれた女」の身体は、見ず知らずの男に完全に反応している。それが証拠にラバーマスクの下に見えるその目も唇も甘くとろけているではないか。 そして橋の上で立ったままの挿入行為が始まるのだが、、、それを車の中で監視する男の口元には、苛立たしげな煙草の火口がぼんやりと浮かんで見えるのだ。 どう?なかなかでしょう。とにかくマーキスの作品のラバーウェアと「変態行為」は絶品なんだけど、この一本はその見事さとシチュエーションがうまくリンクした珍しい例なのね。手に取れる機会があればお勧めの一本だと思いますよ。 PS 映画としてのまとまりは期待しないでね。本来、ラバーフェチの人間が見たがるシーンを延々と繋ぐのが当たり前の構成のAVのなかで、珍しく物語が前に出た作品に過ぎないんだから。 |
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クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
監督:原恵一
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ようやく名作の誉れも高い「オトナ帝国の逆襲」に巡り会う。この一本はいつレンタル店に行っても「貸し出し中」の札ばかり。(お陰で過去の「クレしん」シリーズはほとんど見ることが出来たけれど。) でもこれだけ「オトナ帝国の逆襲」を、若いママやパパが見てくれているんなら、それはそれでとても良いことだと思う。子ども虐待ホットラインの利用者が鰻登りになったりしている昨今、せめて「オトナ帝国の逆襲」で涙を流す若い夫婦が増えることを祈りたい気持ちだ。 「オウム事件」の事を書き始めるときりが無いけれど、私は最近のいくつかの日本映画を見ているとオウムの影のようなものを感じる事が多くある。 「オウム事件」中、拉致・誘拐・サリンなどと言った具体的な「現れ」も十分にショッキングな出来事だけど、私は何よりも、この社会の中でまっとうに生きようとした人々が、オウムの引力に捕まってしまった事自体が最大の問題点なのだと思っている。 近緒はオウム信者を弁護しようという立場にあるものではないが、少なくとも信者であった多くの人々が、己の存在の孤独の癒やしと、拠り所をこの社会に求めた時、そこに「オウム」しかなかったという事は紛れもない事実だった筈だ。 「オトナ帝国の逆襲」には、「クレしん」定番の悪役が登場するのだが今度の「敵役」は少し趣が違う。秘密組織「イエスタデイ・ワンス・モア」のケンとその恋人チャコ。彼らの目的自体が、21世紀に絶望し世界を「懐かしい20世紀に回帰させ永遠に凍結しよう。」という、ある意味、、現在に生きる我々にとっては説得力のあるものなのだ。 彼らの論旨は明快だ。未来を感じることの出来ない21世紀ならば、それを否定し、自らが安住できる世界(つまり初期高度成長時代の昭和日本)を再構築すればいいのだ。当然、そこには「未来」はないが、その変わりに安心と「許し」がある。 彼らの計画に見事はまってしまったのが、しんのすけの両親であるみさえとひろしである。そしてそんな大人達を心配し、彼らを元の世界に連れ戻そうとやっきになるのがしんのすけを初めとする「子ども」達なのだ。 この映画の中では、ひろしを代表とする大人達が21世紀という未来を否定し、子ども達が21世紀を受け入れているように見える。 だが実際には、この映画で主人公として「成長」するのはしんのすけではなくひろしなのである。、、勿論、そのひろしの成長の媒体となるのは家族、特にしんのすけ(息子)ではあるのだけれどね。 原監督は「ヘンダーランドの大冒険」で見せたように、子どもの可能性を描くことに躊躇い覚えず、ここでもはっきりとしたメッセージを発信している。 しんのすけがボロボロになりながら、決戦の場である二十世紀博タワーの階段を駆け昇り、必死にケンに何度も何度も追いすがるシーン。 「なぜ、そんなに未来に生きたいのだ、未来は何もない、汚いだけだ」と言うチャコに、「でもオラはとうちゃんとかあちゃんとひまわりともっと一緒にいたい、それにオラは大人になりたい。大人になって、おねーさんみたいな、きれいなおねーさんといっぱいお付き合いしたい、」って、しんのすけに宣言させるのね。 「大人になりたい」とはっきりと子どもの口から宣言させている。 そんなくっきりとした輪郭を持つしんのすけに比べ、ひろしの成長はもう少し複雑である。 自らの計画をしんのすけたちの奮闘ぶりによって水泡に帰されたケンとチャコは、飛び込み自殺をもって20世紀に回帰しようとするのだが、それさえもしんのすけの一言で(このシーンは鳥肌がたったけど)止められてしまう。 そしてチャコが崖っぷちの一歩手前で崩れ落ち「死にたくない!」と泣き伏しケンが彼女を後ろから静かに抱きしめる。 「同棲」という儚げな男女の生活様式からはけして離れて生きる事が出来そうもないケンとチャコ。けれどそんなケンとチャコにさえ、与えられた「未来」があるのだという想いを持って彼らを見つめるひろしの視線には、何処かに諦観を忍ばせながらも彼らに対する「共感と応援」が漂っている。 「(きっと彼らも)どこかでどうにかして生きていくさ。」とつぶやくひろし。 確かに映画の終演で、ケンとチャコは、夕日の中をひろしたち大人がマイホームタウンである春日部に帰っていく逆方向に、無言で車を飛ばしてはいくのだが、、。 私は冒頭でオウムの事を書いた。この事件はその奇抜さ故にスキャンダラスに語られがちだと思うが、本当は日本という国の行く末を示す一つの指標だったのではないかと思っている。そして「オトナ帝国の逆襲」は、この指標の周りに、数限りなくあった筈の力強い一つの選択ではないかと思うのである。 ケンとチャコは悪の組織のボスカップルであると同時に「課題の提示者」でもある。彼らは「20世紀の懐かしさの虜」から覚醒こそ果たしたが、まだまだ己の手中にあった野原一家を解放し、自分と戦うようにしむけたのだ。 恐らく、それはケンが言う「21世紀の否定」自身が、彼自身の未来への愛着の裏返しだったからだろう。又、ケン自身が自分が仕掛けた壮大な戦いの儚さを、何処かで自覚していたのだろうとも思う。その辺りが「イエスタデイ・ワンス・モア」と麻原某との決定的な違いだろう。 ともかくこの「オトナ帝国の逆襲」、語りだしていけばきりがないほど見所が多い。過去、総ての劇場版「クレしん」は、そのクオリティにおいて並の日本映画を軽く凌いできたのだが、本編の「オトナ帝国の逆襲」はその集大成的な大傑作ではないかと思う。 (、、ただしある程度の年齢、、ぎりぎり大阪万博にガキンチョとしてつれていってもらった事がある、、、に達していないと、この映画の本当の「感激」は味わえないかも知れないけれど、、。) でも若い人でも観て絶対に損はしません。それどころかちょっぴり元気を貰えるかも知れない映画です。 PS チャコは、ひねこびた薄幸の美人って感じでとっても素敵ですよ。アフレコの小林愛の何処か投げ出したようなイントネーション。昔、そういう「美人のタイプ」があったのよ、、、。 そういえば今回の「オトナ帝国の逆襲」の唯一の欠点は、いつものリアルで健康的なお色気がない事かな。 近緒的劇場版「クレしん」萌えキャラランキングパート5発表。 第一位 暗黒タマタマ大追跡 ラベンダー 第二位 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 お色気 第三位 暗黒タマタマ大追跡 東松山よね 第四位 ブリブリ王国の秘宝 ニーナ 第五位 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲 チャコ 第六位 雲黒斎の野望 吹雪丸 第七位 爆発!温泉わくわく大決戦 後生掛 |
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監督脚本:塩田明彦
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お酒は酔うために飲む。だれも酔う意味など考えてお酒を飲んだりはしない。「酔うために見る」、そんな映画もある、、。この映画「ギプス」に強く酔えるのか、又、酔ってどのような醜態を晒すのかは個人差があるのだろうが、、。 (本人は気持ちよく酔っていても客観的に見ると殆どの人は、醜態を晒している。それが「酒」というものだ。) えーい、遠回りな感想は止めちゃおう。 世の中には様々な性倒錯とフェチがあって、一説によるとそれは「人の数」だけあるのだそうだ。 その中で「ギプス」や「医療」分野は語感程に、異端なわけじゃない。しかし雑多なフェチカテゴリの中で「ギプス」や「眼帯」等は、何となく隠微なニュアンスが強いのは何故だろう。レザースーツ姿の女王様が鞭を持っているシーンは、市民権を得ているのに、結構、身近なシーンとしてある「女性のギプス姿」に欲情する事は、罪深く捉えられているのではないだろうか。 つまりそれは、人々が日常の中に潜む「情欲」とぎりぎりの所でわたりを付けていて、その劣情をある種のフェチが告発するからであろう。 (汝、視姦するなかれ。) 塩田監督はその辺りを全て踏まえた上で、こう言った作品群(「月光の囁き」もそうだった。)を作り出すのだから、フェチストとすれば半ば確信犯的な作法を持った映像作家なのではないかと思う。 そしてフェチストの心理から、逆進して「世界」を広げていく手法は川端康成を思わせ希少で貴重だ。 近緒的「ギプス」酔いどころ。 1: ギプス女、長谷川環(佐伯日菜子)と大下和子(尾野真千子)の出会いのシーン。陸橋の上で「歩き辛い」という女王様然とした環の靴を和子がしゃがみ込んで脱がせてやるショット、、、これなどはヒールフェチの殿方等はドキドキものなのだろうが、塩田監督はわざと普通に撮っている。映画全編を見るとこの撮り方が意識的にセーブしたものであるのがよく判る。ここで和子が、環のヒールに鼻を突っ込んだり頬ずりするようなイメージを想起させたりすると、この二人の微妙な心理SMが描けなくなってしまうのは目に見えているからだ。和子は親切そうに、あるいは環の強引さに押し切られたようにヒールを彼女の部屋まで持っていってやるのだが、そんな気のいい普通の女はいない。和子はこの時点で既に環に呑まれているのである。だが映像はあくまでも日常の一風景をマイルドに淡々と切り取っているだけだ。この抑制感が塩田映画の癖になる所だと言ってもよい。 2: 環が和子の目の前でギプスという偽装をとくシーン。ギプスの中から現れた環の白い脚に、和子の視線が吸い寄せられていく。その時、彼女たちと同じ部屋にいる観客は、環の蒸れた脚の匂いまで嗅ぐに違いない。 固いギプスの中から現れる柔らかい肌をマッサージし始める環。そしてそのマッサージをやらせてくれと頼み込む和子。和子は奉仕するが環は身体を横たえながらそれを高い視線で眺め下ろしている。心理的なレズビアンが少し加速する。 3: 和子は環にならって偽装としての「ギプス」を付け始める。それを後ろでコントロールしているのはギプスを外した環だ。和子は男達を意味ありげな視線でついて来させ、男が彼女に手を出そうとした時に、環がスタンガンで男を気絶させる。二人は倒れた男の財布を奪って逃げ去る。二人の危険なゲームは続く。たまたま誘い込んだ男が、真正の足フェチで、和子の足にむしゃぶりついてくる。戸惑いの声の中にも微妙なニュアンスを含ませた和子に、環はいつものサポートをせず、そこから立ち去ってしまう。 PS 二人の女性のキャスティングには最初の間、抵抗があった。あまりにもそれらし過ぎるからだ。だがその印象も見終わってからは良い方に逆転する。特に大下和子を演ずる尾野真千子の拙さが、和子そのままにフィットしていく事が心地よい。 |
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北村龍平は自分の撮る映画の見てくれにエンタメを装っているくせに、本気で他人を楽しませようとしているように見えない。 「自分が楽しければ他人も楽しい」と豪語出来るのは、たぶん才能に恵まれた人間にだけ許された贅沢言葉なのだ。北村龍平の映画が一度みたら鼻につくのは、その辺の限界がばればれだからだろう。 ・・「あずみ」がメジャーデビューでしょ?この人、昔から「自分の見たいアクションしか撮れないなんてなんだかー」って思ってた監督さんなんだけど、今回はこの人の新しい才能を発見したよ。 それは色んなコンテンツを拾い集めてきて一つのエントリーにでっち上げるブログの手法に似てる。 映画の中身や作りより「妖星ラゴスやらX星人やら轟天号までゴジラ以外の特撮東宝もよくまとめてあるなー」とそっちの方に感心しました。それってどうみても才能でしょ。 でもケイン・コスギと 松岡昌宏の似非マトリリックス・バトルとか北村一輝のはっちゃけぶりとか、自分の好みを入れるの忘れないし、、(その分、怪獣しか見たくない人達は怒ってるって思うけどね。格闘家のドン・フライをわざわざ持ってくる嫌らしさに至ってはもうかんべんしてって感じ。)。 でもどうみても「続く」って感じのエンディングでファイナルつーのはどうかと、せめて「ゴジラ中間総括大作戦」とかさ、、。 この映画の収穫は北村龍平監督のまとめ上手ぱくり上手以外に、なんと言ってもX星人役の北村一輝の怪演&熱演でしょう。 昔からこの人の切れ演技は特徴があったけど、益々それに磨きがかかってきてますね。シャイニングのジャック・ニコルソンを引き合いに出すのは無茶だろうけど、地団太踏む様がすんごくキュート。 ZILLA(ジラ)のこと「マグロばっか喰ってる奴ぁしかたねぇなぁ」って北村一輝が言って良かった。北村龍平はジョークでも、こんな映画如きを撮ってる分際でエメリッヒ監督に言うべき言葉じゃないだろトカ。 PS 今回のZILLAの当てこすりでふと思ったんだけど、「着ぐるみ怪獣」ってハリウッドの感性から言うとどんなんなんだろう?やっぱエメリッヒ版にならざるを得ないんじゃないかなぁ。 日本だってかなり何回もリアルゴジラに挑戦してるし、、。多分生物学的に見れば着ぐるみ怪獣の致命傷は「脚の関節」の形状だと思うんだけど、、特に四足歩行の怪獣になると目も当てられないって感じ。 でもそこんとこを突き抜けると、アナルと同じで快感とゆーか愛着が湧いてきて、やっぱ「怪獣」はこれだろーってね。結局「ゴジラ」もその辺りの部分をこれからどう処理していくかが本当のFINAL WARSなんだと思うんだけどね。 |
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最近、三池監督作品に嫌気がさしている。「その表現の余りの過激さに」というのならまだしも、悲しいことにその原因は、勢いに任せた作品の粗製ぶりに歯止めがかからない事にある。だから「殺し屋1」には期待していたのだ。どんなぶっ飛んだ映画でもいい、丁寧に作って欲しいと。 映画の冒頭は久しぶりにやってくれるのかとワクワクしていたんだけど、、、。もし三池監督の過去作品を見ておらず初めて「殺し屋1」の感想を書いたなら、この映画の事を糞味噌に書いていただろうと思う。 あなたは何故こんな映画を作るのか、、人は悪や暴力や恐怖を見たがるそれは確かな事だ。場合によってはそれらの向こう側にあるものを見たがる観客だっている。でも撮影現場の面白さと人々が求め感じたいものとの間には差があるのだ。要するに三池監督が思っているほど、多くの人間は対価のない「暴力」表現をそんなには楽しまないのではないかと言うことだ。 圧倒的な映画の製作量を誇る三池監督だから、ある意味、彼の変化の軌跡を追うのはたやすい。 その変化にはグラデーションを感じさえするから、彼が何を排除して何をクローズアップしつつあるのかと言ったものまで浮かんでくるのだ。 最近、三池作品は映像を弄る遊びや「他は捨てました見せるのは一個だけ」という傾向がますますきつくなっているようだ。今回は痛みと性が直結した世界。 でも近緒は、三池監督が作品の中で時折見せるリリシズムに惹かれる人間なので、最近のカリカリにチューンナップされた手法で暴力をコミカライズしていく監督の傾向に辟易している部分がある。 例えば浅野忠信の起用。これは原作を読んでいる人たちからは「その配役は違う」言われ、監督本人は原作の呪縛を逃れる為と言っているようだが、原作を殆ど知らない近緒にすると両者ともそれぞれが呪縛されているように見える。 答えは簡単で、単純に一本の映画として見れば、スタイリッシュなヤクザ浅野忠信なんて、全然、この映画の必然性として成立していないと思う。浅野忠信の「飄々とした風貌の中に見え隠れする狂気=究極のマゾ男・垣原」の落差と混成を狙ったのだろうが、残念ながら俳優・浅野忠信に奥に隠れているのは紛れもなく「健康」だからだ。第一、彼が新宿の街を部下を引き連れて歩くシーンなんて、どう見てもチンピラが格上の幹部を従えているように見えて違和感を覚えてしまう。 あれほど芝居の下手な、固有の存在感だけで成立するようなキャスト(誰とは言わないけれどその演技を見ていて引いてしまった。)を配置するなら、垣原役には新人でも起用すべきだったのではないかと思う。 だからこの映画には、どこまでいっても一映画人の趣味というか内輪受けのような匂いが最後まで付きまとうのだ。突き抜けた映画作りをしているようで実は内輪で遊んでいるだけという感じ、、それが近緒が感じる最近の三池監督作品の「粗製」の中身なのである。 PS いつも思うんだけど三池監督作品にチョイ役で出演する女優さんたちってエロだね。大体がヤクザに陵辱されるボコにされるってパターンが多いんだけど、、それが奇妙にエロチックな存在として撮れてる。そんな事を考えると、ひょっとすると三池監督って自分自身のコアを見定め間違いしてるんじゃないかと思うことがあるんだ。 |
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随分前にエド・ウッドの「グレンとグレンダ」を見たことがある。この映画を見た動機は取り扱っている内容が「女装」だったからで、エド・ウッドが「史上最低の映画監督」として流行していたからじゃない。結果は「最低」の一言である、まず映画の体裁をなしていない。 この映画のディップは終始、堂本剛君だった。光君ではなく剛君が女装した姿を想像して欲しい。女装というものは誰がやっても、その量に差こそあれ、何処か日陰にある淫靡さを放つものなのだか、それとは逆に底抜けの健康さと明るさを際だたせる例外的な男もいるのだ。信じられない事にこの映画のディップがそうなのだ。
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「あの時、ああしていたら現在はこうはならなかった筈なのに。」そんな思いにかられない人は一人もいないだろう。 主人公の時間の遡航行為によって、その人生がめまぐるしく変わっていく幼なじみのケイリー役のエイミー・スマートがとても良い。すさんだ売春婦からうらびれたウェイトレスにセレブ女性まで、雰囲気だけでなく顔つきまで変わっていくのだから大したものだ。
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窪塚君が高校生を演じると直ぐにあの名作「GO」を思い出してしまう。監督が違うのに映画空間の中に「GO」と同じ空気が流れていてアレっ?と思ったけれど脚本が「GO」と同じ宮藤官九郎さんだという事で思わず納得。 「ピンポン」での窪塚君は、「GO」で演じてみせたような深い煌めきはなかったけれど、やっぱりこの人以外で主人公ペコをつとめられる若手俳優はいないだろう、と最後の荻窪君のド・アップで思った。 まあ贔屓の窪塚君はおいて置くとしてこの映画、他の俳優さん達が異様に面白い。中でも近緒のお気に入りは二人。 主人公ペコとスマイルの同郷人・幼なじみであったアクマを演じる大倉孝二。これはこの映画の構成上の問題かも知れないけれど、彼が一番「人間」を描けていたように思う。キャスティング上のたまたま美味しい部分が、中華料理の回転テーブルみたく回ってきたのに過ぎないのかもだが、彼の顔の表情筋がそのチャンスをがっしり掴んだという感じ。 二人目はペコを立てる余りに卓球の天才を発揮できず、ある出来事をきっかけに反動みたく卓球マシーンになるスマイルことARATA。ARATA君はモデル出身らしいけれど、身長もあっていかにもモデル美貌。こういう手の人たちは感情を表にださずすかした感じで回せる役所になると、ホント、填る時には気持ちいいほど填るものだ。 ARATA君は特に目が良かった。台詞の切れとかスマイルのキャラの立ち上がりは、ARATA君の演技力というよりも脚本の優秀さによる所が大きいんだろうけど「諦観とも外界への怯えともつかぬ色を秘めた瞳の奥にある意思の力」みたいな感じの目っていうのはその人固有の属性だからね。 でもペコとスマイルの関係を見てると、あの有名なキャッチコピー「友情以上、ホモ未満」を思い出しちゃった。最近思うんだけれど、青春時代のある時期には、一見、友情と同性愛の中間点にある感情みたいに見えるけれど、実際にはもっと別の属性を持った感情があるんじゃないかな。 |
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ティム・バートン監督とジョニー・デップで「チャーリーとチョコレート工場」、、、。なんともまあ「当たり前」の組み合わせの映画である。 当たり前過ぎて、今までのような「ティム・バートンらしい」まともな映画が撮れるのだろうか?という妙な心配をしてしまうぐらいだ。 chika的にはティム・バートン色をある程度押さえた「猿の惑星」ぐらいがすごく好きで、監督が自らの宿業として、どうしても捨てきれない色、つまり全編に漂う「暗さ」や「夜の湿気」が、元の題材の面白さを数倍にも引き上げているように思える。そういう意味では「バットマン」は至高の名作だろう。逆に「マーズ・アタック!」なんかはティム・バートン全開って感じでついていけない人には最悪のティストなんじゃないか? で本作品なのだが、これは映画としてはちょっと謎な出来である。いくら着地点が計算された「善良」であるとしても、この題材で、頭の先からつま先まで全部、ブラック&シニカルのティム・バートン色となると少し唸ってしまう部分がる。 不思議なことに映画の途中でジム・キャリーの「マスク」を思い出してしまった。「マスク」もジム・キャリーの色がギタギタと浮き出た映画だったけれど、こちらの方は監督色×ディップなんだから骨の髄までもっと凄い。 これでチャーリー・バケット少年役のフレディ・ハイモアが加わっていなかったらと思うと、いくらバートン映画ファンでも「しつこ過ぎるよー、これなら実写で撮らなくてもいいじゃん」とか言ってしまいそうだった。 まあ工場の従業員である小人のウンパ・ルンパのダンスとコーラスは、色んな意味で文句なしに楽しめたけどね。 ロアルド・ダールの原作は読んだことがないんだけれど、この映画では、5人の子どもたちの性格や運命は原作以上に強烈らしい。でも大人の観客の多くは内心、みんな4人の子ども達が迎える結末に拍手してたりして。その辺りを監督が計算してての作品作りなら、まあアリの一本でしょうな。 PS ちなみにチャーリー少年がウォンカチョコレートのゴールデンカードを引き当てたのが、道に落ちていたお金で、さらにそれを猫ばばしてってゆーのが気になって仕方がない自分がいるのを発見したchikaでした。 PSのPS バイオレットはいつも噛んでるガムを、顔のどの部分に収納してるのか?シーン的には耳の裏側?それとも耳の穴?これも気になって仕方がない。
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I
saw a movie.
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林海象監督の探偵映画の新作と言われれば、多少の心配を胸に抱きつつ見るきゃない、、。出来上がりはうーん、微妙の一言。この人の旬はとーっくの昔に終わっているのかも、、。 でもchikaと林海象監督との出会いはTV版「濱マイク」で、あれは厳密に言うとキャラは林海象監督の生み出したものだけど、監督はみんな違うわけで、その印象で氏の作品や勢いを語るのはだめだよね。 少なくとも林海象監督が、日本映画に一つの探偵モノのパターンを作り上げたことは確かなんだし、、。 探偵事務所5がネットで展開されると聞いたときにはへぇあの林海象監督がよくそんな話に乗ったなぁって驚いた反面、あまりいい気がしなかった。 だってchikaってば、多くの映画をビデオやDVDで見てる癖に、心は完全に昔ながらの銀幕派だし、林海象監督の探偵モノってその銀幕の上にこそ栄える作品だと思うから。 でも劇場版を見る限り、林海象監督はどこまで行っても林海象監督だなぁ、と違う意味で一安心しましたが。 劇場版は2部構成で探偵591(成宮寛貴)のストーリーから探偵522(宮迫博之)のストーリーにリンクして行くという仕掛けがあって、新米探偵591の「未消化」が海千山千探偵522の「苦いげっぷ」に変わっていくという面白味がありました。それに田中美里が演じる天才美容整形外科医・村山理沙子のあっちの人系演技と部分的にやけにリアルな施術シーン演出が妖しい魅力を放っています。 とにかく、黒縁メガネと黒のネクタイ、黒のスーツに黒い帽子という一目で「変な人」の格好してちゃ探偵失格だろという基本的突っ込みを、跳ね返すだけの映画としてのスタイリッシュさはまだ辛うじて残しているようで安心しました。 でも、やっぱりどこか空回りしてるなぁ(笑)。 林海象監督の探偵モノの基本構造は、男の「照れ」とか「真情」とかがコアになっててそれを「格好つける」のが粋って感じなんだけど、時代が変わってくると微妙に耐震構造の基準値も変わるってことで。 今日日、植物人間と化した妹の為に一生を復讐についやする男の生き様とかをスタイリッシュに見せるのはチョー難しい作業で、それだったらいっそ、グチョグチョドロドロの超バイオレンスに仕立てる方が潔かったりして。 まあそれをそうしない所が林海象監督たる所以なのかも知れないけど。 でも解錠のプロにかけて登場させる矢島健一の「明日のジョー=鍵屋のジョー」キャラだとか、探偵事務所5に秘密兵器を提供する町工場の親父とか楽しませてくれます。 こういうお遊びって微笑ましいですよね。それに永瀬正敏のモリヤマ、濱マイクシリーズ「完結編」の逆パロディでニヤリとさせられました。 PS 結局、なんとかかんとか言いながら許しちゃう林海象監督の作品なんですが、貫地谷しほりの宍戸瞳だけはご勘弁。あれを高校生だとかゆーのはいくらなんでも無理。 成宮寛貴クンの方がよっぽど子どもに見えるもの。
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