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I saw a movie6 ケント。私は待ってる! |
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saw a movie.
監督:佐々木浩久
脚本: 高橋 洋
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いいぞっ。タイトルもオープニングミュージックもいいっ。昔はねぇ、、田舎に帰ると地もとの小学校の体育館で夏の映画大会があるのよね、お盆だから決まってそれ系の映画が掛かるんだけど、人見知りの激しいのと恐がりで、映画はパス。でもポスターに浮かび上がる怪奇女優が奇妙にもやもやさせるのよね。あっそうだ、天知茂とか、ニッキ水(唐突!)もいかがわしいよね。 みんな近緒の恐怖のノスタルジー。「発狂する唇」って、日本にしかないキュッチュさに溢れかえったノスタルジーと「どっかで見たよー」のコラージュ。コラージュのエッセンスはエロだよね。この映画の場合。 「悪魔のいけにえ」でレザーフェイスが、ヒロインに無理矢理、犠牲者の顔を剥いだやつを被せるシーンも興奮させられたけど、この映画の場合も金髪女性の日本人FBIの髪を剥ぎ取ってそれを被っちゃう女霊媒師なんかが出てくる。女霊媒師はレズで金髪フェチなんだけど、「発狂する唇」は人物造形も含めて、何処かで見た(あるいは感じた)フェチアイデアの移植しまくりが楽しいね。 でもどれだけの世代がこれを楽しめるかは疑問。「時代」に郷愁をもてない世代や、あまり映像体験がない人たちには、この映画はどんな風に楽しめるんだろう、、。後、近緒流の好みで言うと、硫酸で死体を溶かした後、ビニール引きのエプロンを付けたまま汗まみれでおにぎりを食べる三輪ちゃん。うーんフェチグロ(これも古〜いフレーズなんだけど判るかなぁ)。いいなぁ、むずがゆくなるような馬鹿さ加減がいいのよね。「発狂する唇」の構成についちゃ、なんにも言っちゃ駄目。ぶち込む材料が、親近相姦にさらいご、日本のおどろぐらいまでならまだお洒落だけど、最後のクンフーシーンなんかは脱力過ぎて腰が抜けちゃうよ〜。でもいいのよ。アソコだって力を抜かなきゃ入らないんだから。 PS 主演の三輪ひとみ、菅野美保もこの手の映画にはまってるけど、彼女もなかなか「薄幸そう」なところがニュルポンでプラグインだわさ。彼女がアナルレイプされている時にアップになる、胸の谷間の汗の玉、舐め取ってあげたかったわよ。 |
監督:佐々木浩久
脚本: 高橋 洋
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近緒のIsaw映画レビューを何人の人がビデオ選びの材料にしてくれているか判らないのだけれど、そういう意味じゃ少なくとも一般受けする映画について私が何を書いても仕方が無いわけで、、。 で、取り上げたのがこの映画、「血を吸う宇宙」。「発狂」シリーズの第二弾ってことで全作より更にその怪作ぶりがパワーアップしてるのかしらと期待しながら見てたのだけど評価は△です。 、、残念ながらこの手のものを前作よりも薄められた状態で見せられると「・・・。」ですね。もっと言うと内容が際物だけにこのパワーダウンは決定的です。主演の中村愛美と前作主演三輪ひとみの質の違いといってしまえばそれまでなんですが。 でも、「血を吸う宇宙」を初めて見るならそこそこ楽しめる筈。なんたって「発狂」シリーズ最大の売りであるキッチュ濃度は同じで、映画のファーストシーンで登場する昭和高度成長時代の懐かし番組にチューニングが合う人ならまず大丈夫です。 (今でもウルトラQやら怪奇大作戦やらに涙する叔父様方が多いみたいだし、、、。) そんな世代にはUFO・アブダクションと昭和歌謡ショウの取り合わせは絶妙な味を提供するはずです。 それにこの映画には選挙運動中に女性にちょっかいを出して躓いてしまった某代議士を彷彿とさせる「亀山パンチ」氏が登場するのですが、その悪ノリぶりに肌があうなら間違いなくこの映画楽しめます。 先にパワーダウンと書きましたが、前作と比べてますます怪優ぶりに磨きがかかてきたのが「怪しいモンじゃない。決して怪しいものじゃない」と言いながら危険な程に怪しいFBI捜査官として登場する阿部寛ちゃんです。 近緒は発見しちゃいましたが阿部ちゃんのホッと息を抜く顔の表情は関西落語家の小枝さんにそっくり、、。なんて言うと、阿部ちゃんがメンズノンノの男性ファッションモデル上がりだって知っている人はその変容振りにがっくりくるか、喝采を送るかのどちらかだろうと想像いたしますのことよん。 近緒は大学生を演じる端正な顔立ちの阿部ちゃんの部屋に、縄に縛られたSMヌードピンアップがさりげなく張り付けてあるシーンだけでもこの映画を愛してしまいました。 PS 殿方にはFBI捜査官成本とコンビのルーシー(栗林知美)や由良宜子の女優陣が醸し出す、薄暗くって安っぽい場末エロチシズムが素晴らしい塩梅の「発狂」シリーズ。残念ながらこちらも前作に比べてスケールダウン。でも初めて見るならこちらでも充分OK!! でもでもビデオ借りるんならこの一本メインはだめよ、必ずおおまけでね。プラス必ず時間の余裕のある時に見る事、、この作品って一種の洒落なんだから。楽しんでたもれ。 |
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巷説百物語 魍魎の匣
京極夏彦
角川書店
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私は一度、京極夏彦に挫折している。彼の作品を、たった1冊でさえ読破できなかったのだ。書き手と読者の間には相性というものがある。私は感性や思考のリズムがそれを司るのだと思っているのだが、、。が、どうした事だろう。今度は読めた。しかもすこぶるおもしろくだ。「蘆屋家の崩壊」の読後、約2週間の間に映画もビデオも見たし、本も読んだ。その中にはスターウォーズも当然含まれる。しかしどれをとっても「私のレヴュー」に書き出したいものには出会えなかった。辛うじてキングの「図書館警察」をこのレビューに書きたいと微かに思っただけだった。そんな時期での「巷説百物語」との出逢いだった。巻頭を飾る「小豆洗い」、、昔読んだ京極作品よりは、短編のぶんだけ「軽い」そう思った。が、この短編で作中人物の役回りが頭に入ってしまうと、続く短編が違う面白みを帯びてくるのである。京極は怪異・妖怪談を人の暗黒で料理しなおすが、今までの料理法は私の胃には重すぎたのかも知れない。巷説百物語を読みながら私が常に意識したのは、なんと「スパイ大作戦」であった。これは素敵な仕掛けを考えついたものだと思った。これでひょっとしたらこの私にも京極ワールドを堪能できるチャンスが生まれたかも知れない。 |
魍魎の匣
京極夏彦
講談社文庫
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順番として「巷説百物語」が先に読めて良かったと思っています。京極夏彦が面白いのが判った上で読めるのは有利ですよね。なにね文庫本であの分厚さだと腰が引けちゃうんじゃないかな。でも「面白い」のが判っていると、それが「愉しみ」の維持のボリュームに見えるから。ああまだまだこの人の世界に浸って居られるんだと、、。ズーッとドグラマグラの世界なんですよね。眩みの世界というのかな。でもその眩みには人それぞれ嗜好があって、でも魍魎の匣は個人的にはまさに、私の匣にピッタリのサイズで、、。もし私の目の前に匣を抱えた雨宮が座って、それを覗き込むような事があれば、私は久保になっちゃうだろうし、、。改めて遅ればせながらだけど、とにかく凄い京極夏彦。 |
I
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監督脚本:トム・ティクヴァ
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「ラン・ローラ・ラン」この映画凄いぞ。警備員の男がサッカーボールを蹴り上げるオープニング、ドキドキしたよ。このドキドキ感、初めて見た時の「スターウォーズ」のスペースシップの登場の感激に似てる。「この場面を、こんな風に見せてくれるんだからこの映画、絶対に面白い!」って感覚ね。 SWの第1作かぁ、、昔話ついでに、フランク・ペリー監督の「泳ぐ人」て映画があったんだよね。バート・ランカスターがプール付きの友人宅から友人宅へと、とにかくありとあらゆるプールを泳いで自宅に帰るって内容だったかな、、。ラン・ローラ・ランを見て、ちょとあれを思い出した。 人間の「走る」とか「泳ぐ」事自体が話を繋げていく構成の映画は昔からあるんだよね。ただこんなに「走る」女性をパワフルに、しかも魅せながら撮れた映画はあまりないと思う。ローラの「こんな別れは嫌!」という所から始まるパラレルワールドつうか「もしもの世界」が、繰り返され、それらがリアルかつ過激になっていくのが面白い。 この方法、前の世界と微妙に違っていく所が味噌で、実に上手く話しが変化していくのね。つまりこれは観客にとっては目が釘付け状態になるという事で、やるなトム・ティクヴァって感じ。それにひとつ一つのエピソードが面白くてそれだけでも小粒の作品になるだろうと思う。でもこの作品の成功の軸は、やっぱり「走る」シーンをメインにしてスピード感や切迫感・生命感を出し切れた事だろうな。ローラ役のフランカ・ポテンテの顔色が充血してまだらになってるシーンとかあるんだけど、あれって本当に長距離走った後は色白の人はああなるのよね。 フランカ・ポテンテって不思議な役者さんだよね。綺麗なんだかブスなんだか、、でもあの赤髪、ほんと興奮ものね。 |
I
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監督:竹中直人
主演:竹中直人 原作:つげ義春
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モノクロの画面では、カット割りも含めて、つげワールドそのまま。ゴンチチが流れてカラーになってから竹中色が少しずつ出て来るようだ。後数年もすればこの映画、日本人にとって、全編、何処か遠くの東南アジアの風景になるのかも知れない。勿論、それはつげ義春の「遠近、書き割り棒立ち人物」「横町の曲がり角から見える郷愁」を竹中直人が彼の映画の中でも大切にした結果なのだが、、、。だが、時代の加速度はそれ以上に速く「夏の夕焼け・西瓜、首の回りの悪い扇風機」などを、私たちの郷愁の中からさえも近々に駆逐してしまうだろう。 で、竹中直人の映画監督としての手腕だが、さすがに多摩美卒らしく映像への拘りは、水準をキープしているようだ。風景としては「アンコの少ない」多摩川の上流で、あれだけのシーンをでっち上げられたのはなかなかだと言って良いと思う。それに映画音楽としてゴンチチが入るタイミングが絶妙である。この辺りは、彼の「監督」の才能というより、パホーマーとしての能力に機縁しているかも知れない。 主人公の妻であるモモ子(風吹ジュン)が「虚無僧さんて、虚無の僧なのかしら」と言ったのに対して竹中が「仏教に虚無はないよ。由来はよく知らんけど、乞食みたいなものだろう」「まあ、一種の無用者だな。高度資本主義社会に順応しない、無用の存在ってわけだ。」と応え、モモ子が「役立たずの、無能の人」「あんたみたいじゃない。」と返す場面から、この映画のテーマの半分までが語られ始める。(「虚無僧って儲かるかな。」っというだめ押しの竹中の台詞には思わずにんまりさせられた。) 映画のエンドは、この夫婦というか家族が「邪魔者にされて取り残されて広い宇宙に私たち3人だけみたい」のような表面を見せながらも、「夫婦愛」というそれなりのハッピーエンドで終わって行く。(ラストシーンは懐かしいイタリア映画を見ているような気さえした。) だがもう一つのテーマ「生きていても死んでるような者」の「あがき」は、鳥男の幻想に託して竹中直人は美味く逃げ去ったようである。竹中が開く河原の店は、怠け者のうらぶれた楽園基地のようでもあり、それはそれで結構ぬくぬくとした場所であったに違いない。そんな場所の近くからは「鳥男」は決して飛び立てないのだが、、。 話は変わって「日銭追い霞をくらう石屋かな。」の台詞から続く、竹中がゴム胴長を履いて自分を誘惑してくる女を背負う場面を見て、私はウチの弟を思いだしてしまった。ウチの弟なら、こんな場面で被虐を感じたりする男だし、(つげ義春に限らず「ガロ」なんかを得意げに読んでいた、それにゴムフェチだし)背中の女の体重と、川の水の圧迫感できっとゴム胴長の中で勃起していたと思う。 「自己憐憫」という罠に落ちる男と、それにつき合う女。これってよく考えれば私文学の世界とか演歌の世界だよね。それが今、見るとどちらかというと「ホッ」とさせられる世界になっている。時代の「エッジ」はきっと、とんでもない所に来てるんだろうね。 PS 軽石役の神戸浩は、面白い俳優さんだね。時々映画やテレビで見かけるけど、とても面白い。この人が旨く配役に嵌っている映画は、そこそこの水準なんだろうと思うよ。 |
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監督:フランコ・ドラゴーヌ(シルク・ドゥ・ソレイユ)
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私のような根性悪でもこんな映画を見る事がある。(ああ。これって「雨あがる」の時にも書いたっけ、、。)『アレグリア』それはポルトガル語で「歓喜」。アレグリアはファンタジー仕立ての映画だけれど、そう「安く」はない。イントロの台詞「何も持たないものにとって希望とは危険なものだ。」からもある程度の事は理解できよう。 甘く切ないピエロの恋、そして歌姫。主人公フラク(レン・ヴァジネ)は己の過去を「白塗り」の中に消し去った男だ。このフラクがサーカスの歌姫であり座長の一人娘であるジュリエッタと恋に落ちる。だが「愛によって常に誰かが取り残される。」という言葉通り、ジュリエッタを失った座長(フランク・ランジェラ)は、傷心の余りサーカスを放棄してしまう、、。「流れ星は魔法、空からの贈り物だ。しかし流れ星は気まま。何処に落ちるか判らない。」そして、、、。という訳で物語は進んでいくのだが、、。何よりも映画の中に挿入される幻想的なサーカスの団員達の体技、ピエロ達が秀逸である。 中でもピエロ達の演技は素晴らしく、彼らを見ているだけでこの映画の主題である『アレグリア(歓喜)』に至るまでの「悲哀・優しさ」を充分に感じてしまう。 それもその筈で、この映画の中のサーカス団は実在であり、その名を「シルク・ドゥ・ソレイユ」と言う。(こちらの関係からこの映画や、私の映画評を見られた方はまったく違った感想をお持ちかも知れないが。現時点で私は「シルク・ドゥ・ソレイユ」の素晴らしいパホーマンスを知らない。) それは1984年カナダ・ケベック州に集った若きストリート・パフォーマーの集団たちから誕生した新感覚のサーカスである。 座長が団員を集めて語る言葉「我々は、あらゆる人々と同じく、痛みも苦しみもある只の人間だ。だがこのショーにかける2時間だけは、あらゆる痛みをコスチュームの下に隠してあらゆる人々の為にやれ。たった2時間の夢で人生が変わる事もあるのだ。さあ、ショーを始めよう。」これには参りました。 きっとこれは「シルク・ドゥ・ソレイユ」の根幹をなす言葉なのだと容易に理解できる。だからあれほど素晴らしいパホーマンスが発揮できるのだろうと思う。そして私も、この言葉を肝に銘じて「表現」活動をしたいと思う。痛みや苦しみ、虐げられ貶められた人生から『アレグリア(歓喜)』に至る為の道筋を照らす為に。 |
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監督:リュック・ベンソン
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どうして全能の神が、戦争の流血を黙って見過ごすのか?「神のみぞ知る。」キリスト教文化圏の悩ましいテーマである。宗教無関心派の私には食あたりを起こさせそうな難題でもある。これが、キリスト教文化圏の映画のテーマには底流としてありテーマとして繰り返し取り上げられて来た。と、思うけれど、、。最近、この手の映画は少なくなっているような気がする。 そんな矢先に久々に、このテーマをしっかり構えた映画を見る事になった。監督は、リュック・ベンソン。なんで、彼がジャンヌ・ダルクを、今撮らなきゃならないの?という気持ちが強いんだけど。 私は、ジャンヌ・ダルクに一時期ほのかな憧れを抱いたことがある。勿論、理由はジャンヌが「男装の少女」だからなんだけれど。そんな私の下心を裏切ってリュック・ベンソンのジャンヌ・ダルクは完全に「女」だった。 リュック・ベンソンのジャンヌ・ダルクは、告悔大好き少女が、目の前で姉を、剣で突き殺されながらレイプされるのを目撃する所から始まる。 不遜な私は、この映画全編に「少女の性意識」を散見してしまうのだ。剣は「男根」あるいは「男社会・権力・破壊」の象徴であり、それは「徴」として神より、再び「女」のジャンヌに与えられる。 映画の中では、ジャンヌに、彼女が裁判にかけられてから「私は旗の方が50倍も剣よりも好きです。」といった言葉を彼女の良心/ダスティン・ホフマンとの会話の中で取り消させている。ジャンヌの天啓は「風」と「音」と「ダンス」、あのかたは「少年」であり「青年」である。それらと接触する事によるめくるめくエクスタシー、、。狂気が取り憑いたように自軍を破壊に導くジャンヌと、殺戮の現実におののくジャンヌが交互に出現し、ジャンヌ自身がそれを制御できぬところが生々しい。 ジャンヌ・ダルクのミラ・ジョヴォヴィッチはいい俳優さんだと思う。ジャンヌの不安定さや、性的なニュアンスの彼方にあるエロチシズムは彼女だから出せたのかも知れない。そのほか弾けた精神を垣間見させるシャルル7世のジョン・マルコヴィッチも、半分妖怪じみたヨランド・ダラゴンのフェイ・ダナウェイもなかなかぐっと来る。ああいう感じを出せる日本の俳優さんっていないよねぇ。 それと、執拗なぐらいベンソンは、前近代戦の残酷性を描写しようとしている。きっと「好き」なんだと思うよ。戦争そのものじゃなくって、肉弾で戦う事の、リアリティというか、人間が結局は血と肉で出来ている凄さみたいなものを知っている人なんだと思う。巨大な砲丸が転げ出るシーンを何度も撮影したり、又、それに叩きつぶされる人間を正確に再現しようとしたり、これはもう「好き」としか説明しようがない。 まあ、とりとめもない事を色々書いちゃったけれど、私はこの映画充分楽しませて貰いました。映画自体に対しては評価が別れているみたいだけど、結局は楽しめるかどうかだからね。 |
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「白夜行」
東野圭吾 集英社文庫
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実を言うと東野圭吾は初めて読む。赤川次郎と東野はずっと読まないだろうと思っていたのだが、「白夜行」については和製ミステリーとして非常に高い評判を前々から聞いていて、つい最近「転んで」しまったのだ。 最初の数行を読んだだけで面白いのは判ったし、東野っていう人は相当頭がいい人だなぁというのが判った。でも暗い、色んな意味で、、。精神世界系の暗さじゃないから余計に暗い。なんだか自分が勝手に思い描いていた東野圭吾っていう作家に対する先入観とは全然違うのだ。 巻末に馳星周がいきなり「嫉妬する」なんて書評を書いて吃驚させられるんだけど何となくそれが判るような気がする。でも馳のノワールは洋酒で苦みがあるけれど、東野のそれは日本酒それも生酒って感じでひんやりして何処か甘い感じがするんだけど。 物語の始まりの舞台は大阪。大阪に住んで「白夜行」が展開する時代の何処かに意識的が強くリンクしてる人なら、この作品の主人公が決して雪穂や亮司ではなく、「時代」そのものでありその時代と共に蠢いてきた自分自身の心の暗部である事は直ぐに理解できるだろう。 「白夜行」を読んで面白い仕掛けだなと思ったのは、読み終わってからも、この「伏線の集積」とも呼べる物語が「反芻」出来る楽しみを維持しているという事である。 PS あまりに分厚いので読み返す気力がないのだが、亮司がこれから仲間に引き入れようとする男を助ける為に、中年女性に死姦した時は射精したと考えていいのだろうか? |
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監督:実相寺昭雄
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三輪ひとみの「小林少年」が見たくて「D坂の殺人事件」を見た。監督はウルトラ世代には涙が出そうな実相寺昭雄である。物語の展開をナビゲートするノスタルジックな紙細工の書き割りのアイデアはさすがに実相寺昭雄監督らしい。、、しかし、、一つ一つの映像が、、凝っているのは判る、だが古い。「新しくあろうとして古い」のは困る。バックで常になっている耳障りなヴァイオリンの音も苛つく。けれどさすがに実相寺昭雄監督、半分は壷をハズしちゃいないのである。 なんの壺かって?「縄」の情念を映画で撮る壷だ。(須永時子役の吉行由実や、花崎マユミ役の大家由祐子らの存在感や表情が大きいのかも知れないけれど。) 薄暗いSM雑誌の、薄暗いグラビア、責め絵。それらもたまには芸術チックに虫干しをしてやらないといけない。(映画の中に登場するあの責め絵、見覚えがある人多いでしょう?)でも虫干しは、そう、、ほんのたまにがいいんだけど、、、。 真田広之については何も言うまい。(多くの映画評が彼の好演を讃えているが、私には理解できない。彼は「男」としての純粋な美男子であって、彼が巡り会う幾つかの「この手の役割」はおおよそハズしている。と私は思っている。それは決して彼のせいじゃないけど。) 嶋田久作の明智小五郎がいい。そうたいした演技をしているわけではないが、実相寺昭雄の「絵の取り方」のモチーフとしては彼の怪奇俳優めいた容貌が実に様になる。 追記:「私自身がオチョウさんの贋作であるなら、本物はこの世にあってはならない」という台詞。そして蕗屋清一郎が自分の顔にあるほくろを責め絵の中のその顔に入れた心理。 これは完全に「女装者」の心理である。ここらあたりは脚本家の妙なのだろうか? 三輪ひとみの「小林少年」にも、「僕には蕗屋清一郎の心理が判ります。」と言わせて最後に自分の口に朱を入れて恍惚とさせたりもする。これは出来過ぎか、、?、、ホントは、もっと「固い体」の三輪ひとみの小林少年が見たかったのに、、。 |
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監督:ルキノ ヴィスコンティ
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ちりちりと焼け付くような思いで「ベニスに死す」を見終えた。ヴィスコンティのカメラが、教授の視点で、彼が焦がれる少年の姿をズームで、あるいは望遠で捉え続ける。 この映画、アッシェンバッハ教授のダッジォに対する「まなざし映画」とも言える。 教授を撮影する時だけ、映画的なカメラワーク(意味を付加する)が入り、それが映画としての全体像を補完するようだ。 教授に近づいてきたダッジォという名の少年の「美」の偶然。やがてそれは偶然ではなくなり、「おっとこれは恋なのかも」の世界に、、、、。「でも相手は子どもなんだぞ、しかも男だ、、。」この辺りの教授の心の揺らぎを格調高く言い回す人もいるけれど、「好きになったらそれっきり」人間の心なんてそんなものだし、それで私は十分だと思う。 「駄目だ、ここにいちゃどうにかなっちまう。でもあの子の誘いかけて来るような表情は一体なんなんだ。」後ろ髪引かれる思いでベニスを出る教授に「荷物発送」の手違い。 「これは私に、ここにとどまれという天命なんだ。」このあたりの心理描写が、台詞などの補助的な手段がなくても、実に見事に描かれる。ダーク・ボガードの名演です。彼の表情の描写が凄く素直。 <所で、ビョルン アンドレセンは裸より水着姿のほうが断然エロチックだね。特に横縞模様の奴ね、被服のエロス、、。> 教授の奥さんとダッジォの風貌が似ているというのは、男が男に、しかも老人が少年に惚れる為の引き金でもあり免罪符でもあるんだろうね。 そして、ダッジォにインスピレーションを得て作曲を始めた教授の前を、タオルで身体を来るんだダッジォが歩き去るシーンから、「ヴェニスに死す」は極めて映像的になっていくんだよね。これは彼ら二人が、同一画面に入るようになった(物語が始まった)という合図みたいなんだけど、、、。 「ダッジォがピアノを弾いてるぞ。絶好のお近づきのチャンスじゃないか。だめだ。私にはできん。駄目だ。ああ、ダッジォ、そんな笑い方はよせ、その男を誘うような笑み、他の奴に向けるんじゃない。」と教授は自分の中に嫉妬の感覚があることを知る。 「ああどうするんだ。私は本気になってる。」同時に映画はベニスに起こった疫病の蔓延を「悪意の楽隊」で不安を象徴的に現していく。 「コレラの流行、2・3日中に交通が断たれます。」という情報を得た教授の前の無惨なヴェニスの風景も、「荒廃の美」って感じで、ダッジォの姿をつけ回す教授が徘徊する都市としてぴったりだ。 恋の告白がしきれない心。若さの美と老醜の対比。 回春を目指してピエロのようなメイクをした教授、そして教授の汗で額に流れる染め粉の向こうにいる「美」のダッジォ。だがダッジォは一人ではない。 二人の少年達が教授の目の前で、幼い取っ組み合いのけんかをしてる。教授にはそうは見えない。燃えさかる肉欲の妄想。自分の手が決して届かない所にその美はある。 そして最後に教授はその「美」に手をさしのべながらコレラに命を落とす。 本当に分かりやすい映画だよ。いいかたを帰れば素晴らしく表現力の高い映画だという事。 少年と教授が接触したのは1度だけ、しかも、幻想の中で彼の頭に手を置いただけなんだよね。 教授は現実には声さえも掛けていない。 もし教授がダッジォに声を掛ける事に成功していたら、どうなっていたのか、、。あまり良い予想はできないなぁ。だからこそ教授も声を掛けなかったんだろうけど、、、「ベニスに死す」はそういった緊張の中で成立した物語なのかも知れないね。 |
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大友克洋の「アキラ」が登場した時には、子ども心にも漫画に新世紀が訪れたんじゃないかと思うほどショッキングだった。こんなに精密な作画をしてたんじゃ、メジャーになったら連載なんて無理じゃないのナンテいらぬ心配をしたりして、、。それからしばらく漫画界は「描き込み」がなければ「先端にあらず」といった状態だったと思う。 なんで、今頃こんな事を書いているかというと「クレしん」を見てると、作り込んだ絵だから、リアルな画だから、内容の濃いアニメが出来るってわけじゃない事をこの映画がいつも教えてくれるからだ。 更に「クレしん」は、その単純な絵柄で十分「物語」を見せてくれるのと同じように、パロディ・パクリの組み合わせで、原作と同程度のおもしろさを作り出してくるのも凄い。 この「雲黒斎の野望」、初めにしんのすけファミリーに襲いかかる忍者軍団は、、カスタネットをかちゃかちゃやってるんだけど、、これてルパンの「カリオストロの城」でしょ。それに某超メジャーアニメのお姫様のイメージは吹雪丸だし。馬に跨って天守閣近くまで駆け上がっていくのも何かの映画にあった場面設定なのね。ようするに「クレしん」のオリジナルピースはしんのすけというキャラクターとパパとママだけなんだよね。 でも、それで十分、物語として恥ずかしがらずに「立ってる」ところが凄いわけ。 この作品、時代設定の為に、時代劇アクションが中心なんだけど、漫画だから本来どうとでも撮れる訳でしょ。でも「クレしん」の場合、立ち回りの型の美しさを追ってきた日本のチャンバラの型をわざわざなぞるわけ。 「アニメ」でありながら「アニメ」をさりげなく捨ててるんだね。しかもどこからどうみても「アニメ」でしかなりたたない「あの絵柄」で!! そんなこんなで「どーよ」って言いながら余裕で映画作りしてるんだよ、「クレしん」って。 そして最後の最後の展開で、あの巨大ロボット同士の戦闘シーンでしょ。きれてるっていうか、はじけてるっていうか、凄いですわ。シュールですよ、、、このシーン、、、ホント、、この表現「並じゃない」って感じ、、全体の映画作りがこなれている分だけ余計に突出して見えるのね、、。とにかくやりますわ「クレしん」。 PS 吹雪丸は、映画にはありがちなんだけど、やっぱり可愛いキャラだね、、。特に吹雪丸がみさえママに接近していってパパに嫉妬心を感じさせるあたりなんか、なかなか倒錯的な官能感を味わえるし。最深部にて雲黒斎を守るお銀と対峙し、アンドロイドであるお銀に刀を折られ、髪を掴まれつつ「肌の匂いでわかるんだよ。お前、女だね…!」と正体を暴露される吹雪丸。掴まれた髪を守り刀で切り落とし、お銀を刺して叫ぶ「私は…私は女ではない!」の台詞も、、嗚呼、、男装の正調ヒロイン、、、なのだ。 ここで近緒的劇場版「クレしん」萌えキャラランキングパート1発表。 第一位 暗黒タマタマ大追跡 ラベンダー 第二位 暗黒タマタマ大追跡 東松山よね 第三位 雲黒斎の野望 吹雪丸 |
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監督・脚本:原 恵一
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「ブタのヒヅメ」を見ていると、クレしんシリーズの基本テーマとターゲットがよく判る。それは、しんのすけが体現するようなおちゃらけや既存価値体系の攪乱などではなく、ずばり家族愛であり、その対象は若い夫婦(お子さまは勿論だけど)なんだよね。 この作品が、いずれも傑作揃いとされているクレしんシリーズの中でもベストスリーに入ると評価されるのは、先のコンセプトがわかりやすく、しかも効果的に作品内に組み込まれているからだと思う。 若い夫婦にとって「クレしん」の身近なキャラクターは勿論、みさえとひろしだろう。実際にこの二人は、今までのシリーズでも裏主役といってよく、実に多くの体験と冒険をするわけ。しかもその冒険は、表面的には実に荒唐無稽なんだけど、よく見ると実に日常感覚にあふれていたりするのね。今回の「冒険」の滑り出しはなんとみさえママが整理ダンスからパスポートを探し出す場面からはじまり、最初の異境の地は香港。しかもみさえたちの服装はバックパックを背負ったよ〜く見かける旅行者スタイル。 こんな風にクレしんは、自分たちの子ども達の為に、映画館あるいはテレビの前に座らざるを得ない大人達の為に、一種の疑似体験もサービスしてくれるのよね、。 サービスといえばお色気も、「クレしん」じゃ定番状態で用意してくれてる。 (何故か特撮ヒーローものでも、悪の女幹部が定番、、、でもあれはなんでだろ。ママならいざ知らず若いパパがそうおいそれと子ども達と映画館に行ったりビデオをみたりしないと思うんけどなあ、、性の目覚めの頃の子ども達までターゲット層に含めてるんだろうか?) 今回は、そのものズバリの「お色気」が登場する。この「お色気」全編キャットスーツを着て大活躍をするんだけど、男性観客(パパ)はその姿態に、女性観客(ママ)はそのスーパーウーマンぶりにきっと魅了されると思うよ。(だって実は、この「お色気」、バツイチで一人っ子を育てながらなの情報員活動してんだもん。) しかもこの「お色気」を救出するためにみさえたちと行動を共にする諜報員「筋肉」が、「お色気」の元亭主。実に巧いキャラづくりをしれてる。 ラストシーンでクレしんファミリーと、家族のよりを戻したらしい「お色気」ファミリーが仲良くピクニック先でお弁当を広げている場面まで見てみると、今更ながらにこのシリーズ、本当に計算された映画作りをしているなと感心させられる。 そして「クレしん」オーソドックスを極めたようなキャラをたてる反面、実に実験的でユニークなキャラクターも必ず用意してくれる。これは制作サイドの「お遊び」の部分なのかも知れないけどね。 今回は悪の組織「ブタのヒヅメ」敵ボスのマウス。「うーん。かってこれほど『ありげ』な敵ボスがアニメ映画に登場した事があっただろうか、いやない」ってのりだよホント。マウスって人物、マスコミ業界かカタカナ系職業の方にかならずいそうだね。近緒はず〜っと作家の牧野修を連想してたんだけど、、。 そして電子生命体である「ブリブリざえもん」ね、、。小さな子どもの「面白い」のエッセンスが「しんちゃん」なら、結晶体はこの「ブリブリざえもん」でしょう。 成長(育て)ゲームでもあるこの「ブリブリざえもん」は、とってもシュールかつ初源的な存在だと思ったよ。自我に目覚めて「自分」しかない状態から、「他者」を感知しやがて消滅してしまう「ブリブリざえもん」。 この「ブリブリざえもん」が最後に一度だけ再生して大カタストロフィの中から人間達を救ったシーン、、。小さな子ども達の目に焼き付いているといいなぁ、、。 PS いつもの事ながら、臼井義人のマンガチックな絵をアニメ向けにリファインしスムースに動かす技量には舌を巻かされるのだけれど、今回の「お色気」の格闘シーンの演出と作画はスゴイ。特に足首の部分、太股の筋肉とか、カラダ全体の動きのバランスとか、実写以上にリアル(下手すると実写のワイヤーアクションの方がアニメチックかも知れない。)。 という事で、「クレしん」シリーズ お気に入りキャラランキングの初参入ならがら「お色気」急上昇です。 近緒的劇場版「クレしん」萌えキャラランキングパート2発表。 第一位 暗黒タマタマ大追跡 ラベンダー 第二位 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 お色気 第三位 暗黒タマタマ大追跡 東松山よね 第四位 雲黒斎の野望 吹雪丸 |
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監督:本郷みつる
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劇場版「クレしん」シリーズの優秀さは、保証済みなので、本日のレビユーは、「クレしん」お約束の「おかま」さんキャラの考察です。小さな子どもは下ネタが大好きですが、どうも「クレしん」に毎回といっていいほど登場するこのオカマさんたちも、その延長線上にありそうです。今回、登場するニーナとサリーの二人組は、その存在のリアルさにおいて「暗黒タマタマ大追跡」にひけをとらないのではないかと思われるキャラです。 特にニーナのいかにもって感じの服装やヘヤースタイル(大きく膨らませた前髪、おでこの丸み具合)など、どうしてここまで「それらしく描写できるのよ〜っ」レベルです。 台詞なんかも、「オカマは○○なのよ。」って具合に自らの行動原理を言葉で他人に説明しちゃうサービス傾向まで、いだいちゃって、、「よくやるわねん。」って感じです。 ちなみに、近緒はニーナのファンデーションの下から見えるアフターファイヴ仕様の髭が何となく好きだったりします。ニーナが実写なら、かなり綺麗所のニューハーフさんがそのキャストに割り当てられるんでしょうけど、、ものすごーっく綺麗な「おねいさん」に、うっすらポチポチと髭の跡がみえたりするアンバランスは大好きです。 「美は乱調にあり」ってやつですね。あ、そうそう「美は乱調にあり」で思い出したけれど、本編に出てくるスーパーガールのルルさん。最後には、とんでもないコスチュームを披露して、しんのすけ達を崩れゆく秘密の大神殿から脱出させるのですが、、、これは世に言う「変態」さんノリですね。 ルルさんのコスチュームは、全身ラバーのバルーンアヒルの着ぐるみなんです。その直前までルルさんは脚線美バリバリのチャイナ服でバトルを披露しているんですが、、その彼女がバルーンタイプのラバー着ぐるみ姿で顔だけ見せるんです。 このビザールコスチュームについて、しんのすけやパパが、奇妙に萌えて見たり、ルルさんが恥じらって見せたりするシーンがあるので余計にね、、。 最近、愚弟から「何かラバーもので面白いのない?」って感じで、かなり年代物のシネマジックAVを借りたんですけど「ラバードッグ」っていう佳作があるんですよね。まあストーリーは、「若い女性トリマーが孤独な犬好きサイコ君に拉致されてラバーを着せられ犬の代わり飼育」というありがちなものなんですが、ウェアーが良いんですよ。 ホワイトピンクのラバーキャットスーツ。飴色ラバーのように肉感的じゃないし、ブラックラバーのような無機質な感じもしない。あえて言うなら安っぽい作りのバービー人形のまがい物みたいな感じ? ルルさんの最後のラバーダックのバルーン着ぐるみ見ながら、その姿をすっごく連想しちゃったわけ。我ながら「変態」だな〜って思うんだけど、この「萌え」感覚があって得したな〜とも思う今日この頃なのです。 近緒的劇場版「クレしん」萌えキャラランキングパート3発表。 第一位 暗黒タマタマ大追跡 ラベンダー 第二位 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 お色気 第三位 暗黒タマタマ大追跡 東松山よね 第四位 ブリブリ王国の秘宝 ニーナ 第五位 雲黒斎の野望 吹雪丸 |
I
saw a movie.
監督:本郷みつる
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「クレしん」の凄さを再認識しました、、はい。一見「クレしん」シリーズの中でも幼児のみにターゲットを絞りなおしたかのようにみえるこの作品、、脚本構成が抜群のできです。 実写を含めて下手な日本映画より、はるかに優れたテーマ性と訴求力を持っていると思います。よく映画レビューで「ねたばれ」という言葉があるんだけれど、正直言って「ねたばれ」を考慮に入れないと鑑賞時に興ざめになるという作品ってほとんどないんですよね。最後の「どんでん返しが売り」っていう作品でも実はそう、、。最近じゃ「シックス・センス」だけでしょう、そんなのは。 でもこの作品、「ねたばれ」注意です。あっと驚く大どんでんが待ちかまえているとは言いませんが、最後のどんでん返しのありかたに納得できる。大人としていい気持ちになれる。(どんなのかは、本編を見て下さい。) 言い換えれば、そこまで引っ張ってこれるストーリー展開をしてるって事なんですよね。近緒はこのプロの手際を「新しげな映画」を作り続ける制作側に求めますね。映画だってビデオだってお金を払って見にいくんだから、、。楽しませて貰うと同時に「納得させて」欲しい。 こういう熟練のうまさが出せる映画作りの実力もあるけれど「あえて新しい試みを自分の感性で」って感じがする監督さんは、どれぐらいいるのかなって思う、、。 しかしまあアニメで、ジョン・ウィンダムばりの侵略ミステリィというか、しんちゃんが周囲から孤立させられ追いつめられていく感覚を、しっかり観客に納得させるってほんとに凄い腕前だと思う。下手な映画だと、ここの所は単に「説明」になっちゃうんだけど、ちゃんと描写してこちらの心理に訴えかけてくる。策謀家のス・ノーマン・パーというキャラの立て方もいいんだろうけど、、人が引けた後の夕暮れ時の遊園地の不気味さとか、遊園地内のシュールな造形を多分に意識的に使っているんだと思う。「視覚」による心理操作を判っているんだよね。聞いた話だけど埼玉在住の人は劇中に現れる東武野田線の描写に吃驚するそうです。(なんとまあシ−トの色まで合ってらしい) それから映画としての訴求力ね。トッペマ・マペットがしんちゃんの眼前で、敵との戦いで力を使い果たして死んでしまう場面。 「だいじょうぶよ。しんちゃん。しんだりしないわ。ちょっとお休みするだけ、、ちょっと休んだら又、次からがんばれるんだから、、、。」 うーん、こんな心に染みる台詞、ちょっと出てこないよ。そしてついにマジで泣いてしまうしんちゃん。そのショットが後頭部からで顔の表情が見えない(あの特徴のあるほっぺたバックショットに涙の筋が一本のみ)、、、。もうこれは凄い演出だと思いました。「マジのしんのすけ」、「素のしんのすけ」は絶対に画面に出せない、、これは、、しんのすけのキャラ設定から考えて絶対条件でしょう。でもしんのすけが本気で泣いているのがわかるんだから。 それにこのしんちゃんの涙がかなり深い所にあるのね。トッペマ・マペットからの救援依頼を、実に子どもらしい心情(怖いからオラやだ)で断り続けていたしんちゃんが、決戦の場所にある遊園地に出向いたのは、彼女の心にゆり動かされたんじゃなくて、両親が敵に拉致されたからなのね。 所が、トッペマ・マペットは完全な自己犠牲の精神でしんのすけのピンチを救おうとするわけ、、。 そりゃ、、しんちゃん泣くよね、、。(そして大人はこういう後ろ姿を子どもに見せてやりなさいってメッセージが、、それはないか、、。) それであの結末というか、どんでんがえしでしょ。。そりゃ「納得」しますって。 PS 「クレしん」シリーズには毎回、魅力的なキンキーキャラクターが登場するんだけど今回の作品はちょと方向性が違うみたい。ハイサイブーツのグラマー魔女チョキリーヌ・ベスタはイマイチだし、おかま魔女は狙いすぎ。トッペマ・マペットはお尻にネジ巻きを差し込んで動力を与えてやったり、そのネジ巻きが普段は頭にリボン代わりとして差し込んであるのが、、「クレしん」らしいだけど、、気高すぎ、可愛すぎで、、萌え度は返って低いのよねぇ、、。 |
I
saw a movie.
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このレビューは短い。だって書くことがあまりない。つまらないの?そんなことないよ。「劇場版『クレしん』でハズレはない」っていう定説通りよ。あまりにも作品としてのバランスが良すぎるんだよ。そつがなさ過ぎる(、、贅沢な話だねぇ。) あえていうならアフロヘヤーの敵役パラダイスキングのキャラが、クレしん映画恒例の「遊び部分」かな。その他はあまりにも感動の壷を押さえた完璧すぎる演出と話運びです。 所でみなさま、最近の日本アニメは「世界に誇れる文化水準」なのだそうですが、ご立派な宮崎はやお作品以外は、総て神経症的傾向を持っていると思いませんか?良いも悪いもひっくるめて「健全」なのは、劇場版「クレしん」だけではないでしょうか。 みなさん「クレしん」を見ましょう。見ることによって「クレしん」の足場を固めましょう。こういう制作姿勢のアニメが費える事になったら、はっきりいって文化的損失です。 いや、これ本気です。良質で健全な作品が流通市場を多く占めること、その中で前衛的な作品があったりアンダーグラウンドがある事、これが文化的強さだと思います。劇場版「クレしん」立派に指標となる作品です。 |
I
saw a movie.
監督:原 恵一
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温泉Gメンの「後生掛」が好みのタイプ。近緒はセミロングで茶髪、痩せ形だけど出るところは出てる娘が好みなの。「バ〜カ。アニメキャラに萌えてどうすんの?」って突っ込まれそうだけど、、「クレしん」の映画作りはその辺り絶対に「意識」してるよ。 絵柄や設定を、それっぽくしてるって事じゃなくて、、子ども達を劇場に連れてきてるパパ達に「でしょ。これってあるでしょ。あんたも好きだね〜。」っていう共感で迫ってるから、並のアニメや実写の女性達より「クレしん」の女性キャラはずっと可愛いし「オンナ」なんだよね。 更に、みさえっていう強力な「現実の若妻」の座標軸があるから、登場する女の子達が余計に官能的に見えるって仕掛け。 今回、みさえママが、ひろしのスケベぶりに「けっ!」っと侮蔑満開の表情を表すシーンが何度あった事やら、、。、、、だから夜の大宮でチャイナドレス風浴衣をきたオミズ風ギャルの銃撃戦なんだってば。チャイナドレス風浴衣って一見、奇抜なアイデアみたいに思えるけど、もう一人の「指宿」って女の子はミニの浴衣にブーツなんだよね。これってよく考えたら、浴衣がまともに着れない最近の子たちの事や、浴衣着てても腕まくりしちゃう姿を見てると、とっても自然なのかも、、。 この健全(?)な大人のお色気サービスと共に「クレしん」名物は「壊れキャラ」。温泉の精・タンバの丹波哲朗は、カメオ出演の範疇として、今回のキンキー野郎は敵キャラ・Drアカマミレではなくて、意外とGメン隊長の「草津」でしょう。 この妙に爽やかなオヤジ・草津は、Drアカマミレと共に長島茂雄の持つオーラというか時代のエッセンスと見たがいかに、、。 両者の大衆浴場の下駄フダ3番へのこだわり。今回の「温泉わくわく」は、シナリオ的に悪役側の動機が弱いんじゃぁっていう批判があるみたいだけど「長島」で充分じゃないかな、、だってそれが「長島」なんだから、、。 こんな感じで「クレしん」という映画、制作側が随分楽しみながら映画を作り、しかも観客を充分喜ばせてくれるんだけど、今回のは特別「楽しんでる」って感じだね。 何たって東映の怪獣映画をこれぐらい楽しんでパロってくれたら言う事なし。伊福部昭のマーチなんかもバンバン使えるしなー。陸上自衛隊隊長が部下に「お前ら、自衛隊に入った甲斐があったな。」という台詞、最近のゴジラ映画見てて観客が当てレコする思いと一緒だもんね。 (ホントは悪の組織YUZAMEの巨大ロボットが街を壊していくシーンやその前後には、ゴジラだけじゃなく、平成ガメラとか洋画ゴジラ、、その他、宮崎駿アニメのパロディまで入っているんだけどね。) とにかく楽しかった。制作側の「楽しんで作っている」姿勢って、しっかりした技量と絡まると観客側に伝染するんだなぁってつくづく思ったよ。 PS 今回のレビューは、いくら「クレしん」シリーズだからって、ちょっと褒めすぎだなぁ。作品的にはシリーズ中、三・四番手のクオリティなんだけど、テーマが日本人大好きの「温泉」だからね。褒めたくもなるよ。それだけで見てるのが嬉しくなっちゃうわけよ。 それに焼き肉ね。こんなに焼き肉を食べたいって思わせてくれるアニメも珍しいよ! 近緒的劇場版「クレしん」萌えキャラランキングパート4発表。 第一位 暗黒タマタマ大追跡 ラベンダー 第二位 電撃!ブタのヒヅメ大作戦 お色気 第三位 暗黒タマタマ大追跡 東松山よね 第四位 ブリブリ王国の秘宝 ニーナ 第五位 雲黒斎の野望 吹雪丸 第六位 爆発!温泉わくわく大決戦 後生掛 |
I
saw a movie.
監督:ミロシュ・フォアマン
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冒頭数分間のシーンで、「この映画、日本人には絶対に撮れない。」旨く説明出来ないけれどそんな気がした。まず第一に「笑いの質」の問題。確かに日本人の「笑いの質」も変わってきたように思うけれど、「挑発」「冒涜」「侮辱」をベースにする笑いの許容量はまだまだ狭いだろうし、(個人的にはそれでいいと思っている。この国の人がそれを受け入れる時は「病んでいる」時だから)この映画に現れる笑いは「スタイル」としてでしか受け入れられないだろう。 “アンディ・カフマン”が「笑いの天才」であるかどうかも、実の所、私には「映画の設定」でしかそうと認知出来ないのだ。(私は訳知り顔で、ああいった「間」やシュールな笑いを受け入れないと時代遅れになるみたいな「気取り」は大嫌いだし。) それと日本人には、この映画を撮れないだろうという理由の二つ目は、アメリカの場合「ショービジネス」という感覚を、「映画」を撮る人間も、ベースとしてその感性を持っているという事だ。映画を、「面白く」もするし、映画で「実験」もするが、それで「金を稼ぐ」事が命題としてある。日本のように「貧乏でも表現」はない。 冒頭、批判めいた事を書いたが、この映画は、私の「お気に入り」である。何本かの映画は見ていて「ずっと胸が痛くなる」ものがあるがこれもその一つ、、。 生きるのが呆れる程、不器用な人。自分の「暴走」が止められない人。「精神療法」に掛かっていないと悪人ぶれない人。私は、こんな人たちを見ると、胸が痛み切ない気持ちになる、、。『マン・オン・ザ・ムーン』は全編そうだ。おまけに笑いながら切ないのだから質が悪い。 そして「表現」に付きまとって来る現実的な課題、これは「笑い」であっても「文章」であっても「映像」であっても全て共通している部分がある。この映画の中でも「笑いの天才と、ショービジネスの拮抗。」「誰を楽しませたいんだ。観客か、自分自身か?」「アンディわからんか?お前はみんなから拒絶されたんだ。」etc、考えさせられる部分は山ほどある。『マン・オン・ザ・ムーン』では、ただただアンディが自分のやりたいように事を運びパホーマンスとしての「男女混合プロレス」まで驀進して行くのだが、、。 私にとっては色々なことを、感じさせ・考えさせてくれた映画でもあるが、それを抜いても、とにかく面白い映画だ。作家のズムタとアンディの悪ふざけジョークに騙されるのも悪くはない。最後には「温かさ」を分け与えてもらえるのだから。そして全編を通じてアンディ・カフマンを「演じる」ジム・キャリ−が最高である。 PS 私にとって凄く印象的なシーンが一つあった。それはアンディが、肺ガンを自覚し最後の、望みをかけて出向いたフィリピンの心霊手術室シーンである。ここでアンディが目撃してしまった事。そしてそれを見て「泣き笑い」をせざるを得なかったアンディの「思い」が、最後のカーネギー・ホールのショーの構成を決めさせ、彼の自身のスタンスを方向付けたのではないかと私は勝手に解釈している。 |
I
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監督:キム・テギュン
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香港映画と韓国映画はどう違う?「火山高」については全然予備知識がなかったので、はじめ数分は近緒この映画の事、香港映画だと思ってた。度が過ぎたワイヤーアクションやマトリックスそっくりのいただき振りが、そうさせるのだ。 でもいつまでたっても、ストーリーが破綻しない。この手の香港映画は、サービス精神が旺盛だから「見せたい」部分をたっぷり展開するために、ストーリー展開の整合性なんてはなから無視される場合が多いのだ。 それに画面から「俺達、映画作りにかけては老舗だよ」みたいな妙な自信が伝わって来ない。「火山高」は全編が弾け切っている癖に「一生懸命でまじめ」なのだ。 主人公が火山高に転入してくる直前に映し出される町並みは高度成長期の日本の貧乏長屋そっくりで、、、、あっ、これって韓国映画なんだと、この時点でやっと気が付いた。 香港には何度か遊びに行ったけれど、お隣の韓国にはまだ訪れた事がないので、お国柄も判らず、今から書くのは「余談と偏見」でしかないけれど、近緒の中では香港映画はハリウッドの文化圏に所属し、韓国映画は日本映画とハリウッドの中間点にあるような気がしている。
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I
saw a movie.
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初めカメラの視点が蘇州河を流れ、川岸や橋の様子が延々と映し出される。タイのチャオプラヤ川・香港とか日本の隅田川や淀川、、両岸に生活圏のある河は大なり小なり似たような様相を示すものだ。 「えっ。この出だし。社会派ドラマが始まるのかなぁ〜」実を言うと近緒、こんな映画も好きなのだ。でも「私」が、バーの水槽の中で人魚の扮装をして泳ぐメイメイという若い女と知り合い、「恋に落ちた」と宣言した時から、この映画、結構ハイセンスな映像のラブミステリーに変わっていく。 独立営業のビデオ撮影屋である「私」が、メイメイをプライベートビデオに収めるシーンや、黄色い公衆電話とその透明プラステック保護ボックスの透過して見える歪んだ世界のカット割りなんかは、お洒落系のファッション雑誌を見ているようでもある。 こう書くとこの映画、それ一点張りで押し通していく映画のように見えるが、もう一組の主人公であるマーダーとムーダンが登場してから人間描写も複雑になっていく。 二人の演技は上手い。特にムーダン役のジョウ・シュンが凄い。ジョウ・シュンはまだ幼いムーダンと何処かミステリアスなメイメイの二役なのだが、それら総てが全部演じ分けられている。特にムーダンがジーパンをはいてお下げにして登場する頃のイメージは中学生か下手をすると小学校の高学年の女の子のように見えるし、それが外面だけではなく内面まで演じ切れているのだ。一方、対照的にメイメイはどちらかというと性的に奔放な成人女性として演じられている。 マーダー役のジア・ホンシュンも、灰汁がないのにナチュラルな存在感があって好感がもてる。私はこの映画を見ながらどういう訳か村上春樹の小説をずっと頭に描いていたのだが、これは二つの異なった世界が重なっていく構造や、なかなか捕まえられない「謎の女性」が出てくるという物語上の共通項だけではなく、ジア・ホンシュンと、映画の視点である「私」におうところが大きい。 そう言えば考えれば考えるほどこの作品は、村上小説に似ている。村上作品でも「二つの世界」は重なってしまうのだが、この映画もマーダーの熱意によってメイメイ=ムーダンになってしまうのである。もっとも最後にはどんでん返しが一応あるのだが、、それはこの作品においては大きな問題ではないのだろう。 第一、ここに登場するマーダーという男性自体が、メイメイという女との愛の暮らしに「不安」を感じる「私」が作り出した幻影(もう一人の私)であっても不思議ではないからだ。 所で近緒はこの作品の中に隠された沢山のフェテッシュがお気に入りなのだ。メイメイのファッションは全部好きだし、彼女がお水丸だしのミニドレスの上に薄手のフード付きナイロンジャンパー一枚羽織って、ずぶ濡れになった姿なんかはもうジュンって来ちゃう。 第一、マーダーがムーダンの誕生日に人魚のバービー人形を送って、それから彼女が「人魚」になるっていう設定自体がフェチよね。 マーダーなんて、今はメイメイであるムーダンを探し当てると、人魚ショーの店のきらびやかなネオンの裏の更衣室でメイクしてる彼女をずっと覗いているし、、、。 金髪のカツラをかぶり水槽で泳ぐメイメイとか。小さな牡丹のタトゥーシールを太股の内側に張り付ける為に、メイメイが唾液の糸を引かせながら人差し指を口に運ぶシーンが何度も繰り返され映し出されたりね。 「愛しているならマーダーのように私を探して」と言い残して去ったメイメイ。だが「私」は「いや、、よそう、永遠のものなどないのだ。」と呟きながら『蘇州河』の河の流れに身を任せる。この浮遊感と、映像としてのハイセンスとフェテッシュ、、うーんいいなぁ、、。でもこれって「中国上海」だからいいって事もあるかな。日本で撮ったんじゃ余りにも当たり前だもんね。 |
I
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初めはロードムービーのヴェンダースというイメージが強すぎて、ちょっと戸惑ったというのがこの映画の印象。でもよく考えてみれば「パリ・テキサス」だって「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」だって人間を良く描けている作品であり、この映画が特別にヴェンダース色から離れている訳ではないのだ。 それに映画の最後あたり、夜更けから夜明けにかけて、真っ白な救急車と真っ赤な小型車のドライブシーンの綺麗さなんかは、いかにもヴェンダースだしね。でもこの作品、ビデオになってからどれぐらいのローテを稼いでいるんだろう。面白いと言えば面白いし、つまらないといえばつまらない映画だからね。「テーマ」としての話題性が地味で、よーく見ていないと「感動」も「納得」も起こってこない作品だから。でも見終わったあとは「この映画のことを覚えている」と思う。 粗筋を説明しておくと、模造美術品の商いをしながらも「裏の世界」に通じているトム・リプリー(デニス・ホッパー)が、ミノという人物の殺人依頼を、たまたま美術品競売場で出逢った額縁職人のヨナタン(ブルーノ・ガンツ)に振ってしまう所から、この物語は始まる。トム・リプリーがヨナタンに殺人者の役割を押っつけた動機が、ヨナタンに初めて会った時、軽くあしらわれた事への腹いせだったという辺りが味噌で、これが後々ヨナタンとトム・リプリーの友人関係に複雑な綾を織りなしていく。このヨナタン、実は白血病で明日をも知れない命、そこにつけ込んだミノの策略にはまってしまい、彼は金目当ての依頼殺人を実行してしまうのである。普通の映画ならヨナタンのような穏やかで思慮深い性格の男にはもっと別の展開を用意してやる筈だが、この映画では、ヨナタンにそれなりの「緊張」と「ためらい」を演技させながらも、比較的あっけなく殺人を成就させてやってしまうのである。この展開でまず吃驚させられて、ヨナタンが二回目の殺人に追いやられた時に、登場するトム・リプリーの登場に更に吃驚させられるのである。 なんと彼をこういう立場に追い込んだ筈のトム・リプリーが、ヨナタンの2回目の殺しを失敗しかけて万事休すになるタイミングで現れ、ヨナタンの「殺し」を手助けしてやるのである。 勿論、この場面、トム・リプリーを「正義の味方」として描いているわけではない。ただトム・リプリーが、ここに至るまでの期間に、ヨナタンの元に照れたようにおずおずと訪れ彼と親交を結んでいく手順がしっかりと描かれており、トム・リプリーが救いの手をさしのべる姿に思わず安堵と驚愕を覚えてしまう訳である。 この映画ではトム・リプリーがひとりでテープに自分の言葉吹き込むシーンが何度も繰り返される。彼は、邦題の「アメリカの友人」の通りに心理世界・現実世界両方において異邦人的な「生」に慣れ親しんだ人物として描かれている。その彼が、ヨナタンの中にある自分との共通点と相違点の両方に惹かれていって異邦人としてのバランスを崩し始める。 今まで一人でクールにやってきたトム・リプリーが、ヨナタンの第二の犯罪を止めに行き、成り行き上、殺人を手伝ってしまう。その後、二人はお互いの手札を見せ合い、どちらかというとヨナタンがトム・リプリーに寄りかかった友情関係さえ生まれるのだ。 それでも、トム・リプリーは彼にこう告げる。「友情は不可能だ。」そして、ヨナタンは答える。「それを聞いて安心したよ。」図らずして眉をひそめながら、、。そしてトム・リプリーは泣きわめくわけでも、怒り出すわけでもなくそれを受け止め、この会話もそして二人の関係も淡々と進んでいくのである。 この映画のラストは、ヨナタンが妻と共に、厄介な死体の始末を海岸でやりおえたトム・リプリーを見捨てて置き去りにした後、車の中で寿命がつきて死ぬシーンを迎える。後に残されたのは、事の事態が半分ほど理解できただけの彼の妻だけだ、、、。 そうやってこの映画は、さしたる「感情ドラマ」を産まず進んでいくのだ。実に淡々としたものである。ただ映画を見終わったあと、この「映画が忘れ去られる事は無い」だろうと思わせるものが確実にある。無常の中に沈み込んだように見えても、感じざるを得ない人間感情の確かな手応えがそうさせるのだ。、、やはり、ヴィムヴェンダースは映画作りの「名手」と言わざるを得ない監督だろう。 PS デニス・ホッパー、、、。私は個性の際だった怪演系の役者さんが大好きなんだけど、デニス・ホッパーは今ひとつ乗り切れなかったものがあったんだけど、このトム・リプリー役は大正解のような気がする。とってもキュート!!(眼鏡のデニス・ホッパーもいいぞ!)それとヨナタンの奥さん、所帯じみた疲れが見え見えなんだけど凄く女性の色気を感じちゃった。「平板」な色気っていったらいいのかな、、この映画全体と同じで、う〜ん口で説明するのは難しいね。 |
I
saw a movie.
原作:スザンナ・ケイセン
製作総指揮:キャロル・ボディ、ウィノナ・ライダー
監督:ジェームズ・マンゴールド
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アンジェリーナ・アンジェリーナ・アンジェリーナ |
「一七歳のカルテ」この邦題はなんとかならなかったのかと思う。 「一七歳問題」に絡めて被せたタイトルなら浅はかとしか言いようがないし、このネーミング自体かなり観客者層を自ら狭めるものではないかと思う。気の利いたおしゃれな題名が欲しいのなら原作の「GIRL,INTERRUPTED」からなんとか着想を得れなかったのかとも思う。 宣伝用のビデオクリップもそうだ。それに映画評も「少女期に特有の」とか「大人になる一歩手前のゆれうごく」と言ったものが多いのも気になる。実際に映画を見られたかたなら、この映画「甘酸っぱいちょっと奇妙な味わいのある青春映画」じゃない事も、いわゆる「立派な大人へ」の成長記録でもない事が判ると思うのだが、、。 そりゃウィノナ・ライダーが主演なのだ「人間」を、ドロドロにとことん描ききった映画だとは言わないが、この映画それなりに骨太な映画なのだ。 ただ近緒が微妙な違和感を覚えるのは、主人公スザンナ(ウィノナ・ライダー)が「あっちの世界」から「こっちの世界」に帰還する為の「条件」の描き方だった。 この映画では主人公のスザンナを中心に「こっちの世界」の指標として看護婦ヴァレリー(ウーピー・ゴールドバーグ)が存在し、「あっちの世界」の強力な引力としてリサ(アンジェリーナ・ジョリー)が描かれる。 最終的にヴァレリーは「あの子は七年間もここにいるのよ。」とリサを総括し、リサが言うところの「世界のことが見えすぎるスザンナに与えられたパワー(才能)としての小説」を、なんら特別なものではなく、自らのリハビリの為に使えと指示する。 また映画自身もスザンナに「悲しいことにリサがいない方が自分の回復が早い」と言わしめている。結果的にスザンナはこのヴァレリーの価値観に沿いながら「こっちの世界」に帰還する訳だが、、。 もとより、この原作も映画も、健常と異常との境目は曖昧なものというスタンスを取っているが、現時点での私にはこの映画に表出される病状が「あっちの世界」と「こっちの世界」の境目になるとはとても考えられないのである。 少なくとも「こっちの世界」はスザンナが帰るべき値打ちがあるほどの堅牢な構造物では、なくなってきているのではないかと思う。たとえば世の中全体が、青少年非行の問題を取り上げざるを得なかったり、「自分探しの旅」と言うテーマを殊更に取り上げざるを得ないのは、彼らが帰るべき「健全な世界」が、もうあやふやになってきているという事の査証なのだ。 つまりこの映画で否定されたリサの生き方の方が、より「誠実」に見える世界に今の世の中がなりつつあるという事だろう。 その意味に置いても、ここに登場する少女達は、「悩み傷つく大人の入り口に立った少女」というより我々に内在する分身のようなものであるに違いないと思う。 「一七歳のカルテ」。何が何でも「迫真の演出」と「ドキュメンタリー性」を映画に求めたい人にはお勧めできないが、この映画、充分に「人間」を考えさせ感じさせてくれる作品であると思う。お勧め。 PS 「一七歳のカルテ」はとても綺麗に撮れている。まるでこういった世界を描く時に「必要以上に世界を露悪的に映像化する」傾向を非難しているようでもある。それでいて誤魔化しや美化を取り混ぜて映像化している訳でもないのである。この姿勢にはとても好感が持てた。 それは賛否両論があるのだろうけれど17歳とはとても言えないウィノナ・ライダーがスザンナを演じる事と少し共通する部分があるかも知れない。 (見れば見るほどこの人は不思議な人だ。だって数年前の出演作品である「ナイト・オン・ザ・プラネット」の頃と印象が少しも変わらず、下手をするとその頃より若くみえたりするのだから。) それとこの映画のアンジェリーナ・ジョリーは文句なしにいい。ボーンコレクターや『60セカンズ』の時はそれほど強い印象がなかったのだけれど、、、近緒のこの映画の感想だって、半分以上はアンジェリーナ・ジョリーの魅力に幻惑されているのではないかと思うぐらいなのだ。 |
「忘れないよ!ヴェトナム」
田口ランディ 幻冬舎文庫
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『スローイン・ファーストアウト』。分岐点やデンジャラスゾーンに我が身を突っ込む時の心構え。「ゆっくり入って早く出ろ。」カーブでも交差点でも同じだよね。 なぜだか田口ランディの処女作を読んでいてそんな言葉が思い浮かんだ。「忘れないよ!ヴェトナム」は、彼女が文筆家として成り立っていく過程のちょうど「スローイン・ファーストアウト」の頃なんだろうなと思う。 この旅のエッセイは、逞しく瑞々しい感受性に満ちていて(あるいは彼女がエッセイストの手腕を駆使し読者に「読ませよう」とするエネルギーがそうさせるのか)素直に好感が持てる。 どんなジャンルに限らず「エネルギーに満ちた平均値」の表現は、万人受けするんだろうなと妙に納得させられる文章でもあった。 近緒は田口作品を2作しか読んでいない。この作品数で作家論めいた内容を書き連ねるのは無理があるのだけれど、この「忘れないよ!ヴェトナム」と「コンセント」なら、結構面白いモノが書けそうな気がする。 例えば「霊感」に関する事。でランディは「自分には全然、霊感の類はない」とは言いながら旅の同伴者を夢で見るといったり、トラブルに巻き込まれないといった「運」を書いてみたりしている。おそらく自分の「普通」ではない部分を意識して書いているのであろう。これが「コンセント」になるともっと極端なカーブボールで、霊能に絡んでいき主人公は最終的に「霊媒」になってしまう。 だけど両方に共通するのは田口の書く主人公(私)は、表面上いくら傾いても「健康」で、決して電波系には成り得ない人々であるという事である。 その至って健康な人が「霊感」の世界に、想像力と勤勉さをもってリーチをかけると、田口ランディの世界が出来あがるのだと思う。ランディの文章を隅々まで読んでみるとよくわかるのだが、細かく鏤められたディテールは生活レベルの普通の感情の揺らぎでしかない。だから判りやすい。そして同時に「判りやすい」から違うレベルの意識世界へ「飛びやすい」のだろうと思う。 この本を読み進めていくと「なんでも出来る。大事なのは(やるき)と(できるという確信)」というフレーズが出てきて妙に感心するのだけれど、、よく考えれば(やるき)と(確信)がなければ物事は成就しないのは当たり前の事。それは一過程に過ぎない。ただ私たちは一方通行の時間軸を流れて生きるしかない訳で、(しかもそこにたどり着けない人までいる。)物事の起承転結の順番をシャッフルして曰くありげに見せられると、何かの啓示を受けたような気になって騙されてしまう。 又、「あなたの代わりに、あなたの意味を見つけられる人はいないのです。」というランディが旅に持っていった「小鳥の歌」という本の一節がこの作品のメインになっているのだけれど、これも又、紀行文に取っては実に当たり前のテーマなのだ。 (聖書とか有り難い法話なんかは実はみんなこのような構造を持っているような気がするけど、、。) でもそれをちゃんと面白く読ませられるかどうかはまさに「技術」の問題なんだな。田口ランディって人はそれが実に上手いのではないかと思う。 でもそれはそれだけの事で、、。 (たぶん「コンセント」を読んで「面白いなー」とは思うんだけど、次に繋がって行くものが読み手の心の内にも外にも残らないのは、おそらくこのせいじゃないかと思う。) 旅行書、エッセイ、タウンガイド、ファッション誌。今を生きる私たちにとっては人生を楽しむ為の必須要素だけど、いくらそれが上手く書かれていても、人がそこから「人生」を読み取る事は出来ない。(読みとる事が大事だと言っているわけじゃないよ。) でも「コンセント」なんかを読んでいると、立派にフィクションしてるわけで、次のレベルに行こうともしているように思えるの、、。だのに行かない。その辺りのもどかしさがあるわけ。 あっと、これは「忘れないよ!ヴェトナム」のレビューだっけ。間違いなく面白い本だよこれ。田口ランディという一人の作家性がちゃんと出てるし。「旅に出たく」なる気持ちをちゃんとくすぐるしね。 |
I
saw a movie.
監督:林海象
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これは勿論、映画版「濱マイク」とは 何の関係もありません。 でも、目川探偵シリーズに 関心のある方は上の画像を
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ホントに気に入ったTVの連ドラって、人の心へかなり強い吸引力を持つものだと思う。アメリカのスタートレックが「トレッキー」という人種を生み出したのもよく判る。このファン心理の微妙な所は、連ドラである限り一作一作についてはドラマとしてさほど大した完成度がない事が判っていながらそれを許容していると言うことである。スタートレックなんて典型的な例で一つ一つを切り離して見れば、実に単純なSFものにしか過ぎない。要するにそのドラマの生み出している「世界」こそが一番重要なのである。 長い前置きになってしまったけれど、実は近緒がこのビデオを見るきっかけはこの「世界」を知る為である。(単純に言えばマニア化してきたって事だけど、、。) TV版の5話では、映画に登場する情報屋の星野君が(視聴者がその存在を既に知っているという前提で)出てきたり、マイクと茜の兄妹愛が描かれたりしている。この5話の中で一番気になったのが中島が演じる茜が(兄ちゃんだって本当の兄ちゃんかどうか判らない)というシーンだった。二人とも孤児である訳だから、勝手に兄弟になってもおかしくないのである。 (実を言うと、映画版「罠」では、マイク兄妹を合わせ鏡にしたような配置で殺人狂のミッキィ姉弟が存在し、彼らは孤児院で出会った他人同士なのだ。) そういった辺りを説明してくれるのがこの「遙かな時代の階段を」である。 この作品では、マイクの母親が美貌のストリッパーであったり、父親が「川」の裏ボスでありその実態は特攻帰りの一匹狼という、、おいおいそこまでベタにせんでもという濱マイクの出生の秘密が描かれている。それによると茜は確実にマイクの妹である。 勿論この設定をそのままTV版が使うかどうかは判らない。第一TV版の濱マイクの実年齢から考えると彼の父親が特攻帰りである事は無理なのである。(もう時代は昭和高度発展時代に郷愁を感じる平成なのだ)思えば良いタイミングで林海象は「映画」をやめたものである。今終戦直後の「闇」を描いたら完全なニューウェーブになったことだろう。 しかし川の裏ボス「白い男」役岡田英次のダンディズムの懐かしさは格別である。それに鰐淵晴子、、すっ凄い、由美かおるを筆頭に芸能界って妖怪の類がうじゃうじゃと、、。 この二人がダンスをしたり、メイクラブをしちゃうのだ。それこそ「遙かな時代の階段を」である。 でも問題はこの階段をどうするかなんだけどね。高度成長時代に郷愁を感じるようにあらゆるメディアがターゲットを絞っている昨今、皆様いかが思われます? (林海象、雰囲気で映画撮ってちゃダメダゾウなんちゃって。チカバカ。) |
I
saw a movie.
監督:山田洋次/原作:藤沢周平
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2004年早春の日本映画界はダブルサムライのアカデミー賞候補の話題で持ちきり。「アカデミー賞?ないない、あんたらね、アメリカの日本に対する国辱的な潜入観念忘れとるんちゃう?」そんな陰の声通りだったのかどうかは別として、この賞取り、きっちり掠っただけでした。 |
I
saw a movie.
監督:ブラッド・バード
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写真はMrインクレディブルの浮気相手 |
映画「ファンタスティック・フォー」を見た後で、お蔵入りさせてた「Mrインクレディブル」のレビューを書くことに決めた。 |
