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ケント。私は待ってる!



「ホワイトアウト」
ホワイトアウト
 真保雄一 新潮文庫
 

 よい作品には「匂い」や温度・湿度・風等、五感の記憶を呼び覚ます働きがある。「ホワイト・アウト」を読んで、それこそ冬山やスキーの体験をそのまま自分自身の記憶から呼び起こされた読者は数多くいるはずだ。そして的確な描写の積み重ねは、読者の「体験」を呼び起こし、フィクションと現実の継ぎ目を果てしなくなだらかにしていく。
 それは真保という作者の素晴らしい技量であると同時に、多くの作家が苦労する「日本という国の中で違和感無くスケールの大きなアクションなり事件を設定する」作業をも支援したようである。(SFは逆に物語の現実味を付加するのに苦労する。)もっとも、この件については、真保の描写力だけではなく、彼が極寒のダムに目を付けた時点で勝敗がついていたような気もするが、、。
 そして作者は、日本人には「負のダイハード」が似合う事を良く知っている。戦闘のズブの素人が、もし戦う羽目に陥ったらどうなるのか?何を武器に戦うのか?結局の所、自らが背負った負い目や、思い入れ、あるいは僅かながらの体験から来る知識だけである。読者と同じ背丈とは言えないまでも、富樫はまだ読者を投影できる人物ではある。ブルース・ウィリスでは共感して泣けないが、この主人公には泣けるのだ。そして最後に、ヒロインである千晶が、手探りの情報だけで存在すると判る富樫に助け出され、それがやがて愛に変わることを予想させるラストシーンに読者は安堵を覚えるのである。良くできました。はなまるです。

ホワイトアウト
監督:若松節朗





 「読んでから見るか、見てから読むか?」の原作本あり映画ではあるが、本編の場合、答えは極めて簡単。「読んでから見る」である。 読んでから見ても、読者が映画によって「裏切られる」ことはない。原作の小説も「エンタメ映画」を念頭に書かれたものだし、映画も同じ作者の脚本が含まれ、「ハリウッドエンタメ」に追いつけとばかりに造られたもので、その意味で原作本とは方向性が同じであり質的な落差において裏切られるような構造ではないからだ。むしろ「小説のあの場面はどんな風に映画化するのかな」くらいの軽い気持ちで映画を楽しむのが良だろう。
 もっと言うならこの映画、原作小説を読んでいないと、前半部分の人間関係の絡みはよく理解できないのではないかと心配する程だ。この映画では娯楽性を前面に押し出そうとするあまり「複雑な人間描写や設定はいらない」と割り切っている節があって(この見切りは間違いであり失敗だと思うけれど)原作小説を読んでいないと、この前半のはしょりは後になって観客にとって、感動できる場面の感動が半分しか味わえない原因となる筈。
 「読者が映画を見てがっかりする事はない。」とは書いたが、映画と小説に違いが無いわけではない。例えば、最近どんどん物騒な国になりつつあるとはいえ日本で「ダイハード」を違和感無く展開する為には、かなり凝った「説明」が必要で、それを小説は旨く処理していた。まず、暴力に関してはズブの素人である主人公・富樫が、この日本で「殺人」を犯していく過程を、読者は納得させられながら、読まされ、それが一つの読む楽しみとしてあったのだが、、。映画の方は残念ながら、富樫の一人目の敵の始末の仕方が素人にしては鮮やか過ぎ、佐藤浩市の「奴は素人にしては根性がある」の台詞で、織田のダイハード振りを、渋々納得しなければいけないのだ。この辺り小説では、それほど違和感がなかった。他に小説では富樫の雪の中の行動が読み応えのある描写としてあるのだが、映画では、織田がただ雪の中とダムの中を走り回っていたとしか思えないのである。(勿論、他の俳優が「ただ走り回っていた」らもっと酷い状況になっていただろうが、、。)
 次は良い方の違いである。この映画では美味しいところを持っていった俳優が二人いる。佐藤浩市と中村嘉葎雄である。中村嘉葎雄と織田の会話が浸みる。中村嘉葎雄は「ダイハード」の時の黒人警官に相当する役回りなんだろうけど、彼の最近の風貌と相まってナイスな味が出ていた。ラストシーンなんかの中村嘉葎雄の台詞は涙もの。(もっとも原作本を読んでいて、彼がダイハードの黒人警官に相対すると気付いていればだけど、、。) 佐藤浩市は予想通り素敵な「悪役」でした。 全然関係ないけれど、最近映画でも小説でも「昔、運動家で今は冷め切った金の亡者」タイプの悪党像が多いね。この映画の佐藤浩市もそうなんだけど、頭が良くて行動力のあるロマンチストが、「醒めて」しまって、俺はあとはもう楽しんで生きるよ。「、、、それがどうした。」とへらへら嗤いながら人を傷つけるというモデル像。こういうタイプが娯楽メディアに沢山登場して、しかもその取り扱いが結構魅力的に描かれていたりするのは「時代」なのかなぁ、、。
 で最後に、私は「エンタメで行く!」という姿勢を見せる映画になら、理屈に合わない杜撰な設定でも我慢できる人だが、この映画のハイライトで主人公が誘発させた雪崩とヘリコの墜落は、どう見ても両者の距離が合わないので「なんでなん?」と残念だった。
(あれはホワイトアウトを誘発させたのかなぁ、、でもそれならそれで、すぐにヘリコは墜落しないよ)
 要するにこう言うことだ。日本の物書きは、ハリウッドエンタメの面白さに、物書きとして近づける技量を持っている。でも日本映画は、この分野で、まだまだ真っ向勝負は出来ない。つまり何処までいっても「ホワイトアウト」は「和製」ダイハードでしかないということ。このことをけなす人も多いけれど。結局はこれも「段階」の問題だし、観客は制作サイドの置かれた状況の差など、無視して作品の出来上がりだけをいうのだからちょっとかわいそうな気もする。
 だけどねぇ。感性や戦略においての工夫だけは、「置かれた状況」関係なしの勝負だからねぇ、、。だって「シュリ」がそうでしょう?その辺りは頑張って貰わないと、、。
PS 吹越 満が結構○でした。



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ワンダー・ボーイズ

監督:カーティス・ハンソン







 「ワンダー・ボーイズ」はゲイ・ムービー?勿論この問いかけは、劇中の女装者ミス・スロヴィアク(マイケル・カバディアス)を連れて練り歩くテリー・クラブツリー(ロバート・ダウニー・Jr)に、焦点を当てての事じゃないよ。グラディ・トリップ(マイケル・ダグラス)とジェームズ・リア(トビー・マグワイア)の微熱関係を言いたいわけよ。 それ以外に何を取り上げていいのか判らないという程、「平凡」と言えば「平凡」なのが、この映画なんだよね〜。
 第一、書けなくなった作家の「あがき」や「不倫」など、一般の人間が映画として見るのにそれほど面白いテーマである筈がないと思うんだけど、。
 (でもこのダル〜んとした物語のテンポは『アメリカン・ビューティ』に似ていなくもないかなぁ。きっとこういうのを有り難がって見る人はいると思うけどね。)
 ガジェットは面白いよ。、、主人公の不倫を知っている盲目の犬とか・偽玩具の拳銃・マリリン・モンローの上着・ジェームスブラウンの出来損ないとかね。こういう味付けをしてあるから「この映画ひょっとしたら意味深いんじゃ、、。」って思うのかもね。確かに盗み出したマリリン・モンローのジャケットにそっとトビー・マグワイアが顔を埋めるシーンとかがあったりするとエロチックなんだけどな。
 で、中で一番面白いガジェットが他でもないジェームズ・リア本人なのね。今までの映画だったら、こういう早熟で感性過剰のメランコリックな人間の役割は女性にふられていたんだと思うんだけど、それをジェームズ・リア(トビー・マグワイア)がやるんだね。 対の存在みたいなハンナ(ケイティ・ホルムズ)は、どっちらかというとあっさりしてて大胆で、昔なら彼女が主役の性格を際だたせる為の男子学生という振り方なんだろうね。
 こんなリアを相手にトリップ教授は、「クラブツリーとリアを引き合わすなんて。」と不倫相手のサラ(フランシス・マクドーマンド)に詰られたり、二人が関係を持たないように配慮してやったりと、やたらリアの「あっち方面の潜在性」を認めながら、庇護者的精神を発揮して遠回りするのよね。これはトリップ教授にモーションを掛けてくるハンナにも同じ態度となって出てくる。それに話の上でトリップはサラを愛している事になっているんだけど、どう見ても彼がそんなに彼女を熱愛しているようには画面上からは感じ取れないのよね。
 ただ唯一、トビー・マグワイアの赤くて柔らかな唇だけが、ずっと強い印象を残し続ける映画なんだよ「ワンダー・ボーイ」は。
 でトビー・マグワイア君は、最後までノン気を通したトリップ教授(ハンナにスケベ心さえ起こさなかった・・信じられない。この人は熟女フェチなんだろうか、それともまさか教育者魂が、、おいおい!!)のかわりにクラブツリーに娶られてハッピーエンドなんだけど、、、この映画、ホントになんなんだろう?
 まさか映画のキャッチコピーにあるとおり『ワンダー・ボーイズ。絶頂と、どん底を知った人ほど幸せになれる!早くして成功を収めた人間の不安感がテーマ。』なのかしら? 「嘘だろう。」って思っちゃうわけ。確かにリアがワードフェストの会場でみんなに賞賛されている時、トリップの声掛けで礼をするシーンなんかは悪くはないんだけどね。
 近緒にとってはなんだか煮え切らない映画だった。
PS ミス・スロヴィアクがトリップ教授の隣で化粧を落として素顔に戻っていくシーンは良かったっていうか、吃驚したね。北欧系の顔立ちってホントに男顔・女顔がリバーシブルになっているんだってつくづく思った。素顔のミス・スロヴィアクは、このままどこかの塹壕に入ってライフル構えててもなんの違和感もないって感じだものね。  



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マルホランド・ドライブ
監督・脚本:デビッド・リンチ

 純粋な感想からまず一言。ナオミ・ワッツの演技力が凄い。ナオミ・ワッツは映画の中では田舎からハリウッドにやって来た女優志望の女ベティを演じる。このベティが初めてのオーディションで見せる演技力が回りの映画スタッフを驚嘆させるシーンがある。それをナオミ・ワッツが、演技の巧い天才的な素人として、又、巧く演じるのである。
 オーディションはベティが初老の男に絡んでいくラブシーンなのだが、相手の男は「おいおい、そこまで入れ込んだら本気になっちゃうぜ。」て感じで一瞬引いてしまう程濃厚なエロチシズムを発揮するのだ。
 その後、ベティは気だての優しい純朴な女性に一瞬にして戻ってしまう。つまりナオミ・ワッツはそういった複雑な「落差」が表現できる女優なのである。
 更にナオミ・ワッツは映画前半での素直で優しいベティから、記憶喪失のリタが自分の正体に気づきかかけてからの、神経質で嫉妬深いベティまで、まるで別人かと思えるような人物の書き分けぶりを見せてくれる。
 リンチ監督はこう言っためくるめく入れ子細工世界が好きだが、、このナオミ・ワッツの演技力は、まさにそんなリンチワールドにうってつけなのではないかと思う。
 勿論、作品の構成からみれば、煌びやかなハリウッド女優イメージを体現したルックスを持つローラ・エレナ・ハリングの存在も非常に重要であり、彼女がリンチワールドにいつも漂う「濃密な官能」の密度をより高めている。
 そしてこの二人の女優を配しての、ベティとリタの初夜シーンは、まさにリンチ監督が描く理想の物語内「レズシーン」ではなかったかと思う。

 リンチ作品としては、全く違うものを描き出したと言われるヒューマンドラマ「ストレイト・ストーリー
の次作に当たるこの「マルホランド」は、元の難解幻惑路線に戻ったリンチ作品として位置づけられるらしい。
 しかし、確かにこの映画、難解ではあるが「ストレイト・ストーリー」で見せた人間表現のストレートさ(ギャグじゃないよ)は、この作品にも充分に現れていると思う。単純に昔のリンチに戻った訳ではないのだ。
 自分の家に闖入していた記憶喪失のリタに対して異様に優しいベティが、レズビアンである事が判り、更に映画後半に全開になるリンチワールドで「夢落ち仕掛け」が観客に見え始める頃から、ベティの愛と苦悩が実に「ストレート」に伝わってくるのだ。
 近緒なんてクラブ・シレンシオで女性歌手の悲恋の歌を聞きながら泣いている二人を見てシーンときたもの。
 リンチ監督が作り出す迷宮は、その迷宮ぶりによって、いくら生の感情を作品の中にインサートしてもそれが直接的に観客に届くことはなかったと思う。(ワイルド・アット・ハートでさえ)それが「ストレイト」をきっかけにして、しかも全体のリンチらしさも損なわず映し出せるようになってきていると思う。
 近緒のように、リンチ作品に対しては、抽象画を鑑賞するスタンスのごとく「理屈を問わずして、ただ感じた事だけを大切にしよう」と決めた人間には非常に助かる変化である。
 だからと言って「謎解き」の楽しさというか、その迷宮ぶりがリンチ映画の魅力である事は、この「マルホランド」から失われている訳ではない。
 Web上の日本語サイトにも随分、「マルホランド解明」があるので一度覗かれたらどうかと思う。
 その後でもリンチ監督が作り上げた世界の色艶が失われず、逆に光を増すのだからリンチは、やっぱり凄い「映画」作家なのである。
 ”マルホランド・ドライブ"とは、ロサンゼルス北部の山を横断する実在の通りの名前なのだと言う。若者たちが夜中に猛スピードでレースをする場所としても有名らしい。曲がりくねった暗く危険な道だがその眼下にはハリウッドのきらびやかな街並みが一望できるのは、実際に映画の中でも何度も描写されている。
 その道で起こった事故から始まるこの物語、ある意味、マルホランド・ドライブの存在自体がこの映画の簡略図でもあるようだ。
 すこしだけリンチ監督は観客に優しくなっている。近緒のような人間がこの映画を見ても、映画の前半が「夢」であり、後半に現実がある事が判る。
 それに、なんとこの映画の主力テーマが、超越した彼岸にあるのではなく「ハリウッド世界のレズ恋愛に重ねたドロドロ愛憎」にある事も判るのである。
 近緒は、リンチ監督のこんな「変化」を大いに歓迎している。

PS それにしてもハリウッドのメイク技術は凄い、、。演技力もあるんだろうけど、ナオミ・ワッツの変貌ぶりなんて、凄いもの。



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サイダーハウス・ルール


監督 ラッセ・ハルストレム
原作・脚本ジョン・アーヴィング

 色調がちょっと今までのアメリカ映画と違う。風景そのものが派手やかに見えてその実、虚飾をはねつける堅実さがある。早朝の港の陽の光。果樹園を照らし出す豊穣の光。人が謙虚になった時だけに見つけられる自然の美。こんな色の「アメリカ」の方が好きだな。
 サイダーハウス・ルールか、、。みんな大きくなると自分なりのルールを見つけるんだろうね。だって世界は広すぎて凶暴すぎるから、ルールなしには生き延びる事ができないんだもの。でもそのルールはぶつかりあって、お互いを傷つけ傷つけ合う。不思議なものだね、、。
 ホーマーがでていくシーン、「こんなに大きいのに貰われてずるいよ。」
 病弱な孤児ファジーの死を誤魔化すための「貰われていった」という嘘。「信じるかな。信じるさ。みんな信じたいんだから。」
 不倫の終わり「なにもしないで、じっとしてる。そうすれば。」
そしてサイダーハウス・ルール、「ルールは自分で作るものなんだ。」
 映画は、闇の堕胎医師であり孤児たちの永遠の父親ラーチが孤児ホーマーを後継者に据えるまでの物語であり、同時に堕胎問題を中心に据えたホーマーの人間的成長の物語でもある。しかしこの映画の色調と同じように、それらのテーマは、殊更に重くも軽くもなく描き出されつつ、見るべきものはちゃんと見えてくるのだ。
 ホーマー役のトビー・マグワイヤの飄々とした瑞々しい表情が、この世界をもっと広げていく。(ラーチ役のマイケル・ケインがいいのは言うまでもない。)
 ホーマーとの恋におちるキャンディ役のシャーリーズ・セロンも、在りよう自体が色っぽくて大好き。この映画は「配役で既に勝負あり」という感じだけど、ホーマーの初恋の女性像にシャーリーズ・セロン以外の女優を据えていたら全体の色調ががらっと変わっていたと思う。
(初恋の有り様で、その男・その女が判るっていったら誤解を招くかなぁ、、。)
 『サイダーハウス・ルール』本当に大切にそっと取っておきたいと思わせる、「いい映画」です。





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ストレイト・ストーリー

監督 デヴィッド・リンチ

  「あのリンチが!?」の台詞が、この映画評のメインをかっさらっている感のある「ストレイト・ストーリー」。どの評論を読んでも、論調の趣旨はそればかりだ。
 場合によればリンチ特有のビザールな側面や特質を、無理矢理この映画「ストレイト・ストーリー」から嗅ぎ取ろうという評論さえある。
 確かに、同じ監督が作品を造るのだ、どれだけ作風を変えようがリンチワールドを形成する手法上の特質が「ストレイト・ストーリー」から消えてなくなる訳ではない。そこからいつものリンチ監督のビザールワールドを「ストレイト・ストーリー」にダブらせてみる事は可能だろう。(例えば私は、主人公のトラクターの故障を直す双子あたりが登場してくる辺りでやっぱりいつものリンチが「来るのか」と思った。)
 でもそれは、この映画に限ってはつまらない作業だと思う。これはビザールなドラマじゃない。非常に上質な「ヒューマンドラマ」だ。そう、きっちり観た方が、ずっと良い。
 リンチが変わったというより、リンチはこういうのも「撮れる」監督なんだと思う。一生、笑わない人も、一生笑い続ける人もいないでしょう?でも、笑い方が上手な人は「あの人は何時も笑顔が絶えない。」っていう評判が立つじゃない。それと同じじゃないかな。
 加えて言えば、リンチは「逆」があれだけ撮れる監督なんだから、こっちの「ヒューマンドラマ」はホントは底に「凄み」を隠しているんじゃないかなって最近思う。
 ゆっくりとした速度のトラクターの向こう側に、信じられない程、広大で豊かで、綺麗で、そして全然味わいのないアメリカの光景が広がり、それをカメラは延々と写し続けていく。
 そしてアルヴィン・ストレイトが好きな雷雨。空虚さと豊潤さが混じり合ったアメリカ。そんな諸々をリンチ監督は「風景」を通過して我々にメッセージとして送り続け、 アルヴィン・ストレイトの「語り」からはアメリカの完全なヒューマニズムを送り続けてくる。、、とっても面白い映画だ。
 初め、アルヴィン老の設定は、無口で線が細そうに見えて意外と頑固な老人に見える。それが映画が展開するに従って、彼は機転に富んだ人物であり、出会う人出会う人に、それぞれ含蓄を含んだ台詞を吐く人物に変わっていく。
 だからラストシーン近くでは、アルヴィン老はかなりの「人物」として、我々の中で膨らんでいる。この彼が、ラストシーン、彼を迎え出た兄ライルから、「あれで、ここまで来たのか?」と問われてはにかみながら短く「そうだよ」と答える。その顔の表情は、兄を前にして、素晴らしく幼い、ただの「弟」の顔だ。彼らの時代は一気に巻戻り、夜空を二人で見上げて語りあった時の兄弟に返る。
 老いた人は、美しい思い出に帰るのだ、、。「人」は可愛いと思う。やっぱり「ストレイト・ストーリー」はヒューマンドラマ以外の何ものでもない映画なのだ。

 ps でもリンチらしいと思ったのは鹿を轢く女性の登場。「この鹿達は一体、何処から来るのかしら。」と彼女が言った後に、カメラは彼らの背後に広がる広大な平野のパンしてみせる。
 この女性、車での通勤途中、必ず鹿を轢いてしまう不運な人なのだが。彼女の嘆きながら「アッシジの聖フランチェスコに祈っても、パブリック・エネミーを大音量で鳴らしても」、鹿は避けてくれない。と喚き立てるのだ。そして散々叫き散らした後で、あっという間に車で走り去ってしまう。
 このシーン、「アメリカの現実」の一端を切り取ったエピソードの挿入としてあるのだろうが、これをリンチがやると一種奇妙な味わいが出てくるから不思議だ。これがリンチといえばリンチなのかも、、、。
 



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ツインピークス
「ヨーロッパ版」パイロット
監督 デヴィッド・リンチ

  過ぎ去りし未来の暗闇をとおして
魔術師は見ようとする
2つの世界を抜け出せる機会を
火よ 我とともに歩め

 ミステリーにおいての「殺人事件」や「犯人探し」さえも※マガフィンになるのがツインピークス。
 抽象画を見るときに「意味を探そうとせず音楽を楽しむように色と形を楽しんで欲しい」と言ったある画家の説明を思い出す。しかし何年経とうと、人々は絵の前に立つと「そこに何が書いて在るのか」と問いかける。だから今もって抽象画は「難解」なのだ。
 リンチ作品は、この抽象画的傾向を自然に(時には意図的に利用して)持ったものが多い。
 日本の現代ミステリー作家で、リンチ的作品構造を持っているのは「ハサミ男」の殊能将之ではないかと思う。「黒い仏」など出来が良いか悪いかは別にして、ミステリーがもつ本来の「面白さ」さえもマガフィンにしてしまって、なにか別のものを書き出そうと企んでいるような気がした。(「黒い仏」失敗作だと思うけれど。)

 「れれっ。全然、ツインピークス自体のレビューに入らないじゃん?」その通りである。正直に言うとリンチ作品に関してはレビューという行為自体が意味がないと思っている。料理評論家が料理にまつわる「蘊蓄」を述べて、その味覚を修飾しながら言葉で表しても、それには限界があるし、それを読んだからって料理が美味くなる訳でもないのと同じだ。
 要するに「料理」に必要な事は味わうことであって「理解」する事ではないからだ。
それに「ツインピークス」は映画・TV放送・ビデオといった数種類の「群体」で形成されたリンチワールドであるから単一作品のように語る事は不可能だろう。
 又、それ故に、ツインピークスはセンセーショナルであると同時に「変人の為の変人のドラマ」と批評もされてきた筈だ。
 だがツインピークスのヒットは、確実にその後の映像メディアに大きな影響を与えたと思う。つい最近の日本のTVドラマで言えば「ケイゾク」など、ツインピークスが過去にヒット作品として成立していなければ影も形もなかった筈だ。そう言った意味で、ツインピークスは今「語られるべき作品」なのだと思う。

PS ツインピークスのデイル・クーパーFBI捜査官のキャラクター造形だけは、大衆受けするヒット商品だったろう。今でもクーパーがテープレコーダーに捜査状況を逐一吹き込む姿は奇妙に「格好良く」見える。それに最近のカイル・マクラクレンはどうかなと思うけれど、この頃や「ブルーベルベット」の彼はまさに「水も滴るいい男」ぶりでぞくぞくするもの。

※訳注: McGuffin = プロットにリアリティやスリルを付加するための小道具や
設定など。それ自体にはあまり意味がない。

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シュリ


監督脚本: カン・ジェギュ (姜帝圭)


 シュリを観た。衝撃を受けた。力を失い、迷走している日本という国が嫌でも浮かび上がってくる。それは、香港映画の勢いとの比較では、決して出てこない種類の、「あせり」さえ感じさせる感情だ。今、日本が世界に誇れる文化は唯一アニメだけだという。お隣の韓国映画であるシュリをみればうなずける。今、日本でこれだけのエネルギーに満ちた映画を誰が作れるだろうか?

 シュリという映画、脚本自体が斬新なわけではない。今更、情報部員と潜入した女破壊工作員の恋でどれだけ観客を引っ張れる、、と思いきや、、ファーストシーンからぐいぐい魅せていく。(冒頭の軍事訓練のシーン、たぶんに北朝鮮ならこんなもあり得るだろうという観客側の「予断」も利用されているのだろうが。)今、南北の問題は極めてデリケートだ思う。そんな中で南が「分断と統一」というテーマ自体を取り上げ、しかもエンタテインメントととして成立させた事になによりも凄さを感じるのである。

 勿論、何人かの日本人は別の思いでこの映画を見るかも知れない。今でこそ日本経済の高度成長は失速したが、その礎になったのは朝鮮特需であり、又、その前には第2次世界大戦を通じての朝鮮との悲しい関わりがあり、、。決して日本と朝鮮は切れた関係ではありえないのだ。そういった視点を通してでも、シュリは日本人にとって、ある種の感慨を抱かせる映画でもある。
 この世の中には、美しく浄化される「怨」というものがあるのだろうか?、情報部員ユ・ジュンウォン(ハン・ソッキュ)が彼の同僚であるジャンギル(ソン・ガンホ)の死を悼むシーンはあまりに切なすぎて胸苦しくなる程だが、韓国映画はこの辺りの演出が飛び抜けて上手い。

 多くの映画の通例では、ユ・ジュンウォンが恋人であるイ・ミョンヒョン(キム・ユンジン)を撃った時点でエンドマークがでるのだと思うが、シュリでは、ユ・ジュンウォンがイ・ミョンヒョン (身分を詐称された女)妹を訪ねに行き、彼が二人の共通の歌に聞き入るシーンで終わる。歌はこう語りかける。夢見さえすれば人は、何にでもなれるのだと、、、。

 シュリを見て泣くのもよし、歴史の残酷に思いを巡らせるのもよし、全てが過多の銃撃戦を見るのもよし、、これは未完の時代の「名作」である。

【シュリ】:朝鮮半島固有の澄んだ川の水にのみ生息する体長7〜8cmの淡水魚。映画の中では北朝鮮スパイの作戦名、及びコードネームとして使用されている。南北を自由に行き来できる自由と統一の象徴。


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劇場版仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL
監督:田崎竜太

 こういう仕事をしてると平日の午前中にポッカリ、隙間が出来る。ああそいえば龍騎の映画版が今、上映中だっけ、、と思い出して、見に行って参りました。確かにお子さまも多いんだけど、カップルや単独の成人男性が結構いらっしゃったりして、、この傾向、アギト映画版より強くなっているんじゃないでしょうか。
 こういう贔屓筋のTVドラマの映画版っていいですよね。特別の愛着があるというか、、作ってる側もそうなんじゃないかな?
 やっぱり映像作ってる人って、TVより映画の方がグレードが高いって思いがどこかに在るみたいでね。それが凝ったカットやシーンに繋がっていくのは見ていてとても嬉しい。(同時上映のハリケンの、俺達ゃ子ども向け番組作ってんだ。という意地みたいなのもがビンビン伝わってくる映画も清々しいけどね。)
 ストーリーは、この映画の謳い文句である「龍騎の最終回」なんだけれど、TV版を配慮してか、この煽り通りの内容、つまりTV版に完全に繋がる最終回という訳じゃないのね。
 まあ、定番のパラレルワールド設定で(そうでないと色々な意味でちょっと辛いかも)、この映画を見ると逆にTV版の残りの展開が楽しみになってくるような仕掛けになっています。
 それにしてものっけからライダーバトルの主催者である神崎士郎が「お前達の闘いがこんなにダラダラとするとは思わなかった。」って愚痴をこぼしたのには笑いました。
 でも神崎士郎にもタイムリミットがあったんですね。それも制作サイドのジレンマの表出ではなく、ストーリー上のれっきとした理由が、、。
 それにこの映画の展開とは直接の関係があるのかどうか判らないんだけど、龍騎世界に登場する人型以外のモンスターデザインの玩具ぽさの原因も判ったし。
 あれってずっとCG制作かあるいは実際に玩具にする為の制約だと思っていたんだけど、実は小さな頃の優衣が描いた絵がミラーワールドで実体化したものなのですね。
 これなら納得です。特に優衣の描いた絵を見ると、ゾルダの召還するマグナギガの玩具ぽさはなるほどだし、、頭の大きすぎるダークウイングも納得です。
 優衣のインナーワールドの近似値であるミラーワールドなんて実に(都合のいい)よく考えられた抜け道を発見したものです。あくまで優衣=ミラーワールドではなく近似値という所が味噌なんですね。
 でも考えて見れば、小さな女の子が落書き帳に書いた、玩具のような頭の大きなモンスター達の力を借りて、北岡や朝倉を初めとする大人達が、深刻で狂気に満ちた闘いを展開するというのも、シュールな設定ですね。(多分、脚本家達はその落差を狙ったわけじゃなくて、つじつま合わせの結果がこうなったんだろうけど、、)
 意外だったのは北岡弁護士、リタイアするか非業の死を遂げるしかない人物設定だったので、今回、あっさり「いやになっちゃたよ」って脱落していったのは彼らしくてグッドでした。(令子さんと惹かれ合って行くのは予想通り)
 ただしその要因になったのが加藤夏希演じる霧島美穂に対する隠された罪悪感というのは、彼の動機としてはちょっと弱すぎでしたが。
 それにしても涼平、今もって演技は下手だけど、モデル現役っていう匂いは他の何物にも代え難いですね。コート姿で立っているだけでも、ネクタイをしめているだけでも絵になりますからね。
 モデルといえば加藤夏希も思い切りモデルっぽい子ですね。(あの痩せ方もそうだけど)あのお水ぽい雰囲気と奇妙に曲がった若さに魅了されたパパさん達も多いんじゃないかしら。
 でもファムの殺された方は、このキャラクターが悲劇のヒロインだという事を考えると、子ども向き特撮ヒーローの枠を完全に超えてしまったという感じですね。
 飛翔する裏ドラグレッダーに身体を銜えられてコンクリートの支柱に次々と頭をぶつけられて行くんだもの。この殺し方で凄いのは映画の「ドーベルマン」だけど、思わずその該当シーンを思い出してしまいました。
 あと見所はCGです。朝倉の背後の水中から飛び出してくるエビルダイバーのおチビなずんぐりむっくり以外は、その元のデザインは別として、かなりの高水準でした。特にナイトとハイドラグーンとの空中戦は、かなりハリウッドの特撮を意識してるみたいで頑張ってましたよ。
 それに最愛の妹である優衣のリストカットを目の当たりにして壊れちゃった神崎士郎の絶叫する姿が、東京の高層ビルの鏡面に次々と万華鏡のように映し出されるシーンなんかは技とアイデアが上手く噛み合ってたし、、。
 全体的にCGのハリウッドテイストが楽しめた映画でした。でもTV版で感じている「疑問」が総て氷解する訳じゃないです。
 それでも優衣がミラーワールドのもう一人の優衣に二十歳までの命を与えられて、一旦入り込んでしまったミラーワールドから再び離脱したという事。兄の神崎士郎はこの二十歳のリミットを超える新しい命を優衣に与える為に、最強の「命」を抽出せんとライダーバトルを仕組んだという事。この二つの要素だけでも、TV版のモヤモヤが少しは消えますがね。
(ネタばれって、、こんなのはネタばれの内に入らないと思いますよ。だってTV版の方が違う結末と展開をする筈だから。)


PS 水溜まりで倒れているファムのラバーのお尻が水でテカっていたのが超個人的萌えでしたわん。ファムの中のスーツアクターさんって女性?だよね


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シックス・センス


監督・脚本 M・ナイト・シャマラン


 なんでブルース・ウィリスが小児精神科の医者なんだ。「似合わねー」と思っていると、幸せの絶頂に浸っているブルース・ウィリス夫妻の家に突然の侵入者が。それでもってその侵入者がブルースの元カウンセリング患者だった事が判り「なんで一人が怖いか知ってるか。僕は知ってる。」と叫かれ、いきなり発砲されて彼が「倒れる」までの掴み。おいおいダイハードがやられちゃったよぅ、これでまず観客はノックダウン。
 この映画、よく見てるとカメラワークも結構緻密で繊細。映画の初めは、幼児虐待のテーマをちらほらと匂わせながらウィリス(マルコム)が、前出のウィンセントという患者を助けられなかった「償いの為の仕事」に没頭するシーンが描かれる。
 ところが、当の患者であるコール少年は「先生はいい人だけど僕を助けられない。」とすべてを見通したように語り彼を拒絶する。それでも粘り強く関わろうとする「父性」のウィリス。やがて少年は自らのシックスセンスを告白する。「幽霊たちは自分の事を死んでるって思ってない。」「立ってるのに倒れそうになる感じ。」、、、。
 死んだ祖母の幽霊が隠したペンダントを自分の仕業だと母親に勘違いさたコール少年が「怒らないから正直に言って。」と問われて「ペンダントは取ってない。」と「正直」にとしか答えられない少年のやるせなさも。(映画はこの場面の前半、母親を心配させたくない為に、居もしない友人をあるように平気で見せかけるコール少年の強かさを描写していて、実に泣かせる。)
 ブルースが少年に見せる手品は相手を信用しなければ成立しないもの、ウィリスはそんな手品を見せて少年の心を開かせようとする。やがてそれを受けて「幽霊が見えるという話を信じて僕を助けて欲しい。」と返す少年。緻密に組み立てられた触れあいの会話を中心にしたストーリィ展開。最後のどんでん返しも、初めは「そんなのありかよ。」と思うけれど、時間が経過すると、このどんでんの新たな意味がどんどん見えてくる。
 実はこの映画、悲しい悲しい「癒し」の物語なのかも知れない。


 コールを演じる11歳の少年、ハーレイ・ジョエル・オスメントが最高です。決して可愛い顔や仕草をするわけではないけれど、他人には決して見えないが自分だけに見える恐怖や孤独・さらにそれに機縁する周囲からの迫害に耐える表情が見事に表現できている。


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ユージュアル・サスペクツ



監督・脚本 ブライアン・シンガー


 こういう手の「どんでん」を、ユージュアル・サスペクツ的と呼ぶそうで、確かに最近はこの流れを汲む小説や映画が結構沢山あったりする。私のコーナーで取り上げた中でも「はさみ男」がそうだし「シックス・センス」もそうだ。
 いずれも、騙されかたを楽しむというのか、もう一度、物語をトレースする事を楽しむというのか、、とにかく一昔前なら「ふざけんなよ。」という所を、「楽しませる」部分で回避させている所が今風なのかも知れない。この作品、映画でもビデオでも相当ローテーションしている筈だから余り「ネタばれ」については気を使わなくていいような気がするんだけどね。でも一応「一粒で2度美味しい。」の二つ目を、この作品をまだ見ぬ人たちの為にとって置こうと思う。ビートルズだって初めて聞く若者には新鮮なのだから。
 ここでは私の「2度目の楽しみ」の一端をここで紹介させて頂く。
例えば、ヴァーバル(ケヴィン・スペイシー)が、クイヤン捜査官に語って聞かせる「カイザー・ソゼ」の鉄の意志を伝える伝説の場面だ。
 ヴァールは怯えたように、しかし半ば熱っぽく、あこがれさえ秘めた表情で、その伝説を語った。ソゼの縄張りを奪おうと彼の家庭を急襲しレイプさえ働く敵対者に、ソゼは決して膝を屈せず戦ったというのだ。それはソゼ自らの手による、自らの家族の殺害という形を取った。(結局は、こうする事が家族の為なのだと、何のためらいもなく、妻と我が子を撃ち抜くソゼ。)そして侵入した敵対者を一人だけ逃がしてやり、その後、ソゼは敵対者の全ての家族、関係者を殲滅する復讐を実行する。そしてその後、彼は伝説となったのだ。
 このヴァーバルの話にはさすがの捜査官も腰を引いた。この映画のワンシーンが、どんでんの後に二度美味しい。
 ただ微笑ましいなと思ったのはコバヤシという謎の弁護士の取り扱いである。またも出ました外国映画によく出てくる「国籍不明の日本人」。コバヤシを演じるピート・ポスルスウェイトはどう見たって日本人には絶対に見えない。
 「どんでん」が始まるのは、ヴァールが取り調べの部屋から出ていった後、たまたまクイヤンが部屋の掲示板に目をやり、、、。そう「こばやし」もコーヒーカップがヴァールに提供した切れ端の単語の一つであるから、、これで「英国人」の「日本人」が出来上がるのだろうが、、、ここの所はどうもウームなのである。しかも映画の中ではコバヤシの事務所のガラス壁には「成功」等といった意味不明の漢字までが映し出されているのだ。

 所で、ずっと前から思ってたんだけどピート・ポスルスウェイトって俳優の吉田 義夫さんに似てません?


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"DRUG GARDEN"

監督 広田レオナ






 ドラッグとドラァグは掛詞?あっ、そうなんだ、「豹柄の炬燵掛け布団」なんだ。
 「都会」は浮遊する場所だけでいいの?無駄で装飾過剰なカット、時々、映像とシンクロするけど、幾つかは何の為に流れているか判らない音楽。「虚飾」を取り入れるのはいいアイデアだけど、めったやたらに思いつく限りの映像処理は頭痛いぞ、、。第一ファーストシーンとエンディングがこんな風に繋がった映画なんて見たことないぞ。最初はどこかの体育館に集められて強制的に鑑賞させられる感じなのに、後半は「パリ。夜は眠らない。」そのまんまだしな〜。
 データ調べてて、びびっちやった。悪口かけないよ〜。でもこれが高水準な映画だっていうのだけは、よそうと思う。こんなの金払って見るかな。悪いけど、、。
 私はドラァ
グクィーンの方が見たくてこの映画見たんだけど、、、広田レオナにしか撮れない映画とかいう評もどこかで見たけど、そりゃそうだ。だけどなぁ、、。
 そんな切り方って「映画」に失礼だろ。世界一不幸な人間が、世界一不幸な映画を撮れるのかよ、、。逆だってそうだぜ。第一、そんな人間は映画なんか撮らないよ。とまあ、馬鹿みたいに自分勝手に興奮してしまうのは、御本人のせいじゃなくて、この映画を報道する周りのせいだと思ってるけど、、。
 そういえば、一頃この手の私的映画を、嫌というほど見せられて、それを崇めなくては人間扱いされなかった時代もあったけなぁ、、。「映画は娯楽だ。」で、責めまくって来る反動も怖いけど、、、。
 まあ、いいか。ドラァグクィーン3人のトークや生態が一応、メジャーな媒体で拝見出来ただけ儲けものだね。ホント、私はこの3人ばかり見てたものね。
 チルへの啖呵はなかなかだったね。いいよう。ばこーんって感じで。
 あと「薬(ヤク)」の方ね。理屈抜きで薬、「×」です。私の場合「薬」入ると果てしなく墜ちていくのが目に見えてるって事もあるけれど、自分の「心」が何かに依存しないと有効に働かない状態はプライド上とても嫌。みなさん。駄目な時は、もう自然に「壊れ」ちゃいましょう。何かにぶらさがらなくてもいいんだと思うよ。 それでも怖いなら「人間」にぶら下がりましょうね。薬に依存は×。 



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ブレイド2
監督ギジェルモ・デル・トーロ


 湿った石壁にうっすらと生えた黴みたいな美意識を底に持っているギジェルモ・デル・トーロ監督の作品が好きだ。「クロノス」も「ミミック」もB級ホラー(ていうかホラー映画に「A級」なんて評価は似合わない)だったが、他の作品と一線を画すのは、その美意識故の事だ。
 そのデル・トーロ監督がブレイドを撮るのだから期待度大だったんだけれど、、。
 なにせ今度の相手が、極め付きのダークアメコミヒーローだけにねー。お馬鹿に裏打ちされたカッコ良さが生命線なわけで、その部分とデル・トーロ監督の美意識がどう融合するかが問題なわけなんだよね。

 で巷の評価は見事に「前作の方がいい」と「今度のが上」の真っ二つ。でもこういう映画って「はー、面白かった」という感想以外に何も残らなくて普通なんだから、その「面白かった」ぶりを時間を置いて比較しても仕方ないような。
 近緒的には第1作も第2作も「大好き」と答えておこう。アメコミヒーローの映画化ものは、余程の駄作でない限りみんな好きだけれど、「ブレイド」は映画化というより映画そのものがアメコミであると言う意味で花マルなのだ。
 ウェズリー・スナイプスの存在自体がもうアメコミだし(あのサングラス、あのヘヤースタイルと頭部の入れ墨、分厚い唇、妙に怪しいカラーコンタクト、、どれをとっても生きた漫画)、コスチュームから小道具までotaku心ズキューンです。
 ロングのレザーコート、、必要以上に馬鹿でかく異様なフォルムをもった銃火器、実用性より様式美を前面に出した剣刀類、・・正に神はディテールに宿るだ。
 
 でも意外に感じたのはデル・トーロ監督が見せたアクション展開。「ミミック」等を見てると、捻った視覚効果を狙う人ではあるけれど、その印象はどちらかと言うと「動」よりは「静」だったのに、このブレードでは「動」そのもの。
 でもアクションのコンセプトは前作とは微妙に違うみたいだね。前作ではアクションの中に「ミエきり」を含めてオリエンタリズムを求めていたみたいだけど、今回はかっこよく見えるなら何でも取り入れるって感じ。
 ワイヤーアクションにCGを繋いで、あり得ないアクションを可能にするスタイルって今ではありきたりなんだけれどデル・トーロ監督の場合は、ワザとアニメぽい視覚感覚を実写に「なじませて」いる所が、新しいと思うんだ。
 ブレイドのアジトにバンパイア二人組が侵入してくるシーンなんてまるでルパン三世の「カリオストロの城」だしデル・トーロ監督そうとう色んな日本のアニメを見てるに違いない。ひょっとしてデル・トーロ監督、「あり得ないアクションが可能になったら、次に来るのは、それを見つめるあり得ない観客の視線だ」ぐらいは考えているのかも知れないね。確かにブレイド2の中には映像ドラッグといっていいようなアクションシーンがいくつかあるもの。
 
 と書いていくと、冒頭で言ったデル・トーロ監督の美意識ってなんなのという事だけど、これがもろに現れるのはバンパイア達の巣窟「苦痛の館」の描写ね。女の背中の皮を剥いでむき出しの筋肉だとかをつついて遊んでみたりとかのシーンが、、いかにもおどろおどろした雰囲気の中で演出されるのではなくて「あたり前」に画面に転がってる感じ。
 大きく見れば、死神族(リーパーズ)のやけに生物学的な造形と、バンパイア達の「炭火焼き爆発」という馬鹿げた死に方が、並列に同居してるってのがこの映画の特徴なんじゃないのかしら。

 ラストに近づくに従ってアクションのスピード感が落ちていくことを除いてはホント楽しめる映画でしたよん。



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JSA
監督:パク チャヌク
 「シュリ」は、もっとも韓国らしくて、もっとも韓国から遠い映画であったと思う。対して「JSA」は、新しい装いを持ってはいるものの、最も韓国に近い映画であろう。これは南北の分断という問題を両者が映画としてどう取り込んでいったのかという問題ではない。
 それは「兄貴」という言葉に表される、韓国の人間関係の濃密さの露出度における差ではないかと思う、、。今の日本人の感覚の中には、ここに登場するような、やや家族愛に近い「友情」が成立しない。ただ理解がまったく出来ない訳ではないのは、演歌の泣き節に多くの共通点があるように、日本人もまだこういったメンタリティを血の中に保持しているのだろうと思う。
  北の兵士であるオ・ギョンピル士官(ソン・ガンホ)が南のナム・ソンシク一等兵(キム・テウ)を境界線上で、はっしと抱き寄せ「身体が暖かいな」と声をかけるシーンなどに、訳もなく感動させられるのもそのせいだろう。そして映画JSAはその視点から南北分断を捉えるが故により「韓国」映画なのである。

 この映画に、ハリウッド映画の香りを持ち込んでいるのは、板門店/共同警備区域(JSA)に送り込まれた中立国監督委員会の派遣員という構図だろう。ただし、事件の捜査にあたる韓国籍の父を持つスイス軍女性将校ソフィー・チャン(イ・ヨンエ)は、探偵役と同時に「中立」の象徴としても描かれているのだろうが、残念な事に実際には単なる進行役の域を出ていないようである。
 第一、彼女の推理や謎解きが「はあ、、」って感じだし、イ・ヨンエが「デキル軍人女性」を演じれば演じるほど、普通のお嬢様にしか見えない事が痛い。
 それに対してソン・ガンホはなかなかに味わい深い役所であり、実際によくそれを表していて、彼は役者として相当な実力のある人だと思った。 そしてイ・スヒョク兵長役のイ・ビョンホンはとてもキュート。初めの頃の「無表情」や「虚無」を装っている時でも目が濡れているし、彼が地雷を踏みつけて動けなくなり泣きべそをかいた顔なんかの表情は思わず抱きしめたくなるほど可愛い。
 韓国映画の場合は俳優さん達の不敵な面構えを見るだけでも値打ちがあると言われているが、その不敵さの中には、純真な子どもっぽさも隠されているのだ。だからJSAで描かれる友情がより悲しく切ないように感じられるのだ。
 そして最後のラストシーンに使われた一枚の静止画像のクローズアップ、あれは素直にかっこいいと思った。アメリカ映画を研究すれば、移植できる感覚だろうけど、映画のラストに持ってきて、ちゃんと「座らせる」事がデキルかどうかは別問題だものね。残念ながら近緒は、日本映画でそういうのを見たことがない。結局、映画作りに対する真摯さのエネルギー量の勝負みたいだね。


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天使の涙
監督:ウォン・カーウァイ

 

 
 

 
 

 ミシェル・リーが着てた黒ワンピ、PVCかなぁ、、、ラバーってことないよね。彼女の豹柄でボディコンTシャツもいいなぁ、、。何かの雑誌で読んだけど、香港ってあんなに低く飛行機が飛ぶんだ。彼女のお掃除手袋、ラバーかなぁ、、、、。近緒は、ウォン・カーウァイの映画3回目だから、この映画こんな見方で充分だって気が付いたからね、このレビューこんなのばっかし、よ、。
 アジアの子だってラバー似合うよ。ちょっと胴長でもさ、手と脚が長くて痩せてたらOK。それなりの味があるよ。なにも八等身九等身で、それでもって超グラマーでないとラバーは駄目ってことない。 あまりその方向で突き詰めると、エロの油がぬけて完全にラバーが「モード」になっちゃうしね。 そりゃミシェル・リーは出来過ぎだけど、それでも東洋人の彼女がテカテカぴたぴたの黒ワンピと網ストッキングはいて、男の小汚いベッドでオナニーしてるとラバー系のひんやり湿ったエロスが匂いたつじゃない。
 あれってミシェル・リーが、映画の最後の方で金城武と出会うシーンで、今までデコ出してパスタ食べてたのが、前髪おろして急にもとのミステリアスガールに戻っちゃうじゃない、、。あの落差のエロスっていうのかな。
 なんとなくそれに通底してるとこあるよね。
それとカーウァイの映画って、言いたいことに「底」がないというか、横につーっと繋がっているのを見る映画だね。まあ映画の持つテーマ性っていう言い方をしたとしてもカーウァイのは「軽く」はないけど決して「重く」もないと言うところかな。一言でいってウォン・カーウァイはテーマより映像のスタイリッシュさを重んじてるみたい。
 カーウァイのスタイリッシュって、その嘘っぽくて儚げな所がいいな。透明なポリエステルの服と柔らかい脇の下の組み合わせとか、、ね。金城が初恋を自覚した雨のシーンは秀逸。内容なんてなくていい、、ただ綺麗でかっこ良ければ。そんなことをカーウァイじゃない映画監督が言えば、ぶっ飛ばしたくなるけど、それを許容させてしまうのがウォン・カーウァイ、。
 それはどことなく、村上春樹が何を書いても、どこかお洒落な香りを持っているのに良く似ている。
 「どんなものにも期限があるのだそうだ、、、。彼女の恋の期限、、」なんていう台詞を、透明で永遠を感じさせるシーンで被せていくテクニックは本当に共通してると思う。
 ステンレスのシートの上に寝る女。ステンレスの冷たさと光沢。女の肌の暖かさと汗。それをワンセットにしてだされると、見る方はいつも使っている脳味噌の筋肉の違う部分を刺激される。つまりそれを見て「かっこいい」と思ったり、場合によれば気持ちのささくれが、なめらかになったりする。これがウォン・カーウァイの映画の「質」じゃないかなぁ。
PS 尚、この映画「恋する惑星」を見てから見るのがまっとうな順番だと多くのレビューに書いて在るけれど近緒も大賛成。
 勿論「それによってテーマに対する理解が深まる」なんてことは一切ないんだけど。お気に入りの服は、一着より二着の方がいいし、絵だって下書きを見ておく方が完成品がより楽しめるじゃない。

 


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トラフィック (TRAFFIC)


監督:スティーブン・ソダーバーグ

 

 第73回 アカデミー賞4部門受賞作品? うーん、これは問題大作なんでしょうか、優秀作なんでしょうか?まあ決して出来の悪い映画ではないですが、、。それに何故、三つのエピソードを同時進行させるのかその必然性が今一つ判らないし、、。
 アメリカという国に住んでいたらそれなりにグッと来るものが、、(あるのかなぁ、、麻薬テーマという事ならもっとえぐいのでドカーンという映画があるような気がするしなぁ、、。)
 まあ、メキシコの警官ロドリゲスを演じたベニチオ・デル・トロが凄く良かったんで近緒にとっては値打ちありの作品なんだけど。(彼が麻薬組織の暗殺者を拉致する為にゲイに扮するシーンなんか、凄く自然というかいかにもアルアルって感じだったよ。)
 それにラスト近く「照明灯付き」の夜の公園で子供達の野球を観戦してる彼の表情も自然なくせに、傷つきながらも一つの使命を全うしようとする男を演じて決まってる。ベニチオ・デル・トロ、逸材です。
 あとそうだな、麻薬取締最高責任者ロバート編を演じたマイケル・ダグラスはいかにもって感じかな。彼の動きや演技より、彼の娘役(エリカ・クリステンセン)の転落ぶりがこの映画の奇妙なドキュメンタリー風にあいまって、結構怖かった。あの描写があって、ロバートが最後に見せた「精神的転向」が説得力を持つんだろうね。
 この映画の三つのエピソードは一応、麻薬の売人である夫を逮捕されたヘレーナ(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)編に結びついていくみたいなんだけれど、彼女にはコメントなし。けどヘレーナを監視してた刑事コンビ(ドン・チードルとルイス・ガスマンのお二人さん)はとっても「普通」なのに不思議に楽しめた。
 特に黒人刑事(ドン・チードル)が映画のラストあたりでヘレーナの家に盗聴器を仕掛けるのに成功して、走り去りながら最後に不敵な笑みを浮かべるシーン、これはメキシコ警官ロドリゲス、麻薬取締最高責任者ロバートそれぞれの「決着」とあいまってなかなかのワンカットだったなぁ。
PS 麻薬戦争か、、本当の所、他人事じゃないよね。利害・権力・満たされない心・快楽を制御できない人間の本質。正に「戦争」だね、、、。



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スパイダーマン

監督: サム・ライミ

 

  『サイダーハウス・ルール』のトビー・マグワイアが「スパイダーマン」をやるって聞いた時点で、はまり過ぎ狙いすぎのキャスティングだと思った。それに監督がサム・ライミ。
 サム・ライミ監督、デビュー作のホラーカルト『死霊のはらわた』から最近の本格ミステリー『シンプル・プラン』への映画作法上の転身というか、カーブのかかり方がすごいなーって思っていたけど、この「スパイダーマン」は今までの軌跡の集大成って感じですね。
 それにアメコミのリメイク超大作は数々あれど、その中でもこの「スパイダーマン」、かなり良い線行ってると思う。(近緒的にはXーMENより上手かも)
 バートン監督の「バットマン」もそうだったけれど、こういうリメイクって結局、その監督自身が持っているアメコミヒーローに対する愛情っていうか、思い入れみたいなものの強弱で、作品の出来が決まるみたい。
 バートンの場合はアメコミ・バットマンを「レディ」にお化粧直ししてあげてからスクリーンに送り出してあげたって感じで、ライミ監督の「スパイダーマン」は、アメコミ雑誌を丹念に読み込んだほぼOTAKUの域に近い人物が、自分の持っている娯楽映画制作の技を全てつぎ込んで、その世界観を実写版に再構築したって感じ。
 最近になって「苦悩するヒーロー」を生み出したアメコミ雑誌とは言え、読者がそれを読んで文学的な深みを感じるわけもなく、やはりコミック雑誌はコミック雑誌なわけ。その「限界」というか、気安さというか、そんなコミック雑誌の持つ平板さの再現も含めて、映画スパイダーマンは上手く出来ていると思う。

 せっかくあのトビー・マグワイアが主役なんだから、主人公のヒーローとしての苦悩をもっとシャイに描き込んだらとか、ついつい思ってしまうけれど、この映画の人物描写ぐらいが、アメコミで描き込める世界と等分量な筈で、重くも軽くもなく実にいい塩梅だと思う。多分この塩梅を色気も出さずに守れるのはサム・ライミ監督だけじゃないかな。
 前半の、アメリカ青春もののテイストだとか、ヒーローになる前のトビー・マグワイアのダメ男ぶりとか、おずおずと練習しながら彼がヒーローになって行くくだりなんかが、コミック版でも読者の共感を得て支持され来た部分なんだろうけど、そこをちゃんと映画でも大切にしてる所が偉いと思う。
 もっとも原作のアメコミなんて知らないよという層には、この「作り込み」は、楽しめないだろうし、余り意味がないどころか「スパイダーマン」自体の「映画」としての評価を落としているかも知れない。
 例えば「アメコミの等身大の身近なヒーロー」という平板性を過不足なく扱ったり、アメコミ自体が与えてくれる「夢」を忠実に再現するという作業の中で、やっぱり弾けそうに見えてはじけない脚本だとか、「もうこれ以上やると人間ドラマになっちゃうからやんないよ」って感じの俳優達の演技に喰いたりなさが残って来るという事だ。
 近緒的には、主人公が偶然手に入れた超能力を使って懸賞レスリングに参加するくだりから、結果的に自分の伯父さんを殺してしまう事になった「それと僕がどういう関係にあるんだい。」テーマを、もう少し見たかったような気がする。
 他人の利己主義への返礼として、目の前の「正義」を行使しなかった主人公が、その事で苦しむあたりはスパイダーマンのかなり重要なテーマだと思うのだけれど、、、ライミ監督は意識的にそれを引っ張らないでいるようだ。
 それとか、あのディフォー扮するグリーン・ゴブリンがスパイダーマンの頭をペチっと叩いて説教(?)する場面なんかでも、観客の方からするとそれぞれの正体が判っているので「疑似親子」の対話めいて、なかなか味わい深かいシーンなのよね。こういう「キラリ」とした演出を見せられると、他のシーンでも(特に後半の展開の中で)もうちょっと違った形のエピソードが入れられる筈なのにな、と思ってしまうのだ。
 それにしてもディフォーはいいですね。勿論この映画の中の彼は「?」が多いけれど、他の役者が、あの鏡の前の一人芝居をやって似合うとも思えないし、、。

 でもなんだね。最後の星条旗はためく元に撮られたラストシーンとか、「大いなる力には大いなる責任がともなう」に対する主人公の答えとか、、、最初、「等身大ヒーロー」で行ってた筈が、結局最後には「アメリカ国家」してない?
 最近、再びアメリカも景気が落ち込みはじめたけれど、上向いてた頃のアメリカ映画や、ぐんと下を見ざるを得ない時に作られる「アメリカ映画」って、凄くアメリカの「色」が出るんだよね。そこだけはちょっと怖いような気がするな。
 
PS グリーン・ゴブリンのデザインについては色々言われているようです。ちゃっちぃとかしょぼいとか、確かに違和感、丸だしなんだけれど、、でも今回、ディフォーに振られちゃったキャラクターを考えると釣り合っているような、いないような、、。まあ違う意味で記憶に残る造形ですね。
 そしてゴブリンに劣らず主人公の恋人役、キルステン・ダンストも不評のようで、、確かに主人公が「君を一生守る」と宣言するような魅力(映画的な意味での美貌って事なんだけれど)を、観客もキルステン・ダンスト演じるヒロインに感じているかどうかは微妙な所ですね。
 でも彼女が、壁から逆にぶら下がっているスパイダーマンのマスクをずりさげてキスするシーンは、映画「スーパーマン」の月夜の飛行デートに並ぶ、この手の映画の名シーンの一つだと思いますけどね、、。 



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陰陽師

監督: 滝田洋二郎

 

  この映画、とても素敵な人を引き当てたものだと思う。勿論それは安倍晴明役の野村萬斎の事だ。彼が他の映画で尚かつ違う役所だったならどうであったのか、まったく予想も付かないのだが。それほどに安倍晴明がはまり役だという事だろう。仮に続編がちがう俳優で作られる事になったら次の人間はこの野村・清明の「呪」を打ち破るのにそうとうな力を必要とするに違いない。
 声に「力」があるし、たち振る舞いだって凄い。彼の本職を考えると当たり前といえば当たり前なのだろうが、こういう転用の仕方でその力を見せつけれれると感心するしかないのである。
 「芝居がかった演技」という言葉があるが、野村・清明は丸ごとそれなのに、そのこと自体が魅力なのである。
 この野村・清明の異質な「芝居がかった演技」に当てられて、割を食ったのがもう一人の主役、悪の陰陽師・道尊こと真田広之。
 近緒は、真田広之がどんな役作りだって無茶苦茶真剣に取り組むことに好感を抱いている一人だ。
 過去「大根」と言われた役者がある日、個性派俳優として化けるケースはいくらでもある。真田広之が大根とは言わないが、「アクション」出身であるというイメージが強い俳優さんであることは、本人だって自覚しているはずだ。そんな彼が、もがいしてもがいて「なんでもこなせるBIGな俳優」になる過渡期を今わたっている所なのだとおもう。
 この二人の演技対決が際だって面白い。畑の違う天性の玄人と、努力でのし上がる演技派俳優。この違いを見るだけでも、この映画は十分に面白いのだ。
 
 ・・逆に言うとこの映画、残念な事にこの二人以外の要素はとっても詰まらない映画なのである。原作者である夢枕獏が、脚本チームの中に入っているのでちょっとは期待したのだが内容は、かろうじて清明と博雅(伊藤英明)の濃厚で奇妙な友情路線だけはキープしているものの、物語自体はほとんどスカと言っていい。
 特に、道尊が使う鴉の造形なんて、泣きたくなってしまう程お粗末。あれって大昔の東映妖怪シリーズレベルでしょう。それに視覚効果もね、、ほとんど前世紀のセンス(平安京の広さを表現できる技術があるんだからセンスの問題or予算?)。
 唯一の例外は清明が呪文を唱えながら飛び回るアクションだけど、それが格好良く見えるのは、ひとえに萬斉の所作の美しさのお陰です。

 という感じで、映画の出来としては色々あるんだけど、この陰陽師、続編があるなら是非みたい。勿論、萬斉・清明を見たいからに決まっているんだけど(彼には確かに中毒性の魅力がある)、、プラス、この役に「こなれた伊藤英明」への期待もあるんだよね。
 近緒が一番戸惑ったのは、夢枕獏が描く博雅と伊藤英明のギャップだったの。でもよく考えたら伊藤英明以外に、博雅の突き抜けて茫洋とした純粋さを濁らさずに演じられる俳優が思い浮かばないのね。
 (彼には、他人に「ただのイケ面のバカ男」って言わさない何かがある?)
 演技が果てしなく素人に近い程下手なのか、持ち味なのか、ぎりぎりの所をさまよう伊藤英明だけど、今回は平成青年が平安時代にタイムスリップした感じで、やっぱり役柄に填っていたとは言い難い。
 でも一生懸命の真田弘幸と同じで、近緒が応援する俳優さんなんだから「2」でも是非、こなれた部分での博雅ぶりをみたいもんだわ。
 
PS 望月の君の「生なり」メイクもどうかなーって思うけど、あれはあれで妙な色気があっていいね。、、東映お得意の化け猫路線を思い出させてくれてgood。でも女優さんの目元が素肌であとはラテックスマスク張り付けまるわかりなんて近緒みたいなマスクフェチ以外の人間には絶対興ざめだよ。



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スワロウティル


監督:岩井俊二

 

 自分の好きなものを好きなだけ撮る。そしてそれがちゃんと時代が育んだ若い感性に迎え入れられる。恐ろしく幸運な事だ。何かがちょっとでもずれればご破算になる世界。でも今のところ岩井俊二監督はそれを旨くやってのけていると思う。
 無国籍風映画という冠がある。最近では三池監督の「漂流街」が有名だろうが、結局そこで言われる無国籍とは、日活映画の小林旭や宍戸錠の世界と根本的にルーツは同じだ。つまり座標軸が日本にあってこその無国籍なのだ。
 所が岩井俊二監督は座標軸を日本とはっきり指定することで本質的な無国籍を作り上げる事に成功したようである。見栄えに置いても、この映画は日本人が作ったものではないと言い切っても通用する出来だし、この映画を見て里心がついて帰りたくなるのはまだ見ぬ「上海」なのだ、、。

 これより後発の「リリイ・シュシュのすべて」も長い映画だったが「スワロウティル」も2時間29分と長い。主人公達が偽造紙幣で荒稼ぎをして「イェンタウンバンド」を世に送り出すあたりの下りなど、グリコ役のCharaのプロモーションビデオとしか思えない筈だ。 Charaのファンなら映画の世界観の背景にまで届くような陶酔感を感じる事が出来るだろうが、それは一部の人間で、大部分の人たちは雰囲気に酔っているに過ぎないだろう。
 しかし思えばこの長さが岩井俊二監督に与えられた生理的映像時間なのではないかと思う。人の一日がどんなにタイトなスケジュールを課されようが意識の波はそう変わらないのと同じだ。多数の人間にとって無駄だからといって人はその内なる緩急のリズムを捨てられない。
 しかし映画が世界を作る技術だとする人はその内なる己の緩急さえも、視聴者の為に卓抜した能力でそれを制御するだろう。で、その人が作った映画と岩井俊二監督が作った映画では作品としての肌触りがまったく違ったものが生まれる事になる。
 だがその事自体は問題でもなんでもない、、、ただ驚愕を覚えざるを得ないのは、己の映像感覚や生理を重視する岩井俊二監督が日本映画に新しい地形を形作りつつあるという事である。
 私は「リリイ・シュシュのすべて」より「スワロウティル」をかいたいと思う。「スワロウティル」の方が岩井監督の生理をより大きく見せる事が出来たのではないかと思うからである。
 「青少年の心の闇」といった外してしまえば屑にしかならない素材よりも、近未来の日本(円都)に金儲けにやってきている移民(円盗)のお話を描く方が、視聴者の妙な世俗的こだわりを映像世界の中に持ち込ませない分ずっといいはずだ。誰もが現実の向こう側を透かしてみる能力に長けているわけではないのだから。

 とまあこんな感じ、、。「スワロウティル」は映画として大ヒットした作品らしいから、今更、私がデティールについて細かく書いても仕方がないので、、ここから先は超ミーハーに、「近緒」流に、、。

 男優陣がみんな魅力的。ラン役の渡部篤郎は寡黙で「出来る」仲間思いの影のある男を滴る色気で好演。(まるっきり「シェーン」だけど、このお遊びを綺麗に撮れる所が岩井監督のチャームポイントでもある。)
 フェイホンこと三上博史、やっぱこの人、上手いんだわ。彼が移民局から釈放されて町中を走り抜けるシーンは、完全にフェイホンになりきってたものね。それとアゲハに刺青をしてやる医者役のミッキー・カーチスも完全に「役者」してた。
 でもなんと言ってもサイコーなのはリャンキ語を操る江口洋介!!こんなに「楽しい」感じがしたのは映画版の「踊る大捜査線」ぐらいでしょう。

 女性陣も端々まですごくいい。上には書かなかったけど悪役や脇役に回った男優さんもみんな素敵なのね。それと同じように大塚寧々以外はこれでもかっていうぐらいに役所にはまってるしね。
 Charaなんかはこの映画のためにシンガーになったって言っても不思議じゃないくらい自然だし。
 でもこの映画の中ではアゲハ役の伊藤歩の存在が、いろいろな意味で象徴的だったのかなぁ、、。(「スワロウティル」と「リリイ・シュシュのすべて」の間の距離を測る意味でもね。)

PS ずっと「リリイ・シュシュのすべて」の中で星野が沖縄の海に大金をばらまいたシーンの事が気になってしかたなかった。それは別に「映画」の中でどういう意味を持つのか?とかそんな疑問じゃないのね。これほど感覚と寓意に満ちた作品の中であのシーンだけが違和感を覚えた、、その事自身への疑問なの。でも「スワロウティル」で何度も登場する紙幣の扱われ方を見ていて、ああこれは岩井監督にとっての一つの記号なんだと気付いた、、。



「リヴィエラを撃て」
リヴィエラを撃て

高村薫  新潮文庫

 

  近緒は日本人が小説で書く外国人の存在がとても苦手だ。まるで日本人が金髪の鬘をかぶりパテで盛り上げた付け鼻をして「わぁたぁしはガイジンでぇっす。」と演技しているように感じるからだ。
 自分の限られた読書量の中で「許せる」外国人描写をしたのはフィクションでは村上龍の「イン・ザ・ミソスープ」だけのように思う。
 でそんな近緒の思いこみを軽々と飛び越えてしまったのが高村薫の「リヴィエラを撃て」だった。なにせ何人も登場する主要人物の中で、日本人はたった一人、しかも彼はハーフであり物語の幕引き役だ。
 
主役はイギリス人であったりアメリカ人であったりし、しかも彼らは確かな足取りでイギリス国内で銃撃戦を行い、飲み食いをするのだ。
 勿論、よく読み込めば、本作に登場する人物の精神構造が日本人そのものというか、高村薫そのものである事は直ぐに判るのだが、それにしても細部の土地勘を含めて展開される諜報活動や警察活動の描写には舌を巻く。
 これだけのものを書ける高村薫、猛然と頭がいいのだろう。
 
 ただこんな事を書いては高村ファンには叱られるだろうが、彼女が書く小説は、ハイレベルなヤオイ小説ではないかという気がしないでもない。
 シンクレアとダーラム候の関係は勿論の事、ジャックとマッカン、キム・バーキンと手島修三の関係さえ、読みようによってはヤオイの匂いが濃厚だ。
 ヤオイ小説とホモ小説の決定的な違いは、恋愛上の性の代替え行為が効くかどうかだと思っているが、高村薫の脳内では超高度な変換作業が常に行われているのに違いない。
 なぜ女性作家がここまで男の世界を執拗に書き込んでいくのか、しかもその年齢層が中年、もしくは初老の男達に焦点が当たっているのか?考えてみれば心理学的にも興味のある所だ。
 
 近緒はこの本で高村薫の書いたものが2冊目になる。1冊目は「マークスの山」だ。「リヴィエラを撃て」では新機軸を打ち出しているように見えるが二冊の本の大きな構成はそっくりだと思う。
 つまり「マークスの山」ではマークスを、「リヴィエラを撃て」ではリヴィエラを、男達は自分の存在を全て掛けて執拗に追いかけている。
 そして物語の終演で明かされるマークスやリヴィエラの正体は、驚くほど矮小な存在であると、同時に巨大な空虚である事が判る。
 それでも突き進めと高村薫は人々にエールを送っているのかも知れない。行き暮れてしまっても、それでも歩けと。



「夜を賭けて」
夜を賭けて

梁石日 幻冬社文庫

 

 戦後、大阪造兵廠跡に忍び込み屑鉄を掘り出して売りさばいていた恐ろしくバイタリティに溢れた人間達がいたと言う。そんな彼らを当時のマスコミはアパッチ族と名付けた。

 大阪「アパッチ族」の存在は、SF作家である小松左京氏が書いた作品で、ある程度知っていたが、これほど濃密で雑多な人間のエネルギーに満ちたものだとは想像しきれないでいた。
 「アパッチ族」を軸に描いた「夜を賭けて」は、在日を生きて来た梁石日が、この物語を書く事の「意味」と「必然」を強く感じさせてくれる作品である。
 そして氏の事を青木雄二タイプの作家だと思っていた近緒にとっては、その思いを覆す一つのきっかけにもなった作品でもある。

 近緒は、強烈すぎるピカレスクロマンや暗黒小説が好きになれない。読んでいて疲れてしまうからだ。時には現実以上の溝泥を描写されて「だからどうなの?」と言った意味のない反発さえ感じる時があるのだ。
 常に結果として他人を裏切ってしまう人間は数多くいても、意図的に裏切り続けられる人間はそう多くないものだ。
 正直に言って梁石日の作風からは、そういった「悪の過剰」の印象を強く受けていた。

 「夜を賭けて」でホッとしたのは、強烈なエネルギーの中にも人間の「間抜け」ぶりがしっかり描かれていた事、さらにある種の「純情」や、運命そのものへの従順さが描かれていた事だ。
 更に三部作とも言える「夜を賭けて」の中で、金義夫が、理屈ぽい粗暴な若者から、のちにアパッチ族のシンボルと変化し、そのアパッチ族自体が駆逐された後には、アウトローとなりやがて厳窟王まがいの境遇に置かれる波瀾万丈さが、一つの戦後史になりえている所が面白くもあった。
 特に、第二部の大村収容所の章では、獄中の金義夫と彼を慕い九州にやって来た礼子の二人の視点で交互に物語が進行する訳だが、礼子の視点となると梁石日の筆圧が途端に弱くなるのが微笑ましいほどだ。
 第三部で、物語に端役程度に登場する張有真が作者の梁石日である事が明らかにされるのだが、近緒には梁石日の心の投影像は義夫であり、更にその義夫から観た理想の女性像が礼子の姿であるように思えるのである。
  同時にこの二つの投影像こそが、梁石日にとっての、在日を生きる人間の苛烈な結晶美なのではないかとも思える。
 
 文学に、それを「所有」する民族や国家があるとするなら、さて、この文学は、一体、どこの民族や国家に所属するのだろうか。
 日本なのだろうか?それともコリアなのだろうか?それともこれは、日本語という言葉と思考言語で書かれた在日コリア文学という新しいジャンルなのだろうか。
 「芸術に国境はない」などという馬鹿げた事はいうまい。むしろこの作品を読んだ後では、国境・民族の差から文学が生まれるのだと言っても矛盾はない筈である。
 梁石日の文学が日本で生まれた事こそに意味があり、それに正面から向き合う事が、この国に内在する多くの矛盾を解体していく行為につながっていくような気がしてならない。
 
PS この時期だからと言う訳ではないが「夜を賭ける」で描かれる「北朝鮮への帰国運動」の記述は、とても興味深い。この時点で梁石日には現在の北朝鮮の姿が既に見えているのだから。
 そして「ここで(アパッチ村)で生き残れない者は何処に行っても生き残れない」という台詞と「あらゆる組織を信用しない」という二つの言葉に潜んでいる梁石日が用意した「答え」を、現在の日本人はもう一度、見直してみる必要があるのかも知れない。



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「仮面ライダー THE FIRST」

監督: 長石多可男

 

  テレビシリーズ第1作『仮面ライダー』に登場する仮面ライダー1号本郷猛と仮面ライダー2号一文字隼人が主人公として活躍する劇場用特撮ヒーロー映画。
 chikaを贔屓にして下さるお客様の中に、大のライダーオタクの叔父様がいらっしゃって、この方に言わせると、この映画は、単純なテレビシリーズのリニューアル版じゃなくて石森章太郎原作版の暗い設定をかなり忠実に再現したマニアチックな作品なのだそうです。
 叔父様曰く「全くの一般人が悪の組織に拉致されて強制的に身体改造・洗脳を施され、悪の先兵として使われる、、今、考えると北朝鮮の拉致問題の先取りみたいな漫画やってんなぁ」と問題発言and暢気な事も仰ってましたが、平成仮面ライダーシリーズも初期の頃の作品(アギトまで)には、少しだけ強制的に異形の存在に変えられた人間の悲劇臭が漂っていましたね。
 chikaの目にはファーストで使われているライダーのヘルメットとかプロテクタースーツなんかの作りが、平成ライダーシリーズで飛躍的に向上した造形クオリティを維持しながら昔のライダーデザインに応用してて素敵だなぁと。特に変身ベルトは、わざと玩具ぽく造形してるような感じで好きですね(笑)。
 それはたぶん、人体改造の装置に「頭に穴を開けるドリル」が登場したり、怪人が死ぬとその死体が泡になったりするレトロなローテク描写を、意識的に使ってるのと共通してるんでしょうね。

 そんな意味で仮面ライダーファンなら色々な意味で楽しみどころのある映画なんだけれど、映画本体のレベルはお世辞にも高いとは言えないんですよね。
 ワイヤーアクションはなんだかスムースに繋がっていないし、冒頭、石橋蓮司や本田博太郎が登場しておーっとか思わせるんだけど、それ以外は若手の俳優さん達ばっかで演技の足下が時々ふらつくし、、、chikaが女装させたいアイドルナンバー1にあげてるウエンツ瑛士君に至っては「、、、、(まあ彼の出演はご愛敬ですが)。」って感じ。

 でもウエンツ瑛士君と小林涼子君のウブな病室カップルが、延命と愛の為にスネーク&コブラカップルに変身しちゃうってゆー設定はなかなかのもので、見せ方、組立方によってはもっと濃い作品になった気がするんですよね。でもなにせ脚本が井上敏樹だからアイキャッチだけで話は深まらないのだ(苦)。
 
 ウエンツ瑛士君演じる三田村晴彦君は長期入院している意固地少年。誰一人として見舞いに来ない孤独な彼は、いつも自殺を図るほど追い込まれた精神状態にあるわけなんだけど、そんな彼にボランティア恋人と名乗って現れたのが原田美代子ちゃん。
 美代子の天真爛漫さはやがて晴彦の閉ざされた心を溶かすのだけれど、実は彼女は同じ病院にいた不治の病を患った患者だったという展開。
 そこに登場するのが人体改造による人間兵器で悪の世界を築こうとするショッカー、、当然、「あなたの病気は(改造人間になれば)必ず治ります」と持ちかけてくる。晴彦との恋に落ちかけた美代子がその申し出を断る筈もなく、彼女はやがてショッカーの改造人間スネークに変身してしまう。
 スネークは柔軟な身体を生かした変幻自在の足技で敵と戦うのだけれど、戦闘中に舌なめずりをしてみたり、その性格は改造される前とは正反対の残忍で攻撃的なものに変わっている。
 (ってか完全にSM女王様的オーラが全身から立ち上っている)。でこのスネークに陰のように付き従うめっちゃ強い怪人コブラがいるんだけど、そう、それがかっての弱虫坊ちゃん三田村晴彦なんですねぇ、、、。
 コブラの後頭部に付いている触手は取り外しが効いて、それを主にスネークが鞭として使用するんですが。仲がいいというのか、どう考えたってあの触手は三田村晴彦のペニスのメタファー。
 劇中の展開から察すると、三田村晴彦はおそらく美代子と一緒にいたいという想いから自ら改造人間に志願したのでしょうね。結局、晴彦は改造人間になる事によって美代子と一緒にいるという願いは達成したものの、そこには「あの日の美代子」も存在しなければ、あの日の晴彦自身もいない悲劇的状況に陥ってしまうわけね。
 ここまで二人を描写したのなら、本郷・緑川ペアと絡めながらもうちょっと深みのある話の展開が出来なかったのかと、ついつい思ってしまうんですよね。
でも、なんだかとっても面白そうなお化け屋敷の入り口まで連れて行ってくれるんだけど、それは実は只の書き割りで、中には入れない。玄関先で雰囲気を楽しむだけみたいなはったり連発技の井上脚本だから(笑)
 でも死神博士の天本英世さんがデジタル出演してたり、佐田真由美とか一茶君の姿がショッカーの大幹部役で登場するなんてゆー遊び心で充分楽しめる作品かな。
 遊び心と言えば、chika的には板尾創路のスパイダーが大好きです。特に板尾創路が演じるスパイダー素体の「すぐに切れるサイコなタクシー運転手」キャラは、実際に運転手さんの中にはいてそうで、お面白怖くって◎。


 えー今日のレビューは「アンチ井上」色で真っ黒で、それじゃ変態chikaの面目が丸つぶれなんで、、なのでchikaがファーストを見てて一番萌えたシーンをコクっちゃいます。
 それは本郷猛と一文字隼人の共通の恋人である緑川あすか(小嶺麗奈)がショッカーに拉致られて改造人間にされそうになるシーンです。
 両手首足首をスチール鋼の枷でベッドの上に固定され、哀れあすかの頭部には頭蓋骨に穴を開けるドリルがドルドルと回転しながら近づいて、、、。
 恐怖と絶望に歪むビニ本モデルみたいなあすかの顔とうっすらとブラウスの脇の下に滲み始める汗。
 「イーッ!(お前みたいな鈍感な女なんか早く改造されて女怪人にされてライダーに倒されちゃいなっ)」chikaってば暗黒フォースを解放して思わず心の中でショッカー戦闘員叫びをやっちゃいました。

PS ファーストの場合、ショッカー戦闘員は何故か全員ゴム製の全頭ガスマスクをしてます。

 



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「座頭市」

監督: 北野武

 

 北野武監督の映画はあまり好みじゃないので、リメイクという側面もある「座頭市」は、どうかな〜という不安があった。それにchikaは、勝新が放つ座頭市の男臭い色気が好きで、ビートたけしの座頭市と言われてもピンとこないのだ。
  勝新には手込めにされてアナルを犯されてもいいけど、ビートたけしには高級なお洒落バーに連れていって欲しいという、、、あっゴメン、脱線も甚だしいか。

 結論から先に言うと武監督の座頭市、「いいなこれ〜」です。武監督の「芸術性」「サービス精神」「映画への愛情」「成り上がり監督ぶり」が一番バランス良く入り交じっていて、楽しめるって感じ。
 武監督の映画って正直言って「話題」先行だから、ホントの意味で「娯楽映画」じゃないのに、みんなは「面白い」という評価を無理矢理してるような気がするのね。
 chikaから言わせると北野武監督の映画って「映画好きのコメディアンが作った芸術映画」につきるわけで、一般受けするようなものでも、映画として傑出したものでもないはずなんだ。
 ただ一本の表現の中に「暴力」と「ギャグ」、「大衆性」と「孤高の精神」を、独自の平坦なリズムに織り込む映画づくりの手法が、他の誰かに真似が出来るかと言えば出来ないわけで、そういう意味では凄い映画監督なんだと思う。
 過去の幾つかの作品では、そんな武監督の「すごさ」が鼻について来たけど、今回の「座頭市」は、一晩置いたカレールーみたいに、その「すごさ」がうまくなじんでいるようだ。
 ラストのタップダンスシーンだって、この作品がもっと前に作られていたら気恥ずかしくって「見ていられない」形で挿入されていたに違いない。
 「座頭市」では、武監督の映画作りの余裕と言うか、楽しんで作っている姿勢が、監督独自のいろいろな表現技法上のギャップを吸収し「見せるエネルギー」にうまく転換されているような気がする。
 最後の座頭市の決め台詞を、ビートたけしが気恥ずかしげにちょっと滑舌悪く言っちゃう辺りを「可愛い」って、感じれる人には価値ある一品だと思います。
 でも話題に引きずられて「座頭市」を見ちゃって「なんだかな〜」と感じた人、それは「貴方が感じた事が正解」なんだよね。間違っても北野監督は偉大だなんて無理矢理思いこむ必要はありません。
 
PS 自分の両親を殺されて復讐に燃える大店の娘おきぬ。この設定まるで「水戸黄門」だね。そしておきぬの弟、清太郎。女装の時はおせいと呼ばれている。幼い頃は自分の身体を売って姉の純血を守ってやり、長じては姉よりガタイが大きいくせに美人局の女役を引き受けるという、やや顎の長い美青年。
 演じるは橘大五郎。一時、「チビ玉」ブームとかあったよね〜。大衆演劇の女形って独特の色気あるよね。
 ガダルカナル・タカとのやりとりで橘大五郎が「(男ならだれでも)化粧して綺麗になるとは限らないんだよ、要は土台の、ここだよ、ここ。」と自分の顔をさすシーンがあるんだけど、これが妙に初々しくて大好きなシーンなのね。
 こういう人を浅草から引っ張って来れて、しかもそれなりの台本書いちゃうって辺りが、「ビートたけし」なんだよね〜。 こういうのって大好き!!



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「女子寮潜入大作戦!ソロリティー・ボーイズ」

監督: ウォーリー・ウォロダースキー

 

  スタッフとキャスト全員が声を揃えて「バリー・ワトソンがセクシーだ!」と叫んだらしいバリーの女装姿“デイジー”。
 彼は別格として、この映画の本当の主役は、三人女装子の内の一人マイケル・ローゼンバウムが扮するアダムことアディーナだろう。

 ハリウッドには、ハンサムな主役男優に女装をさせる時、女装がいやらしく見えない「清潔感」を与える工夫がどこかにある。 バリーの場合も顔だけ見ると相当に綺麗だが、その他の部分には、女装した彼が「男らしく」見えるように演出や衣装に配慮が働いているようだ。
 (ハリウッドのメイク技術なら彼を完璧な女性に仕立て上げる事ぐらい朝飯前のはず)

 そんな映画のテーマが、軽佻浮薄で男性原理の固まりのような若者達が女装することによって「女性」の社会的な立場に理解を示していくというのだから皮肉なものだ。
 もっともそのテーマ的な弱さは、先に書いたマイケル・ローゼンバウムが「汚れ」を引き受ける事によって、かなり解消されている。
 フットボールファンで何人の女性と寝るかが最大の関心事であるアダムが、「自分も寝ない」ような自分自身の女装振りに落胆し、昨日までの自分自身であった男達に嘲笑われて怒り心頭に発する場面。
 果ては後輩に「犯される」描写など、よくよく考えれば相当に倒錯的なエピソードをコメディタッチでさりげなく積み重ねていく監督のストーリー展開はなかなかのものだ。
 映画の中盤で、女装姿のマイケル・ローゼンバウムとバリー・ワトソンがシリコン製のディルドーを剣やヌンチャクに見立てて喧嘩をしたり、劣勢に立たされたバリーのセクシーな女装顔の口にディルドーが突っ込まれそうになるなどベテランのコメディ作家としての顔を持つウォーリー・ウォロダースキー監督ならではのシーンも楽しい。
 これが同じ映像も手がける文章作家のクライヴ・バーカーの性転換ものの作品ならこうなる。

 短編「マドンナ」に登場するガーヴィーは、ある公営プールに住む魔物によって女性化される。
 そして彼は、自分は女性が好きだが「自分がそのひとりになることは受け入れられない。男性性だけでなく、その事が彼という存在自体に対する脅威と感じ」自らの命を絶っていくのだ。

 男同士のたわいもない喧嘩で、無理矢理、張り型をフェラチオさせれる女装男のアップシーンを見せて、男の愚鈍を笑い飛ばすウォーリー・ウォロダースキーとは随分、感性が違うものだ。
 とは言っても、この映画の結末は、「変な女達が最後には男性に受け入れられてハッピーエンド」という事でしかないのだから、過剰なフェミニズムどころか「ちょっと女性に協力的なマッチョ」程度のテーマ展開でしかない事も確かだ。
 全編が少しましなアメリカンジョークだと思えばほぼ間違いない映画だ。

PS 化粧したマイケル・ローゼンバウムの顔立ちが、タフな男の面差しと、どこか微妙に官能的な表情を交互に浮かび上がらせ、奇妙な魅力を感じさせる。バリー・ワトソンの女装姿がラスベガス辺りでのショーで見られるものなら、マイケル・ローゼンバウムのそれはどこかの薄暗い街角で出くわすような、、(汗)。



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「鋼の錬金術師 シャンバラを征く者」

監督: 水島精二 脚本:會川昇

 

 かとうかずこが声を充てているデートリンデ・エッカルトの銀の鎧姿が「悪のジャンヌダルク」を思わせて妖艶かつ魅力的だ。
  この映画の前半を見ている限りには彼女がラスボスになるとはちょっと予測が付かないのだけれど。そんな意外性も手伝ってハガレンワールドに付きもののグチャグチャドロドロ融合が、彼女の身にも起こって熟女の魅力満開の彼女がモンスターになって徘徊するシーンはchikaの下腹部直撃!!
 ・・・ってゴメンゴメン、こんなのレビューになんないね。 デートリンデ・エッカルトとはナチスの母体とも言われるオカルト秘密結社トゥーレ協会の女幹部です。
 錬金術世界からエドワードが迷い込んだ1923年のドイツ・ミュンヘンでは、トゥーレ協会がシャンバラ(錬金術世界)への扉を開き、その超自然的な力を利用することによってヒトラーを後押しする計画が進んでいました。
 まあその「悪の計画」を潰しながらも、ちゃっかり便乗できる所は便乗しちゃって、元の世界に帰ろうとするエドワードの活躍と、今はすっかり生身の身体を取り戻した錬金術世界にいる弟アルフォンスのエドワード捜索劇がこの映画の主な骨子。
 テレビシリーズでは最も重要なテーマだった「等価交換の法則」は影を潜め、その代わりナチス台頭前の重苦しいドイツを描きながら、世界の変化にも決して流されずにある人間同士の結びつきを描いたのが本作品。
 可愛い弟アルフォンスの身体を必死で取り戻そうとするやんちゃで淋しがりやの錬金術師エドワードと、兄貴思いの弟の二人の道行きが「母をたずねて三千里」みたいで大好きだったchikaからすると、ちょっと物足りない感じがしたけれど、その分、「軍靴の響き」みたいなのをかなりリアルに再現して見せてくれたので帳消しってところ。
 しかし身体を取り戻したアルフォンスが最初登場した時には「えっエドワードの偽物?」って感じだったのには微苦笑。
  対して現実世界のアルフォンスは、大人じみた印象で、声を小栗旬が充てているのにぴったりなやや甘い影がある好青年。制作サイドは色々考えてますね〜。
 まあchika的には、閉じられてしまったTVシリーズの方に肩入れしている部分が大きいので、この劇場版可もなく不可もなくってことなんですが、スピンアウトアニメでミュンヘン一揆を中心にして当時実際にあった歴史的事件や実在の人物をちりばめながら第一次大戦後のドイツに起きた深刻な不況、ユダヤ人や異民族に対する排斥機運などを描いた事には拍手を送りたいと思います。
 これを見たアニメ少年や少女達が、この映画の「パラレル」の意味を一日も早く深く理解してくれれば、もっといいんですけど。





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