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I saw a movie4 ケント。私は待ってる! |
テロリストのパラソル ひまわりの祝祭
藤原伊織 講談社文庫
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この作品、確か発表当時、「全共闘世代の自己満足だ」とかなんだとか、騒いでいたような記憶がある。が、残念な事にその頃の私は、頑固なSF愛読者でミステリィの世界には縁遠い存在だった。あの頃にこの作品を読んだなら流す涙も少しは残っていたに違いない。 テロリストのパラソルを読んだのは過日の5月の末の頃だ。気温は高いが、湿度は低く、時より涼やかな風が吹く日、電車に揺られながら、大学の構内に立て籠もった主人公達の回想シーンを読んだのだ。心は奇妙に浮き立ち、なぜだか非常に切ない気持ちになった。私はソレに少し遅れた人間だけれど、その時代を知らない人々が「全共闘の時代だったから」と一概にこの作品を括るべきものではないと思う。どんな時代背景であっても、必ずこういった心情というか、状況に落ち込んでしまう種類の若い人々は必ずいるし、いた。私自身、作中人物である桑野が言うところの「世界の悪意」も実際に存在すると思うし、負けると判っているゲームを始める心情も本当のところだと感じている。更に言えば、それらに思いを馳せる事は、懐古でも感傷でもないと思っている。むしろそういった心情に、若い人たちも大人達もピントが合わなくなってしまった現在の状況こそが病的なのだと思う。この作品では、彼らの大学時代の有り様が、数十年を経て、痛々しい程、結末に繋がっていく。肯定的に見れば「背骨のある生き方」として、否定的に見れば、逃走の為のアルコール中毒者のけじめの付け方として。 全共闘世代の自己満足と言われようが、「そこ」から始まった物語は、この作品のような展開以外には、着地のさせようがない筈だ。私は藤原伊織を応援する。ただ、浅井や塔子のような人物造形は、若干作者のご都合主義のように思える。浅井のような人物がいなければ物語が進まないのは判るが、この辺り大沢在昌の方が何枚も上手だと思う。 |
藤原伊織 講談社文庫
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登場人物の骨格は「テロリストのパラソル」と同じ。藤原伊織が読者サービスの為に意識してそうしたのだろうか?主人公は前作のアル中に対して偏食、元ボクサーに対して、射撃の名人(主人公がライフルを扱える設定に現実性を付加するために随分作者は遠回りをしたように思える。けれどその割には他のわき役達は簡単に銃器類を扱うのだが、、)。死んでしまった元恋人の娘に対して、今度は死んだ妻にそっくりなインテリ風俗嬢。(作者はこういった捻れの男女の恋愛関係が好きらしい。私もそうだけれど、、。)刑事崩れのインテリやくざ・浅井に対して、ゲイの裏家業人・原田。(前作の「浅井」もそうだったけど、原田は「こんな奴いない」の代表選手だ。) その他、前作と類似する登場人物が山と登場し活躍する。これが前作から2年後の作品だとすると、藤原伊織の強力な文章力を持ってしても小説を書くという行為は相当に難しいものなのだと思い知らされる。藤原が追いかけているテーマも結局の所、同じである。クーンツと大沢在昌と藤原伊織の「誠実」つながりと表現すればあまりも軽薄だろうか?全共闘と8枚目の「ひまわり」うーむ、、、難しいところだねぇ。 今度の方が娯楽性がやや強いか、、泣けるのは同じくらい泣けるけれど。その代わりテーマの重みへのこだわりは、藤原伊織が「なんでもギャンブルに投げ込んでしまう」手法をとった所を見るとやや薄いかなと思える、、。「ひまわりの祝祭」は直ぐに映画化出来そうだね。原田なんかは真田広之ではまり過ぎという感じ。最後の雨の中の銃撃戦や麻里と秋山のからみなどそのまんまという感じだし。それだけヴィジュアル(娯楽)面が強化されたのかな。 それにしても気になるのは、主人公・秋山の洞察力や胆力が図抜け過ぎているという事。これは一人称の語りで物語を進行させる小説の宿命かも知れないけれど、この鋭すぎる秋山を「幼児性が抜けない」主人公として規定するのは無理があるのではなかろうか。秋山がコロンボ刑事のようなボケをかますわけでもないし、、(秋山は洒落た大人の会話100連発、という感じの人物像で実際に隣にいたら、子どもじみているというより嫌みたらしい人物なんじゃないか?それに運動神経の鈍い凡人が、ヤクザと対等以上に張り合ったり、最後にはいくら射撃訓練に打ち込んだ経過があったにせよ銃撃戦をああも見事にやり遂げるのは不自然過ぎる。) それに藤原伊織を読んでいると、どうしても、又、大沢在昌の作品にだぶって来るのは何故だろう?「走しらなあかん、夜明けまで」や新宿鮫シリーズを不思議な事に思い出してしまうのだ。私にとっては、彼らが描く男と女が切なくて気持ちいいのかなぁ。なんだか酷い書評になってしまったけれど、私は決して藤原伊織が嫌いではない。彼は、私にとって、クーンツや大沢のように安心して、いつでも、熱中して、泣ける作家なのだから、、。 |
I
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監督:デイビッド・フィンチャー
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私は、この作品を映画ではなくビデオで観た。もの凄い回転率で、借り出すまで数日かかった。、、で、見終わった後の素朴な疑問。このビデオ「みんなにどう評価されるんだろう?」って事だ。特に、ブラピ人気で、あるいはTVでオンエヤーされたかっこいいCMに引っ張られてこの映画を見た人々の反応が知りたい。この作品は、感動巨編でも、見終わってスカっとするアクションものでもないのだから、、。 私の場合は「ファイトクラブって喧嘩クラブの事?そんな設定で、どんな風にストーリーを膨らませるのかしら?どうせ寸詰まりの作品よ」というのが、ファイト・クラブを見る前の思いこみだった。実際がた、作品も見ても前半は、主人公の一人語りを中心にして現代の文明批判みたいなスタンスで、彼らを取り巻く日常生活を面々と描写し続けて行ってたし(ブラッド・ピット扮するタイラー・ダーデンは現代文明のマッチョな告発者の役割で、正体不明のやんちゃ坊主という感じ)、、。 所が、物語も後半になって、「えっえー。そんな風に繋げちゃうわけー?」(結末が冒頭に繋がる構成の映画は結構あって、これもそうなんだから、映画後半の捻れは後から付け足した訳じゃないんだろうけど、、。)という展開になる。ここがツイストしてる訳。違和感を感じるほど、タイラーとジャックの関係の扱いが荒っぽい。これは意図的なのかなとも思うのだけれど、、。タイラーにブラピを持ってきた時点で、エドワード・ノートンのジャックに「片割れ」にタイラーをだぶらせるなんて無茶な事は目に見えている筈だから。ラストのヘレナ・ボナム・カーターのマーラと、ジャックが仲良く手をつなぎあって、爆破されるビル群を眺めているショットがとてもシュールでチャーミングに見えたのも、この「作為的倒錯人物配置」のお陰なんだろうけれどね、、。 もしかしたら、この映画は凄く良くできた、新世代の映画なのかも、知れない。「マトリックス」が最新技術を駆使した古典的な映画なら、この映画はキャスティングの落差で発電するエンジンを持った実験的映画といえるかも知れないね。 話は変わって、タイラーの主張は同感。でもファイトクラブは願い下げ、だって痛いのはいやだもん。それに自分を確かめる方法があれしかないなら女性はどうすんのよ?女性の場合はS○X?。ふざけんなよ。死だとか暴力だとかを語る前に、ジェンダーの事を勉強した方がいいね。 |
I
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監督:林海象
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この映画では若い頃の濱マイクこと永瀬正敏を見る事が出来る。近緒は永瀬正敏という俳優さんにそれ程魅力を感じている訳ではない。だからといって嫌いでも、どうでもいい人でもないのが不思議だ。世の中には「好き嫌い」の感情対象エリアにどういうわけか入らない人たちがいて永瀬正敏はその代表格みたいな人でもある(不思議な事に彼の奥さんである小泉今日子もそうだ) 袖擦り合うも多生の縁というが、「縁」がない人なのかも知れない。この映画の林海象もそうだ。サブカル好きな近緒には、いろいろな面で評価が高い人だと聞き及ぶのだが「ZIPANG」などを見ても「ちょっと新しい」という感じはしても響いて来るモノがなんだか薄いのである。 そんな近緒を永瀬正敏や林海象に引き寄せたのは、TV版・濱マイクそのものである(病が祟って第一BBSで毎週レポ。これはある意味、制作者サイドの狙い通りという事なんだろうけどね。)。 映画版とTV版と、どちらが好きかと問われれば、近緒は迷わずTV版の濱マイクを選ぶ。二つを並べること自体が無理という声も聞かれそうだが「濱マイク」は、作品としてTVと映画の接点ある世界のように見える。 スタイリッシュである事、懐古・先鋭いずれにしても時代に敏感である事、エンターテイメント性を大事にする事がその大きな共通項だ。 それらの共通項においてTV版の「濱マイク」により大きなパワーを感じるのだから仕方がない。そのパワーは、濱マイクの世界が林海像という枠から、TVにオンエアするというプロジェクトに移行した時点で付加されたものだろうと思う。近緒はそのパワーが好きだ。 それに永瀬正敏の濱マイクがどうみても今の方が魅力的だからでもある。若い子たちの濱マイク像は「渋い」という事らしい。確かに濱マイク・見栄えはあんなのだけど中身は「兄貴」か「伯父さん」、、下手すると「かっこいいパパ」、、になってしまっている。結構説教たれたりするんだけど表面がお調子者に描かれてるから、それが諄くならないという仕掛けでね。 その点、映画の濱マイクは色々な意味でまだ若くて尖っている。でも永瀬正敏が濱マイクに割り当てた身体の動きは今とそっくりそのままだから(TV版の方がオーバーアクションなんだけど)見ていてなんだか微笑ましい。 永瀬正敏の変化以外に映画版とTV版の差といえば、濱マイク周辺の人物設定や小道具なんかが微妙に違う。実はこの違いこそがTV版の「肝」にあたる部分ではないかと近緒は密かに思っているのだ。 先ずはマイクの愛車がNashメトロポリタンから60'sTOYOTA-クラウンへ。これは車好きの人からみれば色々な蘊蓄が披露できる程の差なんだろうけど、映像的にはベストチョイスの変更だと近緒は思う。特に車体の色とマイクが好んで着る服装が良く合ってるし。ビジュアル先行型のTVでは重要な要素な筈。 マイクが愛して止まない妹の茜、、、中島美嘉の起用か、、ちょっと考えてしまうけれど、TV版の第3話の設定みてるとなるほどなって納得してしまったりネ。 でも日劇もぎり役の千石規子婆さんから、比留間ひる(井川遥)ほどのあざとさはないけどね。「どうして井川遥で、しかも眼鏡かけてんのさ?」まあこれがTVの「あかんとこでもありええとこ」でもあるのだけれど。 なんだか今回のレビュー、TVと映画のメディア比較になっちゃいそうなので、話を映画に戻そうね。 映画の冒頭、ソフトを目深かに被ったトレンチコートの男が夜の横浜黄金町 にシルエットで登場、、、この辺りの演出が林海象チックなんでしょうね。(でも近緒これってサム・ライミ監督のダークマンを思い出すんだけど。) そして濱マイク探偵事務所を訪れたこの怪人、自分の顔を覆ったゴムマスクを外すとそこには、、って感じで話が進む訳です。この映画見てて改めて思ったのは山口智子さんって人は根性があるなぁて事ですね。 映像的には健康的なお色気なのに、こういうミステリアスな配役になるとそれが巧く屈折して絶妙のエロスを醸し出すって感じ。映画の後半で山口智子が知能障害の弟ミッキィ(永瀬正敏・二役)を工場の水槽に入れて髭をそってやりながら事に及んでしまうシーンなんかはかなりの名場面じゃなかと、、。 ん、、どうしても作品そのものに話が行きませんねぇ。これが三池崇史あたりの監督さんだったら直ぐにガツンと監督そのものに突き当たるんだけどなぁ。 えー、話はマイクが連続殺人犯の濡れ衣を山口演じる二重人格の女性に着せられたのを探偵仲間と良心的刑事(?)に助けられながら、なんとか解決するも、実は、、、って感じで、もう一度話がひっくり返るんですよね。 この辺りの展開は結構面白いと思うんだけど、宍戸錠とかナンチャンとか、だれまくりのお遊び要素を混ぜてしまうんで、テンションを絞り込めていないというか、、せっかくの話運びがあっても、それを面白く出来ないっていうのかな、、。 まあこれぐらいかな、、。折角、「濱マイク」なんて素敵な私立探偵というシンボルを、日本に一個こさえてくれたんだから、、それで充分でしょ。 PS 山口智子、手術用のラテックス手袋つけてるシーンあるし、彼女がラバーマスクをブチブチベロリンっていうシーンもあるし、そう言った意味で近緒的萌えの映画ではありましたのこころです。 |
監督:林海象
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「俺は私立探偵濱マイク、(本名だ)困った時はいつでもきなよ。」・・濱マイク誕生第一作目です。 映画としての完成度?この第一作に限らず濱マイクシリーズは総て可もなく不可もなくです。これは林海象の力量の問題でしょう。 で、人は何故、濱マイクに惹かれるのか、冷静にみてTV版濱マイクのコマーシャリズムの力が大きいでしょうね。それと私たちの中の懐古志向が強まっているという事かな。日活無国籍アクションへのオマージュプラス、スタイリッシュな映像。ねぇねぇ今の私たちには口当たりいいでしょう?って感じかな。 近緒的には濱マイク3部作の中ではこの第一作が一番スキですね。濱マイクという人物設定が一番ぎっしり詰まっているし、何よりも映画の背景に「面白くてカッコいいやつ作るぜ」みたいな勢いがある。 話の方は、「マイクのもとに以前助けた事のある台湾人のヤンが、その時傷つけられたマイクに見舞金を持ってくる。気の良いマイクは見舞金を受け取らないので、ヤンは金を受け取らせようと兄捜しを依頼した。マイクは情報屋の星野(南原清隆)とともに捜査を開始するのだが、彼は次第に、日本に帰化した外国人で組織される黒狗会と台湾マフィアとの抗争に巻き込まれていくのだった。」って感じです。 撮り方によってはVシネにぴったりの脚本と言おうか、三池監督あたりがドロドロに描いてもおかしくないんですが、、出来上がりはどうしょうもなくリリカル。 (暴力描写の中にはそれなりにハッとさせられるカットがあって、決してそういうのが撮れない監督さんじゃないのはよく判るんですが、、) でもこのリリカルさは、濱マイクの基本ベースなんですね。これはTV版にもしっかり受け継がれている見たい。イラストレターであり思想家である「ひるます」氏がTV版を見て思わず言った言葉「これは寅さん映画だ。」が、本質突いてます。 つまり濱マイクって、孤児・兄弟(妹)愛・家族探し、、守るべきもの、、という日本人が大好きだった古典的テーマを核に探偵ハードボイルドのスタイリッシュさで外側を包んだ「寅さん」映画なんですよね。 殺されたヤンの婚約者に指輪を渡してやる為に、彼らの故郷である台湾に渡る濱マイク。この時のマイクのスタイルがどう見ても「痩せた寅さん」なのには笑ってしまいます。 でもヤン兄弟を追憶して、濱マイクと共に九[イ分]から見渡す深澳灣が何故か哀しく綺麗に見えるのは、、近緒も古いタイプの人間だという事でしょうか。 PS 事務所の模様ガラスに刷り込まれてある濱マイクの英文字は「MAIKU HAMA」なんですよ。なるほどなーって、この辺りがこの監督の濱マイクへの拘りなんだと思いました。 |
I
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冒頭のちょっとキレれが入った坊やの発熱したおもちゃ遊びから、時空を超えてのコロシアムへ映画は一気にワープ!「この映画大丈夫なの?、見えない血の匂いがするわぁ、、でもゾキゾクよ。」のインパクト。 この映画、アンソニー・ホプキンスの印象が映画の進展に従ってどんどん変わっていくのが凄いのよ。この発熱坊やが登場する最初の頃なんか、アンソニーときたら、まるで古代ローマの将軍ソフビ人形そのものなのね。それが、やがて二人の宿業の因縁をむすんでしまうゴート族の女王タモラ(ジェシカ・ラング)と出会う頃には、実在の将軍もかくあったろうという峻厳さを全身から示すオーラを放つわけ。最近のアンソニーはお腹も出てるし、上背もあるわけでなく、ちんちくりんのお爺さんなんだけど、この時は大きくていかにも強そうに見えるから不思議。 これがタモラ一派の陰謀に陥れられて、本人のプライドや家族をずたずたにされ、ただの非力でどちらかというと滑稽味さえ感じさせる老人に転落していくわけ。そして最後にに復讐の鬼と化したアンソニー老は、かの「レクター教授」に変身するの。バスタブに浸かって己の血を抜き取りながら、血文字を営々と書くシーンの将軍の顔のアップは、確かにこの人ならではです。 そしてラストのコックの服装を身にまとったアンソニー。これは「彼流」に弾けまくって生き生きとしているし、「彼流」にとってもチャーミング。タモラが、自分の造った特別料理を食べているのを嬉しそうに見ている悪戯っ子の悪魔みたいなアンソニーの顔はホントにデリシャス。アンソニー・ホプキンスの魅力を堪能するなら、映画「ハンニバル」よりこちらの方が上だろうね。 まあアンソニー・ホプキンスに限らずこの映画では、一人一人の俳優さんがそれぞれの役柄の中で恐ろしく魅力的に見え、影の薄い人が一人も居ないのがホントに見事なんだ。 その中で近緒が一番お気に入りなのは、なんと言ってもタモラの愛人であるアーロン(ハリー・レニックス)。アーロンの「悪」を肯定する訳じゃないけれど、アーロン自身はもうむちゃくちゃ素敵。善悪を超えた所で輝くバイタリティというのか、濃すぎる生命力が、私達の「何か」を呼び起こさせるのだろうと思うよ。 その他、この映画は「映像美」が独特。モダンな舞台仮面劇と映画映像を旨く融合させてあるというのか、これを堪能するだけでも値打ちがあるかも知れない。(タイタスとタモラが向かい合っているシーンで、彼らの背後で炎がメラメラだったのだけは笑ってしまったけれど、後は本当に、無名だけど達者な画家が描いたルネッサンス期の油絵を何枚も何枚もみてるって感じ。) 特に将軍の娘ラヴィニア(ローラ・フレイザー)が、手首を切り落とされ、その手首に枯れ枝が突っ込まれて沼地に突っ立っているシーン。そして青空が映り込んだやや仰角で撮影された構図の中で、彼女が口を急に開けて血を吐き出す場面は本当にどきっとした。 そんな彼女の為に、少年が木製の義手をもってきてやるシーンも幻想的だったし、、、ジュリー・テイモア監督は、その時々のシーンや画像が、何を象徴として観客にインパクトを与えるかを知り尽くしている見たい。普通の監督が、こんな手法で映画を撮ったら只の甘ったるい幻想劇に終始したはずで、本編のようにどこか善悪の彼岸さえ超越したような世界を描き出す事は出来なかっただろうと思うよ。「ハンニバル」でアンソニー・ホプキンスの魅力に目覚めた人ならこの『タイタス』は絶対にお勧め! |
I
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こういう映画に感じる「私」ってホントに業が深いと思う。典型的な娼婦スタイルのティファニー(ジェニファー・テイリー)のアンダーショットから始まって、彼女がかぎ針で縫い上げるチャッキー再生のシーン、いいわぁこれ。それとかDoll同士の舌くねくねディープキスまで見せてくれたり、ティファニー人形のお尻の色っぽいことときたら。 と、まあ書いてしまうと、この映画を未見の方は、一体どんな禍々しいオカルトホラーなのかって思うかも知れないけど、大丈夫。ちょっとだけキンキィな味付けのB級ホラーだから。だって映画の冒頭に出てくる警察の保管庫の中身といったら、思わずにやりとさせられるものばかりで。「そっか、それでいくんだぁ。」ていう感じで安心してポップコーンを食べる気になれるよ。それに外国の小説を読んでいるとチャッキー・シリーズのビデオを見てる子どものシーンが良く登場してくるんだよ。結構、そういった定番の強みがあるんだろうね。けれど、この映画、隠し味もあったりする、子どもも見てるんだから、そこそこソフトな描写で寸止めしてるなあっと思わせておいて、目の覚めるようなシーンが何度か出てくるんだよね。 チャッキー・ペアの殺人行脚の移動手段に使われて、挙げ句の果ては殺人の濡れ衣まで着せられる若いペアを救いに来るゲイの友人が、出てくるんだけど、この子の死に方が、うーん、鮮やか。これは子どもが見たらきっと、非常に複雑なトラウマとして刷り込まれるんじゃないかな。(ちょっと心配。) 兎に角、人形の造形が凄く(アップした時の人形の目なんかは、人形の硬質な感じと人間の肉質を上手くミックスしてあって相当のフェチワールドを形成してる。)て、色ぽい。 それに純朴な花嫁人形が、自分で化粧してビッチ風になったり、ティファニー人形が、捕らえたカップルの女の子にケバ目の化粧をしてやったり、、。これは、そういう趣味の理解者が制作サイドに、どこかに強力に噛んでるよ、絶対。この映画、ホントにお馬鹿だけど、ビジュアル的には近緒の最大級のおすすめです。 |
I
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監督:大島 渚
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御法度、、、。 なんと言ってもあの大島渚監督作品なのである。たまたまTVで、映画「御法度」撮影風景のレポートがあり大島監督を見た。脚を引きずっていた、、もう老人の身体だ。当たり前だけど、、。人は老いる。表現者であっても老いる。枯れることによって美しさが増す「表現」もある。だがそうでない表現も確かにある。ホモセクシュアルのテーマは、「表現」として、モラルの問題を越えて、難しいものを内包していると思う。 「御法度」は、幕末の京都で市中警護の任務に当たった新選組の内部が舞台。大島監督は、こういった閉じられた設定(お判りだと思うが、空間を指している訳ではない。そう感じ取れない人には、大島監督が提示する世界を閉じられていると思えないかも知れないが。)が好きみたいだ。 「御法度」と呼ばれる鉄の規律で自縛された男たちの集団が、1人の美少年の入隊によって揺らいでいく。 歴史小説に登場するような新選組の活躍も、幕末の混乱した世相もほとんどでてこない。人斬りを仕事とする新選組の男たちが、同性愛のエロティシズムに身をゆだね、焦げ臭い匂いを放ちながら、狂い、嫉妬と疑心暗鬼に囚われる。 屋敷や道場などの舞台装置装飾も凝っているらしいが、門外漢の私には、そのあたりの「値打ち」はピンとこない。ただ映画の終盤の、「河原」は確かに効果的だったと思う。 濃密な霧は、演劇の舞台装置では、スモークやドライアイスのお世話になるが、そのいかがわしさを、わざわざ今回、映画に持ち込んだのは、この映画を昇華させるに当たって実に効果的だったと思う。あの場面が、あったから桜の木を切ったビートたけしが「みえをきる」ように決まった。 それと今度のたけしは、どことなく今までの「たけし」と違ったような気がする。土方の独白という形で映画が進む関係上、「たけし」は内面を語らざるを得ない。これは、今までの、「寡黙さ」で内なる狂気や純朴を見せた俳優「ビートたけし」のつくりではない。しかしこれも結構、危なげなく観れた。 さて話は、衆道・ホモセクシュアル・ゲイに移るべきか、、。勿論、加納惣三郎(松田龍平)についても語らねばならない。宣伝では龍平が飛び抜けた美少年であるかのように煽るが、美形ぶりでは同年代の少年で、いくらでも彼を上回る者が多くいるに違いない。 松田龍平が、照明や撮影角度で少女のような美貌に見える事もあるが、彼のベースはどちらかというと骨太の男ぽい顔立ちだろう。それがどんどんエロチックになって行く。(上映中、角度によって彼の父親の面影と母親のそれが交錯して見えるのも、とてもドキドキさせられる体験だ。) 夜道で監察の山崎蒸を誘惑するあたり、龍平扮する加納惣三郎は女を詰め込んだ男になっていた。考えてみると「御法度」が本道の「ゲイムービー」なら龍平はミスキャストであったろうし、日本古来の土壌にある「衆道」だからこそ年若き龍平がはまったのかも知れない。大島渚は、、「制度の中のエロス」をまだ撮れる。大島渚はまだ枯れてはいない。 参考リンク「御法度草子」同人系御法度ファンページです。考察も含めて素晴らしい内容です。映画「御法度」に興味を持たれた方は、訪れて損のないサイトだと思います。 |
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ぼくのバラ色の人生
ma vie en Rose
監督:アラン・ベルリネール
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映画冒頭シーン、「女性のドレスのジッパーを上げる、上げる。嗅ぐ、キッスする、履く、飾る」が繰り返し映し出される。人生の中の日常的な様々な楽しみ。渾然としているけれどそんな細々した楽しみにさえ「男」や「女」の役割がある。 時々それが捻れたり、反転したり、昇華すると文化や芸術のレベルになるものや、フェチという個人領域になったりもする。 アラン・ベルリネールという人は、そういう感覚(知覚)を既に持っているのだろう。恐らくこの映画の冒頭で、送られて来る信号はそういったジェンダーに関するものだ。 その信号を受けてある人は「豊かな生活」の匂いを、ある人は「エロチックな感情」を、ある人は「これから起こる、甘美だけれど逃げられない惨劇」を予測する。 引っ越して来た少年リュドヴィック(7歳)とジェローム少年との出会い。リュドヴィック少年の「女の子になったら結婚するの。」という言葉に、まだ彼がジェンダーを確定していない(されていない)年代にいる事と、すでに彼の内部では彼の「本質」が顕在化する事が集約されている。 映画は始めファンタジー仕立てで、後はジェンダーの問題にどんどん傾斜していく。 「男か女かは神様が決める。僕の場合はX(染色体)が落ちちゃたんだよ。」という幼い言葉に「アンタは家族を破滅させるつもり」と口走らざるを得ない彼の母親。 ゲイ・レズ、ホモセクシュアルに関する理解は社会一般に高まっているという幻想があるが、国や地域のそれぞれの温度差を差し引いても、それは幻想だろう。個人はそれを理解しても「社会」はそれを理解しない(迫害する)事で成り立っているのだから。 この映画、一気に「底」まで行かないで、途中で何度か「息抜き」をさせてくれるのは、監督の粋な計らいというものだろうか。(そういえば、おばあちゃん役のエレーヌ・ヴァンサンは安全弁の役割なんだろうね。最後にリュドヴィック少年を反転させたような少女を引っ越し先の隣家に配置するのはちょっとやりすぎだけど、、そこまでしないとバランスが取れない「重さ」なのかも知れないね。) 映画の結末は「男の子の服を着るよ」と言うリュドヴィックに、「お前の好きに」と答え、「私たちの大事な息子」と抱きしめる両親で括られている。又、監督は映画の中で、リュドヴィックが通うことになった精神科医には「あなたが大人になったら、あなたが思っている事を周りの人々に判るように喋れるようになるわ。」とさり気なく語らせている。 さぁ、、どうなんだろう。大人になったリュドヴィック少年は「言葉」を持てただろうか。 『マ・ヴィ・アン・ローズ』人生がバラ色、、、、、。 追記 ホント、久しぶりに真顔で語らなくちゃ、という気分で。 この映画、沢山の人々に見て欲しいと思う。特に「共感する側」の立場ではない人々にだ。お父さん。お母さん。家族、隣人たちに。安っぽいヒューマニズムと切り捨てないで欲しい。せめて「しょうがない奴」程度でもいい。違いを認める事をしてやって欲しい。 迷惑だ。汚れる。不潔。とか勝手な思いこみはやめて欲しい。「私たちがどんな悪いことをしたの。」「そういうあんたらはどの程度の人間なんだ。」「人数が多いという事であんたらの優位性は保たれているに過ぎない。」と、そんな風にこの映画は声を荒げている訳ではない。 むしろ複雑すぎる価値観が混じり込む事のない少年時代の頑固さをかりて、我々のすったもんだを描いているのだ。だからこそ説得力が有るはず。 私は、男が女を愛せない事、女が男を愛せない事は、生物学上逸脱している事だと思っている。それは「歪」なのだ。でも、もう人間は単純な「生物学上の生き物」でいられる幸せな時代をとっくの昔に失っていると思ってる。 私たちは「エデンの園」から追放されて久しいのだから、この地で上手く生きていく方が大事なのだ。ジェンダーフリーを目指すことが上手く生きていく事に繋がるのか、私には大きな理屈は判らない。 でも一つだけはっきりしていることがある。人は一人ひとり「違う」という事、「排除・攻撃」は人の権利を侵害するものに向けられるべきであって、個人個人の価値観に照らし合わせて行われるものではないという事だ。 ここまでつき合ってくれたあなたなら、「ぼくのバラ色の人生」を宣伝しようね。 |
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富江
監督:及川 中
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「富江」を遅ればせながらにして見た。なにやら「ジャパンホラームービー」に勢いを感じ始めた今日この頃だからである。・・・・・菅野美穂は「意外と凄い」という話は以前から聞いていた。可愛い系の顔をして、どちらかというと「サイコ」な役割をよくこなす。その落差が快感という訳だ。最近の若手の俳優さんで「演技派」なんて呼べる人はいないんじゃないかと思う。今は、自分の中の「何か」を(隠された内面という意味ではない、そんな風に見えてしまう、表情とか息とか間合いとかで表される総合物だ)引っぱり出せる人が、俳優さんになるみたい。菅野美保は、そういう意味で得難いものを持っていると思う。だってあの顔は、幼女というか、ほぼ、小学校の中学年ぐらいに多く見られる少女顔であり、あの唇からきつい言葉が飛びだすだけで、マゾ男性なんかは昇天してしまうのじゃないかな? まあ、映画自体の出来は、ファーストシーンの「紙袋が破れ、その裂け目から、、。」やった、やるじゃない。と思わせてくれたけれど、全編を通じて少しテンション自体は低いように思えた。 「バスケットケース」を思わせるシーンから「いっきにグロになだれ込む」のかと思えば、今風、若者の日常がつらつら映し出され、背景に女性同士の虚々実々を塗り込んでみたり、うーん、一気に「ホラー」映画にならないんだなぁこれが、、。田口トモロヲは、かわいそうに「わざとらしい癖のある刑事」を振り当てられてしまうし、、。唯一、あの刑事に「富江に会いたい」というせりふを吐かせたのは納得できたけれど、、最後の「あなたは私、私はあなたの」落とし方も異議ありだね。同じなら、CUREくらいの「わけわからん」ぶりにして欲しかった。まあ、菅野美保あっての映画「富江」ですね。ちなみに私は、原作になった伊藤潤ニの漫画を全然読んでいない。ブームとしては、こちらみたいだけど、、。女性向きのホラー漫画には、なにか体質的に受け付けないものがあるんだよね。でも今、旬という限りには何かがあるのだろうと思う。今度一度読んでみようと思っている。 |
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『エコエコアザラク』
監督:佐藤嗣麻子
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菅野美穂を追いかけて彼女のサイコ女優の原点作品まで見ちゃった。しかし、つくづく「なんなの〜この子」って思っちゃいますね。 のっけから赤フードの下から覗く菅野美穂の赤ちゃん唇。映画の前半は、繁華街を何者かから逃げようと息を切らしながら走る女性の上に鉄骨が落ち、彼女の頭を潰すシーンと、高木澪のレズシーンしか観るものがない。 (ビデオで時代を遡っているのだから、その当時、エコエコの前半でもかなり見せた「映画」なのかも知れないが、2000年半ばを過ぎた現時点では、半分「眠い」としか言いようがない。第一「映画」を見るためのこのビデオを見てる訳ではないのだ。) それにしてもこの映画のターゲット層は、何処に焦点を当てているんだろう?(勿論男性だろうね。至る所にエッチ心を擽るシーンがあるから)。「ホラーはエッチ」に決まっているんだしぃ。 まっいいか。でも監督が女性だという事で(トイレで髪の毛をときあったりするシーンとか唇や舌のアップシーン)がやけに克明に写し出されていると理解していいのかしらん。 高木澪のレズシーンとは別個に、そういった女の子同士の濃厚なムードが映画のベースになってるものね。菅野美穂が不思議と又、そういう世界に綺麗に嵌るのね。それで映画の最後、菅野美穂パワー全開になると「やっぱ凄いわ、この子」です。一気に目が覚めちゃいました。私、「菅野」フリークになっちゃいそうです。 追記 もし『エコエコアザラク』が初めてなら、この映画の主役は、黒井ミサ演じる吉野公佳です。くれぐれも誤解なきように。 |
I
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富江replay・スクリーム3
監督:光石冨土朗
監督:ウェス・クレイヴン
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実は、恥ずかしながらスクリーム3を見ちゃった(当然1、2もだけど)。主演のネーヴ・キャンベルに惹かれてなのよね。あの泣き目というのかあの目元のせいだ。それに髪の分け目(特に3)、変なフェチだよね、でもあの分け目は全然外人女優ぽくない。日本人女性の素人ぽい感じ、その癖、顔は目と眉の間なんて完全外人顔だもんね。ネーヴ・キャンヴェルのブスさ加減が1作ごとにバージョンアップしてるという噂もあるけど、それが悪いか?あの娘はねぇ、いたく「レズ心」を刺激するのよ。 映画評はうーむ、、こんなのは楽しめば良いわけだし、、でも、スクリーム3を棚に上げて「富江リプレイ」はないか。リプレイで思い出したシドニー(ネーヴ・キャンベル)はエイリアンシリーズのリプリーに設定が似ていない?強いもんねー。(無理語呂でゴメン) 富江でやっぱ見せ所は、裂け目から見える富江の瞳でしょう。まあ一作目の、富江が日常へ侵入してくる怖さを旨く表現した秀逸シーンには及ばないもののまあreplayも合格でしょう。 ところで映画の冒頭で武史が富江を受話器で殴り殺したり、死体を弓鋸で解体するシーンは、かなり現実では残酷・非道・異常行為としてのレベル値が下がって来ていますよね。 大体恐怖映画では撲殺されるのは象徴的に体力のない女性(綺麗なというのはエンターティンメントとしてのおまけだけれど・・ホントは違うか、、。)で、怖いのはこの富江が復活するという事でしょうね。 増殖した富江が、元株富江の首を「あんたみたいな汚い子は」って言いながら燃やすシーンは新攻撃パターンだと思った。でも何だね、「怖い」系は必ず「女性」だね。思春期の少女の精神アンバランスと共鳴するのか富江って感じ。でもこれは絶対「3」狙いだね。でも同じやるならスクリーム3見たいに一応、旨くまとめて終わって欲しいな。富江じゃ「寅さん」シリーズみたいにゃいかないだろうしね。でも「死なない」んだから永遠に続いちゃったりして、、。 |
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ずらりと書籍が並べられた書架からどの本を手に取るか?好きなテーマ・ジャンルで選ぶ。その時々の話題本を読む。好きな作家を辿って作品を選ぶ。まあ、映画でも似たようなものかな。 私の場合この映画は「ネーブ・キャンベル」目当て。それに「ワールド・イズ・ノット・イナフ」で特異なボンドガールを見せてくれた(かってこれほどまでロリ顔のボンドガールがいただろうか。)デニース・リチャーズとペアなんて、うーんお得。ビデオは劇場映画と違って、過去に遡れると言う点では優位性があるね、それに簡易性があるし、ある意味文庫本の世界だから。 それにしてもネーブ・キャンベルの背中は広いねえ、(肩幅じゃなくて背中)「スクリーム」の頃から広いと思って多けど「ワイルドシングス」では濡れ場が多いんでかなりしっかり確認できた。ネーブ・キャンベルはデカ女なのに「細い」イメージがある。そのアンバランスが好きなんだけど。一方のデニース・リチャーズはこの時28歳なんだって、全然高校生の役割に違和感がない、やっぱ凄いわ、この人も。 映画の初めの頃は、このデニース・リチャーズの魅力とマット・ディロンの美男子振りを充分堪能するのがグッド。まばゆい陽光降り注ぐフロリダ州、美しく広がる海と、国立公園に指定されている野生のアリゲーターの棲む沼。マット・ディロンの野心的で満ち足りた生活とデニース・リチャーズの小悪魔的な魅力、まるでプールサイドの寝椅子で女の子達を眺めてる感じ、、。 で話の方は、このマット・ディロンが扮する高校生カウンセラーがデニース・リチャーズにレイプで訴えられ社会的生命を賭けてちょっと胡散臭い弁護士ビル・マーレーとともに法廷で戦い始める。 普通の映画なら、これに枝葉をつけて2時間あまりを消化するのだろうけど、「ワイルドシングス」の場合は、ネーブ・キャンベル扮する不良高校生が法廷でビル・マーレーに問いつめらて一気にこの容疑は解決しちゃうわけ。 後は訴訟の国アメリカらしく、マット・ディロンに対する莫大な示談金を巡って、どんでん返しにつぐどんでんで一気にエンドロールまで突っ走るという次第。 私などは、ドンデンの回数でこの映画勝負してるんだと気づいた時点で、刑事役のケビン・ベーコンとマット・ディロンが実はホモ関係で、最後は彼らが裸で抱き合って終わりじゃないかって願望含みで推理してたんだけど、、。 正直言ってびっくりしましたよ、結末には、、。この映画、エンドマークが出てから種明かしが出てくるので有名だけど、、あれ見てからもしつこくストーリーの整合性を考えたりして。 まっ、この映画、そういう楽しみかたするもんじゃないんだけどね、、。エロチックサスペンスの王道ですよ。楽しんで。 |
I
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アメリカン・ヒストリーX
監督:トニー・ケイ
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トニー・ケイ監督が紡ぎ出すスローの場面が実に雄弁。他の映画に見られるような「雰囲気」を出すための仕掛けじゃない。 オープニングからしてそうだけれど、、たとえばデレク(エドワード・ノートン)に扇動され、店を襲撃に出かける男たちが顔を隠す為に被るストッキング。このたった一枚の布が、プアホワイト達の、何処か魂の翳った表情が怪物じみたものに変貌していくシーンを見事に描き出している。 そのほか水・ミルク・水辺、流れていくものの描写が巧み。監獄からの出所後、全てを精算しようとするデレクの心象風景を表すような、我が家でのシャワーシーンのカット。 そしてそれは次の、鏡に映った己の胸に刻まれた決して消えることのないナチスドイツの鉤十字のカットに繋がり、デレクの入れ墨が過去には「輝き」、今は「後悔の刻印」となった事を明確に表していく。 又、デレクが弟のダニー(エドワード・ファーロング)と一緒に、部屋の壁から鉤十字の旗やポスターを派がしていくさりげないシーンも、ここに至るまでの物語の展開を受けて、たたみかけるような説得力を持っている。 この映画、映像の力も凄いが、脚本も、人種や宗教・信条を理由にした犯罪「ヘイト・クライム(憎悪犯罪)」を扱ったものとしてかなり秀逸なのではないだろうか。 「私も君と同類だよ。怒りをためて生きてきた。だが答えはない。怒りは君を幸せにしたか。」の言葉についに突き崩されるデレクの心。そしてそこに至る過程の描き込み。 正直に言って映画の後半、デレクが監獄で己の心を取り戻していくシーン(あるいは出所後のデレク)よりは、前半のネオナチのリーダーである彼のほうが魅力たっぷりに(映画的に)描かれていると思う。 特に黒人達を殺した後、警官達に逮捕されながらも不敵な笑いを浮かべ頭のうしろで手を組むデレクの姿は、ある種の神々しささえ感じさせる撮り方をしている。これは兄の中に、人間の正常な価値判断を超越した所にある「力」を見いだし、それに魅入られてしまった弟ダニーの心の描写でもあるのだろう。 だが、これらの「否定すべき過去が魅力的」であり「肯定すべき現在が色褪せて見える」この映画の設定は、「本当の結末」に向かってのあくまでも伏線なのだ。 この映画の衝撃の結末については「アメリカン・ヒストリーX」をまだ見ぬ人の為にとって置こう。 映画にはネタバレというタブーがあるが、これこそ本当に先に知ってはいけない結末だろうと思う。結末の数秒のシーンは、あなたがその目で確かめるべきなのだ。 だが、これだけは書いておこう。「怒りにまかせるには人生は短すぎる。」 PS Wエドワードの演技と魅力が満載の映画でもある。可憐で危険、時には成熟した女性のようにさえみえるエドワード・ファーロング。演技によって、どんな「男」にでもなれるエドワード・ノートン、凄い、、、。 |
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近緒が今一番行きたい「海外」がベトナム。中でも古都ハノイ。勿論文学ミーハーな近緒は田口ランディあたりの旅行紀行文に毒されているし、身近な女の子達の「ベトナムいいよ〜。」の言葉にも煽られての話なんだけど。 そんな私が先日、元ちはるのCDを買いに行ったついでに目に留めたのがこの作品、タイ映画の「69」を見ているので、内容には期待せず観光映画代わりになればいいやって感じでレンタルしたんだけれど、、。 トラン・アン・ユン監督って注目株の人だったんですね。近緒って無学です、、。映像の綺麗なこと、綺麗なこと。ため息がでますよ。近緒絶対保証します。それに静謐さの中に立ちこめるむせ返るような官能の匂い。凄くいい、、。 クレジットを調べていくと撮影が『花様年華』のリー・ピンビン。『花様年華』が室内や夜の町を美しさを中心にしてたから、今度の「真夏の陽光と水とグリーン」に結びつかなかったんだけれど、、今となっては深く納得。 彼を“アジア人の肌を美しく撮ることが出来る”という理由で起用したとのことだけれどこれも激しく同意いたします、、。 「肌」も勿論だけれどここに登場する三姉妹の黒髪の美しい事と言ったら夢のよう、、「茶髪」なんて、こんな美しさのエントリー権放棄してホント私たちって馬鹿だと思う。 (かなわないから放棄したのかなぁ、、。確かに彼女たちって(鴉の濡れ羽色)をしてるのに、ちっとも「重い」感じがしない。取り立てて小顔って訳でもないのにね。結局「たたずまい」の問題なんだよね。) 「たたずまい」という言葉の中で思い出したんだけど、この映画の主なエピソードは単純に言って夫婦間にある「不倫」なんですよね。 でもそれが話の展開として、悲劇的な大破滅に向かって行くわけでも、感動的な再生の結末を迎えるわけでもない。 ベトナムでは夫婦は決して子供の前で喧嘩しないという教育がされていて(かっての日本だってそうだった筈)夫婦の醜い争いを見せないようにする「気使い」が残っているとの事。 それは単純に言って「物事を荒立てない」という事なんだけれど、今の私たちって、その事を軽視しすぎているなってこの映画を見て強く思った。 他人同士の関係だったら「事なかれ主義だし、まぁまぁ」って感じなのに「夫婦、家族」になると何故か「我慢」しないんだよね。そんなに荒立てて抉り込むようにして相手を暴いた所でなんにも残らないのに、そうするのが現代的って感じのノリだもんね。結婚を一種の契約とする西洋的な考え方が強くなってきているのかな。「夫を立てて献身的な愛」なんて言おうものなら張り倒されそう。この作品で描かれているのはそれとは違う男と女の「愛」なんだけれどね。 物語の立ち上がりは、三姉妹の母親の命日の酒宴で明かされた母の秘めた初恋の話から始まる。愛し愛されて続けていた貞節な理想の夫婦像を両親に見ていた三姉妹は、母が父以外の男性に抱いていたという恋心に戸惑いを覚えていくのだが、それはやがて彼女たちの実生活と重なりはじめ、、。 そんな感じの話なんだよね。でこの物語は大した修羅場も起こらず、一ヶ月遅れで死んだ三姉妹の父親の命日の準備に出かける末娘の姿でその幕を閉じるわけ。 映画のテーマとしての答えは、この映画のはじめ辺りで三姉妹が母親の初恋の事を詮索するのはよそうと決めた時に既に出されているのね。 でも映画は長女の不倫(壁に残った女の素足の足形の描写は凄くエロチック、W字に大股開いてパンパングジュグジュっていう撮影しなくて、充分なんだよね。凄い。)やなにやら暗示的な三女の実兄との疑似恋愛を、どんどん写していくわけ。 すごく大乗仏教的というのか、、う〜ん、、良いわトラン・アン・ユン。 PS これは凄い映画かなって思ってるんだけど、一カ所だけズッコケル部分があるのよね。それは三女がコイビトとのセックスの二週間目に「妊娠しちゃった。私未婚の母になる自信あるわよ。」と、上の姉たちに打ち明ける場面。上の二組の夫婦の危機をかなりドロドロと描き込んで来たあとだけに、こんな三女のネンネ振りに絡むシーンが許されていいのかって感じ。 でもこのシーンのお陰でこの映画は振り出しのトーンに戻れるわけで、余計なシーンでもないのよね。うーん、、ベトナム女性の性意識ってこんななのかなぁ、、。確かに三姉妹が料理に使う鳥の肌の表面を整えているシーン(凄く綺麗なカットだよ、それに官能的)での会話だとかを聞いていると、一端貞操を開いた男性に対するセックスはかなり深いけれど、そこに行き着くまでは、まだまだ強い道徳観(?)が働いているみたいに思えるし、、。 |
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監督:三池崇史
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今から見るとこの映画「天国から来た男」のプロトタイプのようにも思える。ロケーションとしては中国は雲南省、、日本文化の源流。一応、流行のライフスタイルで装ってはいるが自分自身がちんけなバイヤーに過ぎないことを自覚している和田と、典型的な成り上がりやくざの氏家のロードムービー部分が楽しい。 和田と氏家が辿り着いた中国の秘境の村には、鳥人になる為の学校があって、そこには生徒と燕先生(王麗惣)がいる。 和田が日本に帰ってからのモノローグで繰り返される「こんな何の変哲もない人生の中で、心が震えるような体験が出来た事、そしてそれに立ち戻れる事を本当に有り難く思う。」という言葉、、、、「心が震えるような」三池作品の中ではそれこそが非常に重要な要素であり続けて来たのではないかと思う。 |
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監督:イ・チャンドン
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「巻き戻し」の一番最後の章で、主人公キムの初恋の人が「ペパーミントキャンディ、好きになろうとしてます。工場で一日1000個包んでいるから。」と言った時、思わずドキッとしちゃった近緒です。 「巻き戻し」つまりこの映画の、時間を遡って行く手法について「感動が削がれるからだめだ」と見当違いを得意そうに言う人がいます。 例えばイ・チャンドン監督が、常識的な映画作りに従って、キムを二十歳の頃から時系列で追いかけていたなら、初恋の人との病床での再会の場面だとか、人生を放棄して自殺する主人公の苦しみの場面がもっと感動的に見られただろうに、というのですね。 でもそんな事をしていたらこの映画は只の凡百の一本にしかならなかったでしょうね。まあ「銭とってんだから、俺を臭い話で泣かしてくれ」という人には不向きな映画である事には間違いないでしょうが。 これぐらい、監督自身が見せたい「もの」を計算づくで見せた作品も珍しいんじゃないかと。この映画の愉しみ方としたら、キムと一緒に自分自身を振り返っていくという普通の見方も当然ありますが、「手繰り寄せる、掘り当てる」推理小説みたいなドライブ感も一方ではありますね。 なんで主人公が妻の「祈り」に耐えきれないのかとか、なんで唐突に「足」を引きずるのか?そんな疑問をキーにしながら一つ前の過去に遡るとそれらの「説明」がなされると同時に、キムの人生がより深く見えていく。その展開が実に上手い。 主人公が死んでしまってから謎解き的に過去に遡るのは、ヴィム・ヴェンダース監督の「ミリオンダラー・ホテル」もそうなんだけど、遡っていく事によって生じる物語のリーダリビティはこちらの方がずっと凄い。 時間軸を逆に辿るだけなら簡単に作れそうだけれど、その構造に会わせて、最後の最後にきっちり作品の「核」を見せる為には、練り上げられた脚本、映像構成、役者の演技力が不可欠なんですよね。 一度見て下さい。映画の前半では、どうかなーって感じ(初めの主人公の設定がセコ過ぎて、「あっ、そうだったら早く死ねば」の人物像、実はこれ自身が仕掛けなんだけどね。)ですが、そのうち引き込まれますよ。 そしてその間中、キムの歴史に自分の人生を重ねる事になる。見ている時に「感動」がドカーンと押し寄せるのではなく、見終わってから、心の中で膨らんでいく作品です。 PS まあ敢えておちゃらけを書くなら、兵役にとられたキムが、自分が逃がしてやる積もりだった女子高校生を誤射して殺してしまうシーン、、あれって銃口が明後日の方向を向いていて当たるはずないのにって感じだったって事が残念かな。映画はこういう小さなディテールで興ざめになるから怖いですね。 それとソル・ギョング演じる二十代のキムが、年喰った田中星児に見える事。まあこればっかりはしかたないけどね。 |
ドクター・ハンナ
戸梶圭太
徳間書店
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本を買い込む時や、ビデオをレンタルする時は結構あれこれ迷う質だけど、書店でこの本を見た時は、即GETした。 もちろん、戸梶圭太に限って「名作」の筈がない。近緒の中の黄色から赤色へのグラデーションは村上春樹・村上龍・戸梶圭太・牧野修の順番になっていて、フェチ部分は牧野、スプラッタは戸梶の役割になっている。 戸梶圭太との出会いは「溺れる魚」だ。「溺れる」も後半に向かって加速されるドタバタスプラッタのドライブ感に酔いしれたものだが、「ドクター・ハンナ」壷である。 「溺れる」でも狂った奴らが多数登場したけれど、どの人物にも数滴ばかり「正常」が誑し込んである。それが読者のインモラルに対する免罪符となると共に、スイカに塩みたいな役割も同時に果たす。 だからドクターハンナこと石月畔奈が自分に憑依する兄の幽霊に改心させられるくだりで、多くの読者は「えー」と半分不満げな声を上げるのである。 もちろん戸梶はそのあたりを十分に理解しており、ハンナは決して改心などしないのである。 一つの小説は、ミクロの部分では作家そのものの肉体的な感覚、そしてマクロでは世界観が反映される。最近の流行の表現では、どちらかというとこの「肉体的な感覚」の重要度があがって来ているような気がしている。 例えば本編の主人公であるハンナは、その人物造形の異常性のせいで気が付きにくいだろうが、結局の所「男側から見た都合のいい女性像」に過ぎないし、そのディテールは男の肉体的な感覚から練り上げられたものだ。 簡単に言ってしまえば、ドクター・ハンナは男の「風俗SM嬢」と「女医」に対する肉体的な妄想領域を少し拡大した人形に過ぎない。 このあたりの仕組みは、外科手術者と鬼畜系のコミック作家の共通性を論ずる石月畔奈と手術助手の会話でも少しばかり読みとる事ができる。 解剖された綺麗な内蔵器官の固まりを見て、それに吸い込まれるような感覚も、目を閉じそれを遮断しようとする感覚も、根元的には同じものであり、それが脳内で拡大され次のアクションに移行する領域から、個々の感受性の差になって行くのだろう。 この感覚のイマジネーションによる拡大を文章表現で行ったものがスプラッタ・ホラーである。 戸梶はこの手法をすばらしくよく理解していて、しかも現代風にアレンジし疾走するような文章リズムを附加できるのだと思う。 そして村上龍ならこの手のものを書けば、そこに必ずなにがしかの「意味」を付加しようとするが戸梶はそれをしない。「娯楽」に徹するのである。それが戸梶の作品をクールに見せるのだろう。 PS 戸梶は「娯楽」に徹している。が、作家として他の要素に踏み替えをする可能性があるような気もする。それは本編で近緒が気に入っている2番目の人物(一番はもちろんハンナだ)藤井満醐郎老人だ。戸梶の満醐郎老人の描写については、何か違う作者なりの思い入れがあるような気がしてならない。特に満醐郎老人のハンナに対する欲情が、他の登場人物達に比べて「見えない」ような書き方になっている。 それは作家戸梶圭太があえて己のクールさを保つ為に切り捨てた部分なのかどうか、、、この人、いつか大きく化ける人かも知れない。 PS 本作品は週刊『アサヒ芸能』って雑誌に連載されていたらしい。中年オヤジ御用達の雑誌なんぞ触った事もないけれど、その匂いは判る。本書に挿入されている女達の写真は戸梶圭太が撮ったものだという。戸梶圭太の男達に向けたニヤリ笑いの表情が目に見えるようだ。
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海馬 脳は疲れない
糸井重里 池谷裕二
朝日出版社
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『働かないで億万長者になれる本』みたいな本が好きだ。そういう本って題名を読むだけでわくわくするじゃない?「もしかしたら本当にそんな方法がこの世界のどこかの片隅には存在するんじゃないか?」って感じは法螺半分としても決して「わるく」ない。楽しい。で読むと「しょーむな〜っ」って事になって、夢がなくなっちゃうから絶対読まないんだけどね。
なぜこんな話を本書の冒頭に引っ張って来るかと言うと『働かないで』本の持つ「夢」のニュアンスが、本書の読後感のストライクゾーンに含まれているから。 PS やっぱり池谷さんて頭良過ぎ!!試験問題を見てから、そこに含まれている公式を割り出して「答え」を出すだとか、、、九九が覚えられないから「九かける八」を「九〇から九を二回を引くと七二ってだします。」とかね。それをかなり長い間、他の人もやっているものだと思いこんでいたとかね。普通じゃない。糸井さんにならんでとてもチャーミングじゃない? |
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最近、改めてテレビによる映画の宣伝って「どうなんだろう?」って強く思う。「ロード・オブ・ザ・リング」なんかは全然問題ないんだけど、北野武監督の「座頭市」とか、今回のタランティーノ監督作品「キル・ビル」なんかは、TVの印象で劇場に足を運んだ人なんて相当、肩透かしを食った感覚を持っているんじゃないかしら。 TVじゃ2作とも超1級品の娯楽大作みたく粉飾しまくっているんだけれど、実体は両監督の嗜好に共鳴できる人でないと、これらの映画は本当の意味で「娯楽」たりえないんだから、観客に対しては罪作りだと思うんだよね。 まあその話はさておいて「キル・ビル」、相変わらずやってますね〜、タランティーノ監督。この人、本当に「映画」を愛してるんだと思う。でも「日本刀」に近づき過ぎたかもです。いくら他界した深作欣二監督に捧げたと言っても、「日本刀」世界にタランティーノ節を突っ込むのは無理があったんじゃないかと思うね。サニー千葉と大葉健二のかけ合いなんかもタランティーノ映画にいつも登場する悪党同士のそれの置き換え版なんだろうけど、この日本人二人はただ怒鳴りあっているだけで、も一つシックリこないし。 |
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監督:サム・メンデス
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なんと言ってもカメラマンのコンラッド・L・ホールが生み出す映像美が素晴らしい。名前は忘れたけれど、アメリカの画家に、透明度の高い陰影のくっきりした田舎の風景を好んで描く作家がいたっけ。「豊穣の中の空虚」って印象があったけど、この映画美もそれに近いな。 話の方は、殺し屋マイク・サリヴァン(トム・ハンクス)とその息子の関係や、マイクの義理の父親とも言える組織ボス・ルーニー(ポール・ニューマン)との絡みで展開するわけだけど、誰でも先が読める程度、、でもさすがにこの二人の俳優が演じると、観客を飽きさせない。 吃驚させられるのはこの映画の三大クレジットの内の一人、ジュード・ロウだ。ジュード・ロウがいつ、どんな形でスクリーンに登場するのか?って感じで待っていた近緒にとって、彼の登場はちょっと衝撃的だった。 (特にジュード・ロウが被っていた帽子を脱いだ瞬間、彼の前頭部分が禿げ上がっているのが見えて、えぇウソ〜っ!!って感じ。) 死体写真マニアにして殺し屋という設定もさる事ながら、微妙に壊れた風体が、彼の美貌との落差を含んで病的な不気味さをよく表しているんだよね。 三大スターを配して、若いジュード・ロウだけがこういう役割というのが粋と言えば粋。(「どうだい俺ってどんな役でもこなせるだろう」っていう部分がちょっとヒート気味だけど、確かにジュード・ロウって凄いと思う。) そして、余り騒がれていないようだけど、父親に愛されているのかどうか今一つ自信がない息子・マイケルを演じるタイラー・ホークリンも巧い。 中性的な年代からもうすぐ男になろうとする微妙な年頃って(近緒には別の意味で涎物なんだけど)、脚本書いてても父子愛を一番描きやすい所なんだろうな。 主人公がジュード・ロウの殺し屋に肩を撃たれて、逃亡先に転がり込んだ農家の主婦から「父親思いの子だよ。でもあんたそれに気づいていないだろう。」と指摘されてからの、この親子の関係の密度が一気に跳ね上がるんだけど、タイラー・ホークリンの演技が変にベタベタしていないから、かえって胸にぐっとくるものがあるのだ。 (名子役ハーレイ・ジョエル・オスメントのまったく逆のベクトルにいるって感じ) 落ち着きのある綺麗なものを観たい時にはこの映画をどうぞ。感動巨編って訳じゃないけどね、、、。 |
アバラット
クライヴ・バーカー
池 央耿 訳
ソニー・マガジンズ
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昔ぞっこんだった才能溢れる男に、久しぶりに街角で出逢って暫く話している内、今は墜ちてしまった彼の「力」に気付いて情けなくなってしまう、、、。まあそんな感じ。 「アバラット」が、ハリーポッター人気便乗で続々と翻訳されたジュブナイル・ファンタジーの一冊だとすればこんな落胆もないのだが、バーカーに「血の本」シリーズで読む事の「快楽」を教えてもらい、「ウィーヴ・ワールド」で霊魂の肉体離脱の味をしめた近緒にとっては、「アバラット」は正に裏切り行為のように思えるのだ。 バーカーが血の本シリーズから「ウィーヴ・ワールド」に移行した時も「裏切られた」という感覚はあったけれど「ウィーヴ・ワールド」は、彼がもう一つ上の想像域に自分を押し上げた事の証のような作品であり、素直に彼が与え続けてくれた「読書麻薬」の発売中止を喜べたんだけど、、。 「アバラット」がこの「ウィーヴ・ワールド」の血筋を受け継ぐ作品であるだけに落胆が大きいのだ。 近緒の書き散らかして来た愚作をよく見ると、本人はシーメール小説、トランスラバーなどというファチズムの細分化した先の世界を描いているように思い上がっているが、実体とすれば、クライヴ・バーカーの影響を諸に受けているのだ。 その思いは彼が自らがゲイである事をカミングアウトした時からより強くなっている。 だからこそ思うのだ。「アバラット」のクライヴ・パーカーであって欲しくない。せめて今後の読者には「ヘル・イレイザー」のバーカーであって欲しいと。 勿論「アバラット」がバーカーの血毒を抜き去ったダイエットコークに過ぎないと断じる積もりはない。『月の砂漠に、オアシスさながら、頭に思考の花を咲かせた男が立っていた。』なんていう文章はバーカー以外には書けないだろうし、革の継ぎ接ぎ人間スティッチリングや金魚鉢ヘルメット・キャリオンの造形もあの懐かしい「ヘル・イレイザー」に通じる部分がある。 だがそれでも何かが足りない。快楽を上りつめれば死と虚無がかいま見える。あるいはそこに至上の愛があるのかも知れぬ。 だがその前にオンナの陰部が発する生臭さを飛び越す事は出来ない。男の出口のない暴力も見逃す事は出来ないはずだ。 今の所、「アバラット」にはその事実の隠喩の一欠片さえ見つけられないのだ。 「アバラット」の主人公であるキャンディは明らかに「オズの魔法使い」の少女ドロシーを意識している。そしてバーカーが、キャンディの背景に、児童虐待の父親と荒廃し停滞した現実生活を持ってきた限りには、「何か」内に含む所が彼にあるはずなのだ。、、、と近緒は密かに、期待しているのだが。 この「アバラット」はディズニーが映画化する事に決定しているらしい。近緒は全てのディズニー映画は、ゲイであったウォルト叔父さんが見ている「長い夢」だと解釈しているので、取り立てて異議はないが、、、それでもゲイはゲイなりの意地と感性で「勝負してよね!」っていう感じはあるなー。 PS この和訳はどうにかならへんのやろか?チカのレビューじゃボロボロに書いたけど、ひょっとして違う訳者が書き起こしたら全然、別物なんてことはないやろか。バーカーは視覚で文章を書く人だけに、わからんぞー、、。
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人形
ギニョル
佐藤ラギ
新潮社
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『 本書を暫く読んでいて何故か朝松健の「夜の果ての街」を思い出した。「夜の果ての街」にも年若い男娼だかシーメールだかが登場する。 それに全編を覆う「まがいもの」「妄想」の雰囲気も共通しているかも知れない。 そう言えば「夜の果ての街」も随分、期待して読んだのに肩すかしを食った記憶がある。本書もそうだ。多分に紹介文の方が刺激的だったような気がする。 有り体に言えば、脳内の期待対象となった耽美度と読中のそれとがかけ離れ過ぎていたのだ。勿論、期待によって膨らんだ妄想の方が遙かに刺激的だった。更に言うなら本作程度のグロテスクはネット上に五万と存在する。 この手の読み物を好む耽溺者にとって、「人形 ギニョル」は純度の低い粗雑な麻薬のようなものだ。
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共生虫
村上龍 講談社文庫
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時代の先端の語り部である村上龍が好きだ。彼の切り口その視点は、いつも近緒の中のもやもやとした疑問や思いをシャープな形に凝縮してくれる。 そして村上龍が最も素晴らしいのは、それだけの鋭敏さを持ちながら、「一般的で平凡な事実と結論」を、ためらいなく述べられる事だ。そう例えば、村上龍の理想の中では、「明日」は希望に満ちていなければならないのだ。 多くの作家が、己の独自性にこだわって、奇妙に倒錯した結論を無理やり導き出そうとする中で、彼の姿勢はとても「健全」に思える。 共生虫は「ひきこもり」をテーマに書かれたとあるが、近緒にはそうは思えない。村上龍なら「ひきこもり」をもっと平易に、分析的に書き表す事が可能な筈だからだ。 PS インターネット小説、あるいは猟奇小説、、このあたりのいかがわしくも官能的な味わいを、小説の趣向として凝らしながらも、幻視的な描写力で本来の根本的テーマを書ききる村上龍の筆力にはいつも感心させられる。 |
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監督:ヤン・デ・ボン
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厳しい寒さが続いたかと思うと、4月中旬の暖かさ。さすが「異常気象」の面目躍如って感じの土曜日、突然のお休みに緩み切った頭で「トゥームレイダー2」を観る。アンジェリーナ・ジョリーの口元と目元を観ながら、個性的な顔立ちをした父親のジョン・ボイトを思いだし、遺伝子とか男顔・女顔についてぼんやりと考えていた。
だってアンジェリーナ・ジョリーってジョン・ボイトにそっくりだし、ジョン・ボイトは全然美男子じゃないし、、それでも彼女は思いきりセクシーだしね。所謂「女装するなら、おへちゃの男の方が可愛い」の原理なのかなぁと。それとか銀色のダイバースーツにぽっちり見える乳首の影は本物か偽物かとか、、。そうそう最近、chikaにイラストを送って下さる海外CGサイトの
Johnson
Seanさんもダイバースーツ好きなんだよね。あれってやっぱりフェチ分野なんだよきっと。 でもアンジェリーナ・ジョリー、お尻大きくなったんじゃない?吹き替えなしのアクションシーンもちょっと身体のキレがなくなったみたいだし。その分、この人いよいよ存在感が出てきたな〜って感じだけど。 この映画だってアンジェリーナ・ジョリーの存在感がなければグズグズでしょ。気丈というか理想の前には恋人だって撃ち殺しちゃうララ・クロフトってキャラを、表情の張りとか目の力で「ありえる」って思わせるあたりシガーニー・ウィーヴァーを思いだしちゃった。 PS ララ・クロフトが「パンドラの箱」を追って、ケニアの草原を走る車にわざわざパラシュート降下して乗り込む場面での会話「もっと楽な方法でやれよ」「だって失望させたくないのよ」には思わずニヤリとさせられたんだけど、こういうのが織り込めるんならもうちょっと分厚いストーリー展開が出来たはずなんだけどな〜。ちょっと残念。 |
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監督: ダグ・リーマン
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今日ご紹介するのはブラッド・ピット&アンジェリーナ・ ジョリーの『Mr.
& Mrs. スミス』で〜す。2006年4月の時点でこの映画のレビュー書いてますが、数年後、このカップルどうなってるんだろ、、。 くっついたり離れたりは芸能人の常なんだけど、ここまで派手な熱愛しちゃうとな〜。とか他人事ながら心配になっちゃう程のお熱ぶりです。 そんでもってこの映画は、二人の熱い関係をそのまま現在進行形で撮っちゃった作品で、いわば証拠品ですね。二人に破局が訪れた時、この映画はどんな風に二人の瞳に映るんだろう(オイオイ、別れるのが確定かよ)。 まあこの映画の主なテーマが「命がけの夫婦喧嘩」ちゅーか冷めかけた愛の再確認作業ちゅーやつで、ただのラブラブ映画じゃないからなぁ(余計に別れた二人にはダメージ深刻じゃん!!)。 監督は『ボーン・アイデンティティ』のダグ・リーマンなので作品自体はテンポ良く、オシャレにサクサクと展開します。勿論、ストーリー上の突っ込みどころは満載なんですが、このビッグカップルの恋愛プロモーション映画にそんな文句たれる人は、誰もいませんよね〜。 倦怠期気味なスミス夫妻がある日、互いの裏の仕事でバッタリと遭遇。そこから2人が実は凄腕の殺し屋だと言う事実を知るみたいな設定自体が最初から無理無理なんだけど、これがブラピとジョリーの二人だったら「よっ!ブラピ屋!!」とか声を掛けたくなっちゃう。 お互いを48時間以内に始末しなければならない展開になってからの夫婦の感情の綾だとか殺し屋としてのプロ意識だとか、そんなに脚本は拘って書いていないんだろうけど、結構、この二人、コミカルな演技をしつつもその辺りを上手く現してくれているから、見ていて飽きない。さすがに大スターだけあるなぁと。 ジョリーはいつどこから見ても間違いなくセクシーなんだけどchikaがこの映画で一番、ウフゥって思ったのが、SM嬢の扮装で殺しの仕事を終えて、家に帰ってからのホームパーティで脱ぎ忘れたエナメルのサイブーツを隠すシーン。 周りの主婦がそのブーツとか網タイを目敏く発見して眉をひそめたり、それにジョエリーが決まり悪げに反応したりと、、でもこんなシーン、アメリカの古いTVドラマの「奥様は魔女」とかに良く出てくるんだよね。 そうゆーコントの蓄積みたいなのも、ハリウッドがこの手の映画を上手く作れる要素としてあげれるよね。 ふぅ、お腹一杯、とにかく娯楽作品として充分満足出来る作品でした。 |
I
saw a movie.
監督: ジョージ・A・ロメロ
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ゾンビが進化しちゃ「ゾンビ」の意味がなくなっちゃうから駄目でしょ、、とか思いながら見てたんだけど、映画としてちゃんと収まってた「ランド・オブ・ザ・デッド」。 久しぶりに王道ゾンビものをご本家ジョージ・A・ロメロ監督で鑑賞できる喜びもあったし。 要塞のような小都市の中心にあるフィドラーズ・グリーンと呼ばれる超高層タワーとか、重火器を備えた強力な装甲車デッド・リコニング(死の報い)号とか、映画小僧が泣いて喜ぶお遊びグッズもいいし。 それと同じレベルで、白人権力者カウフマンにデニス・ホッパー、小悪党チョロに、ジョン・レグイザモ、娼婦スラックにアーシア・アルジェントのキャスト設定もはまりすぎで面白い。 でロメロ監督がインタビューに答えて「この映画は富裕層と貧困層、支配階級と被支配階級、搾取する者と搾取される者みたいに二極化し困難な状況にある社会構造に対する批判だ」みたいな話は(まったくその通りなんだけど)ちょっといただけない気がする。 だったら今回「ビッグダディ」というリーダーと共に進化を示し始めたゾンビは何を暗示しているのだろう?ロメロ作品に限らず、白人の映画監督なら「ビッグダディ」のキャストは必ず黒人に割り当て白人ということはまずあり得ないだろうと思う。こういったコトを内包してる限り、社会批判だと言ってもあまり説得力はないと思うのだ。勿論、真逆の関係で悪党の頂点であるカウフマンも白人である。で脇を固めるサブキャラはすべて移民系、、。要するにそういうコトである。ラスト近く主人公のライリーには、街を去るゾンビのリーダーであるビッグダディとその一群をを仕留める機会が巡ってくるのだがライリーは「奴は行く場所を探しているだけなんだ。」といってそれを見送る。 ゾンビを排除するのではなく、進化し始めたたゾンビの中に人間性を認め、衝突がない限り棲み分けを模索しようとするライリーの「進歩人」としての方向性を現しているのだと思うし、そのコトも実にストレートに伝わってくる。 けれどだ、それもやはり白人中心主義の中の進歩性に過ぎないのではないかというコトである。それだとか最後に白人権力者カウフマンとの決着を付けるのは権力に裏切られた小悪党チョロの自爆行為とゆーのもなんだか腑に落ちない。ビッグダディがカウフマンを打ち倒す、あるいはカウフマン自体が噛まれてゾンビになってしまう結末ぐらい簡単に作れた筈なのだ。 ・・・とまあ色々考えてしまうんだけど、これはあくまで社会批判としての「ランド・オブ・ザ・デッド」を見るからであって、娯楽作品としてはすごく判りやすくて安心して鑑賞できる作品だと思う。ゾンビが始まった頃の、「いつかは自分がやられる番のドキドキ」感は消え失せてしまったけれど、これは仕方がないことだろう。 |
I
saw a movie.
監督: ヴィム・ヴェンダース
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つい最近映画ヴィム・ヴェンダース監督の「ランド・オブ・プレンティ」を見ました。 また現在、ブッシュ政権の支持率が36%に落ち込み、イラク戦争に国民の過半数が反対している現状で、この映画を見ていると、自分自身の世界に対する意識のありようをもう一度考え直してみようかという気になっています。 僕が立っていなければいけないところに 誰が僕をここに遣わしたのか分からない 「この豊かな国の光」の一節を、監督はラナとポールのアメリカ横断の道行きの中で描写してみせます。 2000年11月、国連総会で「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」(国連国際組織犯罪条約)が採択され、日本もそれに署名したそうです。 日本は不思議な国だと思います。確たる根拠もなく不戦の誓いを国としてたて、まがりなりにも戦後数十年をそのスタイルで生き延び、アメリカに追随するも、実際のテロ行為には遭遇せず、今日まで来ました。 ヴェンダース監督はこの映画のことを「反アメリカ映画ではなく、あふれかえる混乱や痛みに立ち向おうとする試みで、不正や欺瞞、人を迷わせる愛国主義、誤った情報の操作といったものをこの映画では扱っている。」と語っていますが、「あふれかえる混乱や痛み」は程度や質の差はあれ今の日本にも共通したものでしょう。 もしかして過去のヴェンダース作品に惚れ込んでいるファンにとっては、この映画は手放しで喜べるものではないかも知れません。(ポールのバンにくくりつけてあった星条旗の意味も含めて) |